08 夕食と本の感想会
久しぶりに見る覇気のない顔に、私は目をパチパチとさせる。
「どうされたのですか? かなりお疲れのようですけど……」
「……なんでもない」
薄い褐色の肌と魅惑的なヘーゼルアイに明らかに元気がない。艶々の黒い長髪と、頭に巻いてある光沢のある王の布に囲まれているからか、その顔色の悪さが目立っていた。書斎の中を歩いていくアルスラン様の側に駆け寄って見上げるが、少しだけ体の厚みが薄くなったように感じる。
なんでもないことはないだろう、と思って彼の後ろから入ってきたクィルガーとソヤリに視線を移すと、クィルガーは肩を竦めるだけで私の視線には答えず、「俺は夕食を運んでくる」と言って出ていった。代わりにソヤリが口を開く。
「少々執務で問題がありましてね。最近は、昼も夜も執務官たちと会議を兼ねて食事をとる事態になっていまして……やはりそこではアルスラン様の食欲が湧かないものですから」
「え、じゃあ、あまり食べていないんですか? いつから?」
「前に貴女が来てから……ですかね」
「ほとんどひと月じゃないですか! もう、もっと早く呼んでくださいよ」
「言ったでしょう? 昼も夜も王宮で食事をとっていると。離れであるこちらに貴女をこっそり呼んで、食事をとっていただく余裕がなかったのです」
「お休みはあったんですよね?」
「あるにはありましたが……その日はこの書斎で一人になりたいと仰るものですから」
いつも通り表情の読めない顔で淡々と報告するソヤリから視線を外して、私は書斎の中心にある王のヤパンに腰掛けるアルスラン様をジトっと睨む。
「アルスラン様、お一人になりたい気持ちはわかりますけど、ちゃんと食事は摂ってください、と前からずっと言っているではありませんか」
「暑かったからな……食欲が湧かなかったのだ」
「もう、でしたら私が夏用のメニューを考えて持ってきたのに」
「其方は夏の間忙しかったであろう? 劇場を自分で造ると言って……」
「忙しかったですけど、休みはちゃんとありましたよ。アルスラン様がこんな状態だったのなら、すぐに来たのに……」
少々口調を砕けさせつつ、アルスラン様と言い合っていると、ソヤリがいつの間にかお茶を持ってきてアルスラン様の前のローテーブルに置いた。そこで一旦会話を止めると、ソヤリが立ち上がりながら私に言う。
「今日はコモラを呼んで夕食を作ってもらっています。私は食事が終わるころに戻ってきますので、あとはお願いします」
「わかりました。今日はしっかり食べてもらいますからね、アルスラン様」
「……わかっている」
素っ気ない言葉のわりに、その声はどことなく柔らかい。アルスラン様はかなり真面目で、執務では気を張っていることが多い。そんな彼が肩の力を抜けるのが、この書斎なのだ。
そして私との時間が息抜きになっているのも知っている。
もう、しょうがないな……。
私の役目はこの部屋でアルスラン様を癒して、健康にすることだ。これ以上小言を言っても仕方がない。
その後ワゴンを運んできたクィルガーから料理のお皿を受け取り、ローテーブルの上に置いていく。ちゃんとアルスラン様の好物のラグメンもあった。
「あ、金粉の乗ったマンティもありますよ、お父様」
「もうすぐ秋の大祭のジャンリリク祭りがあるからな。それに合わせてコモラが新作を作ったらしい」
「え、家で食べるのと違うやつですか? わぁ、楽しみ」
コモラはクィルガー家の専属料理人だ。元は養母であるヴァレーリアの旅の仲間だったが、今ではうちで順調に出世してる天才料理人である。出身はザガルディだが、アルタカシークの料理をあっという間に覚えて、さらに新作を作り続けている。アルスラン様は彼の作る料理だけはよく食べてくれるので、今でもたまに王宮で料理を作っているのだ。
「そういえば料理人となった騎士たちはどうですか? コモラに大分教え込まれたみたいですけど」
「ああ、春から訓練を開始して、今ではコモラの料理を大体作れるようになったぞ」
「わぁ、すごいですね。まさか騎士から料理人を募るとは思いませんでしたけど、やれるものですねぇ」
アルスラン様は昔、平民の使用人として王宮に潜入していたテルヴァに裏切られ、父と従兄妹を失い、自分も殺されかけた経験がある。さらに去年の夏にも専属料理人をテルヴァに利用され、死ぬ寸前までいった。そのため、コモラ以外の平民の使用人や料理人たちを信用することができなくなった。
貴族の生活には、使用人の存在は必要不可欠だ。王であるアルスラン様なら尚更である。
そこで平民ではなく、貴族の王宮騎士たちの中からアルスラン様の食事や、身辺の世話ができる人を選び、この春から王宮の中で働けるようにしたらしい。
初めて聞いた時はびっくりしたけど、そういえばティムール様も同じことしてたもんね。
ティムール様はアルスラン様の叔父で、前王の弟である。彼も昔テルヴァに一人娘を殺され、自分も体の自由を奪われ、寝たきりになった。そんな経緯から自分の館に平民の使用人を入れず、騎士たちに世話を任せている。
「……そういえば、ティムール様がアルスラン様とゆっくりする時間が持てなくて、つまらないって言ってましたよ」
彼のことを思い出してそう口にすると、食事に手を伸ばそうとしていたアルスラン様が渋い顔をする。
「私が王宮に出るようになってから、叔父上とは度々顔を合わせている」
「でも執務の話をするだけで、お茶の時間とかは持てていないのでしょう?」
「そのような時間は取れぬ。……それに、叔父上に捕まると話が長い」
「折角お元気になって、執務ができるまでになったのですから、たまにはいいではないですか。ティムール様はアルスラン様が可愛くて仕方がないんですよ」
「叔父上が張り切ると碌なことがない。其方と一緒だ」
「むう……ああ言ったらこう言う……」
私たちが食事に手をつけながらそんな言い合いをしているうちに、クィルガーも仕事を片付けに騎士棟へ行ってしまった。二人きりになると、アルスラン様の纏う雰囲気が少しだけ変わる。
「……そういえば、前にもらった本は大体読み終わった」
「え、あれ全部読んじゃったんですか? 結構な量あったのに……どうでしたか?」
「ラティシというのはやはり優れた物語を書くのだな。新作も緩急があって面白かった」
「私もあの話大好きなんです。ザ・王道のエンタメ! って感じで」
「王道?」
「正統派とか、正攻法って意味です。みんなが好きな定番の話ってことですよ」
アルスラン様は幼少のころから大量の本を読んできたが、そのほとんどが歴史書や研究書で、物語小説などはあまり読んでこなかった。人の機微や恋愛感情などに疎いことが発覚して、私が様々なジャンルの物語を読めばいいのではないかと思い付き、こうして小説本を持ってくるようになったのだ。
そうして最近は、その本の感想を言い合うことが増えた。
「他に気になった作品はありましたか?」
「気になったといえば……やはり恋愛小説は難解だな。今回のもよくわからないまま話が終わった」
「え……あの小説ですか? お互いに思い合ってるのにどうしても上手くいく未来が見えなくて、結局別れちゃった、ってやつですよね」
「そうだ。状況も話の流れもわかるのだが……内容のほとんどが主人公の気持ちが定まらず、迷っている描写ばかりであっただろう」
「ああ、確かにそうですね。主人公の女性が自分の気持ちに向き合って、上手くいかないことに折り合いをつけていく物語でしたから」
「……女性とは、皆あのように悩むのか? 一つの決断を下すためにああも長々と……」
「それは、人によりますよ。実際の女性がそうだとは限りません。それにあの物語は、そのもだもだした経緯を楽しむものですし」
「あれを……楽しむ」
アルスラン様はそう言って眉間に皺を寄せて目を瞑る。
私としては、相手が好きだから想いを伝えたいのに、いけない。相手のことを思えば思うほど自分が身を引かなくちゃいけないっていうところが面白かったのにな。アルスラン様には難解だったかぁ。
「あ、じゃあもう一つの恋愛小説はどうでした? ミステリー要素が入った謎解きの」
「ああ、あれは推理という道筋があったからな。面白く読めた。其方の言う『キャラクターが魅力的』というのはこういうことかと」
「そうそう、そうなんですよ。本当にキャラがいいんです。二人の掛け合いも面白いし、推理の仕方も斬新でしたし。最後に両思いになるのも、よかったですよね」
「む? あれはそういう結末だったか?」
「え? 最後に二人で一緒に生きていくってことになったではないですか。二人が手を取り合って見つめ合うシーンもありましたし」
「……あれは、そういう意味だったのか? 特にそういう会話はなかったと思うが」
「会話としては描かないですよ……貴族向けの話でしたし。作者も貴族の人ですし」
この世界の貴族社会では、恋愛表現がとてもピュアだ。見つめ合うだけで赤面ものだし、手を取り合ったり、自分の持ち物を相手に贈るのは求愛の意味がある。そのため物語の中でもあからさまに告白したりしない。手をとって見つめ合えばすなわち、それが告白である。私もこの世界に来て初めはわからなかったが、最近ではもう定番の表現として理解できるようになった。
「アルスラン様は男女のその、決まりごとに関しては知ってますよね」
「そちらの教育はソヤリから受けた。だが物語の中からそれを読み取るのは……難しいな」
「うーん……まだまだアルスラン様にはこういう物語が必要そうですね。今日はあまり持って来れなかったので、今度お父様に預けておきます」
「まだあるのか。このような物語は」
「もちろん、他にも沢山ありますよ。これからもいろんな物語を読んで、人の機微に慣れましょう、アルスラン様」
私が鼻息荒くそう言うと、アルスラン様は「慣れるものなのか?」と言ってコテっと首を傾げた。こんな仕草をするのも、この部屋でだけだ。これを人前でやったらその辺にいる女性たちはみんな倒れてしまうだろう。それくらいの破壊力があるが、これは彼の気持ちが解れている証拠だ。
アルスラン様が十分にリラックスしてることを感じて、私は心の中でホッと息を吐いた。
いつも通りの二人のやりとり。
本の感想を言い合うのが最近の定番になっています。
次は 特別補佐の時間、です。