友情片思い
「嘘ッ、やだ、点検中……? うわ……」
お知らせがあったはずなのにすっかり忘れていた。
倉橋里香は都内の一流企業に勤める女性である。親が裕福だった事もあり、人生は割とトントン拍子であった。税金対策か、若いうちにとマンションを買ってもらい、里香は若いうちからタワーマンションの上層階で暮らす、周囲からはセレブ扱いされるカテゴリに位置していた。
上層階であって最上階ではない。
けれども本日、ついうっかりその事を忘れてちょっと近くのコンビニへ出かけたのが運の尽き。
エレベーターが点検作業中になってしまい、現在使用できない状態にあった。
低層階であるならば頑張って階段で部屋に戻っただろう。
けれども、里香が暮らす部屋はかなり上の方なのだ。
階段で戻ったとして、部屋に着くなり足はガクガク、下手をすれば明日には筋肉痛になっているかもしれない。いや、その前に途中の階で力尽きる気がしている。
「えー、最悪ぅ……」
などと呟いたところでエレベーターが使えるはずもない。
仕方なしに、と里香はもう一度外に出る事にした。
どこか適当な所で時間を潰して戻ってこよう。そう考えて。
適当に時間を潰すにも公園だとかに行くつもりはない。
駅近くのカフェで時間を潰すつもりでだらだらと歩いて、そうしてそこでふと見覚えのある顔を見つけ、里香は一瞬だけ足を止めた。
「あ……」
今はもう辞めてしまったけれど、里香と同じ会社で働いていた先輩である。
入社したばかりで右も左もわからなかった里香に色々と教えてくれた先輩で、辞めるなんて話を聞いた時は思わず辞めないで下さいなんて縋り付いた程だ。
どうやら一人のようだし、里香と同じように時間を潰しているのか、それとも誰かと待ち合わせか……どちらにしても今は誰かと一緒のようではない、と思い里香はふらっとそのカフェへ足を向けていた。
「――せんぱぁい、お久しぶりですっ」
思いもよらぬ再会に声が弾んだ自覚はあった。
里香の先輩であった山本小百合は、ちら、と里香へ視線を向けると「久しぶり」と小声で返した。
「奇遇ですね、あたしよくこの辺りに来るんですけど、先輩と会うの初めてですよね!?」
覚えててくれた――!!
そう思ったら何だかとても嬉しくなって、里香はそのまま小百合の向かいの席に腰を下ろす。
小百合は里香にとっての憧れだった。落ち着いていて、いつも冷静に物事を受け止めていて、仕事のできる先輩。何度も助けられてきた。
正直な話、ちょっと甘えていた自覚はある。
一人っ子だった里香は、お姉さんがいたらこんな感じだろうか、なんて考えた事もあった。
「普段この辺りには来ないから」
里香の言葉にそう返すと、小百合はすっと自分の左手に視線を落とす。そこには細身のシンプルな腕時計があった。今どきスマホで時間を確認するでもない、ちょっと古風にも思えるその姿がやけにハマっていて。里香は思わず目を丸くして見つめてしまった。
「今日は待ち合わせなの」
「えっ、デートですか? 先輩恋人できたんですか!?」
きゃーっと声を上げたい衝動に駆られつつも、流石にそれは店の迷惑になると思い我慢する。
「えーっ、あたしもご挨拶していいですかー?」
「挨拶してどうするの?」
「え……?」
きょとん、とした小百合に聞き返されて、里香は一瞬言われた意味を理解できなかった。
「や、だって先輩の恋人さんならあたしにとっても」
「他人でしょ」
「う、それは、そう、ですけどぉ」
気まずい空気が流れだした矢先、小百合が注文していたであろうコーヒーが運ばれてくる。
里香も何か注文しようかと思ったけれど、甘い飲み物を好む里香の好きそうなやつは置いていなかった。
オレンジジュースだとかのお子様向けのメニューがないわけではないが、目の前の女性と比べるとあまりにも子供っぽすぎて頼むのを躊躇う。
「あ、っと、そうだ先輩。聞いてくださいよ、先輩がいなくなっちゃった後、うちの会社ったら散々だったんですよぉ。
なんでか皆しょっちゅうミスするようになっちゃったし、そのせいで定時に仕事が終わらなくなったりで遅くまで帰れないなんて事も増えたし。
営業の鈴木さんなんか、前はとても爽やかでかっこよかったのに今はすっかりくたびれちゃって、ただのおじさんみたいになっちゃったんですよ~。
それでかな、先輩が実は座敷童だったんじゃないか……なぁんて噂まで出てきちゃって」
「そう」
里香と小百合の共通の話題と言えそうなものを、会社以外で里香はすぐさま思い浮かべる事ができなかった。
だからこそ小百合が辞めた後にあった出来事をどこかおどけた調子で語ってみたのだが、小百合の反応はあまりにも素っ気ない。
本来把握していなければおかしいはずの業務内容を課長が把握していなかったことだとか、なんでか備品が補充されてなかったりだとか、小さな出来事から大きな事件まで、小百合がいなくなってから立て続けに起こったのだ。
そのせいか今の社内の雰囲気はどうにもギスギスしていて、正直とても居心地が悪い。
里香としてはいっそ辞めて転職しようかとも思ったのだけれど、いかんせんあの会社と同じくらいの有名企業に入れるかはわからないし、ましてや今辞めて転職したとして、確実に給料は下がる。
里香は親が裕福で生活に困る事はなかったとはいえ、それでももう成人しているのだ。親はどこまでも甘やかしてくれるタイプでもなく、ある程度の援助はしたから後は一人で頑張りなさい、という考えの持ち主だった。
なので今仕事を辞めて無職になったとして。
住む場所は問題ない。けれども、だからといって家の中に引きこもっているわけもにいかない。
実家暮らしだった時はお手伝いさんがいたから家事なんてする必要もなかったけれど、今は一人で暮らしているのだ。毎日の食事の用意も、掃除も洗濯も全部全部自分でやらなければならない。
あまり汚い部屋で生活したくはないからきっちり掃除はするし、お気に入りの服が洗わないまましわしわになったりして駄目になったりするのも困る。
だからこそしぶしぶとではありながらも、里香は家事に関してはきっちりこなしていた。
家で気が抜けないからこそ、会社で先輩に甘えていたのかもしれないな、と今なら思う。
里香の話になんて興味ありません、みたいな顔をしてコーヒーを口にしている小百合を見ても里香はあまり怒る気にならなかった。だってあまりにも前と同じだったのだ。なんだかんだ興味ない振りをしても、最終的にはいはいと聞いてくれる、そんな面倒見の良い先輩のままなんだなと思ってしまった。
「あ、そうだ先輩。先輩が持ってたマニュアル、あれもらえませんか?」
だから、ふと、そんな言葉が口から出てしまっていた。
会社のマニュアルはあるのだが、いかんせんわかりにくく、そしてあまりにも内容が薄い。正直あれを読んでも全く役に立つ気がしなかった。
けれども当時、小百合が持っていた分厚いマニュアル。あれはこういう時はどういう対応をするべきか、だとか、こういう案件の時はどこの部署に連絡するべきか、だとかそれはもう事細かに記されていたのだ。備品を発注する時の注意点だとか、どこそこの部署の手続きの仕方だとか、ともかく色々。
今の里香があの会社内で困った出来事の大半は、あのマニュアルがあれば全部あっさり解決できたのではないか、と思えるくらいに詳細な内容だった。
しかし残念ながら当時の里香はそのあまりの分厚さ――それこそ下手な辞典並だったのだ、ちょっと見てみよう、なんて気軽に目を通すものではない――にそれを視界にいれるのも嫌がった。
だって、あんなの休憩時間に読むにしても絶対一日じゃ読み終わらないし、それに何より家に持ち帰って読むにしても家に帰ってからも仕事のために時間を消費したいとは思わなかった。
家に帰ってきたのだから仕事の事なんて忘れてそれこそのんびりしたい。そう思っても仕方がないではないか。
「なんの話?」
しかし里香の言っている意味がわからない、とばかりに小百合はコーヒーカップをソーサーの上に置いて聞き返してきた。
「え、あの、薄っぺらいやつじゃなくて、すっごく分厚いマニュアル、あったじゃないですか。あれですよ」
「……マニュアルは会社から渡されるやつ一種類だけど?」
「でも先輩が持ってたのは」
「あぁ、あれ」
ようやく思い出してくれたのか、小百合はなんて事はないかのようにあっさりと頷いた。あれね、とか言いながら。
「あれマニュアルじゃないわ」
「えっ!? でもどう見たってあれマニュアルだったじゃないですか」
「あれはメモよ」
「メモぉ!?」
あっさりと言われて、里香は納得がいかなかった。
あんな辞典並に分厚いメモがあってたまるか。
「そう。あれは私が自分で仕事がやりやすいようにとったメモ。覚える事が沢山ありすぎてあんなに大量になったけど、あれはマニュアルじゃなくて私の仕事の覚書。
といっても、あれももうないけど」
「ええぇっ!? なんで!?」
「だって私会社辞めたのよ? じゃああれだって必要ないじゃない。とっくに処分したに決まってるでしょ。会社の情報に関するものだってあったし、辞めるにあたって全部破棄したわ。
私物は持ち帰ったけど、それ以外は全部会社に返したし、それに……
もう辞めてから一年経ってるのよ? それなのにあの会社に関する物がまだ残ってるとか……常識的に考えたら有り得ないでしょうに」
そう言われてしまえばそうだ。
会社の物を勝手に持ち帰るのは確かにアウト。それでなくとも昨今そうやって会社の外に持ち出したあれこれから情報漏洩、なんてニュースが起きて信用問題に関わる事件となっているのに優秀な小百合がそんな事をするはずがない。
そんなぁ、と呟いて里香はしょんぼりとした様子を見せたが小百合はそれ以上何も言わなかった。覚えている範囲だけでも書き出してあげましょうか? なんて言うのを期待していたが、里香のその予想はあっさりと裏切られる。
先輩ってこんな無関心な人だったっけ……?
ここでふとそう思ってしまった。
前は色々と関わってくれたけど、今こうしている小百合は里香が向かいにいるにも関わらず視線は一切合わせようとしていない。いないものとして扱われていると言っても過言ではなかった。
仕事辞めて、今もしかしたら色々と忙しいのかな。再就職ったって不景気でいいところなんて中々見つからないだろうし。だとしたら、先輩も苦労しているのかもしれない。
そうだ、今までは先輩にお世話になったし、愚痴くらいは聞いてあげてもいいかもしれない。
里香は名案だとばかりにそう思い、それを口に出そうとした――のだが。
「お待たせ」
里香が声を出すよりも先にそんな声がかけられる。
え? と思ってそちらを見ればそこには一人の男性がいた。
優しそうな、穏やかそうな男性。里香の思うイケメンからはちょっとずれているが、それでも世間一般から見た評価はそこそこありそうな外見の男はにこにこと笑いながらこちらを見ている。
なんだろ、ナンパ? なんて里香が思っていると、
「別にそんなに待ってないし、約束の時間には充分間に合ってる」
小百合がこたえる。
ここで里香は自分が勘違いをしていた事に気付いた。
ナンパなどではなく、小百合の待ち合わせしている人物である、と今更ながらに気付いたのだ。
さっきの声は自分ではなく小百合に向けられたものだ、と気付いて若干の羞恥が芽生えた。
あぶなーい、ナンパですかぁ? なんて声を出してたら危うくあたしが恥をかくところだったわ。そう思いながらも表面に出さないようにして、
「先輩の恋人さんですか? あたし倉橋っていいます。先輩には前に随分お世話になってて」
誤魔化すように口から言葉を並べだす。挨拶ついでに雑談の流れにもっていって、情報を得ようと思ったのだ。
「恋人じゃなくて仕事仲間。これから仕事の打ち合わせだからそろそろ帰ってくれる?」
その言葉を遮るようにぴしゃりと小百合が言った。その声には仕方のない後輩に向けるようなものではなく、本当に邪魔だなという感情が滲んでいた。
「あぁ……いいわ。貴女がどこかに行くより私たちが移動した方が早そうだし。それじゃあね、いくら知り合い見つけて嬉しくなったからって、相手の事情も確認せずに居座るのはどうかと思うわ」
まだコーヒーは飲みかけであったけれど、小百合はそのまま席を立ち伝票を手にレジへと向かう。
今しがたやってきた男もそれに続いた。
「え……?」
なんだか里香が思っていた展開とは違って、すぐには理解できなかった。
里香の想像ではあの流れでお互い自己紹介に移って、そのまま会話に花を咲かせるはずだったので。
けれどもそれは相手が小百合の恋人であるという前提のもとだ。恋人ではなく仕事仲間ならそうならないのも仕方ないのかもしれない。そう思い直して、せめて一言謝ろうと思った頃にはとっくに小百合も男の姿も店内からは消えていた。
先輩に非常識って思われちゃったかなぁ、今度会ったら謝らないと……あっ、連絡先聞いとけばよかった。
うーん、今日は何だかツイてるようでツイてないなぁ。
エレベーターの点検作業がなかったら先輩に会う事はなかったけど、元はといえばアレのせいで今こうなってるわけだし……などと思いながら、里香はしばらく向かいに誰もいなくなってしまったその席に居座り続けていた。
特に何を注文するでもなく。
「――良かったのかい?」
「何が?」
一方さっさと店を出た小百合は男――高橋祐樹にそう聞かれ、反射的に聞き返していた。
「前の職場の後輩なんだろ? 随分慕われてたみたいだけど」
「勘弁してよ。私の中であれが一番使えなかった後輩なんだから。あんなのに懐かれても何も嬉しくないわ。あー、やだ。この近辺に生息してるのかな。だったら行動範囲変えないと……」
そう言う小百合の表情は心底から相手を嫌っていますというのがにじみ出ていた。
「そんなに?」
「そんなによ」
苦虫かみつぶしたってここまで酷い顔はしない――そう思えるくらいに表情を歪めて言われると、祐樹もそっか……としか言えなかった。
小百合が前職を辞す事にしたのは単純にこのままでは先がないと判断したからだ。
確かに誰もが知る有名企業。そこで働いている、と言えば大抵の人は「まぁ! あの!?」と言う程度には知名度が高い。どこぞの弱小企業であればまだしも、あの会社が仮に潰れるような事になれば間違いなくテレビや新聞ではニュースとして取り上げられる。
最初はそんな大企業で働ける事になって小百合だって舞い上がっていた。
新入社員だった頃、まだあの頃は小百合もキラキラと希望や期待に胸を弾ませていたといっても過言ではない。ドラマで見た働く女性のキラキラした世界観、そんなあれこれに自分もこれから……なんて甘い想像があった事は否定できない。
だが現実はそう甘い物ではなく。
まず人間関係がとても微妙だった。
そもそも自分の面倒も自分で見れないような状況下で新入りの世話なんてできるはずもない。忙しすぎて忙殺されそうになってるところで、入ったばっかの右も左もわかってないようなのに懇切丁寧に指導できるような余裕のある者は誰一人としていなかったのだ。
小百合や当時一緒に入社した同期たちにはとても薄っぺらいマニュアルだけが配られて、それを見て仕事して、と初っ端から丸投げされた。
マニュアルがあるだけマシかもしれない、と思えるが、このマニュアルがまた使えなかった。
ちっとも役に立たない。むしろ役に立たない部分を集めました、とか言われた方がまだ納得できるくらいだ。
わからない部分があって先輩に指示を仰ごうとするも、マニュアルあるだろ、で丸投げされ、それでも聞きに行けば怒鳴り返される。
文字も読めねぇのかよ!? と怒鳴られた同期は涙目になり、翌日からこなくなった。
先輩よりも上の立場の人間に頼ろうにも、そう簡単に会える状況でもなく。
使えないマニュアルを手渡された新人が使い物になるだなんて事、あるはずがないのに先輩たちは今年の新人マジ使えねー、なんて近くで悪態つきながら言うのだ。
一流企業、そこで働きいずれはバリバリ仕事をこなすデキる自分、という将来図がガラガラと音を立てて崩れるのは、案外早かった。
頭の片隅でわかってはいたのだ。ドラマは所詮ドラマだと。
けれども、あんな風に自分もなれたら――そう思うのは悪い事ではないだろう。だがその理想は、結局自分で自分を苦しめる結果にしかならなかった。
正直な話、辞めたい、と思った。
けれども小百合の家はそこまで裕福というわけでもない。
それに折角新卒で入った会社。入って間もないうちに辞めたとして、次の仕事はどうする?
うっかり履歴書にここでの経歴を書いたら間違いなくどうしてすぐに辞めたのか、と突っ込まれるに違いない。それは、なんというかよくない気がした。
入ってもすぐに辞める、と思われれば新しい所だってもしかしたら入ってすぐに辞められる可能性を考えるだろう。新人を育成するのだってそれなりに時間と手間がかかる。けれどそうしてものになったあたりで辞められたらと考えれば、せめて長く続けてもらえそうな人を雇いたいと思うはずだ。
辞めるにしてももうちょっと周囲が聞いてそれは仕方がない、と言えるような理由があったならともかく、こういう状況をどう説明すればいいのか社会に出たばかりの小百合にはよくわからなかった。
だから、辞めるにしてもまだもうちょっと、もうちょっとだけ頑張ってみようとしぶしぶ鞭打ったのだ。
どれだけ使えないと言われようともそれでもどうにか覚えた事をメモしていって、こういう時はこういう対応をするだとか、ともかく躓いた出来事を細かく書いて結果どういう対応をして上手くいったか、また上手くいかなかった場合の次の対処法だとかをそれはもうびっちりと書き連ねた。
会社で渡されたマニュアルが役に立たない以上、自分の、自分による、自分のためのマニュアルを作るしかなかった。
そうしてコツコツとやっていくうちに、どうにか多少は周囲からもマシと思われるようになって。
これでちょっとは認められるかと思ったのだが。
そうなると今度はやたらと雑用を渡されるようになった。
なんで、どうしてと思えば当時の小百合の先輩にあたる男はあっけらかんと言ったのだ。
だってお前が一番マニュアル理解してるだろ。
その瞬間その男を殴らなかっただけ理性はしっかり働いていると言えた。
会社で渡されたマニュアルなんぞとっくにロッカーの中で埃かぶっとるわ!
そう叫ばなかっただけの理性もあった。
もし叫んでいたらどうなっていただろうか。
ともあれ、新人の中ではまぁ使えるやつ、にランクアップできたのはいいが、結果として仕事を教えてもらえるどころか先輩たちの面倒な雑用を割り振られる係になってしまったのは事実だ。
正直な話、辞めよう、と思った。
だが次の仕事のアテがあるでもない。
それでなくとも世間は不景気。しかもちょっと前に海外ではあるが、かなり名の知られた大企業が倒産したというニュースが流れてきて株価は下落するし円だとかドルだとかがそれはもう価格変動激しい事になった。
昨日までは一流企業のエリートだったはずの人が次の日には無職。それも今後の先行きが全く見えない、なんて状態になっているのを見れば、辞めたいけれど果たして本当に辞めて大丈夫だろうか……と不安になったのだ。
勢いで辞めたとして、次の仕事が見つからなければ?
生憎まだ新卒状態だった小百合の給料はそこまで高いわけでもなく、貯金だってそうあるわけでもない。
仕事を辞めて貯金を崩して次の仕事が見つかるまで生活するにしても、貯金がなくなった時点で仕事が見つかっていなければニュースでやっていたような職を見つけられずかつてのエリートが一転ホームレスへ! なんてのと同じ未来を歩むかもしれないのだ。
小百合はこの時点でエリートと言われる程デキるわけじゃない。なら、きっともっと行きつく先が酷い事になる。
そうして我慢に我慢を重ね働いていくうちに、任される仕事の量が増えたしちょっと内容が変わったし、挙句新人教育なんてものをさせられる羽目になった。
自分の時はちっともわからないマニュアル渡して丸投げだったというのに、そのマニュアルを理解できていない相手に新人教育とかこの会社何考えてるんだろう、と思ってしまったのも無理はない。
とはいえ、他に仕事ができる新人が増えれば自分もようやくちゃんとした仕事を任されるかもしれない。
そう前向きに考えて教育を任された新人にあれこれ仕事を教えていった小百合であったが。
まぁ、なんていうか酷かった。
人事は一体何を思ってこんなアッパラパーを雇ったのだろう。
そう思えるくらい何かもう色々と酷かった。
もしかして顔だけで採用しました? だったらもうこいつらに教えるのは仕事じゃなくてメイクとか接客術とかではないだろうか。そう何度も思ってしまったくらいだ。
そして、折角教えてモノになったかな、と思えた相手はその後容赦なく辞めていった。
こんな会社でやってられっか、みたいな感じでドンドン減っていった。
教えた時間が無駄になったな、と思える瞬間であった。
勿論全員が辞めたわけではない。中にはその会社でメキメキと頭角をあらわした者だっている。
けれども、小百合への会社の評価があまり変わる事はなく、相変わらずの立場であった。
小百合の後輩で比較的マトモな相手は小百合の扱いに難色を示す者もいたけれど、しかし多少出世したとはいえまだまだ会社全体のヒエラルキーの中では下の方。
力になれず申し訳ありません……! と悔しげに呻く後輩に、けれども小百合はそれだけで充分報われた気になったのだ。
今までの事を思うとそうなってしまったのも無理はない。もっと冷静に考えればそれで充分、なんて甘っちょろい事言えたはずもないのだが、それでもあの時は自分の事を認めてくれる人がいる、というその事実に救われたように思ってしまったのだ。
ちなみに、小百合が勤めていた中で一番最悪だと思った後輩が先程の倉橋里香である。
あの女、自分が可愛いという事を自覚した上で男性社員に媚びを売りそこそこ何をしても許される立場を獲得したまではまだいい。
けれどもそれが自分にも通じると思われていたのはとても心外だった。
会社から渡されるマニュアルはある程度の年数が経過しても更新される様子もなく、相変わらず薄っぺらくて内容も全然わからない、理解させる気ある? と言いたくなるようなもののまま。
だから今までの知識と経験から小百合は里香に丁寧に教えたのだけれど。
えーっ、里香ぁ、わかんなぁい。
せんぱぁい、ちょっとかわりにやっておいてくださいよぉ。
今回だけ、ねっ?
わー、やっぱり先輩頼りになるぅ!
大体こんな感じだった。
男相手なら、里香は見た目可愛らしいしコロッといってデレデレしながら言いなりになる者もいたかもしれない。けれども小百合にそういう趣味はない。自分が同性愛者であったならどうだろうか、と考えてみたもののそれでも里香を可愛いと思う気持ちがこれっぽっちも出てこなかったので想像するのですら難しかった。
そんな感じでこれっぽっちも使えない新人だったのだ。
かつて小百合がまだ新人だった頃に使えねーとのたまってくれた当時の先輩の前にこいつを押し付けてやりたい……! そんな意味のないもしもを想像する程度には酷かった。
そもそも教えてもメモの一つも取らないし、別にメモを取らなくても覚えているというならいいが覚えていないのだ。
それで毎回、えー、里香わっかんなぁい~なんて言われてみろ。
小百合は想像の中だけで何度里香の頭を金属バットで潰したかわからなかった。
どうせ脳みそなんて入ってないだろうからバットで殴ったって大した事ないんじゃないか、当時の小百合は本気でそんな風に思ってしまっていたくらいだ。
覚える気があって、それでも覚えられなくて何度も聞くのであれば小百合だってまだ許せた。
けど覚える気もないのに何度も同じ事を聞かれてみろ。芽生えるのは苛立ちか殺意のどちらかだ。決してそこで慈愛なんてものは生まれない。
例えばこれが、自分が生んだ子で、ママァ、わかんないからやってぇ……とか言われたならもしかしたらしょうがない子ねぇ、なんて言いながら甘やかした可能性はある。けれども自分で産んでもいなければ育てたわけでもないよその女にそれを言われて、しょうがない子ねぇ、と言える程小百合の心は広くはなかったのだ。
大体会社の中では小百合だってまだ仕事を何もかも把握してるわけではないのだ。自分の世話でいっぱいいっぱいなのに、なんでこんな物覚えの悪い馬鹿の面倒まで……と思うのも無理はなかった。
あまりの頭の悪さに倉橋さんはもしかして生まれつきのハンデを背負ってしまったそういう枠の人なのか、とも思ったが残念ながらその枠で入社した人は別の部署にいる。であれば里香は純粋に馬鹿である、という結論に至るのはあまりにも早かった。
大体仕事覚える気もないし、先輩やってくださぁい、と押し付けてばかりで結局小百合の負担は増える一方だったのだ。あれゆとり教育ってまだやってたっけ? とか思ってしまうくらいに小百合のストレスは増加する一方だった。
ちなみに小百合の方こそがゆとり教育世代ど真ん中だったのだが、そのど真ん中世代の自分より酷い存在を見てしまっては、もしかして彼女も……? と思うのは仕方のない話と言えよう。
他に使えそうな新人がいればまだモチベーションもあったかもしれないが、ある程度小百合から教わった他の新人たちはさっさと別の部署に異動してしまったので小百合のところに残っているのは里香だけだ。
おかげで日々ストレスは増加する一方であった。
転機は高橋祐樹と再会した事であった。
元々学生時代の同級生ではあったものの、お互い進学や就職で物理的に離れ会う機会がなかったのだが、ある日小百合が通っていたフィットネスジムで再会したのである。
日々の鬱屈をせめて身体を動かす事で発散しようとしていた小百合と、デスクワークばかりで運動する機会がないからせめてこうしてジムで定期的に……と思っていた祐樹。
学生時代は付き合っていたわけではなかったが、それでも趣味が合い、話も弾む方だったのでもし何かのきっかけがあったなら、学生時代に付き合っていたかもしれなかった。
学生時代からそこそこの年数が経過してしまったけれど、久々に会ったなんてのが嘘のようにお互い話が弾んで、だからこそつい小百合は職場の愚痴をこぼしてしまった。
今の会社に勤めて、辞めようと思いつつも結局ずるずる居着いて、転職先をこっそり探してみても今の職場と同条件の給与のとこなんてそう無くて。生活水準を下げれば給料が多少下がったとしてもどうにかなるとは思うけれど、けれども老後が心配だった。
だからこそ、給与だけを支えにずるずると残り続けて――気付けば十三年が経過していた。
二十代の頃の若々しさ何てあっという間に消え去って、気付けば三十代。
しかも日々のストレスで年齢よりも若干老けてみられるようになってしまった小百合。職場じゃ常にしかめっ面してるような状態のせいで、眉間のしわがすっかり癖になってしまっていた。
このままイヤなお局様扱いされてどんどん年をとっていくのだろうか、なんて考えるととても憂鬱で、同時にどうして自分が……とも思う。引いた覚えのない貧乏くじを見えない誰かに押し付けられたような気分だった。
自分のために仕事を早く覚えて、バリバリ仕事をこなして出世して――そんな風に考えていただけだったのに。体よく他の人間の面倒な雑用を引き受ける係になってしまって、とても損な役回りになってしまっている。一応ちゃんとした仕事も割り振られるようになったけど、それだって実のところ上司の手が足りない時の代役みたいなもので、その仕事をきっちりこなしても自分の手柄にならなかった。
祐樹はそんな愚痴をふんふんと聞いて、そしてあっさり言ってのけた。
「じゃあウチくる?」
――と。
祐樹の職場は祐樹の友人のそのまた友人の――祐樹からすれば他人だが、とにかくその友人が新たに興した会社だった。毎日忙しいしやる事は一杯だしで、正直人手は足りていない。
新入社員を募集しようにも、まだまだ知名度は低いので募集していても滅多に応募なんてこなかった。
一応起業してから数年、最初のうちはちょっと危なかったけどそれでも最近は落ち着いてきてるし、結果もじわじわと出てきている。
その場の勢いで突っ走ってる感がないわけじゃないが、それでも先はちゃんと見据えている。
学生時代祐樹はどちらかといえばスクールカースト大体真ん中からすぐ下、くらいの位置にいたと自覚している。けれども特に虐められるような事もなく、穏やかに過ごす事ができたのは、時々ではあったものの小百合が話しかけてくれた事があったからだとも思っている。
ちょっとした会話がキッカケでお互いの趣味を知り、そしてその趣味繋がりでなんだかあっという間にクラス内で話をする人間が増えてしまって。
祐樹はちょっとその変化についていけない事もあったけれど、だが大して面白みもなかった学生生活は、あの時からそれなりに楽しく思えたのだ。
そういう意味では多少恩を感じてないわけじゃない。
それに、学生時代の小百合は成績はそれなりに上の方だったし、話を聞けば何やら転職活動をするべく密かにいくつかの資格もとったらしいし、その資格は正直うちでも役に立つ。
自分の世話でいっぱいいっぱい、なんて言っているが、小百合はなんだかんだ面倒見のいい奴だった。
まぁ、今の会社ではそれが小百合にとって悪い方に転がっているのだけど。
流石に祐樹の一存で採用できるわけじゃないが、人事担当してるあいつに声をかければ多分大丈夫じゃないかなぁ、と思っているのだ。
だからこそ割と気軽に誘った。
あまりにもあっさりと言われた小百合もまた、ちょっとぽかんとしてしまった。
いやだって、あまりにも都合が良すぎではないだろうか。
けれども、祐樹の話を聞いていくうちに、もしそのお誘いが本当なら割と良い話では? と思えてしまって。
そのお話、詳しく。
小百合にはその誘いが、天から垂らされた一本の蜘蛛の糸のように思えた。
結果としては、言うまでもない。
密かに面接をしてあっさり合格をもらった小百合は、サクッと長年だらだらと居続けた会社を辞める事となった。辞める理由は単純に家庭の事情で、だ。
寿退社なんて言おうものならそれこそ普段喋らないような相手からも根掘り葉掘り話を振られそうだし、それ以前に相手なんていない。辞めると決めた時点で、今まで自分用にと記してきた結果分厚くなった覚書も処分した。これは会社のマニュアルではなく、自分が自分のために書いたメモなので捨てたところで文句など来るはずもない。
そもそも、薄っぺらいまま更新されないマニュアルが未だそのままというのもどうかと思っていた。
途中でマニュアルをもっとわかりやすくするのに小百合の覚書を使わせて欲しいとか言われれば、小百合だってちょっとは報われた気持ちになれたかもしれないが、別にそんな事はなかった。
そのくせ新人教育を押し付ける時は社内のマニュアルを完全に理解してるからね、山本さんは。なんて調子のいい事を言われていたのだ。
辞めると決めた時点でその事を思い出せば、もう単純に「クソがよ」という言葉しか出てこない。
完璧に理解だとか網羅してるだとかいう前に、そのマニュアルをどうにかしろ。
ともあれ、辞めるにあたって引継ぎはしっかり済ませた。
他の誰かの雑用なんぞ知った事か。元々お前の仕事だ自分でやれ。そんな内心だったので、なんだかんだずるずると手伝い続けるなんて事もなく。
里香に関しては早々に匙を投げたのでどうでもいい。だから一応メモを取れと言っておいたのに。
先輩がいなくなるなんて寂しい~とか言ってたが体よく仕事押し付けて楽させてくれる奴だからそう言ってるだけだろ、としか小百合は思わなかったし、だからこそ里香のこれっぽっちも小百合にとって毒にも薬にもならないようなどうでもいい言葉は全部聞き流した。
もっと控えめに、今からでもわからない部分自分用にメモっておきたいんで、とか言われたら考えたけどそういうの一切無かった。じゃ、後は頑張れ。
どうせ会社を辞める事にした以上、里香の事なんて本気でどうでもよかったのだ。大体里香だってもう社会人。自分の事は自分でできる年齢なのだから、わからない事があったら自分で調べるなり人に聞いて理解するなりするのが普通のはずだ。
お母さんでもない他人の女によくまぁあれだけ……と思えてしまう。
そうしてさっくり会社を辞めて祐樹のいる会社へと転職した小百合は、現在のびのびと働いている。
前の職場でもやったような業務内容もあったけれど、それでもとても楽しい。
何せわからない事があろうとそれを丸投げしてくる奴がいない。自分の仕事のはずなのに押し付けてくるようなのもいない。
知り合い経由で集まった人材だからか、若干距離というかノリが緩い部分もあるけれどそれでも公私は分けられているのもあって、何というか小百合にとっては居心地が良かった。
里香にとっては一年ぶりの再会だが小百合にとっては心情的にもう何十年も前の話くらいの認識だった。それくらい、転職してからの一日一日が充実していて、前の会社の事なんてとっくに記憶の遥か彼方であったくらいだ。
まぁ、あのメモの内容の大体はまだ覚えてはいるけれども。
けどわざわざ里香に懇切丁寧に今更教えようなど思うはずがない。だって会社にいた時に充分なくらい指導していた。その時にきちんと覚えるか、覚えられなくともメモの一つでもとっておけば良かった話だ。それを今まで一度もしないまま、今更教えてどころかあのメモまるっとくれ、はちょっと厚かましいと思う。
ところで祐樹を会社に誘った友人経由で、実は前の会社の事は知っていた。どうやら彼は顔が広いらしく、あの会社にも知り合いが数名いるのだとか。
小百合がいた部署にはいなかったようだが、それ以外の部署に数名いるらしくそこ経由で先程里香が愚痴っていた内容の大半は既に耳に入っていた。
里香は「なんでか皆しょっちゅうミスするようになった」なんて言っていたが、別に何でも何もない。
今まで小百合がやってた事前準備だとか尻拭いだとかをやってくれる人が誰もいなくなったから、全部自分でやらなきゃいけないのにそんな事すら把握しておらず結果、細かいやり残しが出たりだとかでミスが発生したに過ぎない。
そのせいで定時で帰れない事もでた、なんてそれはそうだろう。
そのミスが自分だけ困るものならまだしも、自分たちの部署のみならず他の場所にまで影響するようなら放置しておけばもっと大変な事になる。
結果として最悪を回避するにはすぐさま問題解決に移るしかないわけで。
しかしそれにしたって。
小百合はある日突然会社辞めまーす、なんて言ってバックレたわけでもなく会社規定に則って事前に退職すると通達してある。更に引継ぎだってしてきたというのに、今まで小百合に押し付けていた細かな自分の仕事だったものが返ってきた時点で理解するしかなかっただろうに、その辺ちゃんと理解してなかったなんてまさか思わないだろう。
勿論最初の一度や二度は今までと同じでつい、という事もあるかもしれないが、それでも一月経過すればいい加減理解もしようというものだ。
大切な人の死を受け入れられずにいつまでも引きずってるのとはワケが違う。ただ、今まで便利に利用してたのが一人いなくなっただけだ。であれば、さっさと意識を切り替えるしかないのは分かり切った事だろうに。
かつて自分がいたあの部署、あの時はアットホームな感じだなんて思っていた事もあったけれど、いざこうして居心地のいい職場になってから思い返すとあればアットホームというよりは単なるなぁなぁの慣れ合いでしかなかったとわかる。
ところがそのなぁなぁで慣れ合ってた連中は、今までと同じように楽ができなくなった結果現在とてもギスギスしているのだとか。
かつての小百合のように次の生贄にできる人物がいればもしかしたら新たにまた纏まりを見せるかもしれないが、どうだろうなと思うのだ。
当時と今では状況が違う。
あのくっそ使えないマニュアルを未だにそのままにしている会社が、新たにマニュアルをどうにかしようとしたとして。
かつて小百合が指導した社員に話を聞くにしても。
大半は辞めているし、残った人たちは違う部署へ、どころか他県へ異動した者たちが大半だ。祐樹の友人がもたらした情報によれば左遷だとかではなく、そちらでバリバリ働いて結果を出しているようなので今更本社にマニュアルのためだけに呼び寄せるなぞしないだろう。
もっと上の人間からすれば、マニュアルなどあれでいいと本気で思っているようだし、それを変えようというのならそれこそ言い出した奴がやれとなる。他の場所から誰かをそのために引っ張ってこれる権限はまずないはずだ。ましてや里香たちがいる部署では余計に。
里香が言っていた営業の鈴木さんとやらは確か、入社当初里香が素敵! カッコイイ! 彼女さんとかいるんでしょうか? なんてキャッキャしてたようだけど、恐らくは里香のいる部署の皺寄せがやって来て結果足を引っ張られてる状態なのだろう。可哀そうだなと思わなくもないけれど、鈴木さん本人はあの部署の誰かともっとちゃんと連携を取るべきだった。そうしておけば実は他の連中がロクに仕事内容を把握してなかった事だとかがもっと早くに判明したはずなのだ。
今まではある程度の雑用をこなしていたのは小百合だったけれど、あの営業との連絡だとかのやりとりだって本来は別の人の役目だった。それも引き継いだというか本来の役目の人にお返ししたので、鈴木さんはどうにかあの人の尻ひっぱたいてでも頑張って欲しいものである。
課長が業務を把握してなかったのは細かい部分を小百合に丸投げしていたからだ。
重要な内容部分は流石に投げてこなかったけれど、それでも事前の資料を集めるだとかの地味で面倒な部分は丸投げされた。
それを年単位で人にやらせていたあの男が、今更自分で全部やれとなってすぐにできるはずもない。
ましてや年数が経過した分年を取って恐らく老いというものがじわじわと蝕んでいっている状態だ。小百合に押し付ける前、自分がどうやっていたか、というのを忘れていても何もおかしくはなかった。
備品の補充だってそう。
本来ならば当番でやってたはずのものを、今回だけ、とか言って小百合に押し付けてそのままずるずると小百合が担当、みたいな事にしてノータッチ状態になっていたから、いざ前の状態に戻ったとしてもすぐに誰も動くつもりはなかったのだろう。
なくなって必要になってからその時誰かが発注すればいいや、とでも思っていたのかもしれない。
それで間に合う物ならいいが、無くなる前に早めに用意しておかなければならない物だとかはそうなってからでは手遅れになるし、場合によっては業務に支障が出る事もある。
そうやって自分だけじゃない、周囲の人間全体にじわじわと小さな事から大きな迷惑が広がっていって、里香のいる部署はギスギスしているのだとか。
他の部署はちゃんとやってるようなので、あそこだけなんでちゃんとできないんだろう? と陰でコソコソ言われているらしい。
もしかしたらそのうちあの部署縮小されるか別の部署に吸収されるんじゃないか、と思えてしまった。
「――それにしてもさ」
「なに?」
移動中、ふと祐樹は思い出したように口を開く。
「あそこで恋人じゃないってハッキリ言われるとは思わなかった。仕事仲間ってそりゃ間違ってないけどさ」
「間違ってないならいいじゃない。それに、恋人じゃないって言うのも別にそんな傷つく事? これから夫婦になるのに? 夫と妻になるんだから恋人じゃない、って言ったって間違ってないもの」
なんて言っている途中で、目的地へと辿り着く。
仕事仲間であるのも事実。
小百合も祐樹もこれからの人生仕事に生きるわ、とか言っているのでそういう意味で人生は仕事も同然となっているし、そのパートナーであろうとも仕事仲間だと言い張る。
あの場で里香にそんな事をわざわざ言うつもりはなかった。
言えば勝手に一人盛り上がって騒々しい事この上なくなるのは目に見えている。
下手をすれば「えーっ、結婚式には是非呼んでくださぁいっ♪」とか言い出しかねない。
結婚式はやるけれど、里香を呼ぶつもりはなかった。頼まれても呼ばない。
そうでなくともさっきのあの様子じゃ、社内で別の男探す余裕もなさそうだし、そうなると結婚式で男漁りをしかねない。そんなのをどうして呼ぼうと思うのか。
小百合の友人だとかでいい相手いるよ紹介しようか? と言えるような人ならまだしも、小百合にとって里香はただただ嫌いな元後輩、それだけだった。
祐樹の方もわかっていて口にしたのだろう。
ははっ、と軽薄に笑ってそれ以上その事を話題にはしなかった。
「とりあえず、式までに何キロ痩せれると思う?」
「えー? 理想は高い方がいいけど達成できなかったら当日のドレスが悲惨な事になるよ?」
「ちょっとは夢見せてよ」
「まずはどんなドレスにしたいか、からじゃない? それから目標決めればいいよ」
「他人事だと思って」
「だって花嫁さんが美人なのは確定してるし。じゃあちょっとやそっとの事は些事かなって」
「おのれ……口ばかり上手くなりよる……!」
「成長したって言ってほしいな」
なんて事を言いながら、二人は式の打ち合わせのために会場へ入っていった。
その頃にはもうすっかり、以前の会社の後輩の事なんて小百合の頭からはすっぽ抜けていたのである。
あるのは隣にいる男の度肝を抜く事――それだけであった。
ちなみにこの数か月後、式当日花嫁の姿を見た新郎は思わずその場に五体投地する事になるのだが。
そんな事はお互い知る由もない。




