第98話 北陸戦線異常あり
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12月の忙しさは峠を越しました。来週は火曜日にも投稿が可能だと思います。
天正五年(1577年)九月。能登国守護の畠山氏の居城であった七尾城が陥落。上杉謙信率いる主力部隊が入城する一方、能登と加賀の国境にある末森城に斎藤朝信率いる別働隊を派遣した。末森城はすでに上杉方に降伏していたため、加賀侵攻の拠点として末森城を押さえるためである。
さて、七尾城へ入城した上杉謙信は、遊佐続光を始めとした親上杉派の畠山の家臣達から挨拶を受けた後、重臣等も交えて今後の方針を話し合った。と言っても、謙信が自分の考えを述べるだけなのだが。
「正直、七尾城は悲惨の一言に尽きる。無闇矢鱈に民百姓を城に入れたせいで疫病が流行り、民百姓の生命を無駄に奪っている。当分、遊佐達は能登国の安定を図るべし。そして我等は上洛を来年に延ばし、今年は越前の織田勢と一合戦してから越後へ戻る」
「上洛は今年中に行わないのでございまするか?」
謙信がもっとも寵愛していると言われる河田長親がそう尋ねると、謙信はやる気なさそうな声で答える。
「信長が来ないと分かっていたら、閏七月の包囲開始時にさっさと七尾城を調略で落としてそのまま上洛の軍を率いていたわ。だが実際は信長は摂津から安土に戻っていた。それ故、七尾城を餌に信長を釣りだそうとしたのだが・・・、時を無駄に費やしてしまったわ。ここで上洛しては、冬には北国は雪で閉ざされる。我等は敵中に孤立することになる。やむを得ないが、今年の上洛は諦める」
「御実城様(春日山城主を敬った言い方。ここでは上杉謙信のこと)のお考えは分かりました。それがしも御実城様のお考えに同意致しまする。が、越前の織田勢と一合戦するというのは・・・?」
今年から養父である直江景綱に代わって重臣となった直江信綱が尋ねた。謙信が信綱を見つめながら答える。
「まずは牽制。北から突いてやれば、西にしか目を向けていない信長も焦るであろう。その間、毛利が東進してくれれば公方様(足利義昭のこと)も早く京へ戻ることができよう。
・・・後は織田勢の力を見てみたい。考えてみれば我等は織田とは初めて刃を交わすからのう。特に越前には織田家第一の重臣、佐久間信盛がいるからな。古くから信長に仕えし老臣ならば、織田の戦というものをよく知っておろう」
謙信の答えに対して信綱が「なるほど」と頷いた。次に上杉の外交担当である千坂景親が謙信に質問する。
「ならば、越前の佐久間とはどの様に戦いましょうや?今のところ、佐久間率いる織田の先遣隊は大聖寺城に入っていることは分かっておりますし、未確認情報ですが、まだ大聖寺城へ北上している軍勢もいるそうです。我等が大聖寺城を攻めるのでございますか?」
「さすがにまた城攻めはしとうない・・・。織田は、まだこの城が落ちたことは知らぬのか?」
謙信が続光に尋ねると、続光は首を傾げながら答える。
「確かなことは申せませぬが・・・、長一族とそれに付き従う者共は尽く討ち取っております。その後七尾城より外に逃れた者がいたという報せは受けておりませぬ」
「ならば、能登と加賀の国境を封鎖し、更に加賀の七里三河守(七里頼周のこと)に命じて街道筋を監視し、能登からの情報を遮断すれば、七尾城を餌におびき寄せられるな。後は手頃な場所で野戦に持ち込めば、我等に勝機はあろう」
そう言うと、謙信の目に再び闘志の炎が付き始めた。やる気のある声で「誰か、加賀の絵図を」と言うと、すかさず長近が加賀の絵図を広げて謙信に差し出した。謙信が黙って眺めていると、ある一点に注目した。しばらくその一点を見つめた後、ボソッと誰にも聞こえない声で呟いた。
「・・・手取、川か・・・」
加賀国大聖寺城。織田の北陸における最前線の城には、佐久間信盛・信栄とその家臣を始め前田利家、佐々成政、不破光治、原長頼、金森長近の越前衆と丹羽長秀の若狭衆、織田信包と滝川一益の伊勢衆、そして目付として長谷川秀一がそれぞれの軍勢を率いて駐屯していた。そして、今日も長々と軍議を開いていた。
「一刻も早く七尾城へ進撃するべきです!今この様な無駄な軍議の最中、七尾城は上杉の包囲で苦しんでいるのですぞ!」
「上様からの命は上杉勢への牽制!それはこの大聖寺城からでもできる!我等はここで待機すれば良いのじゃ!」
積極策を取る光治と消極策を取る信盛が延々と言い合いをしていることに、他の諸将はうんざりとした表情を顔に浮かべていた。
「右衛門尉様(佐久間信盛のこと)、上様の命は確かに上杉への牽制。しかし、大聖寺城に籠もっても、あの歴戦の上杉勢は我等を牽制だとは思いませぬぞ!」
同じく積極策を取る前田利家の言葉に、信盛が「馬鹿犬は黙ってろ!」と怒鳴った。当然利家は激怒する。
「何だとこの鈍牛!馬鹿犬とは無礼なり!」
利家はそう言い返すと刀を抜こうとしたが、隣りにいた成政と長近が慌てて利家を抑え込んだ。
ちなみに信盛の幼名は『牛助』であり、一時期信長より『牛』とあだ名されていたことがある。織田家筆頭の重臣になってからは表立って言われなくなったが、越前での信盛の内政重視政策に反発する利家等与力は、影では信盛を『鈍牛』と呼んでいた。
「又佐、言葉に気をつけろよ。仮にも右衛門尉殿は織田家の筆頭家老にして此度の総大将であるぞ。右衛門尉殿も又佐に対して『馬鹿犬』は無かろう。喧嘩両成敗じゃ。二人共頭を下げて互いに詫びろ!」
丹羽長秀が滅多に出さない大声で怒鳴ると、信盛と利家は互いに睨みつけながらも頭を下げた。
「さて、話を整理しようか。我等は上杉の背後を牽制し、七尾城を攻め落とさせないようにするのが上様からのご命令。そこまでは皆は分かっていると思う。しかし、大聖寺城に籠もることが牽制になるかどうかは意見が別れているわけだ」
今まで黙っていた滝川一益がそう言うと、皆が頷いた。一益は顔を信盛に向けると、こう言った。
「右衛門尉様は城に籠もっていても牽制はできると仰っておりましたが、正直それがしは疑問でござる。七尾城を囲む上杉勢から我等まで、どれくらい距離があるとお思いか?目に見えない距離で、しかも間に加賀の一向門徒達が蠢いている中、どれだけ牽制の役割を果たしているのか、それがしはもちろん、皆が疑問に思うのは当然なのでは?」
一益の言葉に、信盛の与力達が一斉に頷いた。特に利家が「その通り!」と声を上げた。それに対し、信盛は鼻を鳴らしながら答える。
「フンッ。それならば儂の考えを言おう。そもそも、我等の兵力で能登まで行って牽制しろなど、正気の沙汰ではない!だいたい、加賀を踏破し、能登へ向かうためには兵力が足りぬ。大聖寺城に籠もることしか我等にはできぬのだ!」
「・・・三万の軍勢は足りぬと言うほどではないと思うが・・・?」
これまた発言を控えていた織田信包がそう言うと、信盛は「足りませぬ!」と声を上げた。
「能登と我等の間には、敵対する一向門徒が支配する地域があり、そこを通らねばなりませぬ!そんな所を通れば、我等は加賀の一向門徒達に背後から襲われる!そんな危険な行軍を、我が佐久間の兵共に強いるわけにはいかんのです!」
信盛の怒気を含んだ大声に、信包が黙り込んだ。
「し、しかしですなぁ。易(占いの一種)によれば、時期も方位も我軍にとっては吉であると出ております。案外上手くいくのではござらぬか?」
「そんな占い当てになるかぁ!」
原長頼が占いの結果を理由に出陣を主張したが、信盛が即座に却下した。
現代と違い、神仏のお告げとか占いを重視する当時の人々にとって、戦の開戦日などは占いに従うのが当たり前だと言われていた。有名なのは武田信玄であろう。軍配者(占いで吉凶、天候を計り、どう戦うかをアドバイスする者のこと)として山本勘助を抱えていたり、新たな軍配者を募集するに当たり、当時『易経』(四書五経の一つ。占術について記されている)の教育機関としては最高峰の足利学校の出身者を望んでいたりと、信玄は占いに関わるエピソードを持っている。
何はともあれ、出陣のタイミングに関して占いを持ち出した長頼の発言は、当時としては特に変わった発言ではない。しかし、長年戦場を駆け巡ってきた信盛は、占いの不正確さもまたよく知っていた。
「しかしながら、能登の畠山は我らの味方。それを見捨てるのは如何なものか。そもそも、加賀を平定し、能登への道筋をつけるのが右衛門尉様の役目。その役目を果たされていないからこそ、我らはこの大聖寺城から進めぬのではありますまいか?軍を進めなくとも、加賀の国衆などに調略を仕掛けるべきではありませんでしたか?」
成政が冷静な物言いでそう言うが、信盛が激情して叫ぶ。
「ふんっ!何も知らん奴が喚くな!大体、一向門徒が加賀を支配して百年近くになるのだぞ!?加賀に調略を仕掛けたところで、我らに寝返ろうという者がいるわけなかろう!」
―――それはどうかな?―――
信盛の叫び声を聞いた一益が思った。確かに、加賀一向一揆が始まったのが文明六年(1474年)で、一向一揆勢が加賀を実効支配したのが長享二年(1488年)。それ以来、表向きは『百姓の持ちたる国』として、裏では本願寺一派の圧政の下、次々と他の宗派を弾圧又は吸収していった。
しかし、加賀国内が一枚岩だったかと言うとそんなわけもなく、享禄四年(1531年)には一向門徒同士の大規模な内紛が発生している。
―――加賀の一向門徒の指導者と石山本願寺の指導者の間では対立があったと聞く。そこをつけば、加賀の一向門徒を分裂させることができるし、その間に各地に潜んでいる反本願寺の国衆や宗門を寝返らせることは不可能ではないんだよなぁ―――
伊勢の国衆相手に調略を仕掛けまくった一益から見れば、信盛が加賀への調略をしなかったことは、怠慢以外の何物でもないように見えたのだった。
その後も信盛と与力達の口論は続いた。信盛からすれば、敵地を突破して七尾城へ行くことは無謀であることを理由に大聖寺城から出ることを拒否し、一方の与力達は畠山救援を主張していた。
「大体なぁ!加賀に攻め入るなら、それこそ織田の全勢力を挙げて攻め込む必要があるわ!一向門徒のしぶとさは、長島や越前でお前等も知っているだろう!能登へ援軍に行くならば、上様自ら大軍を率いるべきだ!」
信盛がそう叫ぶと、目付けである長谷川秀一が思わず口を挟む。
「右衛門尉様!それ以上申さば、上様への抗命と看做し、上様へお報せせざるを得ません!」
「やれるもんならやってみろ!儂は何ら間違ってはおらんぞ!上様の前でも堂々と言ってやる!」
信盛はまるで苛立ちを叩きつけるかのように言った。信盛は天正元年(1573年)八月、朝倉義景との戦いで撤退する朝倉勢に追撃をしなかった家臣達を叱っている信長に対して、唯一口答えをした事があった。彼は、たとえ信長であっても言いたいことは言う人物であった。
「右衛門尉様・・・!しばらく、しばらく!」
そんな信盛と与力達の口論に、割って入る者がいた。七尾城から逃れ、今では長一族唯一の生き残りとなった長連龍である。
それまで口を出すことを憚っていた連龍が、部屋の隅から信盛の前に出て来ると土下座してきた。
「他家の軍議に口を挟むことは無礼なのは重々承知!しかしながら敢えて言上仕る!今七尾城は兵糧を断たれ、上杉勢の暴虐無道の手より逃れんとした数多くの民百姓が腹をすかせて城に籠もっておりまする!何卒、何卒七尾城をお助けくだされ・・・!」
そう哀願する連龍に対し、信盛の目は冷たかった。信盛はその冷たい目のまま連龍に言う。
「孝恩寺殿(長連龍のこと)。貴殿の七尾城を救いたいという気持ち、分からぬではない。しかしながら、孝恩寺殿は北国取次の儂ではなく、わざわざ信貴山城の上様の所まで行って援軍を要請いたしたな?
・・・佐久間の頭ごしに援軍を要請し、佐久間の面目を潰しておいて、その様に頭を下げただけで済まそうとは思っておらぬだろうな!?」
「それは・・・!」
連龍は息を呑んだ。確かに、連龍は信盛ではなく信長に会って援軍要請をした。しかし、それはそのようにしろと七尾城で兄の長綱連に命じられたからであった。
また、七尾城から脱出した連龍は、上杉の監視をくぐり抜け、山を超えて輪島湊から海路で敦賀湊まで来て、そこから南下して安土へ向かった。というのも輪島湊から出る船は敦賀湊か三国湊(今の福井港)に向かうのだが、連龍が乗ったのは敦賀湊へ向かう船だったのであった。
途中で気がついた連龍であったが、当時はただの僧で、しかも上杉の目から逃れるために正体を隠していたため、船の行き先を変更できるわけもなく、やむを得ず敦賀に向かうことにしたのだった。
そして時間がないことを理由に、連龍は敦賀から信盛のいる北ノ庄城ではなく、信長のいる安土城へと向かったのであった。
しかし、この事は信盛の面目を潰したことになる。取次である信盛の頭ごなしに信長に援軍を要請すれば、信盛の事は頼りにしていない、と畠山家が言っているようなものである。そしてこの事は、当時の武将にとっては現代の我々の感覚以上に屈辱的であった。
連龍は信盛に上に書いたような理由を述べて謝罪した。床におでこを何度も叩きつけ、おでこから血を流しながら謝罪した。しかし、信盛の目は冷たいままであった。
「お主が直接信貴山城に行かずとも、北ノ庄城の儂のところに参れば、儂の判断で上様にお知らせし、かつ七尾城へ援軍に向かったものを。お主は時を無駄にしたのじゃ。儂が思うに、七尾城はとっくに落ちているのではないか?」
信盛からそう言われた連龍は項垂れてしまった。そんな連龍に同情したのか、利家が信盛に言う。
「右衛門尉様!いくら何でもそれは言い過ぎでございましょう!それに、まだ七尾城が落ちたという報せは来ておりませぬ!」
「上杉が国境を封鎖しておるやも知れぬではないか。馬鹿犬はそんなことまで分からぬのか」
信盛の言葉に利家は激怒した。
「んだとこの牛野郎!」
利家が信盛に掴みかかろうと立ち上がって飛びかかろうとした。しかし、寸前のところで成政が必死になって抑えた。
「内蔵助(佐々成政のこと)離せ!もう勘弁ならん!この鈍牛野郎をぶん殴らせろ!」
「又左・・・又左!ここで右衛門尉様と諍いを起こせば、前田家は確実に潰されるぞ!いくらお主が上様の寵愛を受けているからと言って、ここで織田家家臣筆頭の右衛門尉様の面目を潰せばどうなるか!それが分からぬお主ではないだろう・・・!」
そう小声で言いながら成政は暴れる利家の首根っこを捕まえ、軍議の場から利家を引きずって出て行ってしまったのだった。
結局、佐久間信盛率いる北陸方面軍は大聖寺城から出ることはなかった。何故信盛が能登に向かわなかったのかは、諸説あり今でも論争の種となっている。
歴史学者の間では、『佐久間信盛はすでに七尾城が陥落していたことを知っていた』というのがもっとも支持される説である。確かに、大軍勢を動員できてかつ戦の経験が豊富な信盛が、怯懦で出陣しなかったというのは考えづらいからだ。
一方、信盛についての資料を見る限り、信盛が七尾城陥落を知っていたという事は全く書かれていない。資料が見つかっていないせいなのかも知れないが、少なくとも前田家や上杉家の資料、そして織田信長の一代記にはその様な事実は記されていない。
その結果、上杉謙信の七尾城への釣り出し作戦はまた失敗に終わった。
上杉謙信は一時は手取川近くの松任城まで進出し、手取川での決戦を望んでいたが、織田勢が大聖寺城から来ないことを確認すると七尾城へ帰還。後処理を遊佐等旧畠山家臣と能登畠山家出身の上条政繁に命じると、加賀、能登、越中の知行の整理分配を行なっている。
また、その一方で能登奪取の報を全国にばら撒いている。結果、信長包囲網に参加している諸勢力は大いに喜び、一方の信長陣営では動揺が広がっていた。特に親信長派の国衆や大名は『織田信長は自分達を守ってくれない。能登畠山のように見捨てられる』という考えに堕ちていった。そしてついに、三木城の別所長治を始めとする東播の国衆達が明確に毛利方につくことを宣言することになった。
能登国を失陥したからと言って、織田家の力はまだまだ強大であった。特に、佐久間信盛の命令違反があったものの、それ故に北陸方面軍の兵力が温存できたのは大きかった。
しかし、信長包囲網は確実に信長を精神的に追い詰めつつあった。しかも、さらに信長を追い詰める存在が、宇宙からやって来るのであった。