表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
96/262

第95話 一難去って

感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。


2023/12/2追記

活動報告でお知らせいたしましたが、12月の更新は週一となっております。金曜の夜を予定しております。どうぞよろしくお願い致します。

 天正五年(1577年)八月初頭。秀吉は山城国と摂津国の境である山崎にある織田信忠の本陣内にいた。本陣には秀吉の他、信忠、織田長益(信長の弟)、斎藤利治、池田恒興と元助の親子、森長可、堀秀政、氏家直昌、安藤守就、稲葉良通らの美濃、尾張を中心とした信忠軍団の諸将が詰めていた。

 そんな本陣に、一人の小姓が入ってきた。


「申し上げます!高山右近殿、伴天連と羽柴藤十郎等に付き添われて我が陣へ参りました!殿へのお目通りを願っております!」


「古新、大義!すぐに連れてまいれ!」


 古新と呼ばれた小姓は、利治からそう命じられるとすぐに本陣から駆け出していった。秀吉が恒興に話しかける。


「あれが紀伊殿(池田恒興のこと)のご次男の荒尾古新殿(のちの池田輝政)でござるか。中々利発そうなお子さんですなぁ」


「いや、あれはまだまだでござる。もっと修行を積まなければ、殿様の家臣としても、荒尾家(古新から見れば母方の実家に当たる)の養子としても力不足でござる」


 謙遜する恒興に対して、信忠が口を挟む。


「いや、古新はようやってくれておる。熊千代(長岡忠興、のちの細川忠興)が兵部(長岡藤孝、のちの細川幽斎)の元に帰って以来、優秀な小姓がいなくて困っておったのだ。古新は勝九郎(池田元助のこと)や藤十郎、熊千代に劣らぬ優秀な若者よ」


 信忠に褒められた事が嬉しいのか、恒興は微笑みながら「有難き幸せ」と軽く礼をした。信忠が秀吉の方を見ると話を進める。


「筑前、儂も一応は織田家の当主となった。父上がご健在故、今は父上の一武将として経験を積んでいるところであるが、いづれ儂の下に優秀な若手を集め、新たな織田家の構築をしようと思うておる」


「新たな織田家、でございまするか?」


 秀吉が首を傾げると、信忠が頷きながら話を進める。


「父上は小姓として家臣の子弟を岐阜城に上げ、手元で育ててきた。将来的に儂の家臣団を育成するためだと父上が申していた。当初、儂はそれは父上の死後の話だと思うておった。しかし、それでは遅すぎる。父上は幼少の頃から儂を弟たちとは違う扱いをしてきた。それは儂が嫡男として、すでに織田家の家督を譲られることが約束されていたが故のこと。ならば、家督が譲られた今こそ、儂は父上に将来の織田家の有様を生きているうちに見せ、父が儂を嫡男として育てたことが正しかったことを証明する必要があるのだ」


 熱く語る信忠に、秀吉だけではなくその場にいた諸将が息を呑んだ。そんな中、長可がのんびりとした口調で信忠に意見を言う。


「殿様、気張る気持ちも分かるんだけど、今は時期じゃないのでは?大和や摂津より西が尽く毛利になびき、しかも北は上杉、東は武田。皆があのクソ公方のせいでつるんでやがる。下手したら・・・」


 長可はそこまで言うと両(てのひら)をパンッと勢いよく叩いた。


「・・・我等は叩き潰されるぞ」


 長可の不遜な物言いと態度に対して、池田親子と利治から咎めるような視線が長可に突き刺さった。しかし長可にはあまり効いてはいなさそうであった。秀吉が苦笑しながら長可に言う。


「勝蔵殿は叩き潰される気など無いでしょうに。名槍『人間無骨』で我等を潰そうとする手を貫くおつもりでは?」


 秀吉の言葉に長可が「分かってるじゃないか」と言いたげにニヤリと笑った。秀吉はそんな長可から視線を他の諸将に向けると、声を上げた。


「確かに、今は織田家は存亡の危機にある。しかし、今までも同じようなことがあった。浅井や朝倉、長島や越前の一向門徒、甲斐の信玄坊主に畿内の三好三人衆などに囲まれておったではないか。しかし上様は我等を率いて尽く討ち破ってきた。今回もそうなる!我等でそうするんじゃ!」


 秀吉の激で信忠本陣内の熱気が一気に上がり、皆が「応!」と答えた。信忠も皆の返答に満足そうに頷いた。そんな時だった。小姓の古新が本陣に戻ってきた。


「申し上げます!高山右近殿をお連れいたしました!」


 そう言った古新の後ろには、紙衣(紙でできた着物)一枚を着て頭を丸めた高山重友と、付き添うように後ろに立っているオルガンティノとロレンソ了斎、そして重秀と前野長康がいた。





 信忠と会見を行った重友は、その後信忠の馬廻衆の護送の下、ロレンソ了斎に付き添われて信長のいる筒井城へと送られた。また、重秀から高槻城の事を聞いた信忠は、高山友照が殺害されないよう、高槻城への入城はせずに中川清秀を始めとする荒木村重の家臣達を調略することに力を注ぐことを決定。秀吉にその事を命じた。そして信忠率いる荒木征討軍は当時廃城となっていたものの、城郭が残っていた芥川山城へ進出、そこに駐屯することとなった。


 芥川山城に駐屯している間、秀吉は古田重然を茨木城の中川清秀の元へ遣わし、織田側へ寝返るよう調略を開始する一方、宮原城、大和田城、多田城、三田城への調略を行なった。一方、重秀は小一郎から現在の織田方の状況を聞いていた。


「上様が指揮されている松永征討軍は、惟任日向守様(明智光秀のこと)、長岡兵部大輔様(長岡藤孝のこと)、筒井陽舜房様(筒井順慶のこと)を主力に、蒲生左兵衛大夫様(蒲生賢秀のこと)、阿閉淡路守様(阿閉貞征のこと)、津田七兵衛尉様(津田信澄のこと)を中心とした近江衆と滝川伊予守様(滝川一益のこと)、織田上総介様(織田信包のこと)、北畠の御本所様(北畠信意、のちの織田信雄)や神戸様(神戸信孝、のちの織田信孝)を中心とした伊勢衆で編成されている。

 すでに信貴山城の支城に当たる片岡城が惟任・長岡・筒井勢からなる別働隊によって陥落していて、上様率いる主力部隊が信貴山城を取り囲んでいるはずだ。聞いた話では、大軍で取り囲んだ上で改めて松永に降伏を迫るらしい。何でも、平蜘蛛?とかいう茶道具を上様に渡すことを条件に許すそうだが・・・」


 そう説明しながら首を傾げる小一郎。平蜘蛛というのがよく分かっていないようだったので、今度は重秀が解説する。


「平蜘蛛とは茶釜の一種です。口が広くて胴の丈が低く、直羽すぐはが大きく出ていて底も浅い茶釜です。形が蜘蛛が這いつくばって見えるからそう名付けられました。

 松永様がお持ちなのは『古天明平蜘蛛』ですね。下野国安蘇郡天明(今の栃木県佐野市天明町)で作られた釜を天明釜というのですが、特に当世より昔に作られた物を古天明釜と言います。古天明平蜘蛛は松永様が有する名物で、上様も欲しがっていたと聞いたことがあります」


 重秀の解説を聞いた小一郎は、感心したように重秀に言う。


「よく知っているな・・・。やはり、宗易様に茶を習っているだけあるな」


「これはどちらかと言うと宗二殿(山上宗二のこと)から習ったのですが。宗二殿は『平蜘蛛は姿形が古臭いし、今風ではない』と言ってましたが、私としては軽くて持ち運びしやすいですし、貧素な板風炉でも均整が取れて見えます故、野点(野外で茶を点てること)には使いやすい釜だと思うのですがね」


 そう言う重秀に、小一郎は「一人前に言うようになったじゃないか」と笑った。


「ところで叔父上。本願寺はどうなっておりますか?」


 重秀の質問に小一郎が頷きながら答える。


「うん。まず本願寺勢は木津川口砦を再建しようと躍起になっている。あそこは毛利からの補給を受ける際に重要な場所だからなぁ。柴田様が天王寺砦で佐久間玄蕃様(佐久間盛政のこと)と共に木津川口砦を破却すべく指揮を執っているが、思うようにいっていないらしい」


 荒木村重が寝返ったことで、追い詰められていた石山本願寺は息を吹き返した。荒木村重対策として楼の岸砦に貼り付けていた兵力を根こそぎ動員して木津川口砦へ配置し、砦の再建を目指していた。


「また、本願寺勢は寝返った荒木との繋がりを強化しているようだ。野田城や福島城と連絡をとっているやもしれぬ」


 村重が裏切る前、村重は摂津野田城と福島城を拠点に本願寺攻めに参加していた。村重が毛利方に寝返った後は野田城と福島城がどうなったかは織田方は把握できなかったが、恐らく村重とともに毛利方に寝返ったと考えられている。


「・・・ひょっとしたら、荒木に本願寺経由で雑賀衆が援軍に加わっているやもしれませんね・・・」


 重秀がそう言って溜息をついた。


 紀伊の雑賀衆は今年の二月に織田軍の総攻撃を受けて降伏したものの、七月に再び挙兵。親織田派であった三緘衆を叩きのめすと、和泉国にあった織田方の砦を攻略。砦を守っていた織田信張(のぶはる)を追い出し、再び本願寺勢に加わっていた。

 そして海路を使って再び石山本願寺へ兵力を送り込んでいた。


「・・・戦は長引きそうだな」


 小一郎がそう呟くと、重秀は再び溜息をついた。




 そんなこんなで芥川山城で駐屯して数日後、信忠の元に万見重元とその軍勢がやってきた。そして重元からとんでもないことを聞かされることとなった。


「はあぁ!?信貴山城が落ちたぁ!?」


 軍議の中、並み居る諸将がいる前で重元から聞かされた報告に、信忠が大声を上げた。軍議に参加していた秀吉達もまた、重元の報告と、普段見せない信忠の驚いた顔に唖然となっていた。


「おいおいおい、真面目に言っているのか仙千代?あの信貴山城だぜ?そりゃ、多聞山城ほどではないが、あの松永が丹精込めて作った山城だぜ?そう簡単に落とせるもんなのか?」


 長可がそう言うと、皆が一斉に頷いた。そんな中、信忠がさっきとは打って変わって真面目そうな顔で重元に聞いた。


「一体どういうことか、委細を話せ」


 信忠の命を受けた重元が詳しい話を始めた。


 信貴山城を包囲してから数日後、筒井順慶の家臣である松倉重信の陣にある男がやってきた。男の名は森好久。元々は順慶の家臣であったが、順慶が松永久秀との戦いに破れ、筒井城から逃れた際に牢人となる。その後、久秀に仕えてその信を得ると、そこそこの地位についていた。

 さて、織田軍が信貴山城を取り囲むと、久秀は外部の軍勢と共同で包囲網を破ろうと考えた。この場合、外部の軍勢とは予め協力関係を築いていた本願寺勢のことである。そこで久秀は好久を使者として、本願寺へ送り込むこととなった。

 ところが使者となった好久は信貴山城から出ると、本願寺ではなく筒井勢のいる場所に向かい、そのまま重信の陣へ入ってしまった。その後、重信が付き添う中、好久は順慶に会うとこう提案した。


「兵をお貸し下さい。本願寺からの増援として城内に入りますれば、頃合いを見て内部より城門を開け放ちます。それを機に攻め込んで下さい。筒井城を奪われたあの恥辱、今こそ雪ぐべき時かと」


 こう言われた順慶は喜んで好久の提案を受け入れると、その事を信長に直接報せてきた。信長は最初は疑ったものの、順慶が「彼は信頼できる」と言って好久の策を主張したため、受け入れることとなった。

 好久は順慶から腕利きの鉄砲兵200人を借りると、苦労したように見せかけつつ信貴山城へ帰還。久秀にはこう報告した。


「『柴田の包囲が思いの外しっかりとしており、信貴山城を包囲する軍勢を外から破ることは難しい。その代わり、増援として加賀の鉄砲兵二百を預ける。また、毛利から三日後に水軍で本願寺に兵糧と兵員が送られるから、それで柴田を討ち破ってからそちらに兵を送るので、それまで耐えて欲しい』とのお言葉を頂いてきました」


 報告を聞いた久秀は落胆したものの、加賀の鉄砲兵なら戦力としては十分である、と判断。好久と鉄砲兵200人を三の丸付近に配備した。


 それから数日後、信長は信貴山城への総攻撃を命じた。先陣は筒井勢とそれをサポートする明智勢と長岡勢である。先の片岡城攻防戦で消耗していたとは言え、それぞれの軍勢の士気は高く、特に筒井城失陥の恨みを晴らさんとする筒井勢の勢いは留まることを知らなかった。順慶自ら前線に立って指揮を取ったことからも、筒井勢の意気込みが伝わるというものであろう。

 しかしながら、久秀も黙ってやられるほどの男ではないし、彼の作り上げた信貴山城もそうやすやすと敵の侵入を許さなかった。筒井勢とそれをサポートする明智勢と長岡勢に対して猛然と反撃し、その勢いは筒井勢を押し返してしまうほどであった。

 そんなときであった。三の丸付近で火災が発生、と同時に三の丸の城門が一斉に開け放たれてしまう。好久が好機として寝返ったのだった。その様子を見ていた織田勢は一斉に攻撃を開始。押し返された筒井勢も体制を整えてから城門内へ突入した。


 実はこの時、神戸勢と北畠勢が競って本丸まで行こうとして返り討ちにあい、戦後信意と信孝が揃って信長に叱られていたり、また久秀の首と古天明平蜘蛛を狙っていたものの、神戸勢と北畠勢の競い合いに巻き込まれて結局本丸に行けなかった長岡熊千代がブチ切れて信孝と信意に抗議したりと色々あったのだが、その事を重秀が知るのは大分後になってからのことである。


 なにはともあれ、信貴山城は陥落。天守で久秀と息子の久通は自害し、古天明平蜘蛛を始めとした久秀の名物は、天守ごと焼失してしまったのであった。


 重元から話を聞いた信忠と諸将達。聞き終わった後は皆黙っていたが、その中で秀吉はすぐに動き出した。


「殿。これは好機でございまする。荒木は松永と連動して毛利に寝返りました。しかし、松永が破れた今、荒木方では動揺が広がっているものと思われます。荒木方に調略をもっと仕掛けるべきかと」


 秀吉の言葉に信忠は我に返ったような表情で秀吉に答える。


「あ、ああ、そうだな。筑前。調略はどうなっている?」


「はっ。大和田城の城主、安倍仁右衛門はこちらへ寝返ることを承諾しております。すでに荒木派である父親と祖父を拘束したとの報せを受けておりますれば、一両日中にはこちらへ来るものと思われます。また、茨木城の中川瀬兵衛の説得を古田左介に命じておりますれば、明日にでも左介を改めて茨木城へ派遣し、高山右近と安倍仁右衛門の織田への帰順と、信貴山城陥落の事実をもってこちら側に寝返らせます。その他の城にも調略を仕掛けます」


 秀吉の回答に満足した信忠は「よし、後は筑前に任せる。良きに計らえ」と命じた。秀吉はさっそく行動に移すべく、信忠の陣から出ていった。


 その後、秀吉の調略により茨木城が開城。中川清秀が織田側に寝返った。また、信貴山城の陥落と松永久秀の自刃の事実と、織田家全軍が摂津に攻めてくるという噂を摂津だけではなく播磨にまでも派手にばら撒いた。結果、荒木方の将兵に動揺を与え、逃亡者を多く出すこととなった。


「よし、後は有岡城だな。一気に攻め落としてくれる!まずは手前の池田城を奪取する!」


 池田城とは有岡城のすぐ北にある城である。元々摂津守の有力国衆である池田氏の本拠地であったが、荒木村重が摂津を支配すると、伊丹城を有岡城として改築し、そこを拠点としたため、今は廃城となっていた。

 信忠は芥川山城から池田城に拠点を移し、有岡城を攻め落とすことにしていた。重元の話では明智勢、長岡勢、蒲生勢、阿閉勢、津田勢、滝川勢、織田信包勢、北畠勢、神戸勢といった信貴山城攻めに参加した軍勢のほとんどが増援として送り込まれる予定であるという。信忠は、すでにこの戦が勝利で終わると確信していた。


「一時はどうなるかと思ったが、存外大したことなかったな」


 池田城へ向けて出陣する前、信忠は呑気に利治にそう語りかけていた。しかし、信忠の思い通りには行かなかった。なぜなら危機が北から迫っていたのだから。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] あっさりと信貴山城と松永が滅んだ(笑) いや、驚きました
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ