第94話 高槻にて
感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。
12月の投稿については活動報告をご参照ください。
どうぞよろしくお願い致します。
天正五年(1577年)閏七月。秀吉の命を受けた重秀、前野長康は伴天連のニェッキ・ソルディ・オルガンティノとロレンソ了斎、そして護衛として福島正則、加藤清正、加藤茂勝(のちの加藤嘉明)、大谷吉隆(のちの大谷吉継)と少数の兵を連れて高槻城下町の手前まで来ていた。
「・・・えっ?高槻城って総構なの?」
「まあ、有岡城が総構ですからなぁ。高山殿もそれに倣ったんでしょう」
重秀の呟きに、隣りにいた長康がそう答えた。
総構(惣構とも言う)とは、城下町の外周をぐるりと堀と石垣または土塁で囲い込んだ城の形状の一種である。城下町を囲うことで、町にある食料庫や職人等を守ることができ、結果籠城戦となっても長期に渡って戦闘能力を維持できる、という利点がある。
「・・・しかし、これでは城下町に入ることは無理なのではございませぬか?」
吉隆が首を傾げながらそう言うと、重秀が答える。
「心配ない。すでにうるがん殿から文で我等が入ることは伝えてあるし、了承の返事も貰っている。ただ、兵を連れていくわけにはいかんから、市は兵達とともにここに残るように」
重秀の言葉に正則が「えっ!?」と声を上げた。重秀が諭すように正則に言う。
「高槻城下町で何があるか分からん。こういう時に冷静な判断ができるのが市しかいないんだよ。虎は短気だし、孫六や紀之介は経験がまだ足りないし。頼むよ」
「・・・分かったよ。だが気をつけて行けよ、兄貴」
渋々命を受ける正則に、重秀は頷いた。そんな重秀に長康が話しかける。
「若君、城下町に入る前にこれを身に着けてくだされ。一応、うるがん殿と了斎殿の護衛という体で入ります故」
そう言って長康はロザリオを差し出した。
「俺はキリシタンじゃないぞ?」
「知ってますが、高槻城下町はキリシタンが多い町でござる。少しでも敵対していない体を出すことが肝要かと」
長康がそう言うと、側にいたオルガンティノも話しかけてきた。
「ハシバ様。ワタクシもこの町、来たでゴゼマス。この町の人ビト、皆キリシタンに優しいゴゼマス」
「・・・相分かった。でも皆の分は?」
「すでに用意してあります」
重秀の疑問に答えた長康が複数のロザリオを懐から出してきた。それを見た重秀が納得したように頷いた。
「よし、では今日だけキリシタンになるか」
そう言うと重秀は長康からロザリオを受け取り、首からぶら下げた。
長康を先頭に、オルガンティノや了斎を護衛するかのように囲みながら城下町に入った重秀達は、そのまま高槻城内にある南蛮寺(カトリック教会のこと)へと入っていった。
その南蛮寺は高槻城の二の丸の傍にあった。これは高山親子が礼拝に来やすいようにしているためである。そのため、重秀達もまた二の丸に入ることとなった。
城兵の監視の下、南蛮寺に入った重秀達は、取り敢えず城内の親荒木派の家臣の目を欺くため、教会で行う典礼(聖堂で行われる公的な礼拝のこと)の準備を行った。予め聞いていた重秀達もその手伝いをした。
準備が終わった後、南蛮寺の外で待っていたキリシタン達を招き入れる。今日は主に城内にいる家臣とその家族を対象とした典礼であった。その中には高山重友やその父親、家族等も含まれていた。重秀も参加したが、これは周りから怪しまれないようにするためであった。
典礼が終わり、司式(儀式の司会、進行を担当すること)を行なっていたオルガンティノが告解室(告解を行う部屋のこと。一般的には『懺悔室』で知られている)に入ると、数人が告解室の前に並ぶ。その中には重友本人もいた。
長康を除く重秀達は、その並んでいる人たちを鋭く見つめていた。一応、オルガンティノの護衛役なので、オルガンティノに危害が及ばないようにしていたのだ。親荒木派の家臣が信長と繋がりのあるオルガンティノや了斎に何かしないようにしていたのである。
しかし、特にトラブルもなく告解は終わり、オルガンティノも告悔室から出てくると、重秀達は了斎と共に典礼の後始末を行うのであった。
その日の夜、重秀達はオルガンティノや了斎と共に城下町にある別の南蛮寺に入った。重友は三の丸に伴天連達の屋敷を作っていたのだが、重秀達の事がバレて人質になることを防ぐため、城内から出たのだった。本当は城下町からも出るべきなのだが、それではかえって怪しまれるということで、止む無く城下町内に留まることとなった。
ちなみに、城内の者達には「明日の城下町での典礼の準備を早めにするため」という理由を言ってある。
「トージュ殿」
南蛮寺で休んでいた重秀に、オルガンティノが話しかけてきた。隣には了斎もいた。
「は、はい?私ですか?」
すでに顔馴染みであったオルガンティノに対して、重秀は「藤十郎とお呼び下さい」と許してはいたが、どうもオルガンティノには発音しづらいらしい。どう聞いても「十寿殿」としか聞こえなかった。
「ハイ、トージュ殿。今日はLatria(ラテン語で礼拝のこと)を手伝ってイタダキ、感謝ゴゼマス。また、ワタクシたちとLatriaした、デウスも喜んでいるでゴゼマス」
「はあ、どうも」
取り敢えず返事をした重秀に、オルガンティノは話を続ける。
「トージュ殿の祈り、とても真剣でゴゼマス。アナタの様な方、デウスの恵み無いオカシイ。baptisma(古典ギリシア語で洗礼のこと、ラテン語でも同じ)で生まれ変わる、オススメでゴゼマス」
「ばぷて・・・なんですって?」
オルガンティノの言葉を聞き取れなかった重秀が聞き返すと、了斎が話しかける。
「藤十郎様。うるがん様は藤十郎様に洗礼をお勧めしておりまする。何卒、我等の兄弟として神に帰依していただきたく」
「それは父が許さぬでしょう。それに父の命ですでに側室を貰うことが決まっております故、神の恵みを受ける事はできないでしょう。まあ、父が神の赦しを得られないのに、子の私のみ赦しを得るのは親不孝というもの。父が地獄に落ちるというのであれば、私めも父のお供をするのみです」
重秀がそう言うと、オルガンティノと了斎は残念そうな顔をした。そんな二人に重秀は優しく声をかけた。
「そんなことより、お二方はこれから先、高山様の説得という大変な務めがございます。今日はゆっくりとお休み下さい」
重秀の言葉に、オルガンティノと了斎が頷くと、重秀から去っていった。入れ替わり重秀に長康が近づいてきた。重秀が長康に聞く。
「で?右近殿はなんと?」
「有岡城にいる人質さえなんとかなれば、何時でも織田に寝返るとのこと。親荒木派の中心は父君の高山図書殿(高山友照のこと)ですが、図書殿も人質が気になるから荒木に肩入れしているのであって、積極的に荒木側に立っているわけではないとのこと」
重秀の質問に長康が答えた。
実は長康はオルガンティノが告解室に入る前からすでに告解室に入っていたのだ。そして、告解室内にて重友から状況を聞いていたのだった。
本来、告解室には告解する信者とそれを聞く神父以外は入ってはいけない。秘密の儀式だからだ。しかも、信者と神父は部屋の中を分断する壁を隔てて告白したりそれを聞いたりするので、部屋自体は結構狭い。しかし、誰にも気付かれずに右近が羽柴側と接触するにはこの方法しかなかった。長康が典礼の間に隙を見て告解室の神父側の部屋に入り、その後オルガンティノが入る。そして他の信者が告解をした後、重友の番の時にオルガンティノの代わりに長康が話を聞いたのだった。
これについて、オルガンティノは最初反対した。告解は信者の秘密を聞くことである。なのでその秘密は当然神父は他人に漏らしてはいけないからだ。しかし、重秀がオルガンティノや了斎を必死に説得した。
「しかしうるがん殿。ここで高山殿が我等の側に付かなければ、上様は高槻城下町での根切り(皆殺し)を指示されるやもしれませぬ。それに、先日私めが使者としてうるがん殿のもとに行った時のことを思い出されてくだされ。上様は『高山が余の側に付いたなら、褒賞として思いのままのものを与えよう。しかし、付かなければ今後伴天連の活動を禁止する』と仰っておりました。上様は長島や越前で一向門徒を根切りいたしました。うるがん殿はそれをお望みでございますか?実際、京では伴天連やキリシタンに村井様(村井貞勝のこと)の兵が監視についたと聞いております。それに、上様は父上に『高山がこちら側に来ない場合、高槻城下町を焼き払い、キリシタン共を捉えて城の目の前で磔にせよ』と命じられております。これを防ぐことこそ、うるがん殿や了斎殿の役目であると心得ます」
「それにうるがん殿が聞いたことを我等に話させることこそ、右近殿への裏切りとなりましょう。将右衛門は私の命で告解室に忍び込んでおりました。うるがん殿は私に脅されていたということにすれば、うるがん殿も神や、えーっと、ろうまの法王様?に言い訳も立ちましょう」
「そもそも、高槻や京のか弱き人々を救うためならば、神も赦してくれるのではありませぬか?っていうか、その程度で今まで奉仕されてきたうるがん殿を見捨てる神なんて碌な神様じゃないから、そんな神様なんぞさっさと捨ててしまいなされ。長浜で手厚く保護致しまするぞ」
重秀の説得だか何だか分からない言葉に、オルガンティノも了斎もとうとう折れて長康の告解室潜入を受け入れた。こうして無事に(?)右近との密談ができるようになったのだった。
「やはり、人質を何とかしないと高山殿はこちら側に寝返らぬか」
重秀がそう言いながら腕を組んで上の方を見た。皆も同じ様に腕を組んで何か考え込んでいた。そんな中、長康が何かを思いついたような顔をした。
「・・・そうだ。荒木側から上様へ人質が出されていたはず。その人質と高山殿の人質を交換すればよいのでは?」
「おお、それは良い考えだ。よし、さっそく父上に伝え、父上から上様へ言上していただこう」
重秀も賛同し、さっそく秀吉に急使を立てることとなった。しかし、ここで問題が起きる。誰が急使をやるか、ということである。
「急使には若君が妥当だと思う。確か小姓時代に長島で少将様(織田信忠のこと)の下で伝令をしていたと言っておりましたな。ここはこの将右衛門に任せ、一刻も早う殿の下へ向かってくだされ」
「そういう訳にはいかん。私は今回の調略を将右衛門の下で学んでこいと父上に言われた。すべてが終わるまでここで学ばなければならない。急使は虎に行ってもらおう」
「長兄、それは待ってくれ。いくら高山様が織田に逆らう気がないにしても高槻は敵地も同じ。俺がいなくなれば、長兄を護衛するものがいなくなるのでは?」
そんな話し合いが行われた末、伝令には冷静な吉隆が選ばれた。命を受けた吉隆が城下町を抜けて城下町外に待機していた正則と合流。自分の馬に乗るとすぐに秀吉のいる淀城へと向かって行った。
その頃、高槻城の本丸御殿にある書院では、重友と父の友照が二人きりで話し合いをしていた。
「・・・やはり、織田と戦っても勝てぬか」
「うるがん殿の話では、すでに近江、美濃、尾張、伊勢の兵を率いて少将様(織田信忠のこと)が上洛しているとのこと。総数は四万ほどと思われます。上様はすでに筒井城に移動し、信貴山城を攻める準備を行っているものと思われます」
本当は長康から聞いた話なのだが、友照に知られると長康や重秀、オルガンティノらに危害が及ぶと考えた重友は、オルガンティノの名前を使って話すことにした。
「毛利の援軍は来ないのか?御着城の小寺加賀守(小寺政職のこと)は毛利方に寝返ったと聞くし、噂では三木城の別所も毛利方についたというではないか?それに、御主君(荒木村重のこと)によれば、上杉が上洛の軍勢を発したとも聞いておるぞ」
友照の言葉に、重友が首を横に振りながら話す。
「小寺も別所も、重臣の中には織田と通じているものもいますれば、その者達が獅子身中の虫となります。両家とも積極的には動きますまい。それに、此度は織田第一の重臣である佐久間右衛門尉様(佐久間信盛のこと)と、麾下の北国衆が動いておりませぬ。思いますに、上杉の抑えとして残っておるのでしょう。『退き佐久間』で知られた名将故、少なくとも上杉の上洛は阻害されるものと存じまする」
『退き佐久間』とは佐久間信盛の二つ名である。これは撤退が上手いという意味であるが、決して逃げ足が速いという意味だけではない。
撤退戦、特に敗退した時の撤退は兵の士気が下がり、また浮足立っているため、秩序を持って撤退することは至難だとされている。しかも、勢いに乗る敵の追撃を受けるとなると、無秩序での敗走が当たり前となってしまう。
一方、信盛率いる佐久間勢はそうなったことが無いと言われている。もっとも、具体例として挙げられる三方ヶ原の戦いでは、戦う前から撤退したと言われているが。
ただ、信盛は撤退だけが得意なわけではない。稲尾の戦い以降、信長の主要な戦いには必ず参加し、先陣や別働隊、援軍の指揮をそつなくこなすオールラウンダーとして活躍した武将であった。
そんな武将が率いる北陸方面軍が、軍神上杉謙信に勝てることはなくても負けることもないだろう、というのが重友の考えであった。
「毛利の援軍ですが、毛利は背後に大友を抱えております。大友は織田との誼を通じておりますれば、毛利は背後を気にしなければなりませぬ。毛利の援軍は期待できないのではありませぬか?」
当時、北九州の領有権をめぐって毛利は豊後の大大名、大友義鎮(のちの大友宗麟)と激しく争っていた。九州6カ国を領有する大友は毛利にとっても脅威であり、背後の大友を無視して積極的に東へ軍を差し向けることは難しかった。
足利義昭もその事は承知であり、未だ足利将軍に忠誠を誓っている薩摩の大大名、島津に書状を送って大友の背後を突くように要請はしており、島津も承諾はしている。しかし、現時点ではその策はまだ実ってはいなかった。
つまり、毛利は援軍を播磨や摂津に送る余裕がない、と重友は考えていたのだった。
「・・・よく知っているな。そういうのは一体どこから聞くのだ?」
「父上。それがしは伴天連達と京や安土、岐阜へよく行っておりますれば、そう言う話は嫌でも耳に入ってきます。それに、堺にて宗匠(千宗易のこと)からも聞きますし、また伴天連達からも聞いたり致しますれば」
友照の疑問に、重友がしれっと答えた。
その後、高山親子は長い時間、今後のことについて話し合った。重友が「神の教えでは主君を裏切るは罪でございます。我等の主君は上様でございましょう」と言えば、友照は「神の教えには『家族を御大切に』と言うではないか。人質に出された家族を助けることこそ、神からの御大切が受けられるのだ」と反論した。
ちなみにここで言う『御大切』とは、アガペーの当時の日本語訳である。フランシスコ・ザビエルが来日した際、アガペーをどう訳すかが問題となった。現代では『愛』と訳すが、当時は『愛』は『かわいがる、もてあそぶ』という意味だったため、「神が人をかわいがる」とか「神が人をもてあそぶ」では意味が違ってくる、という事で『御大切』となったようである。
高山親子の話し合いは数日に渡った。領主として高山家の存亡と民の安全を考え、またキリシタンとして信仰への想いを鑑み、二人が出した結論は『領地領民を織田家に返上する』というものであった。また、現当主である重友が信長の下へ単身で許しを得に行く一方で、友照は勝手に領地を放棄した馬鹿息子に激怒したと見せかけて、最後まで村重に忠誠を尽くすと言って有岡城に向かうこととなった。そして、すでに有岡城にいる家族を返してもらう事を提案することとなった。
高山親子の決定はすぐにオルガンティノを経由して長康や重秀に伝えられた。実は前日に秀吉から人質交換には応じられないという返事を受け取っていたため、重秀は内心焦っていた。しかし、重友の提案を聞いた重秀は再び吉隆を秀吉の下に遣わし、判断を仰いだ。
この頃には淀城には織田信忠も来ており、秀吉は信忠に相談の上、重友の提案は受け入れられた。こうして、少なくとも織田方は高槻城と高山家を無力化することに成功したのだった。