第89話 重秀の側室騒動
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本来火曜日に更新予定だったのですが、連休最終日ということで更新してみました。連休最終日の夜、息抜きとして読んでいただければ幸いです。
次の更新は金曜の夜になります。
天正五年(1577年)六月上旬。伊勢安濃津での仕事を終わらせた重秀は、福島正則、加藤清正、脇坂安治と共に長浜城へ帰還。その足で長浜城の本丸御殿で仕事をしていた秀吉との面談に臨んだ。
「役目大義。藤十郎、少しは日に焼けたか?」
「安濃津にて船に乗って海に出ておりました。やはり琵琶湖と海は異なりますな。とはいえ、途中から梅雨に入り、海に出ることも能わず。ここ数日は上総介様(織田信包のこと)と囲碁将棋しかしておりませんでした」
「あっはっはっ!それは良き鍛錬になったのう!どれ、今夜辺り儂が腕を見てやろうかのう!儂も弥兵衛(浅野長吉、のちの浅野長政のこと)相手に囲碁将棋やるのを飽きたわ!」
笑いながら話す秀吉に、重秀は安堵したような顔をした。
「父上、勝姫の事は残念でした」
重秀の気遣う言葉に、秀吉は少し寂しげな顔をした。
「うむ・・・。残念ながら奇跡は起きなかった。しかも、せんも仏門に入ってしまった。儂の周りも寂しゅうなった」
そう言う秀吉に対して、重秀はいたたまれない気持ちになった。しかし、重秀の気持ちを察したのか、秀吉が明るい声で話しかける。
「藤十郎、その様な顔をするな。この後、縁に会うのであろう?せっかく元気に帰ってきた夫が、その様な辛気臭い顔をしていれば、縁に申し訳が立たぬぞ」
そう言われた重秀はただ「ははっ」と答えて頭を下げた。続けて秀吉が言う。
「・・・実は縁には正室としての役目を果たすよう命じた。子を生すことについては、縁の身体の様子を見て判断すればよいが、なるべく早めに生すように。また、縁は正室としてお主に側室を付けることには同意した。今後、側室については縁と相談の上、早急に迎えるように」
「承知いたしましたが・・・、随分と急ですね」
真面目そうな顔をしている秀吉に重秀がそう言うと、秀吉は突然大きな声を上げた。
「阿呆!今や羽柴は危機的状況だということが分からぬのか!?儂の血を引くのが、お主しかおらぬのだぞ!?」
「それは重々承知しておりまするが・・・。しかしながら、縁との間に子を生さねば、織田家への面目が立たないのでは?」
重秀の冷静な物言いに、秀吉は「ま、まあ、それはそうなのだが・・・」と怯んだ。重秀が言葉を続ける。
「とは言え、父上のご懸念もごもっともでございます。縁や千代さん等と相談の上、父上のご意向に沿うようにいたしまする。ただ、気になることもございまするが」
「なんじゃ、申せ」
取り敢えず重秀が受け入れたことについては安堵しつつも、秀吉は警戒感を露わにしながら聞いた。
「蒲生家のとら姫はどうされますか?」
「・・・あー、それもあったな」
重秀の言葉に秀吉は思い出したかのように呟いた。重秀が話を続ける。
「とら姫は確か齢十二。婚を結ぶにはまだ早いですが」
「十二か・・・。まだ子を生せぬな。さりとて、とら姫より先に格の低い側室を持っては蒲生の面子を潰すようなものじゃ・・・。うーむ、取り敢えず先にとら姫を迎えるか・・・?」
秀吉がウンウン唸って悩んでいる中、重秀がおずおずと意見を述べる。
「父上、ご懸念は私めにも理解しておりまするが、これは時のかかる問題です。取り敢えず、縁と相談の上、こちらで決めまする故、先に別の問題を話し合いませぬか?」
「・・・別の問題とは?」
秀吉がそう聞くと、重秀が答える。
「七月には播磨へ出陣でございましょう?その陣立について、私めは何も聞いておりませぬ」
「ああ、それは近々小一郎が播磨から帰ってくるから、その時に決めよう」
秀吉はそう答えたのだった。
二の丸御殿に戻った重秀は、玄関で縁達の出迎えを受けた。
「今帰った」
「お帰りなさいませ、御前様」
玄関の間の畳の上で、三つ指で平伏して迎える縁に重秀が声を掛ける。
「父上から聞いたことについて話があるんだが、良いか?」
「・・・はい」
縁は重秀の言ったことが分かったのか、真面目な顔をして返事をした。
二の丸御殿の奥にある書院には、重秀と縁、それに千代と七が集まっていた。
「・・・夏さんは?」
重秀はいつも縁と一緒にいる乳母の夏が見えないことを疑問に思い、七に聞いた。
「ちょっと出ておりまする。後ほど来られるかと」
七が何やら困惑したような顔で答えた。重秀は疑問に思ったがその事は口に出さなかった。千代が話を進める。
「若君、殿と話し合われたのは、側室のことですか?」
「うん。だが、できれば縁との子を生すことを優先させたい」
はっきりとした重秀の物言いに、縁が頬を朱に染めた。それを横目にしつつ、千代が重秀に聞く。
「それはまた何故でございまするか?やはり、織田家だからですか?」
「好いた女子に最初に子を生して欲しいではないか」
しれっと言う重秀の言葉に、縁の顔が朱から赤に変化し、千代と七が微笑んだ。重秀が真面目そうな顔で話を続ける。
「とは言え、側室を迎えることは既に決まっていること。蒲生家から姫を迎え入れることについて、話を詰めねばならぬ」
「そのお話、先日殿から聞いておりまするが・・・。そうなると、蒲生様より先に側室を受けるのは憚れることとなりまするな」
七がそう言うと、皆が「うーん」と唸ってしまい、そのまま黙り込んでしまった。しばらく経って、千代が躊躇いがちに話し始めた。
「こういう事を口に出すのはどうかと思うのですが・・・、いっそ、とら姫様は殿のご正室として嫁いでもらったほうが話が早いのではないかと・・・」
「えーっ!俺嫌だ!年下の母親なんで絶対嫌だぞ!どんな顔して『母上』て言えば良いんだよ!?」
重秀が千代の発言に猛烈に反発した。今までそういったことがなかったので、千代は驚いた顔を重秀に向けた。それに気がついた重秀が「あっ・・・、すまん・・・」と言って目線を下げた。
「しかし殿は御歳三十九。まだ子を作ることは可能でございましょう。それに、十三万石の大名にして織田家の重臣。いづれ継室を迎えるのではないでしょうか?」
七の言葉に重秀が渋い顔をした。やはり『年下の母親』というパワーワードが気に入らないらしい。そんな重秀が、渋い顔のまま口を開く。
「・・・父上の継室についてはこれ以上話すのはよそう。それより、私の側室のことだ。とら姫を迎え入れるとして、齢十二の側室だ。当然、子を生すにはまだまだ早い。縁との間に子が生せなかった場合、父上の焦燥の想いはさらに募ることになるだろう」
重秀はそう言うと一旦言葉を止めた。皆が黙って重秀を見つめている中、再び重秀が口を開く。
「・・・私の考えとしては、父上は焦りすぎていると思う。だが、父上が決められた以上、早急に子を生せる側室を迎える必要がある。しかし、とら姫より後に向かえなければならない。そこで、とら姫を迎える前に予め年上か私と同年代の側室候補を決めておき、とら姫を迎え入れた後に子を生すようにすれば、とら姫の面子を保つことは可能ではないか?」
思案するような表情で重秀がそう言うと、縁と七と千代はお互いの顔を見合わせた。その様子を見た重秀が訝しがる。
「なんだ、皆してその顔は」
「・・・いえ、私達が話し合った結論と同じになったものでして」
縁が驚いたような顔でそう言うと、両手を畳の上について平伏しながらさらに話を続けた。
「恐れながら、御前様。皆と相談し、すでに側室となる女子を用意しておりまする」
「えっ!?もう見つけたの!?早くない?」
縁の声に驚く重秀。そんな重秀に縁が話しかける。
「こうでもしないと義父上が決めかねない状況でございました」
縁がそう言いながら七の方を見た。すると、七の顔が能面のように無表情になった。
「七さんがどうかしたのか?」
重秀が聞くと、七の代わりに千代が口元を袖で隠しながら答える。その言葉には笑いが含まれていた。
「殿は若君の側室に七殿を推されたのでございまする」
それを聞いた重秀は、ポカンと口を開けて千代を見つめていたが、そのうちに腹を抱えて大笑いした。初めて見る重秀の爆笑姿に、縁もまたクスクスと笑ってしまった。
爆笑が収まった重秀が涙を指で拭いながら話す。
「あー、面白かった。七さん、見た目は二十代だけど、本当は四十過ぎてるんだもんな。しかも、孫もいるしね」
七は元々信長の母である土田御前の侍女であり、その時に織田家家臣と結婚。後に夫が亡くなると実家に戻った後に帰蝶の侍女になった経歴がある。彼女は土田御前の下で織田家の作法を習っていたので、織田家の作法を縁に教えるべく、帰蝶から縁の乳母として派遣されたのであった。
彼女は前述したように夫を亡くしているが、息子二人に娘一人がおり、皆に子供ができていた。つまり七はお祖母ちゃんなのだ。しかし、何が原因が分からぬが、七の見た目は二十代にしか見えないのだ。
だからこそ、秀吉は見誤った。元々七の詳しい経歴を知らないのだから仕方ないのだが、重秀が安濃津へ行っている時に行われた縁達との話し合いの際に、秀吉は七に重秀の側室に入るように命じた。しかし、その後に七から本当の年齢(秀吉より5歳年上)を聞いて、秀吉は驚きのあまり後ろにひっくり返ってしまったのだった。
「七殿の齢を聞いた殿のあの驚きよう、本当に驚きでひっくり返る人を私始めて見ました」
そう言って千代が笑い、その状況を見ていた縁も七も思い出したらしく、一様に袖で口元を隠しつつ笑い出した。
「・・・それで、側室候補の女子は誰だ?っていうか、もうこの城にいるのか?」
皆の笑いが収まったところを見計らって、重秀がそう聞くと、縁が首を縦に振る。
「はい。すでにこの御殿に居りまする」
縁の言葉に重秀が「えっ?」と言うのと同時に、書院の外から夏の声がした。
「失礼致します。お連れいたしました」
夏の声を聞いてさらに驚く重秀。重秀と対面で座っていた縁と千代、七が左右に分かれて重秀の前を開けるようにして位置を移動した。座り直した縁が外にいる夏に「お入りなさい」と促すと、障子が開き、夏と縁の乳姉妹の照が入ってきた。二人は重秀の前まで来ると、平伏して重秀に報告する。
「若君、側室候補の女性をお連れしました」
夏の言葉で全てを悟った重秀が、照を見ながら縁に聞く。
「おい、側室候補ってまさか、照のことか?」
重秀の疑問に、七が咳払いをして話を進める。
「・・・夏殿の娘、照は歳は十五。御姫様(縁のこと)の乳姉妹なれば、御姫様もよく知る女子にて、若君へお薦めすることにやぶさかではないと」
「それに、例の百人一首の件で若君と照殿は互いに馴染みとなりました故、若君も親しみを持ちやすいと思ったのですが・・・」
夏に続いて千代がそう言うと、呆然としている重秀の前で照が三つ指をつきながら平伏する。
「伊勢上野の国人、田中甚五郎の娘、照にございまする。不束者でございまするが、末永く可愛がってくださいまし」
予想外の側室候補の出現で重秀が悩んでいる頃、大和国信貴山城でも一人の男が悩んでいた。
「有岡城に動きなし、か・・・。摂津はまだ悩んでいるのか・・・」
信貴山城の本丸御殿の奥にある庭の池の側に建つ草庵で、城主たる松永久秀は一人茶を点てながらそう呟いた。
摂津有岡城に忍ばせていた間者からの報せによれば、荒木村重はまだ信長から毛利へ寝返ることに躊躇しているらしい。すでに摂津の国衆や摂津西部の一向門徒達は毛利へ寝返るよう、村重に圧力をかけているのだが、村重は首を縦に振っていないらしい。もっとも、横にも振っていないようだが。
「摂津よ。そろそろ現実を見ろ。あの信長の義弟のせいで皆が疲弊しているということを」
大阪方面を担当している柴田勝家による対石山本願寺戦略は、信長の意向を受けたものである。すなわち石山本願寺を完全封鎖し、兵糧攻めとすることである。
しかし、兵糧攻めにする場合、問題は大阪湾から上陸してくる毛利からの兵糧をどの様に止めるか、ということである。去年行われた木津川河口の戦いでは、木津川河口にあった砦を柴田勢が奪取することである程度は阻止したものの、その後木津川河口砦は本願寺勢に取ったり取られたりする消耗戦となった。
勝家は筒井順慶や久秀らに命じて木津川河口砦を守らせたり攻めさせたりしただけではなく、自ら天王寺砦に乗り込んで甥の佐久間盛政らと共に陣頭指揮を取ったりしているが、本願寺勢のゲリラ戦によって木津川河口砦を維持することができなくなっていた。しかも、木津川の北岸を守る楼の岸砦とそれを支える砦群には1万近い軍勢が籠もっており、この砦群の攻撃を担っていた荒木村重の軍勢は砦を奪取することができていなかった。
結果、勝家の柴田勢はもちろん、勝家麾下の与力大名の兵力は削られていった。久秀の軍勢はもちろん、村重や河内の池田、大和の筒井順慶といった大名の軍勢も数を減らしていた。結果、勝家の積極的な包囲戦に対して、与力大名の不満は募っていくばかりであった。
「漏れ聞くところでは、あの惟任日向守(明智光秀のこと)や長岡兵部大輔(長岡藤孝のこと)も義弟に対して不満を持っておるらしい」
久秀の呟きのとおり、勝家と光秀、藤孝との間にも確執が生まれつつあった。元々光秀と藤孝には天正三年(1575年)より丹波攻めを信長から命じられていた。ところが天正四年(1576年)一月、それまで光秀に従っていた丹波の国人、波多野秀治が裏切った。当時反信長勢力であった赤井直正を攻めていた光秀と藤孝は秀治の裏切りによって挟撃され、這々の体で京まで撤退していた。
その後、光秀は赤井・波多野勢を叩くべく丹波へ攻めようとするが、直前になって信長の命や勝家の要請で畿内へ兵を援軍として送っていたため、丹波平定ができなくなっていた。このことで、光秀と藤孝は勝家への不満を持ちつつあった。
「儂と摂津が毛利方に付けば、播磨の親織田派は毛利方に十中八九寝返るじゃろう。毛利方におわす公方(足利義昭のこと)を神輿とすれば、日向も兵部大輔も信長を見限るであろう。しかも、東には武田と上杉もいる。事を起こすなら今か」
久秀がそう呟いた時であった。外に誰かがいる気配を感じた。久秀は息を殺して自らの気配を消した。そのまま外の気配を探っていると、草庵の躙口の向こうから声がした。
「父上、彦六(松永久通のこと)でございまする」
「・・・入れ」
久秀が入るように言うと、躙口から息子の久通が入ってきた。
「戻ったか。茶を点てる故、しばし待て」
久秀がそう言うと、久通は黙って頷いた。
久秀が茶を点て終え、茶碗を久通の前に置くと、久通は作法に従って茶を飲んだ。
「で?永原城で何を聞いてきた?」
茶を飲んでいる途中で久秀が聞いてきたので、久通は茶碗を置くと、ゆっくりとした口調で答えた。
「柴田様は七月にも楼の岸を始めとした砦群に総攻撃をかけると。そして、上様もしくは殿様(織田信忠のこと)のご出陣をお願いするため、安土へ向かうと」
「ふん。義兄上に泣きついたか」
「父上。ここで上様御自らご出陣となれば、楼の岸砦などは一溜まりもないのではございませぬか?」
「その代わり、我等も一溜まりもないわ」
苦々しく言う久秀の言葉に、久通が黙り込んだ。
「本願寺の力攻めはもはや不可能。信長も知っているはずじゃ。それ故、兵糧攻めにしようとしておる。しかし、海から木津川を通しての補給を止めぬ限り、兵糧攻めなど絵に描いた餅よ」
「それ故、柴田様は木津川河口の砦を落とし、さらに楼の岸砦を落とそうとするのでは?」
「それで畿内の大名は疲弊し、信長ただ一人が君臨するのか。結構な話だな」
久秀の怒気の含んだ声に久通が黙り込んだ。久秀が話を続ける。
「なるほど。信長は知恵者よ。石山本願寺を餌に畿内の大名、国衆もの力を削ぎ落とすか。そして畿内での抵抗勢力がいなくなったところで、己の城を石山に築くか」
久秀は知っている。信長が石山本願寺を攻め続ける理由を。それは石山本願寺のある地に己の巨大な城を築きたいからである。ただ、久秀には分からなかった。なぜ安土城を築いた上で、さらに石山の地に城を築きたいのか?を。
それ故、久秀は我慢ならなかった。これ以上松永の血が流れ続けることを。
「彦六よ、重臣達を集めよ。本願寺を囲む附城に詰めている者達も呼び戻せ」
「よろしいのですか?」
驚く久通に対して、久秀は「構わぬ。重要な話をする」と答えた。久通が返事をして草庵から出ていった。
「・・・信長は孫次郎君の代わりにならなかった。孫次郎君は本願寺とは上手くやっていた。やはり、儂がお仕えするに値する主君は孫次郎君しかおらぬ・・・」
一人残った久秀は、目の前に置かれた刷毛目茶碗を見つめながら、自分を重宝してくれた年下の主君である孫次郎―――三好長慶のことを思い出していた。