第88話 安濃津にて
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今日は三連休の初日ですので、夜ではなく朝の投稿と致しました。休日の時間つぶしとして読んでいただければ幸いです。
誤字脱字報告ありがとうございました。お手数かけて申し訳ございませんでした。
天正五年(1577年)五月上旬。長浜城は慌ただしい動きを見せていた。四月下旬に姫山城(のちの姫路城)にいた小一郎より、毛利の軍勢が英賀に上陸。姫山城に向けて進軍したとの情報がもたらされたからであった。
実際のところ、英賀に上陸した毛利勢を小寺孝隆率いる少数の軍勢が奇襲をかけることで撃退され、上月城へ撤退したのでひとまずの危機は去った。しかし毛利の圧力が小寺領へ向けられていたのは変わらなかった。
そこで、長浜城で休養をとっていた秀吉が急遽安土城へ行き、信長と相談することとなった。そして相談の結果、七月をもって羽柴軍全軍で播磨に進出。本格的に播磨と但馬を軍事力で押さえることとなった。
「父上。この様な忙しい時に一人だけ安濃津へ行くこと、どうかお許しください」
「何を言っておるか。これは上様と殿様の命ぞ。むしろ堂々と行って来るが良い」
長浜城の本丸御殿の中にある小書院にて秀吉と面談していた重秀が詫びると、秀吉は笑いながら答えた。しかし、家族である秀吉の顔の中に不安げな表情が隠されていることを、重秀は見逃さなかった。
「やはり、お勝の容態は・・・」
「うむ、悪くなる一方じゃ。せんの乳を飲まなくなって、乳母の乳を少しだけ飲むだけじゃ。医者も覚悟を決めよと言っておった・・・」
そう言うと秀吉の表情は曇った。
秀吉と南殿との間に生まれた娘の『勝』は早産で生まれてきたと言うことで、身体がとても弱かった。あまり泣くこともなく、乳もあまり飲まないことから、秀吉や南殿は勝については本当に心配していた。医師にも見せたし、薬師にも薬を調合してもらった。しかし、勝が元気になることはなく、命の灯も消えつつあった。
「今回は儂もせんの側に居てやろうと思っておる。前の石松の時は側に居てやれんかったからのう」
「それがよろしいかと存じます」
普段明るい秀吉が、暗い顔をしているのを見た重秀が、痛ましそうな顔で言った。そんな重秀を見た秀吉が、寂しそうな笑みを浮かべながら言う。
「・・・そんな顔をするな。子が幼いうちに亡くなるのは、よくある話じゃ。石松も、お勝もそういうもんじゃったと諦めるしかない。まあ、お勝はひょっとしたら奇跡が起きるやもしれぬが」
そう言うと秀吉は重秀を見つめた。重秀が黙っていると、秀吉は再び口を開いた。
「・・・まあ、儂がこうやって落ち着いていられるのは、お主がいるからじゃ。藤十郎、お主が生きているから、他の子は諦められるのやもしれぬ」
「父上、それは・・・」
「無論、石松が亡くなったことは悲しいし、お勝が弱々しくなっていくことに胸が張り裂けんばかりの想いじゃ。しかし、お主が死んだら、それは儂も死ぬときじゃ。お主が殺されたりしたら、儂は命に替えても仇討ちをするぞ。例え相手が上様や帝であってもな」
そう言って急に目に憎悪を湛えた秀吉に、重秀は思わず息を呑んだ。しかし、すぐに秀吉の目から憎悪がフッと消え去り、いつもの目になると秀吉は微笑みながら重秀に言う。
「安濃津城では上総介様(織田信包のこと)がお主を待っている。くれぐれも、粗相の無いようにな」
「ははっ」
そう返事をした重秀は深々と秀吉に頭を下げるのであった。
数日後、重秀は福島正則、加藤清正、そして秀吉の家臣である脇坂甚内安治とフスタ船を建造した船大工数名を連れて伊勢安濃津城に入った。
未だ工事中の安濃津城で、織田信包の好意で城内の屋敷を借りることができた重秀一行は、屋敷の中の書院に入って一息ついていた。
「いや、さすがは若君ですな。上総介様にこの様に厚遇されるとは」
安治が感心したように重秀に声を掛けてきた。正則と清正が眉をひそめて安治を見つめていたが、安治は気にしていない様子だった。重秀が返す。
「別に屋敷でなくても良かったんだけど。湊の宿屋でも良かったんだが」
「いや、そういう訳にはいかないでしょう・・・」
重秀の突拍子もない言葉に、安治が思わず口に出した。正則と清正の顔が渋くなりつつあることを見ながら、重秀は安治に聞く。
「時に甚内は、何故私と共に安濃津へ行くことを望んだのだ?父上から聞いたが、自ら志願したそうじゃないか」
「はあ。実はそれがし、前々から船軍には興味ありまして。生まれは小谷城近くなのでござるが、浅井家臣だった頃は今浜の舟手衆に伝手がありました故、船には馴染みがございました。また、浅井が上様と敵対しておりました故、浅井と盟を結んでいた堅田衆とも顔なじみでございました。故に明智様の下では堅田衆とのやり取りもやっておりました」
「ん?ということは、交渉事は得手なのか?」
重秀の発言に、安治は思いっきり首を横に振った。
「とんでもない!それがしは槍働きしかできぬ武骨者にて・・・。あー、でも、明智様から赤井家との交渉を命じられておりましたな」
「うーん、交渉については隠れた才能があったんじゃないのか?日向守様も一廉の武将。人を見る目があったんじゃないかなぁ」
「そんなものですかねぇ」
重秀と安治がそんな会話を交わしていたときだった。書院の外から誰かが声を掛けてきた。
「羽柴様、殿がお呼びでございます」
「相分かった!今行く!」
重秀がそう声を上げると、そのまま立ち上がった。そして三人を連れて本丸御殿へ向かうのであった。
次の日、安濃津湊の側にある造船場にて、重秀一行は安濃津と長浜の船大工達と共に九鬼から派遣されてきた船大工が持ってきた巨大な安宅船の絵図を見つめていた。
「いや、これはでかすぎないか?」
絵図を見た重秀が思わず呟いた。その絵図に描かれた安宅船は、全長十八間(約32m)、幅六間(約10m)、総矢倉は4層となっていた。
「船体の大きさは総矢倉を四層にすることから、どうしても重心が上になってしまいます。横波による転覆を防ぐには、船体を大きく取らなければなりませぬ」
九鬼から派遣された船大工の言葉に、長浜と安濃津の船大工は納得したかのような表情を顔に浮かべた。一方、首を傾げていた重秀が九鬼の船大工に聞く。
「何故総矢倉を四層にするのだ?他のは二、三層だったではないか」
「焙烙玉が船内に入るのを防ぐためです。」
「焙烙玉?」
重秀が再び首を傾げて九鬼の船大工に聞いた。
九鬼の船大工の説明によれば、天正四年(1576年)に行われた木津川河口の戦いで、毛利水軍の中核を担う村上水軍と紀伊の雑賀水軍は、焙烙玉を使用していた。焙烙玉とは、焙烙(素焼きの土製の平たい鍋)に似た陶器の容器に火薬を詰めた兵器である。これの導火線に火を付けて手で投げたり、紐をつけてハンマー投げの要領で投げたりしていた。村上水軍や雑賀水軍は焙烙玉を敵船に投げ入れて戦っていたのだが、彼らの焙烙玉の火薬は調合が独特であり、周囲に火を付けやすいようになっていた。結果、焙烙玉の攻撃を受けた敵船は火達磨になって戦闘不能になっていった。
「というわけで、焙烙玉対策として船内に焙烙玉を投げ入れられないよう、総矢倉を高くしたというわけでございます」
「相分かった。ついでにもう一つ。これだけ船がでかいと船が完成した時に海へ運べぬではないのか?ここから海まで結構あるぞ?」
重秀の質問に、今度は安濃津の船大工の棟梁が答える。
「それはご心配なく。潮の満ち引きを利用致しまする」
「潮の、満ち引き?」
「羽柴様はご存じないのですか?『北近江の麒麟児』と呼ばれたお方なのに?」
「いや、そんな呼ばれ方されてないぞ。誰だ、そんなこと言っているのは?」
心底嫌そうな顔をしながらそう聞いた重秀に、安濃津の船大工の棟梁は「城の皆さんが」と答えた。重秀は溜息をつきながら言う。
「・・・私は麒麟児と呼ばれるほど優れてはおらぬ。潮の満ち引きを知らぬのだからな。で?潮の満ち引きとは何だ?」
重秀の質問に対して、安濃津の船大工の棟梁が詳しく説明する。
「海の高さは一定ではございませぬ。一日のうち二回ほど低くなったり高くなったりいたします。そうなった場合、陸地だった所が海になり、逆に海だった所が陸地になったりいたしまする。また、時期によっては海の高低差が低かったり高くなったり致しまする。特に、大潮の時期にはこの造船場の近くまで海が来ます故、それを狙って船を海に送り出しまする」
現代ならば潮の満ち引き(潮汐)のメカニズムは解明されているが、当時はメカニズムが明らかにはなっていない。しかし、その現象を利用することは、人類の歴史が始まってからすでに行われていたことであった。
「ほう。海にはそんな現象があるのか・・・。琵琶湖では聞いたこと無いな?」
実際のところ琵琶湖でも潮汐が無いわけではないのだが、人が感知できるほどの差は起きていない。
棟梁の話はまだ続く。
「それに、安宅船の場合、全て完成させてから海に運ぶわけではありませぬ。総矢倉や帆柱は海に浮かべてから作りまする」
西洋の帆船と違い、安宅船や関船の帆柱は戦闘時には折りたたむようにできている。なので船が浮かんだ状態でも取付作業は簡単にできるようになっていた。もっとも、今回は帆柱をたたまない構造にするつもりらしいが。
「船体ができた時点で進水させるのか」
重秀が納得したような顔でそう言うと、棟梁が「はい」と答えた。その後、重秀は一人考え込む。
―――それでも大きな安宅船を海に浮かべるのは多くの人員が必要になるな・・・。もっと、楽に海に浮かべられないものだろうか?潮の満ち引きで陸地になったり海になるのであれば、引き潮の時に船を作って満潮の時に完成した船を海に浮かべることができるが・・・。しかし、そうなると建造途中の船が満潮のたびに海に浸るのか。嵐になれば流されてしまう・・・。どうすればよいのか・・・―――
「・・・長兄?」
清正の声で我に返った重秀は、ただ「いや、なんでも無い」と言って誤魔化した。
安宅船の説明が終わり、今度はフスタ船の説明が始まった。説明をするのは長浜から来た船大工だった。同じ様に絵図を見せながら安濃津の船大工達に説明をした。
説明が終わった後、今度は重秀が補足説明を行なった。
「聞いてもらって分かったと思うが、南蛮船の特徴は大木を使わないで船を作ることだ。日本の船は大木で作ることを前提としていることを考えれば、南蛮船の利点は細い木でもある程度の大きな船が作ることが可能ということだ」
西洋の船の特徴であるキール(竜骨)と船側フレーム(肋材)にプランクと呼ばれる長い横板を外板として貼り付ける造船方法は、大木の育ちにくい地中海性気候や亜寒帯気候の国々の船で取り入れられる造船方法である。
「ということは、船を作るのに適さない大木でなくても南蛮船なら作れるということでございますか?」
安濃津の船大工の棟梁の言葉に、重秀は「そういうことだ」と答えた。一方で、九鬼から派遣されてきた船大工の一人が絵図を見ながら疑問の声を上げる。
「羽柴様、この南蛮船の船底は湾曲しておりまするが、これでは陸地に上げた時にひっくり返ってしまいまする」
九鬼の船大工の言葉に重秀はキョトンとした。
「・・・何故陸地に上げるのだ?」
「嵐を避けるのに船を陸地に上げる必要がございます。また、船底を洗うためにございます」
「船底を・・・、洗う?」
首を傾げる重秀に九鬼の船大工は驚いたような顔で重秀に言う。
「ご存じないのですか?『羽柴の至宝』と呼ばれた方なのに?」
「ご存じないから『羽柴の至宝』なんて呼ばれていない。で?何故船底を洗うのだ?」
過大評価されていることに辟易しつつ、重秀がそう聞くと、九鬼の船大工が説明を始めた。
海には岩礁や海底に付着している生き物が多々いる。例えば海藻やフジツボ、牡蠣などの貝類である。当然これらの生き物は船底にも付着する。これらが付着した船は水の抵抗が増加するため、速度が出なくなったり舵の効きが悪くなったりする。それどころか船体の材木を侵食するため、強度が弱くなって浸水する虞があるのだ。
そこで、ある程度経った船は陸地に上げて船底に付着している生き物を取り除くのである。大体手で取り除くが、しつこい付着の場合はノミで削ったり、軽く火で炙って取り除いたりした。
「・・・だったら、船がひっくり返らないように船側を丸太で支えればよいではないか。建造の時にそうやっていたのを長浜で見たことあるぞ?」
「建造のときは簡単ですが、建造の後は手間にございまするぞ。陸地に上げるか引き潮時に陸地になる所に置くか、どちらにしろ丸太で支えるとなると、人夫達には多大な負担となりましょう」
九鬼の船大工の物言いに重秀は黙ってしまった。結局、その後の話し合いで船底は平面とすることになった。すなわち、『淡海丸』や『細波丸』とほぼ同じ様な船になる、ということになった。
―――船底を洗うために陸に上げるのか。これもまた大変そうだな。潮の満ち引きを利用して引き潮の時に陸地に上げて作業すればよいのだが・・・。駄目だ。完成した船は進水時よりも重くなっているから、よほど深い底が陸地になるようなところで無いと駄目だな。なにか良い方法はないか・・・?―――
そんなことを思っていた重秀に近づいてくる者がいた。信包の小姓の一人で、重秀と連絡を取る係の者だった。彼が重秀の前で片膝を着くと、重秀に報告した。
「申し上げます。殿より皆様へ酒の差し入れがございます」
その言葉を聞いた瞬間、重秀以外の者達の顔に喜びの表情が現れた。重秀が皆に視線を移しつつ、話し始める。
「ああ、もうそんな時か。皆の者、今日の談合はここまでとし、今宵はそれぞれがお近づきとなった証に飲み明かそうではないか!」
秀吉風に声を上げた重秀に、皆が「応!」と返事をした。皆が雑談をしている中、先程の小姓が懐から書状を取り出してきた。
「それと、長浜よりの書状が届いております」
「おお、かたじけない」
小姓から書状を受け取った重秀は、その場で書状を開いて中の文章を黙読した。一瞬だけ顔を顰めると、すぐに書状を畳んで懐にしまった。
「兄貴?どうした?」
正則が声をかけてきたが、重秀は「後で話す」と言うと、すでに酒を飲み始めている皆の輪の中に入っていった。
正則が書状の中身―――勝姫死去の報告を知るのは、次の日の朝であった。
勝姫の訃報を重秀が知ってから数日後、本丸御殿の小広間に、縁と千代、夏と七が秀吉と面会していた。
「各方、勝姫死去にあたって、色々手伝ってくれたこと、この秀吉深く感謝いたす」
そう言って秀吉が頭を下げると、縁達は深々と平伏した。
「さて、皆を呼んだは余の儀にあらず。縁には藤十郎の正室の役目を行なってもらいたい」
秀吉の言葉に、夏と七、そして千代の顔が強張った。一方の縁は首を右に傾げながら秀吉に聞く。
「正室の役目、とは?」
「羽柴の血筋はもはや藤十郎にしかない。儂も頑張っているが、せん以外の女子には全く授からなかった。しかも、せんは此度のことが余程堪えたのだろう。仏門に入ると言ってきた」
縁達が驚きの声を上げたが、秀吉は構わず話を続ける。
「状況が状況故、しばらくは様子を見るが・・・。恐らく翻意はしまい・・・。そうなると、儂も側室をまた探す所から始めなければならぬ。儂ももう歳じゃ。子を授かる可能性は低いじゃろ。その点、藤十郎も縁もまだ若い。これから始めれば、子も多く生せよう」
秀吉の言葉に縁達が互いに顔を見合わせた。そんな中、千代が発言する。
「恐れながら、若君は二の丸殿(縁のこと)が十六になるまで手を出さぬとお決めになっておりますが」
「分かっておる。しかし、羽柴存亡の危機である。藤十郎の我儘を聞いてはおれぬ」
「若君の我儘ではございませぬ。お母上が若君を産んですぐに亡くなられたという事を考えてのことにございまする」
千代はここにいない重秀の想いを秀吉に伝えるが、秀吉は首を横に振った。
「それも分かっておる。儂とて、ねねに無理をさせたことについては忸怩たる思いじゃ。それのせいで藤十郎にも苦労をさせておることもな・・・。夏殿、七殿、お主らに聞きたい」
秀吉が視線を夏と七に向ける。
「縁は子を生すに耐えられるか?」
秀吉の質問に、夏と七が顔を見合わせた。そして夏が答える。
「恐れながら、子を生すこと自体はできまする。しかし、出産となると、もうしばらくかかるかと」
「殿。焦る気持ちは分かりまするが、どうかご自重あるべし。二の丸殿が今、子を生しても赤子が弱くて早死すれば、殿のご本意ではないかと」
夏に続いて七もそう答えると、秀吉は両目を瞑って考え込んだ。少し経って秀吉の口が開く。
「・・・相分かった。縁の身体については乳母共に任せる。しかし、正室の役目は子を生すだけではない」
秀吉がそう言うと、縁がまた首を傾げた。夏と七が互いに顔を見合わせた側で、千代が何かに気がついたような顔をした。そんな中、秀吉が縁を見ながら話を続ける。
「縁よ。藤十郎の側室を決めよ」