第87話 戦間期のお仕事
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天正五年(1577年)四月上旬。重秀は福島正則、加藤清正、石田正澄、加藤茂勝(のちの加藤嘉明)、大谷吉隆(のちの大谷吉継)を連れて菅浦に来ていた。
「はー。久々に船に乗ったな。ここんところずっと百人一首を覚えさせられてたから、頭の中が疲れていた。やっぱり船は良い」
重秀が船から上陸すると、その場で大きく体を伸ばしながらそう言った。側で聞いていた清正が声を掛ける。
「馬での遠乗りすらもできませんでしたからな。小谷城へ向かうことも気分転換になりましたものを・・・」
「長浜城では、二の丸殿(縁のこと)が連れてきた侍女達が、今年から養蚕に参加されます。若君はその方々の指導も行っていましたからな。中々長浜城から外に出られる事はできませんでしたからな」
「それだけじゃねぇぜ。殿さんやおじさん達、小六さん(蜂須賀正勝のこと)や将右衛門さん(前野長康のこと)、半兵衛さん(竹中重治のこと)まで調略で播磨や但馬に行って、兄貴が留守居役として領内の務めを行なっているからな・・・。こういう時は残っているあの佐吉(石田三成のこと)も役に立つってもんだ」
清正に続いて正澄や正則も話しかけてきた。そんな重秀達に、菅浦の乙名衆が近づいてきた。
「ようこそ、若君。先日はお披露目の宴に我等乙名衆を呼んでいただき誠に有難き幸せにて。しかも、土産を持たせていただき、恐悦至極にごさいまする」
乙名衆を代表して、最年長の土田が重秀に話しかけてきた。
「土田か。出迎え大義。で、今日の会合はどこでやるんだ?」
重秀がそう言うと、土田が答える。
「はい、安相寺にて行いまする」
「相分かった。では向かおうか」
重秀の言葉で皆が一斉に安相寺へと歩き出したのだった。
菅浦の安相寺は湖北十ヶ寺の一つである福田寺の末寺の一つである。今日はこの寺で重秀と乙名衆の話し合いが持たれていた。
「菅浦での養蚕があまり捗っていないようだな?」
「正直、材木の切り出しと油桐の増産で手一杯でして。男衆が不足している以上、新たな事に人手をつぎ込めませぬ」
重秀の質問に対して土田がそう答えた。土田の言う通り、菅浦では周囲の山からの材木の切り出しと、切り出された木の代わりに油桐が植えられていた。
というのも、安土城の築城と安土城下町の建設に使う材木が不足しており、菅浦の木々まで切り出して安土に送っている状況なのだった。そして、切られた後は放っておくと土砂崩れを招く恐れがあるため、木を植えて山肌を保護するのだが、桐油もまた不足しているため、油桐の苗を植えて育てているのだった。
油桐の実から取れる油―――桐油もまた、安土城や城下町の建築に使われていた。桐油は防腐剤としてニスのように材木に塗られていたし、日没後の作業や職人たちの酒盛り場の明かりの油として需要は高かった。そして、紙早合や紙かっぱ、船の防水材としても需要があったため、例え口にできない有毒な油だとしても大量に必要とされていた。
「うーん。それならいっそ油桐だけに特化させるか・・・」
重秀がそう呻きながら言うと、土田は首を横に振りながら話す。
「とは言え、油桐は一度植えてしまえば後は実がなるのを待つだけですし、その実になるまでは時間がかかりますれば、その間の繋ぎとしての養蚕は有りだと存じますが・・・」
「では、安土城の完成まで、養蚕は延期しようか」
「そうして頂けるなら我等も助かります」
養蚕や油桐について話は終わり、次の話題に移っていく。
「・・・家という家の床下の土を納めよ、ですか?」
土田は重秀の言葉を繰り返すように聞いた。周りにいた乙名衆もポカンとした顔になっていた。
「うん、特に古くから建っていて、ここ十年建て替えを行なっていない家が望ましい。それと、神社仏閣の土は特に欲しい。確か、一度も建て替えてないんだろう?」
「いえ、昔に火事になって立て直した寺は何軒かございまするが・・・。ああ、でも最近の火事でも十年ほど前になりますから、何とか土は提供できまする。しかし、一体何にお使いで?」
土田がそう言うと、周りの乙名衆も興味深い顔つきで身を乗り出してきた。なんと言っても目の前にいる若者は、突拍子もない事を言ってはくるが、それによって菅浦が少しづつ豊かになっていくのだ。今回もそんな類いの話なのでは?と興味を惹かれるのは当然であった。
しかし、重秀は苦笑しながら首を横に振った。
「いやいや。ちょっと試したいことがあってね。残念だけど、菅浦の銭にはならないんじゃないかな?」
「はあ、それは残念でございます」
「んで、申し訳ないんだけど、土を取った後の穴には、蚕の糞と藁と蓬、それと尿を混ぜた物を埋めてほしいんだけど」
「はあぁ!?」
重秀のとんでもない言葉に、土田だけではなく乙名衆全てが声を上げた。
「わ、若様。何故そのようなものを・・・?」
「ちょっと試したいことがあってね。何、臭いがせぬよう、前の土を上にかぶせるから大事無いと思う。それを十年間、何があっても掘り返さないで欲しいんだ」
「は、はあ」
ますます訳が分からない、という顔つきの乙名衆達。しかし、重秀の言葉に今まで悪いことはなかったので、重秀の提案を受け入れることにした。
重秀と乙名衆の話し合いは、二刻ほど行われた。といっても、仕事の話は一刻半で終わり、残りは菅浦の歴史や惣について、乙名衆へ重秀が質問をしていた。菅浦の独特な歴史は重秀の興味を引いていた。特に、惣掟や自裁断のやり方が他の村に伝わるやり方と違っていたので、それを興味深く聞いていたのだった。
そういった話が終わった後、乙名衆は各々の家に戻ったが、重秀達は安相寺で少し休憩することとなった。
「失礼します。お茶をお持ちいたしました」
部屋の外から安相寺の住職の声がしたので、正則が刀に手をかけながら襖の近くに立つ。そして「入れ」と声を掛けた。
襖が開き、まずは住職が入ってくる。次に壮年の僧と、稚児(寺に居る剃髪していない修行中の男児のこと)と言うには幼すぎる子供が入ってきた。壮年の僧が人数分の茶碗を乗せた盆を持ち、稚児は竹でできた入れ物に花を挿して持ってきた。
壮年の僧は襖の近くで刀に手をかけた正則を見て、一瞬だけ殺気を含んだ視線を正則に投げかけたものの、すぐに視線を茶碗を乗せた盆に移した。
「おお、和尚殿。世話になったな」
住職が重秀の前に座ると、重秀がそう挨拶をした。住職が微笑みながら答える。
「いえいえ。若君のおかげで、菅浦は穏やかな村と相成りました。これも阿弥陀如来の思し召しと存じまする」
安相寺は一向宗の寺である。それ故、御本尊は阿弥陀如来となる。
「ときに和尚。その僧と稚児は見ない顔だな?」
重秀がそう言うと、壮年の僧は一瞬だけビクッと身体が反応したかのように見えた。それは他の者もそう言えたらしく、清正が横に置いてあった刀を掴んでいた。
「ああ、この者達は福田寺より遣わされた者達にございまする。これ、挨拶をしなされ」
和尚がそう言うと、和尚の隣りに座っていた壮年の僧と、その斜め後方に座っていた稚児は黙って平伏した。
「ささ、早う茶を差し出しなさい」
住職の言葉に対し、壮年の僧は黙って重秀に茶を差し出した。と同時に、稚児が花が挿された竹の入れ物を持って立ち上がった。直後、正澄が鋭い声を上げた。
「待て、そこの稚児。それを持ってどこへ行く」
正澄の声に稚児はビクッっと反応すると、怯えた様子で正澄の方を見た。清正が片膝を立てた状態になって、刀の柄に手をかけた。茂勝や吉隆も清正と同じ体勢になった。
「お待ちくだされ。そこの陽丸は花を床の間に飾ろうとしただけにございまする」
住職が穏やかな声でそう言ったものの、重秀の除いた全ての者が体制を崩そうとしなかった。そんな中、重秀が落ち着いた声で皆に言う。
「皆、落ち着け。もてなしてくれた和尚に無礼であろう。・・・とはいえ、初めて会う稚児にあまり私の周りを彷徨かれても皆が困惑する。虎、悪いがその稚児から花を受け取り、床の間に飾ってくれないか」
重秀の提案に、住職が「若君のご判断、恐悦至極」と言って平伏した。清正が稚児の側に来て、竹の花入れを受け取ると、床の間に飾った。稚児が再び座って平伏した。
「では、ごゆるりと」
そう言って住職達が部屋から出ていった。重秀が茶を飲もうと茶碗に手を延ばしたが、横から吉隆が茶碗を取っていた。
「若君。まずは私めが毒味を」
そう言って茶を一口飲んだ。少し経ってから吉隆が重秀に言う。
「良いお茶にございまする。毒はないかと」
「そうか」
そう言うと重秀は改めて茶碗を取ると、作法に従って飲んだ。出されてからだいぶ時間が経つのに、飲みやすい温度になっていた。
「・・・このお茶を入れた者は毒味の時間まで計算していたようだな」
重秀の感想に、皆が驚いたような顔をした。そして各々が茶碗に手を伸ばして茶を飲んだ。確かに、重秀の言うとおりであった。
こうして、重秀達は美味しい茶を堪能し、満足げな表情で菅浦を後にしたのだった。
重秀が去った後、安相寺では住職と茶碗を運んだ壮年の僧が後片付けをしながら話し合っていた。
「あれが羽柴筑前の嫡男ですか」
「うむ、この菅浦のために善くして頂いている。そなたも思うところがあると思うが、事を荒立てようなことはするなよ」
「分かっておりまする。それがし・・・、いえ、拙僧はただ万菊様をお守りするのみにございますれば」
「若君を始め、来た者達全てが万菊・・・ではなく陽丸を気にしていなかった。むしろ、そなたを気にしていたぞ。あんな風に殺気を出せば、そなたから陽丸のことが露見するぞ」
「・・・申し訳ございませぬ」
「僧になった以上、阿弥陀如来におすがりし、俗世のことは忘れよ。そして、亡くなられたご主君とその長子を弔うのだ。そうすれば、陽丸は生き残れようぞ」
「・・・はっ」
壮年の僧はそう返事をすると、洗った茶碗を箱にしまい始めるのであった。
それから幾日が経って、安土に居る秀吉から呼び出しがあった。但馬、播磨の調略を行なっていた秀吉は、その経緯を織田信長に伝えるべく、一旦播磨の姫山城から安土に戻っていたのだ。
正則と清正と共に羽柴屋敷に到着した重秀は、秀吉に挨拶をすると、そのまま安土城に連れて行かれた。
信長が住む予定の天主は未だ完成していないものの、その骨組みはほぼできており、その巨大さは完成前から周囲を圧倒していた。そんな天主を尻目に、秀吉達はすでに完成している本丸御殿の小広間にやってきた。大広間もあるのだが、ここは立入禁止になっていた。
秀吉達が小広間に入ると、上段の間には信長が座っており、すぐ近くの下段の間には、左右に分かれて織田信忠と織田信包が座っていた。
「羽柴筑前、藤十郎を連れて罷り越しました」
秀吉と重秀が信長の面前で平伏しながら挨拶をすると、信長から「大義」という言葉がもらえた。そしてすぐに信忠が話し始めた。
「藤十郎、そなたを呼んだは余の儀にあらず。今度、安濃津で安宅船と南蛮船を作ろうと思っている。その事はすでに三十郎叔父上に父より命じられておる。藤十郎には、その手伝いをしてもらいたい」
「はっ、承りました」
信忠の話にすぐに返事をした重秀。本音を言えば、長浜城の留守居役を放り出して安濃津まで行くことに抵抗があった。しかし、隣にいた秀吉が何も言わないところを見ると、すでに話がついているのだろう。ここは従うしかなかった。
「うむ。良き返事ぞ。安濃津で作られる安宅船は右馬允(九鬼嘉隆のこと)や伊予守(滝川一益のこと)が作っている大きな安宅船とすること。南蛮船は関船として作ること。良いな」
信忠の注文に対して、重秀は「ははぁ!」と言って平伏した。後は具体的な訪問の日にち等を決めて話し合いは終わった。
「上様、殿様。それがしと藤十郎は一旦長浜へ戻りまする。安濃津へは藤十郎とその家臣、長浜の船大工を数名を送ります故、上総介様(織田信包のこと)、どうぞよろしくお願い致しまする」
そう言って秀吉が平伏すると、重秀も平伏した。その後、秀吉と重秀はそそくさと信長の前から退去していった。
安土城内にある羽柴屋敷に戻った秀吉と重秀は、屋敷にいた竹中重治と蜂須賀正勝、前野長康と一室で話し合いを持った。
「父上、小一郎の叔父上がおりませぬが?」
重秀が長浜から安土の羽柴屋敷に入った時から気になっていたことを聞くと、秀吉は「ああ、姫山城に居る」と答えた。
「実は毛利勢が播磨と備前の国境を超えてきてのう。上月城を拠点に小寺領へ侵攻しておる。姫山城がその最前線じゃ。官兵衛(小寺孝隆、のちの黒田官兵衛のこと)が姫山城から出られぬよって、播磨での調略と監視を任せたのじゃ」
「監視ですか?」
重秀が首を傾げながら聞くと、今度は重治が咳をしながら答える。
「小寺加賀守(小寺政職のこと)が毛利に寝返る虞がございますれば、小一郎殿に小寺の監視をお願いしてきたのです」
咳をしながら答える重治に、重秀が心配そうな目で重治を見つめた。
「半兵衛殿、体調がよろしくないようですが・・・?」
「儂等もそう思って休むよう言っておるのだが、全く聞きやしない」
重秀の言葉に秀吉が反応して不満げに言った。重秀も重治に休むように言おうとしたが、先に重治が話し出した。
「いえ、大事ありませぬ。行きと帰りに湯山にて湯治を行いました故、咳は出ますが体調は良い方でござる」
湯山とは摂津国有馬郡にある温泉のことである。日本書紀にはすでに書かれているほど歴史の古い温泉地であり、のちに有馬温泉として国の内外に知られるようになる。
「なら良いのですが・・・」
重秀がホッとしたような声を出した。重治の話はまだ続く。
「それで思い出したのですが、帰りに寄った湯山にて由々しき噂を聞きました」
「噂?噂とは?」
秀吉がそう聞くと、重治が声を潜ませながら言う。
「荒木摂津守様、謀反」
重治がそう言った瞬間、秀吉達が「なっ!?」と驚きの声を上げた。重治が話を続ける。
「どうも、毛利の間者が荒木摂津守様と接触をしているようでござる。それに、本願寺方面では荒木勢の動きが鈍くなっております」
「じゃ、じゃあ荒木の野郎が毛利側に寝返るってのか?」
「そう考えるのはいささか早計ではないか?そもそも、湯山は京からも多くの人が湯治に来る温泉場。そんなところで毛利の間者が彷徨くものかな?」
正勝の言葉に長康が疑問を呈した。それを聞いた秀吉が口を開く。
「・・・もしかしたら、敵の離間の計やもしれぬ」
「離間の計・・・。摂津守様が毛利に寝返るという噂を広めて、上様に摂津守を討たせるということですか?」
秀吉の意見を聞いた重秀がそう尋ねると、秀吉は頷いた。
「うむ。上様は摂津守に疑念を持っておられる。柴田様より摂津守や霜台(松永久秀のこと)が本願寺との戦に消極的なことを報せる文が上様の下に届いている、ということを久太(堀秀政のこと)から聞いているからのう。
ここで、上様の耳に摂津守謀反の噂が入れば、上様は、まあ討伐はせぬだろうが、人質を寄越せぐらいは言うだろうな・・・。いや、むしろ名物を寄越せかな?」
「それに、摂津にその気がなくても他の者・・・例えば摂津の国衆や摂津西部の一向門徒達が毛利に寝返るよう、摂津守様を突き上げるやもしれませぬ。摂津守様の足元は意外と弱いですからなぁ」
秀吉に続いて重治も自分の意見を言った。
重治の言うとおり、荒木村重の摂津支配はそれほど強固なものではない。というのも、元々村重は摂津を支配していた有力な国人である池田氏に仕えていた。しかし、池田家で内紛が起きると、池田家の姫を妻にしていた村重はこの状況を最大限利用してライバルを蹴落とし、また三好三人衆や足利義昭、織田信長といった外部の力と結び付くことで勢力を拡大。とうとう主家たる池田家を乗っ取ることに成功したのだった。その後、信長の推挙によって摂津守を授かっている。
そういう訳で、急激に摂津の支配者となった村重であるが、急激すぎたせいか摂津の他の国衆や民衆からの支持がほぼない。摂津が元々国衆の独立が強いところであることから、信長の威光を笠に摂津を支配しようとする村重は国衆からは嫌われていた。村重を支持している国衆は中川清秀と高山重友ぐらいなものである。
「・・・ふむ、国衆や一向門徒の支持を目当てに毛利方に寝返る恐れがあるか。相分かった。この事、上様に言上しておこう。小六、すまぬが摂津の方を探っといてくれ」
秀吉がそう言うと、皆が一斉に頷いた。と同時に、重秀が発言する。
「父上。『琵琶湖の鯨』で高槻城の高山様とは繋がりができました。高山様をこちらに引き寄せておけば、万が一の時にはこちらが有利となりませんでしょうか?」
重秀の発言に、秀吉が膝を打つ。
「おお、それは良き考えぞ。よし、高山殿への調略は将右衛門に任せよう。同じキリシタン同士じゃ。お互い話しやすいであろう」
秀吉がそう言うと、長康は「承りました。お任せください」と言って頭を下げるのであった。




