第84話 紀州遠征(前編)
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天正五年(1577年)二月二日。織田信長は雑賀衆のうち、三緘衆と呼ばれるグループを寝返らせることに成功。これをもって雑賀衆のうち本願寺に兵を出していた雑賀荘と十ヶ郷の2つの反信長グループを攻撃することとなった。
二月八日。事前の打ち合わせどおりに近江にいた大名、国衆が兵を率いて安土城下に集結。当然秀吉率いる羽柴勢も安土城に到着していた。この時の羽柴勢の兵数は不明ながら、恐らく3千人から4千人の間ぐらいと思われる。そして、これらを率いる武将もまた、長浜城の留守居役である杉原家次と、山本山城の留守居役である小堀正次、小谷城跡の管理を任されている加藤教明以外の全ての武将が参加していた。そしてその中には、重秀も加わっていた。
二月九日。信長が率いる近江勢が出陣。一路京に向けて進軍を開始した。同じ頃に織田信忠率いる尾張勢、美濃勢が岐阜城を出陣。同じく京に向けて進軍を開始した。
途中で信長は、明智光秀率いる明智勢と柴田勝家率いる柴田勢とも合流している。
二月十三日、京に信長の勢力下にあった大名たちが次々に兵を率いて集結した。北畠信意(のちの織田信雄)、神戸信孝(のちの織田信孝)、謀反を起こした細野藤敦と和議を結んだ織田信包ら伊勢勢を始め、畿内、越前、若狭、丹後、丹波、播磨の兵も合流してきた。そして信長はこれら集まった兵力10万を率いて京を出発した。
信長の進軍はゆっくりとなされた。おそらく、他方面で何かあった時に備えたのではないだろうか。二月二十二日に和泉国志立(信達とも)に本陣を張った。この時に根来衆や三緘衆の軍勢とも合流している。
その後、信長の軍勢は二手に分かれて進軍を開始した。攻撃目標の雑賀荘、十ヶ郷は現代の和歌山県和歌山市の海沿いの地域である。そこで、信長は志立より海岸沿いに進む浜手と三緘衆の支配地域を進む山手の二手に軍勢を分けたのである。このうち、山手の方に羽柴勢は配属された。他には柴田勢、堀秀政率いる堀勢、荒木村重率いる荒木勢、播磨の国衆である別所長治とその叔父の別所重宗が率いる別所勢、そして道案内として三緘衆や根来衆が参加していた。
二月二十九日。この日、山手の内部では秀吉と勝家が諍いを起こしていた。
「柴田様!儂はお主の策には反対じゃ!下調べもせずに雑賀川を渡るなど、正気の沙汰じゃない!」
「何を言うか!浜手の連中はすでに中野城を落としておる!ここは一刻も早く川を渡り、弥勒寺山城を攻め落とすべきじゃ!」
「阿呆か!川の対岸には数多くの砦もあるんじゃ!川をのこのこ渡ってみろ!砦という砦から鉄砲が火を吹くわ!」
「臆したか猿!数を頼りに川を押し渡れば、数の少ない雑賀の兵など、揉み潰してくれるわ!」
「雑賀衆は戦巧者揃いじゃ!数を頼みに川を渡ることなどとっくに分かっておるわ!きっと川に細工を仕掛けてくるはずじゃ!だから川を調べろと申しておるのじゃ!」
「そんな時はない!猿!貴様、儂が上様の義弟だと知っての無礼か!?」
「それがどうした!うちの息子は上様の女婿じゃあ!」
「お、叔父上、止めなくてよろしいのですか?」
本陣で言い争いをしている秀吉と勝家を目の前にして、軍議に参加していた重秀は思わず隣で座っている小一郎に話しかけた。秀吉と勝家だけではない。秀吉の家臣や勝家の家臣の間にも不穏当な空気が流れ始めていたのだ。特に、蜂須賀正勝と佐久間盛政は今にも相手に掴みかからんとしていた。
それに対して、小一郎はのんびりとした口調で重秀に言う。
「まだだな。二人共、頭に血が上っておる。ここは二人が冷静になるまでもう少し様子を見る」
「とは言え、そろそろ止めないと、あそこにいる若武者が不安そうな顔をしておりますぞ。三緘衆や根来衆の連中も、不安そうに見ております」
重秀と小一郎の会話に入ってきた秀政がそう言うと、小一郎と重秀は若武者の方に視線を向けた。視線の先には、播磨の大名、別所長治が不安そうな顔で秀吉と勝家の言い争いを見つめていた。ちなみにこの時の長治は数え歳で20になっていた。
「ふむ、致し方ない。もう少し疲れるまで待ちたかったんだが・・・。久太殿は柴田様を、儂と藤十郎で兄者を押さえる」
「えっ?私もですか?」
小一郎に名指しされた重秀が驚いて聞いた。小一郎が秀吉を見ながら言う。
「お前も兄者・・・ではなく父親を諌められるようになってもらわないと。儂も山本山城にいることが多く、兄者の側にはおれぬ。半兵衛殿や小六殿だけではなく、お前にもやってもらわないといけないこともあろう」
「わ、分かりました」
重秀がそう言うと、小一郎が「よし、行こう」と言って床几から立ち上がると、
「お二方!そろそろおやめ下され!」
と言いながら秀吉と勝家に近づいていった。同時に秀政や重秀も近づいた。
「なんじゃ!何しに来た!儂になにか言える立場か!?」
勝家が興奮しながら秀政に怒鳴ると、秀政は肩をすくめながら勝家に言う。
「やれやれ。上様の側で久しぶりに戦えて興奮するのは分かるんですがね、少しは抑えなさいな。あまり筑前殿を猿だ何だと侮辱いたしますと、軍の和を乱したとして上様に報告いたしますが、それでもよろしいですか?」
秀政の言葉に勝家は黙り込んだ。一方の秀吉も、小一郎と重秀に止められていた。
「兄者。播磨の別所様の前であまり醜態を晒すな。播磨の調略の際には別所様のお力添えが必要になるんじゃ。兄者の品位を疑われるぞ」
「父上、上様の縁者同士が争えば、別所様だけではなく、三緘衆や根来衆の方々からも織田への信頼が失われていきまする。ここは抑えて下さい」
二人にそう諭された秀吉もまた、おとなしくなった。秀吉と勝家は、お互いの床几に座ると、冷静に話し合った。
「筑前。浜手の軍勢が中野城を落とした以上、歩調を合わせねばならぬことは分かっておるな?」
「もちろんにござる。しかし、中野城の先には紀の川が横たわっており、その先にも砦は築かれております。ここは、浜手の軍勢が紀の川を渡河した時に歩調を合わせるべきでは?」
秀吉の提案に勝家は顎を右手で撫でながら考え込んだ。そして視線を秀政に向ける。
「久太郎、どう思う?」
「筑前殿の提案に賛成いたします。さらに付け加えれば、事前に雑賀川の渡河地点を探る必要があるかと。その程度なら我ら堀勢が行いまするが」
秀政が提案すると、秀吉が口を挟んできた。
「あいや待たれよ。久太よ、お主の兵力は少ない。それならば我が羽柴勢が行おう」
「いえいえ、羽柴勢は弥勒寺山城や雑賀城の攻略に必要な主力部隊。そして柴田勢も同じです。ここは我らにおまかせを。こう見えても逃げるのは得意ですから」
秀政と秀吉が言い合っている間に、勝家が割って入る。
「久太郎の言う通りだ。猿、いや筑前よ。ここは久太郎の言葉に甘えようではないか」
勝家の言葉に秀吉は渋った。そんなときだった、秀吉達に声を掛ける者がいた。
「堀勢の援護、この別所勢にお任せ願いたい!」
皆が声の主の方へ向けた。そこには、床几から立ち上がり、両手を握りしめた若武者―――別所長治がいた。隣にいた叔父の重宗も共に立ち上がっていた。
「あいや、別所殿には後方で控えていただきたいと・・・」
秀吉がそう言うと、長治はその場で片膝を付いて跪いた。
「我ら別所勢、内府様(織田信長のこと)のお役に立とうと播磨の三木より出張ってまいりました。ここで何もせずに帰れば、別所の名折れになりまする!何卒、出馬の下知を!」
長治の必死の願いに感動したのか、勝家が声を上げる。
「おお!よくぞ申された!別所殿の心意気、この柴田修理亮、確かに承った!久太郎!良いな!」
勝家がそう言いながら、秀政の顔に自分の顔を近づけながら言った。むさ苦しい顔を近づけられて、嫌そうな顔をしながら「はあ、まあいいですけど」と答えた。
「あの・・・、父上」
重秀がそう声を上げた。呼ばれた秀吉だけではなく、勝家や秀政、長治までもが一斉に重秀に視線を向けた。重秀はビビりながらも秀吉に自分の考えを述べた。
「恐れながら、渡河地点は堀様が探る場所だけではありますまい。雑賀川は北は紀の川との分岐から、南は和歌の浦まで長い距離を流れる川。渡れる場所は少なくないものと思われます。ならば、そういった地点を一斉に調べれば、敵は渡河地点を絞ることはできませぬし、兵を集中できなくなります。味方の兵力は多数で敵の兵力が少数ならば、敵兵力の分散を強要でき、味方への妨害がより少なくなります」
重秀がそう言うと、秀吉が「おお、それは良き考えぞ!」と言って喜んだ。秀吉が勝家に顔を向ける。
「柴田様!我が羽柴も堀勢以外の渡河地点を調べることをお許し願いたい!」
秀吉の提案に勝家はしばし考えた後、「相分かった。柴田勢も探るとしよう」と述べた。これで今日の軍議は終わり、各部隊が渡河地点の調査に赴く準備に移った。
羽柴の陣に戻った秀吉は、家臣や与力を集めて渡河地点の調査についての詳しい指示を出した。皆がそれを聞いて準備に取り掛かっている間、秀吉は重秀と小一郎を呼んだ。
「いやあ、さっきはすまなんだ。二人と久太に宥められていなかったら、儂は軍勢をまとめて長浜に帰っているところだったわ」
秀吉の言葉に重秀と小一郎がギョッとした。
「父上、そのようなことをすれば、上様のご不興を買いまするぞ」
「藤十郎の言うとおりじゃ。しかも上様が近くにいるのじゃ。目の前でそんな事してみろ。上様の面子丸つぶれじゃ。兄者一人の首では済まされんぞ」
重秀と小一郎の言葉に秀吉は苦笑いを浮かべながら「いやぁ、すまんすまん」と言って謝った。しかし、すぐに真面目そうな顔つきになると、重秀と小一郎に話す。
「しかし、柴田様の好戦的な態度は何とかならんのか。あれでは、羽柴の兵の命がいくつあっても足りぬぞ。こちらは毛利や上杉に対応せねばならぬと言うに」
「聞けば、柴田様の兵力も減りつつあると聞いたがの」
小一郎がそう聞くと、秀吉は頷いた。
「当然じゃ。柴田様だけではない。荒木摂津殿や松永霜台殿、それに河内の池田殿も柴田様の無茶振りで兵力を減らしておる・・・。まあ、それ以上に本願寺も兵力を減らしているみたいだが、紀州から兵力を補充しとるからのう。それに、各地の一向門徒が我等の目を掻い潜って石山に集結しておる」
秀吉がそう言ってため息をついた。さらに秀吉が話を続ける。
「それにしても、別所の目の前で柴田様と喧嘩したのはちと不味かったかの。織田家中で揉め事があると分かれば、別所は織田を見限るやもしれぬ」
「それはないじゃろう。どこだって家臣が軍議で言い争うことなどよくある話じゃろう。別所もそう思うに違いないって」
「だといいんだがのう・・・」
小一郎の楽観的な考えに、秀吉の表情は相変わらず硬いままだった。しかし、すぐに気を取り直すように話す。
「ま、別所については今はええじゃろう。それよりも、藤十郎よ」
秀吉がそう言いながら視線を重秀に送る。重秀は姿勢を正すと「はい、父上」と答えた。秀吉が話を続ける。
「明日の早朝、お主にも渡河地点の探りをしてもらうが、自ら行おうとするなよ。大将として、部下を使うことだけを考えるのじゃ。よいな」
「仰せには従いまするが・・・。実際に私めも渡河をしてみないと分からないのでは・・・?」
「阿呆。なんでも自分でしようと思うな。まあ、若い故、何でも試したくなる気持ちは分かる。しかしな、お前は羽柴の跡取りじゃ。しかも兄弟がいないのじゃ。あまり父を困らせるようなことはするな。今回は控えよ」
本気で心配そうな顔をしながら言う秀吉に、重秀は強く反論できなかった。隣で話を聞いていた小一郎が秀吉に話しかける。
「一応、目付として誰かをつけといたほうが良いんじゃないか?」
「おお、では半兵衛をつけるとするか。藤十郎も半兵衛の言うことは聞くからのう」
小一郎と秀吉の会話を、重秀は渋い顔をしながら聞いていたのだった。
次の日の早朝。日が昇り始め、辺りが明るくなり始めた頃、秀政率いる堀勢の騎馬武者達が雑賀川西岸のある地域に集結していた。そこから川を渡り、対岸へ至る経路を確認するためである。
偵察を開始しようとしている堀勢の本陣に、別所長治が叔父の重宗を連れて入ってきた。秀政が目の前の絵図から視線を外さないで長治に話しかける。
「やあ、別所殿。わざわざのお運び、かたじけないね。貴殿の援護があれば、なんとか生き残れそうだ」
秀政の軽い口調に面食らいながらも、長治は秀政に話しかける。
「いえ、播磨の山奥から来たのです。少しは手柄を立てないと、上様に面目が立ちませぬ」
「うん、そうだね。では俸禄分の仕事をしますか。長治殿、鉄砲は如何ほど持ってきています?」
秀政が視線を長治に移してそう聞くと、長治は申し訳無さそうに答える。
「・・・五十ほど」
「それだけあれば十分だよ。では鉄砲隊を河岸に並べといて。大盾を忘れないようにね。ああ、三右衛門(堀直政のこと)に竹束を作らせてあるから、持ってっていいよ」
秀政の指示に長治は「承知した」と答えた。その時だった。本陣に複数の鎧武者が駆け込んできた。秀政が物見に出していた馬廻衆だった。彼らがそれぞれ報告する。
「申し上げます。北側に布陣していた羽柴勢、渡河を始めた模様!」
「同じく、南側の柴田勢も渡河を始めました!」
馬廻衆の報せに長治が驚いた。
「渡河を始めただと!?渡河地点を調べるのではなかったのか!?」
「実際に人を渡らせて川中に罠がないか探らせてるんでしょう。引き続き、羽柴と柴田の様子を探っといてくれ」
秀政がそう命じると、馬廻衆達は本陣を飛び出していった。
「どうやら、我々も急がないと敵の分散を強いることができなくなるね」
秀政がそう呟くと、長治が何かを思い出したかのような顔つきになった。長治が秀政に聞く。
「そう言えば、昨日その策を言った若武者がおりましたが、あれは誰ですか?」
「ああ、あれは羽柴藤十郎。筑前殿のご子息ですよ」
「えっ!?全然似てませんが!?」
長治がそう言って驚いた。重宗も声には出さないが驚いた表情を顔に浮かべた。秀政が声を小さくして言う。
「母親似だと聞いています。あまり本人の前では言わないように。幼少の頃から言われてますからなぁ」
「はあ・・・。あ、ということは、内府様の女婿というのは・・・?」
「藤十郎のことですよ。去年、祝言を挙げたばかりです」
実は娘は信長の姪で養女だ、とは秀政は言わなかった。戦場で余計な話をしている暇はないのだ。
一方、長治はもう少し重秀の、というより羽柴の情報を聞いておきたかった。播磨の大名で明確に織田側についているのが別所と小寺である。その小寺の家老である小寺孝隆から播磨の調略に羽柴筑前なる者が行なっていると聞いた長治は、羽柴との付き合いについて見極める必要があったのだ。
―――ふむ、羽柴は織田家から姫を貰うほどの家なのか。百姓出だと聞いたが、侮れんな―――
そう思っている長治に、秀政が話しかける。
「それでは、我らも渡河地点の調査を始めましょうかね」
こうして秀政と長治は、弥勒寺山城に近い渡河地点を探るべく、陣を出るのであった。




