第82話 危機への道筋
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天正四年(1576年)十一月二十日。本多正信が牛や猫など、羽柴から貰ったお土産を連れて関ヶ原を東に向かっている頃、秀吉率いる羽柴勢は長浜城を出発。北陸街道を南下、途中で中山道に入ると西へと進軍した。ここまでは兵たちは本願寺攻めであるということを信じ切っていた。しかし、途中の伊勢へ向かう街道(のちの御代参街道)への分かれ道に差し掛かった時、秀吉から下知が飛んだ。
「これより、日野城を経由して東海道に入り、鈴鹿を超えて伊勢に向かう!目標は安濃津城!敵は三瀬にあり!」
進路を西から南に変更した羽柴勢は日野城で一泊すると、日野城に居た関盛信と合流。翌二十一日には東海道に入り鈴鹿峠を突破。伊勢亀山城に入って一泊。二十二日に亀山城を出発すると、その日には安濃津城に入った。ここで秀吉と重秀は織田信包を始め、神戸信孝などの諸将と今後の打ち合わせを行った。
そして二十五日。のちに三瀬の変と呼ばれる北畠一門への粛清が始まった。北畠不智斎(北畠具教のこと)とその四男、五男及び家臣14名が殺害、その他家人30数人も殺害された。
一方、北畠信意(前の北畠具豊、のちの織田信雄)の居城田丸城でも、信意に呼び出された長野具藤(具教の次男)、北畠親成(具教の三男)、坂内具義(具教の娘婿)ら北畠一門及びその家臣を殺害した。結局生き残ったのは、信意の義理の父である北畠具房と、庶流の田丸直昌であった。
さて、北畠側も黙ってはいない。生き残った家臣や一族は長年北畠家の本拠地であった霧山城へ向かうと、城代であった北畠正成を中心に籠城した。そこで、信意を中心に、羽柴勢、神戸勢、関勢をまとめた兵数1万5千の織田軍が霧山城を攻めた。
重秀は十五歳ということもあり、最前線に行かされることはなかったが、ここで岩崎城では経験できなかった山城の攻防戦を実戦で味わうこととなった。また、分部光嘉や関盛信といった伊勢の武将とも繋がりを持つことができた。やはり信長の、そして信包の女婿という立場が伊勢での繋がりに役に立ったようである。
さて、戦が終わり重秀は長浜城に戻って縁と甘い新婚生活の続きを、というわけにはいかなかった。三瀬の変の最中に信長が正三位内大臣に就任。と同時に信忠も秋田城介に任じられた。そして信長や信長直属の小姓や馬廻衆、鉄砲組や槍組といった足軽衆が安土に移ったのを機に、尾張と美濃のほぼ全ての織田家家臣や国衆が信忠の指揮下に組み込まれた。後世で言うところの『信忠軍団』である。さらに織田家の家督も譲られ、織田家の当主は形式上信忠となった。
余談ではあるが、少し後には柴田勝家を中心とした『柴田軍団』または『大坂方面軍』が、佐久間信盛を中心とした『佐久間軍団』または『北陸方面軍』ができる。
そんな訳で、重秀は十二月の中旬頃に信忠への土産を牛や人夫に引かせつつ、岐阜城へやってきた。岐阜城本丸御殿の大広間、今は信忠が座っている上段の間に昔は太刀持ちの小姓として信長の後ろで控えていたことを懐かしさを覚えつつ、重秀は信忠に拝謁していた。
「殿様の此度の岐阜城主就任および正五位下秋田城介に任官いたしましたる段、誠に祝着至極!この羽柴藤十郎重秀、父羽柴筑前守秀吉に成り代わり、謹んでお慶び申し上げ奉りまする。そして、父共々、より一層の働きをお約束申し上げ奉りまする」
そう言って深々と平伏する重秀。その周りには側近の斎藤利治を始め、河尻秀隆、池田恒興、元助親子、森長可が侍っていた。上段の間に座っていた信忠がニコニコ顔で重秀に話しかける。
「藤十郎、大義!先の霧山城の戦いでは羽柴勢は骨を折ったと聞いた。我が弟を手助けしてくれたこと、礼を言うぞ」
「ははぁ!有難き幸せ!」
一旦頭を上げていた重秀が再び平伏した。その様子を見ていた利治が、視線を信忠に移すと、うやうやしい口調で信忠に話しかける。
「殿、羽柴殿より祝いの品の目録が届いております」
そう言うと、三方の上に置かれた目録が書かれた書状を若い小姓が信忠に差し出した。信忠がそれを受け取って中を改めた。
「・・・肉や緞子はよいとして、『かっぱ』とは?」
書状を読み終えた信忠が視線を書状から重秀に移しながら聞いてきた。重秀が答える。
「かっぱは南蛮人が羽織っている外衣でございます。蓑の様に雨よけに羽織るものにございます。殿も伴天連が羽織っていたものをご覧になったことがあるのでは?」
「ああ、確か羅紗とかいう布を用いた羽織だったか。父上も確か持っていたはず。しかしあれは南蛮渡来の高級品であろう?目録を見ると三百のかっぱを用意しているようだが?」
信忠が発した言葉に周囲の者達は唖然とした顔をした。南蛮渡来の『かっぱ』なるものがあるのは知っている。信長も持っており、よく自慢気に見せていたからだ。しかし、それも伴天連から献上されたものであり、重臣である秀隆も恒興も持ってはいないものであった。それを羽柴は数百も用意できたのか?いくら羽柴が牛肉や豚肉で南蛮人との繋がりができつつあったとしても、かっぱをそれだけ用意できるほどの繋がりはないはずであった。
そんな事を周囲の者達が思っているところで、重秀は困ったような顔をしながら信忠に言う。
「申し訳ございませぬ。そこに書かれているかっぱは、南蛮渡来の羅紗のかっぱではなく、我が羽柴領にて生産された油紙でできたかっぱにございまする」
重秀の言葉を聞いた瞬間、周囲にいた者達の中にいた長可が「ああ、そういうことか」と声を上げた。信忠が長可の方を見る。
「勝蔵、どういうことだ?」
「殿。油紙は水を弾きます。その性質を利用して、油紙を羽織るようにすれば、蓑と同じく雨よけの外衣となります。そして、羽柴は油紙を大量に生産しております。紙早合の原料ですからな」
「ああ、そう言えば、桐油は羽柴の重要な産物であったな」
長可の話を聞いていた恒興が納得したような顔つきで重秀を見ながら呟いた。重秀が話を続ける。
「はい。羽柴では桐油と小谷の紙で油紙を作り、紙早合を作っておりますが、この油紙をさらに使えないかと考え、南蛮のかっぱを元に油紙でかっぱを作りました。先の北畠攻めで試作品を持ち込んで使用してみたのですが、雨が降らずに試験ができなかったものの、寒さを凌ぐのにも使えました故、殿にも使ってもらおうと思い、持ってまいりました」
紙は防水性は絶望的ながら、保温性については高い。山での遭難や災害時の避難先、終電を逃した深夜の駅にて新聞紙に包まって体温を維持できたという話からも、それは分かるであろう。
「なるほど。でも三百程度では足りぬぞ」
信忠の言葉に重秀は申し訳無さそうな声で答える。
「それが・・・。本当は一千ほど作ったのですが、ほとんどを安土に送ってしまいまして・・・」
重秀の答えを聞いた信忠は溜息をついた。
「まあ、父上に差し上げるのは正しいよな・・・。相分かった。油紙のかっぱ三百、確かに受け取った。我が手の者に着せてみよう。良ければ増産を頼むやもしれぬ」
信忠の依頼に重秀が平伏しながら答える。
「承知いたしました。紙については小谷の紙の増産が難しい故、最近増産の目処がついた越前の紙を使って増産いたしまする」
「おい、そこは美濃の紙を使うと言えよ。腐るほどあるんだから。それに、こっちも儲けさせろよな。油で儲けてるの知ってるぞ」
横から長可がそう言うと、信忠や重秀はもちろん、大広間に居た者達全てが大笑いしたのだった。
重秀が信忠達の酒宴に参加している頃、遠江浜松城の書院では、徳川家康と本多正信が久方ぶりの再会をしていた。
「お懐かしゅうございます、殿様。本多弥八郎正信、恥ずかしながら三河へ戻ってまいりました。一向一揆で殿様に逆らってから十数年の間、諸国を巡って見聞を広めて参りました。必ずや殿様のお役に立てるかと存じます。何卒、帰参をお許し下され」
「弥八郎、よくぞ戻った。弟の三弥(本多正重のこと)は許したのに、お主の帰参をどうして許さぬことがあろうか。また儂の下で働いてくれ」
家康の優しい言葉に正信は絶句した。なぜなら、正信の弟である本多正重は三河一向一揆で一揆側に付いたものの、家康に許されて家臣に戻っていた。ところが、長篠の戦いが終わった後に出奔。今では滝川一益の家臣になっているからだ。
正信にとって、家康の発言は許しているのか否かを判断するには難しいものであった。
「殿様、その様な物言いでは、弥八郎を許さぬと言っているようなものにございまするぞ」
弥八郎と一緒にやってきた大久保忠世が家康を諌めるような声で言うと、家康は大きな声で笑った。
「あっはっはっ!すまぬすまぬ。ちょっとした戯言よ!儂は別に弥八郎を咎めているわけではない!」
徳川家康という人物には二つの長所があった。一つは記憶力が良いこと。もう一つは己の失敗を反省し、二度としないという学習能力があること、である。
また、家康は自らの失敗をオープンにしていることが多く、よく家臣にも教訓として話をすることが多い。それどころか本多重次のように、自分の失敗の話を蒸し返して諫言する家臣に対しては、疎んじることもなく真摯に話を聞いていたりもする。
ただし、そんな主従関係のせいか、それとも家康の性格なのか、家臣の失敗もオープンにすることも多い。しかも記憶の良さのせいか、昔の些細な失敗を蒸し返すことも多々あった。そのため、家臣からは「本当は許していないのでは?」という疑念を持たれることがよくあった。
まあ、家康からしてみれば軽くイジっているだけなのかもしれないが、家臣にしてみればたまったものではないだろう。
「さあさ、積もる話は多かろう。この十三年間、何をしていたのか話してくれ」
好奇心旺盛な家康は、目を輝かせながら正信に聞いた。正信は、出奔した後のことを話した。
長島一向一揆で織田軍と戦ったこと、その後大和国まで行き松永久秀に仕えたこと、その中で石山本願寺と秘密裏に接していたこと、久秀の命で加賀まで行き、加賀の一向門徒との間に繋がりをつけたこと、そのまま加賀一向一揆勢に参加した後は越前で織田軍と戦ったこと、自分についてきた者達を助けるために羽柴秀吉に降ったこと、そしてその息子である重秀に客将として扱われたこと、などを話した。
特に、重秀の下に居たときの内政については、家康は興味深く聞いていた。
「紙早合を作ったことは知っていたが、養蚕に南蛮人向けの牧場に南蛮船の建造か・・・。筑前殿は良き跡取りを得たものじゃ」
「先月に内府様(織田信長のこと)の養女・・・と言っても姪に当たる姫君ですが、その方を妻に迎えました。名実共に羽柴は織田家の一門でございますな」
「ということは、羽柴の倅殿は我が三郎(徳川信康のこと)の義弟になるのか。ふむ・・・」
家康は顎に右手を添えると何かを考え込んだ。そして正信に尋ねた。
「弥八郎よ。羽柴をどう見る。織田の中でまだまだ伸びそうか?」
「更に伸びるかと存じまする。すでに播磨の小寺家と繋がりがございますれば、来年には播磨、但馬に進出するかと」
「ということは、毛利と対峙することになるのう・・・。どうやら武田との戦いでは、羽柴は出てこないかもしれぬな。せっかく弥八郎を通じて誼を通じようと思ったのだが、あまり面白い結果にはならなさそうだ」
視線を上の方にやりながら、残念そうな表情で呟く家康。そんな家康に忠世が話しかける。
「その羽柴より、弥八郎に土産をもたせてもらったようでございます」
「ほう?」
興味を示した家康は、視線を正信に移した。正信は、重秀から今まで貯めた禄と交換で牛と猫、いわゆる『琵琶湖の鯨肉』や桑の種を貰ったことを報告した。
「『琵琶湖の鯨肉』とは変わった物言じゃのう」
面白そうに言う家康に、正信が話を続ける。
「牛や豚を食すのは、やはり抵抗があります故、一種の詭弁でございますな。しかし、そんな詭弁一つで今までの禁忌をあっさりと乗り越えるのが人の業というものでございましょう」
正信がニヤニヤしながら言うと、家康は笑いながら話す。
「うん、実に面白い。弥八郎、牛は色々使い勝手がある。我が領内でも育てられるか検証してみせよ。また、養蚕については任せる。好きにせよ」
家康の上機嫌な声を聞きながら、正信は平伏するのであった。
同じ頃、大和国の信貴山城。本丸御殿の庭園に作られた離れでは、城主たる松永久秀が一人の男に茶を点てようとしていた。
「・・・それが古天明平蜘蛛か」
男がそう言うと、久秀はクツクツと笑いながら答える。
「うむ、我が命と言っても良い名物よ。そなたの慰めになれば良いと思って出した」
久秀の言葉に男は渋い顔をした。久秀が話しかける。
「そう渋い顔をするな。名物を奪われたそなたの気持ち、儂には分かっておる。特にそなたの持っていた『唐草染付茶碗』は名器の中の名器であったからのう。信長に奪われたこと、心中察するに余りある」
久秀の言葉に、男は両手を握り拳にして震えていた。そして、あまりの悔しさと怒りに、何かを叫びたいのを我慢するかのように口を噛み締めていた。そんな男の前に、久秀が点てた茶を入れた椀が差し出された。
「ま、茶を飲んで落ち着かれよ」
男が茶碗を両手で持ち、作法にしたがって飲む。久秀の点てた茶が美味かったのだろう。男の表情がだいぶ柔らかくなった。そして口を開く。
「・・・儂をここに呼んだのは、茶釜の自慢か?それとも、この見事な刷毛目茶碗の自慢か?」
男の訝しる視線を物ともせずに久秀は「両方」と即答した。男の眉間に皺が寄ったが、久秀が話を続ける。
「まあ、古天明平蜘蛛は自慢じゃが、その刷毛目茶碗は自慢するほどのものではない。が、どこから来たのかを聞けば、そなたも興味を示すのではないかと思ってな」
「どこからだ?」
「備後の鞆」
久秀の言葉に男は目を見張った。
鞆は備後国、瀬戸内海に面する湊町のことを指す。中心地である鞆港は古代より潮待ち、風待ちの湊として繁栄していた。
そしてこの時期、鞆には室町幕府第15代将軍の足利義昭が毛利家の庇護のもと、奉行衆や奉公衆といった幕臣達と共に滞在していた。このため、後世になると、この時期の室町幕府を『鞆幕府』という学者もいる。
さて、鞆に居た足利義昭は何をやっていたのかというと、自分を保護している毛利家を中心とした信長包囲網の構築に躍起になっていた。毛利の力を借り、再び京の都へ返り咲こうとしていたのだ。
一方の毛利も織田の勢力が西へと広がっていることに危機感を募らせていた。敵対している浦上家や、山中幸盛を中心とした尼子の残党が織田家の支援を受けていることも、毛利家を刺激していた。
こういったことから、毛利家は義昭を神輿に、織田家への対決姿勢を強めていった。石山本願寺への支援を始めたのはそのためである。また、義昭も各大名への工作を強化していった。例えば越後の上杉謙信に対しては、武田と北条、本願寺との講和を斡旋しており、実際に本願寺と和議を結んでいる。そして謙信は天正四年(1576年)九月に越中一向一揆勢の支援を受けて、越中国を制圧。さらに能登国に侵攻する。同年十一月には能登国守護の畠山家の本拠地である七尾城を攻撃している。
「・・・公方様と通じているのか?其処許は」
「向こうが勝手に茶碗を贈ってきただけよ」
男の質問に久秀が答えたが、男はその言葉を鵜呑みにすることはなかった。久秀が話を続ける。
「ま、そなたが色々困っているというのであるならば、儂が相談に乗れる相手であるということを知ってくれればよい。儂も、上様には二心ないが、上様の義弟殿には若干言いたいこともあるからのう」
久秀の話を聞いた男は、信長の義弟である柴田勝家の髭面を思い出し、渋い顔を作った。最近はますます寝返りを疑われており、何かあるたびに書面での報告を勝家から求められていた。正直言って、男は勝家のことを茶も知らぬ田舎侍と見下しており、そんな男に『信長の義弟』という権威を傘に命令されることに我慢ができなくなりつつあった。そして、その思いは久秀も同じだったらしい。
「・・・其処許の言いたいことは分かった。儂から言えることはただ一言よ」
そう言うと男―――荒木村重は手に持っていた刷毛目茶碗をそっと置くと、久秀に頭を深々と下げた。
「結構なお手前でございました」
村重の言葉を聞いた久秀は、口元を緩めながら黙って村重と同じ様に深々と頭を下げるのであった。