第7話 義兄弟
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どこかで「幼名についた『丸』は元々は糞の意味なので、他人が言っては失礼に当たる」という話を聞いたのですが、この話についての資料が見つかりませんでした。どなたかご存知な方がいらっしゃったら教えていただけると幸いです。
元亀二年(1571年)二月のとある日、岐阜城下にある木下屋敷に、珍しいお客さんがやってきていた。
「おお、大松。大きゅうなりよったな」
「お、御祖母様!?いつ岐阜へ!?」
「母ちゃん!?よく来たなぁ!?」
寺から戻り、自室で竹中重治から借りていた『三国志』を読んでいた大松は、玄関で声をかけてきた女性を見て驚いた。その女性こそ、木下秀吉の実の母で後の大政所と呼ばれる女性である。一緒に玄関にやってきたともも驚いている。
「いや〜、ついさっきじゃ。やっぱり岐阜は遠いのう。中村から日の出前に出てきたが、もう八つ刻(午後2時〜3時頃)じゃ。清洲ん時は楽やったんだけど」
「それはそれは、骨折りでございました」
大松が労をねぎらう。
「ほれ、土産じゃ。晩飯に使うてくれ」
御祖母様がそう言うと、御祖母様の後ろにいた二人の少年が、後ろに担いでいた籠を下ろした。中には葱がたくさん入っていた。
「まぁ〜、母ちゃん。いつもいつもすまねぇだ」
「ところで、藤吉はどした?」
とものお礼を聞きながら、御祖母様が大松に尋ねた。
「今は岐阜のお城に行っております。もうそろそろこちらに戻ってくる頃ですが・・・」
この時期、秀吉は岐阜の木下屋敷には常駐していない。去年の6月に織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が姉川で激突、それに勝利した織田方は勢いで浅井方の横山城を奪取。城番として秀吉らを入れていた。とはいえ、秀吉は京での奉行職も兼ねているため、横山城と京、そして岐阜へと行ったり来たりしている生活を送っていた。今日は珍しく、岐阜の木下屋敷に滞在していた。
「おお、そうかそうか。では帰ってくるまで、この二人と待たせてもらうよ。二人共、おいで」
御祖母様はそう言うと、二人の少年を連れて居間に向かっていった。
「・・・伯母上、この葱の量、食い切れますか?」
「今日中は無理だねぇ〜。まあ、この時期ならまだ日持ちするから」
大松の質問にともがのんびりと答えた。大松が続けて言う。
「良ければ、山内家にお裾分けしてきましょうか?」
「あ〜、あそこの家は家臣多いからねぇ〜。持ってけ持ってけ」
ともの許しを受けて、大松は葱を十本ぐらい抱えて山内屋敷へと向かった。
山内屋敷とは、山内一豊と千代、それに祖父江勘左衛門と五藤為浄およびその家族が住んでいる岐阜の屋敷である。一豊は大松らに会ったその後、前田利家と秀吉の推挙で織田信長の家臣となった。そして、秀吉が横山城城番になると、その与力となったのである。現在、一豊と勘左衛門、為浄は、少数ながら再び集まってきた山内家の家臣と共に横山城に詰めていた。
そんなわけで、山内屋敷には千代を筆頭に、残された家族が留守を守っていた。
「ごめんください!」
「はい!」
山内屋敷の玄関先で大松は声をかけた。するとすぐに千代の返事が聞こえた。ハキハキとした元気の良い返事だった。
「これはこれは、木下の若様!いかがなされましたか?」
「御祖母様が中村から葱を持ってきました。お裾分けにいかがかと思いまして」
「まあ!わざわざ持ってきて頂き申し訳ありませんでした!とても助かりまする!」
そう言いながら、大松から葱を受け取る千代。そんな千代を大松は憧れの目で見ていた。
千代はこの時15歳(数え歳)。しかし、15歳とは思えないほどのしっかりとした女性で、この頃には岐阜城下でも評判の『よくできた妻』となっていた。大松は、そんな千代を見て、前田の母上であるまつをよく思い出していた。
―――前田の母上といい、千代さんといい、こういう母上が居ればなぁ―――
小さい頃から大松は、父やおじ達から母親であるねねの素晴らしさを聞かされてきたが、それでもまつや千代ほどではないと思っていた。
「・・・?大松様、いかがなされましたか?」
大松の視線に気がついた千代が尋ねると、大松は慌てたように答えた。
「へっ!?い、いえ、何でもないです。では私はこの辺で」
「ああ、うちでゆっくり休んでいって下さい。狭い屋敷ではございますが」
帰ろうとする大松を千代が引き止める。確かに山内屋敷は木下屋敷よりは狭い。まあ、中途採用の一豊では、織田家から支給される屋敷は狭いものになってしまうのは仕方がない。
「ああ、いえ、もうすぐ父が帰ってきますので」
「そうですか・・・。ではお気をつけてお戻りを」
葱を抱えたまま深く頭を下げる千代に、大松は頭を下げると木下屋敷に帰っていった。
大松が木下屋敷の戻ると、既に秀吉が帰ってきていた。
「父上、お戻りなさいませ。遅くなりまして申し訳ありません」
「おお、大松!山内の屋敷に葱を届けたそうじゃな。感心じゃ。与力の家族を大切にするは、善き事ぞ」
座敷の上座で胡座をかいて座っている秀吉に挨拶をしながら、大松が秀吉の左斜め前に座ると、秀吉が労をねぎらった。
下座には御祖母様が座っており、その御祖母様を頂点として、後ろに三角形になる形で少年二人が座っていた。少年たちは胡座で座っていたが、両手を床につけ、目線を下にしていた。
「で?おっ母、その二人が例の子たちか?」
秀吉は大松から視線を前にいる二人の少年に向けると、御祖母様にそう聞いた。
「んだ、オラの妹の子と、オラの従姉妹の子だぁ」
御祖母様がそう言うと、二人の少年は頭を上げた。そしてまずは秀吉から見て左手に座っている少年から自己紹介が始まった。
「尾張国海東郡二ツ寺村の生まれ、福島正信が息、福島市松だ・・・でございます」
「尾張国愛知郡中村の生まれ、加藤清忠が息、加藤夜叉丸でございます」
そう言うと二人の少年は平伏した。
「おう、木下藤吉郎じゃ。面を上げい」
秀吉がそう言ったので、二人は再び顔を上げた。
市松、と名乗った少年は目のつり上がった気の強そうな顔立ちであり、逆に夜叉丸と名乗った少年は目尻の下がった細目の温和そうな顔立ちだった。
「ふむ、二人共、良き顔立ちじゃ。おっ母から話は聞いとる。侍になりたいんじゃろ?」
秀吉の問いに二人は「はい!」と同時に答えた。
「分かった。二人は儂の配下になってもらう。しかし、侍になるにはまだ修行が足りん。そこで、大松の下につけるから、共に励んでもらう」
「!?」
秀吉の言葉に大松は思わず秀吉の顔を見る。そんな大松を秀吉はニコニコ微笑みながら大松に語りかけた。
「犬千代がいなくなって、同世代で共に学べるのがいなくて寂しがってたろ?お前が口にせずとも分かっておったわ。丁度おっ母から、親戚の子が儂の話を聞いて侍になりたいという話を聞いてたんで、儂が引き取ることにしたんじゃ」
そう言うと、秀吉は改めて市松と夜叉丸に顔を向けた。
「市松、夜叉丸。ここにいるは我が嫡男、大松じゃ。将来はお前達が大松を支えるのじゃ。しかと励めよ!」
市松と夜叉丸はそう言われると、「ははっ!」と声を揃えて大松に平伏した。
「とりあえず、三人で話をいたせ」
秀吉にそう言われた大松と市松、夜叉丸は大松の部屋へと移動した。
「うわぁ・・・」
大松の部屋に入った時、市松は思わず声を上げた。隣りにいた夜叉丸も、細目を開けて部屋の中に見入っていた。
そこには、それなりの量の本が積み重なっていた。
「・・・これ、全部読んだのか・・・ですか?」
「いや、書いた」
「はあっ?」
市松の質問に大松がしれっととんでもないことを答えたので、市松は思わず声を上げた。
「いや、だって、本って買うと高いんだぞ?竹中様が岐阜にいた去年までは気軽に竹中屋敷まで読みに行ってたけど、竹中様も横山城に行ってから、読むだけに竹中屋敷を訪れるのはお邪魔になりそうで申し訳ないし。だから竹中屋敷に行って借りては、家で書き写してたんだ」
現代では印刷技術が進んで本も安く気軽に手に入るようになったが、当時は印刷技術が一般的ではなかった。一応、中国から木版印刷は伝わっていたが、主にお経の印刷に使われており、それ以外の書物で印刷が使われることは殆どなかった。また、ヨーロッパで改良された金属による活版印刷の技術は未だ日本には来ていなかった(木による活版印刷は伝わっていたが、文字の種類が多い日本では普及しなかった)。
というわけで、当時の本は貴重で値段も高いため、本を所有しているのはごく一部の上流階級だけであった。秀吉や大松クラスの武士が本を読むには、人から借りるくらいしかなかったのだ。そして自分の手元に残すには、書き写すしかなかった。
「それにしたって、こんなに書き写したのですか・・・?」
夜叉丸が信じられない、といった感じで大松に聞くと、大松は口を尖らせながら答えた。
「だって、やることないし。十歳になったら槍や棒、馬や弓を習わせてくれるって父上が言ってたのに、教える師匠が全て横山城に行ってるんだもん。それでいて勉学に励め、って父上も叔父上も言ってくるから、書物の書き写しぐらいしかやることないんだよ。まあ、もうすぐ御祖父様(浅野長勝、ねねの養父)が岐阜に来るので、弓は教えてくれそうだけど」
今年10歳になった大松は、剣術から他の武術を師匠から教わることができるようになった。ところが、師匠となるべき前田利家や山内一豊(槍術)、前野長康(棒術と馬術)、浅野長吉(剣術と弓術)、蜂須賀正勝(水練)がことごとく岐阜からいなくなり、大松に武術を教える人がいなくなってしまったのだ。無論、師匠を雇えばよいのだが、この時木下家は横山城や京の奉行職、浅井や朝倉への諜報、調略で支出が増えており、とても大松の師匠を雇えるだけの余裕がなかったのである。
ちなみに勉学に関しては、寺への通いを続けていたのと、竹中重治の計らいで重治の持っている本を借りることができたため、『三国志』(『三国志平話』ではない)を始め、『史記』を読んだり書き写したりしていた。この頃になると、大松は重治の教えによって漢文を読みこなせるようになり、寺でも他の子より早く四書五経などの漢籍を読むことができた。
つまり、この時期の大松は、武術に使う時間を全て勉学に当てていたため、悪く言えば『本の虫』な少年だったのだ。しかも犬千代や幸姉、蕭ちゃんのような遊び相手もいなかったので、現代風に言えば引きこもりだったのかもしれない。
秀吉も木下家の跡取り息子が引きこもりになるのはまずいと思ったのだろう。丁度、武士になりたいという同世代の少年がいたので、大松の学友兼修行仲間として、市松と夜叉丸をつけたのだった。
「それで、市松の言葉だけど、ひょっとして言い慣れてないのか?」
大松の部屋で大松が上座に、市松と夜叉丸が下座に座ると、大松が市松に聞いた。
「そ、そのとおりでございまする。油断すると、つい地の言葉が・・・」
「普段どおりに喋っていいよ」
「お?それはありがてぇ。では遠慮なく喋らせてもらうよ、若さん」
大松の許可を得て、市松の口調が変わる。大松は苦笑すると、夜叉丸にも聞いた。
「夜叉も普段どおりでいいよ」
「いいえ、若。お気使いなく。俺は言い慣れていますから」
夜叉丸の言うとおり、その発言に淀みはなく、普段から言い慣れていることが分かった。
その後、三人はお互いのことを話し合い、理解を深めていった。それは、晩飯を食べ終わり、普段ならもう寝る時間であった戌の刻(午後7時頃)を超えて、亥の刻(午後10時頃)まで話し続けていた。
それからというもの、大松と市松、夜叉丸は一緒に行動するようになった。午前中の寺通いについては、大松の学力についていけない市松と夜叉丸は大松より簡単な授業を受けていたが(というより、大松が同年齢の子より難しい授業を受けていただけ)、それ以外は常に一緒であることが多かった。
また、横山城から帰ってくる山内一豊や前野長康、浅野長吉や岐阜に滞在している浅野長勝に武術を共に習ったため、大松は市松や夜叉丸と競い合うように上達していった。
「なあ、我らで『義兄弟の契り』を結ばないか?」
三人が知り合って一月経ったある日のこと、大松が市松と夜叉丸に提案した。
「『義兄弟の契り』?やめたほうが良いと思うぜ、若さん」
大松の提案に市松が反対した。
「なんでさ。『三国志』の劉備、関羽、張飛みたいになろうよ」
「いや、若さん。確か若さんは夜叉丸と同い年だろ?俺は一つ年上だぜ?俺が長兄になるんだぞ?」
ちなみに市松は永禄四年生まれ。大松と夜叉丸が永禄五年生まれである。
「よし、やめよう」
「はやっ!」
提案を撤回した大松に、夜叉丸が驚きの声を上げた。
「まあ、別に若さんを兄貴って呼ぶのは別に構わねえんだがよ。若さん顔に似合わず剣術強えし」
「顔は余計だ」
市松の発言にムッとする大松。大松は大きくになるにつれて、段々と男らしい顔つきになっていたが、それでも母親の面影を色濃く残しているため、あまり強そうではない顔立ちとなってしまっていた。しかも、ここ最近は部屋で勉学をすることが多くなったため、日に焼かれることがなく、ますます弱々しい顔立ちとなっていった。これが大松にとってコンプレックスとなりつつあった。
そんな大松だが、実は三人の中で一番剣術が強い。意外かと思われるが、市松と夜叉丸は剣術の型を知らずにただ木刀を振り回すだけなので、剣術を6歳頃から学んでいる大松にしては組みやすい相手なのだ。もっとも、ちゃんとした剣術を学び始めた二人はメキメキと腕が上達しており、大松も最初の頃のような相手を舐めた戦いはできなくなりつつあるが。
「そうですね、では俺も若のことを長兄、と呼びましょう。若、というよりは親しみやすいかも」
「お、それじゃあ、俺のことは次兄様と呼べ」
「ふざけるな。お前は市松だ」
夜叉丸と市松のやり取りに思わず大松は吹き出してしまった。大松は二人の手を取ると、こう宣言した。
「二人共ありがとう。頼りない兄かもしれないが、二人にとって相応しい兄であるよう、鍛錬と勉学に励むことにしよう。これからも、兄を支えてくれ」
大松の宣言に、市松と夜叉丸は力強く頷いたのだった。
注釈
豊臣秀吉の母、大政所の名前は”なか”という説がある。しかし、それを示す一次資料が見つかっていないため、この小説では”なか”とはしていない。