第78話 重秀の祝言(前編)
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岐阜城の本丸御殿の奥にある一室。そこでは二人の女性が話をしていた。
「御姫様、羽柴様より文が届いておりまする」
乳母の夏から文を受け取った縁は、いそいそと文を開けると、楽しそうに読み始めた。
「本当に、御姫様は羽柴様からの文を楽しそうに読まれまするね」
「ええ、だって羽柴様が読まれている書が詳しく書かれておりますもの。私も漢籍を読みとうなりました」
「なりませぬ。漢籍を読む女子など、はしたないと人に指を差されまするぞ。清少納言がどの様な末路を迎えたか、知らぬ御姫様ではございますまい」
『枕草子』の作者で有名な清少納言の晩年が悲惨なものであった、という伝承は鎌倉時代に書かれた複数の書物に記されており、この時代では有名な話であった。
「別に女子が漢籍を読んでも良いと思うのですが・・・。あ、それより文の最後に歌が詠まれております。夏、評価を」
そう言って縁が夏に文を手渡した。夏が文の最後に書かれた和歌を黙読した。そして縁の方へ視線を向けて口を開いた。
「・・・まあ、凡人と言ったところでしょうか。やっとお歌らしゅうなりました」
「最初は本当に酷かったわね。何を書いているのかよく分からなかったし」
縁が笑いながらそう言うと、夏が仏頂面で話を続ける。
「・・・清少納言のあの歌を模したのかもしれませぬが、それにしても酷うございました。あれは漢籍の理解だけではなく、お歌の技巧を理解してなければ詠えぬ歌にございますれば、素人が真似しても興ざめにございまする。まあ、漢籍を深く理解されている方だというのは分かりましたが」
清少納言のあの歌とは、百人一首にも出てくる有名な歌『夜をこめて鳥の空音は謀るともよに逢坂の関は許さじ』のことである。中国は戦国四君の一人、孟嘗君が秦から脱出する時に鶏の鳴き真似をして函谷関を開けさせた、という『史記』に出てくるエピソードを絡めた歌である。
知ってか知らずか、重秀は漢籍の知識があることをアピールした和歌を贈った。だが和歌の技巧を伴っていないその歌は、夏からすれば才能ナシの判断を下さざるを得ない和歌であった。そもそも漢詩と和歌ではその構成や韻の踏み方が全く違うのだ。
夏は手に持っていた文を縁に手渡した。夏が話を続ける。
「でも、今ではその様なこともなくなりました。歌語もちゃんと考えて作られるようになりましたし、上達はしております。とは言え、まだまだ歌会や連歌会に出られるような腕ではございませぬが」
夏の厳しい査定に縁は口元を袖で隠しながら笑った。と、その時であった。一人の侍女が部屋の外から話しかけてきた。
「申し上げます。御方様、お呼びにございまする」
侍女の先導で帰蝶のいる部屋に通された縁と夏は、上座に座っている帰蝶の前まで来ると、座して平伏した。帰蝶が口を開く。
「縁殿、祝言の日が決まりました。十月七日じゃ」
「十月七日・・・でございまするか?とすると、結婚の儀は十月八日でございますか?」
夏が確認するかのように問うた。この頃の祝言は三日間かけて行われるが、一日目は新婦が新郎の屋敷に入って終わりである。なので、本番である結婚の儀は二日目となる。
「うむ。上様からのお達しじゃ。場所は岐阜の羽柴屋敷となる」
帰蝶がそう答えた。夏が平伏しながら「承りました」と言うと、つられて縁も平伏した。帰蝶が更に話を続ける。
「縁殿。祝言の前々日までは上総介様(織田信包のこと)の屋敷に下がって良い、との上様のお達しじゃ」
「・・・上総介様の屋敷、でございまするか?」
夏が訝しるように言うと、帰蝶は微笑みながら答える。
「嫁ぐ前に実母様の元で過ごすが良い」
「・・・御方様のご配慮、有難き幸せにございまする」
縁が礼を述べながら平伏したのに対して、帰蝶は「これは上様のご配慮じゃ」と笑いながら述べるのであった。
十月四日。長浜城では重秀が秀吉に報告を行なっていた。
「鯨は赤と黒をそれぞれ人数分用意致しました。婚儀の前日までには安土に届けられるかと」
「うむ」
重秀の報告に、秀吉が頷く。ちなみに、重秀の言った『鯨』は本物の鯨ではなく『琵琶湖の鯨』のことで、『赤』は赤い鯨、ではなく牛のことであり、『黒』は黒い鯨、ではなく豚のことである。
「しかし、黒はともかく、赤の味付けは胡椒を使いますが、よく多くの胡椒が手に入りましたね」
重秀が感心したように言うと、秀吉がニヤリと笑いながら答える。
「小西隆佐殿が祝いの品として多くの薬を頂いたからのう。その中にたくさん入っておった」
胡椒は奈良時代より中国から薬として輸入されていた。一粒噛めば寒さや暑さが防げる、ということで戦国時代の兵達の間では重宝されていたと言う。また、この頃にはごく一部の上流階級の間では、調味料として使われたらしい。一般に普及するのはもう少し後の時代である。
「しかし・・・。本当に婚儀の際の膳に鯨をお使いになられるのでございますか?聞いたことはございませぬし、めでたい婚儀に獣の肉を使えば、若君と姫君に罰が当たらぬかと案じております」
秀吉の側に控えていた石田三成が心配そうな顔つきで言った。重秀が言い返す。
「鯨は魚だぞ。膳には鮒や鯉も使われるんだ。そもそも、鳥も使うのに罰も何もないだろう」
「はあ・・・」
心配そうな顔で重秀を見つめる三成に、重秀は笑いかけた。
「そう案ずるな、佐吉よ。これは父上の決められたこと。まあ、私や妻を案じていたことについては感謝するぞ」
重秀にそう言われた三成は黙って頭を下げた。続けて秀吉も話し出す。
「そういうことじゃ。案ずることはない。そもそも鯨・・・いや、牛や豚を所望したのは上様じゃからのう。前に安土城築城の際、大工職人に豚・・・鯨汁を振る舞ったであろう?あの時の評判を上様が耳にしてのう。是非とも食したいと申してきたのよ」
「ああ、あれでございまするか。確かにあれは美味でございましたが・・・。しかし、あれは祝言の膳にはいささか相応しくないかと・・・」
三成が眉をひそめながら言うと、秀吉は笑いながら言う。
「阿呆!あれをそのまま出すわけなかろう!それに、あれはすでに上様には献上しておるわ!ただ、上様がそれを気に入ってのう。他の肉料理も出せというてきたわ。それに、家臣にも食べさせたいと」
「なるほど。それで今度の若君の祝言で肉を出すことに?」
「うむ。まあ、これで皆様の口に合えば、買ってくださるやもしれぬし、よい贈呈品にもなるじゃろうて」
秀吉がそう言うと、三成も納得したような顔になった。重秀が話し出す。
「明日は私も岐阜の羽柴屋敷に向かう。いまさら言うまでもないが、父上は南殿が情緒不安定故、長浜に残られる。嫁を見られぬ父上を上手くあやしといてくれ」
「おい、藤十郎。それではまるで儂が子供のようではないか」
重秀の言葉を聞いた秀吉がわざと拗ねるように口をとがらせながら言うと、重秀と秀吉は笑い出した。三成もつられて笑い出すのであった。
十月五日、重秀は福島正則、加藤清正、石田正澄、加藤茂勝、大谷吉継と手勢を引き連れて岐阜へと向かった。岐阜についた重秀は羽柴屋敷に入るとすぐに小一郎と浅野長吉に会った。
「おお、藤十郎。早い到着だったのう。長浜の方はもう良いのか?」
「すでに姫君を迎え入れる準備は出来ております。また、酒宴での酒や肴、皆様への土産も準備できておりますれば、木下の伯父上(木下家定のこと)が持ってくる手はずとなっております。前日までには岐阜に着くかと」
重秀の報告に小一郎が頷いた。横にいた長吉が話しかける。
「こちらの準備はもうできておる。半兵衛殿(竹中重治のこと)も伊右衛門殿(山内一豊のこと)も手伝ってくれたおかげで、予定より早う整ったぞ。侍女も、予め来ていた乳母殿(千代のこと)のおかげで準備は万全じゃ」
「それは良うございました。父に代わって御礼申し上げます」
重秀が小一郎と長吉に頭を下げると、小一郎は笑いながら右手を顔の前で振った。
「何、儂等は兄者の考えた宴席を作り上げただけじゃ」
「それを滞りなく作り上げたのですから、叔父上は謙遜なされるべきではないと存じますが」
重秀がそう言うと、小一郎は照れたような笑顔を浮かべた。しかし、すぐに何かを思い出したかのような顔をしながら話す。
「ああ、忘れとった。明日は上総介様の屋敷に向かうぞ。ご挨拶しなければならぬからな」
「はっ、承知いたしました」
重秀が少し緊張気味に答えるのであった。
同じ頃、織田信包の屋敷に戻っていた縁は、実父である織田信包と実母である長野夫人と共に家族の時間を過ごしていた。
「まさか、母上様と再びお会いできるとは、思ってもいませんでした」
縁がそう言って長野夫人の方へ顔を向けると、長野夫人は微笑みながら話す。
「ええ、本当に。叶うことならこのまま屋敷に閉じ込めたいものでございますが」
「おいやめろ。兄上のご不興を買うだろうに」
長野夫人の不穏当な発言に慌てながら咎める信包。それに対して長野夫人は笑いながら信包の方を見る。
「冗談でございますよ。我が家を陥れるような悪女ではございませぬ。もっとも、藤が筑前殿の子息の正室として嫁ぐから認めるのであって、これが側室とか筑前殿の継室とかというのであれば、屋敷に閉じ込めていたでしょうが」
そう言って長野夫人は笑うが、目が笑っていなかったのを見た信包が思わず息を呑んだ。しかし長野夫人は真面目そうな顔になると、そのまま顔を縁に向けた。
「藤よ。よくお聞きなさい」
縁のことを昔の名前である『藤』と言いながら話す長野夫人。そのまま話を続ける。
「そなたは今後は織田の姫として、羽柴に嫁ぐのです。今後は、羽柴と織田をよく結び、両家の繁栄を考えるように」
「承知いたしました。しかしながら・・・」
縁は平伏しながら長野夫人を見ると、若干戸惑いながら話を続ける。
「・・・私はてっきり『長野家再興のために羽柴を利用しなさい』と言うものと心得ておりました」
縁の言葉を聞いた長野夫人は溜息をつくと、そのまま縁に言う。
「・・・長野家の再興は妾の望み。それを娘のそなたが叶えてくれるというのであれば、これほど喜ばしいことはありませぬ。しかし、それにこだわり、かえって長野家の家名に泥を塗るような行いをしないで欲しいとも思っております」
「家名に泥を塗るようなこと・・・ですか?」
首をかしげる縁に対して、長野夫人がはっきりとした口調で話す。
「そなたが不義を犯してでも長野の血筋を求めることです」
長野夫人がそう言った瞬間、縁の側にいた夏が思わず声を上げる。
「お、御方様!?」
「おい、縁がそのようなことをする訳なかろう!?」
信包も同じ様に批難の声を上げた。縁も絶句している。しかし、長野夫人は真面目な顔つきのまま話を続ける。
「正室は世継ぎを上げられなくても、その地位を奪われることはよほどのことがない限りありませぬ。羽柴はそなたを大切に扱うでしょう。しかし、世継ぎも上げられず、不義を働けばその報いは血を見るような惨劇となります。長野の血を残すことをばかりを考え、そなた自身の身を疎かにするようなことはなさらぬように。分かりましたね?」
「・・・承知いたしました。母上」
縁が平伏すると、長野夫人は微笑んだ。そしてそのままの顔で今度は夏の方を見る。
「夏よ。そなたは妾が心より信頼する乳母じゃ。藤はそなたの乳を吸うて育ったのじゃ。分かっていると思うが、藤を頼むぞ」
「お任せください。この身を賭してでも御姫様をお守りいたしまする」
平伏した夏を見て安心したのか、ホッとした長野夫人は、その安堵した顔つきのまま信包の方を見る。
「ときに、明日でしたっけ?婿殿が羽柴屋敷より挨拶しにやって来るのは?」
「うむ。そうだが?」
信包が不思議そうな顔をしながら答えた。それを聞いた長野夫人が言う。
「それでは、妾も音に聞こえし猿の息子の顔を見ますか」
「お、お前も挨拶に出るのか?」
長野夫人の発言に慌てる信包に、長野夫人がニッコリを笑いながら話す。
「当然でしょう。婿殿の顔を見ずして娘を嫁がせませぬぞ」
十月六日、織田信包の屋敷で行われた羽柴家の挨拶には、小一郎を筆頭に重秀、予め岐阜に来ていた竹中重治と山内一豊、そして小一郎の護衛としての藤堂高虎と重秀の護衛としての福島正則が来ていた。
屋敷にある客間にて、小一郎と重秀が並んで座り、その後ろに重治と一豊が並んで座っていた。そして小一郎達と対面に座っているのが信包と長野夫人であった。
なお、縁と夏はこの場にはいない。というか、すでに岐阜城に戻っていた。岐阜城では夜に『お暇乞いの儀式』があり、養父である信長と三献の儀が行われるのである。なので、重秀と花嫁との顔合わせは祝言の時である。
ちなみに、新郎が新婦の実家に挨拶に来ることは当時はなかった。特に大名家では。その代わり、家臣が使者として結納の品を持って挨拶に来ていた。結納を交わすことは古墳時代の宮中儀礼が起源とされている。
というか、縁の実家は養子として入った織田信長の家であり、織田信包の家ではない。これはあくまで私的な挨拶であり、結婚の儀式の一部ではない。ならばやらなくてよいのでは?と思うかもしれないが、人たらしの秀吉や小一郎がやらない訳がない。こういったどうでも良い挨拶を欠かさず行うからこそ、秀吉と小一郎は気に入られ、羽柴家は大きくなったのである。
それはともかく、まずは羽柴家と織田家で平伏し合い、次に小一郎が口上を述べた。
「この度は上総介様の娘御を羽柴藤十郎重秀に下さり、この羽柴小一郎長秀、兄羽柴筑前守に変わりまして伏して御礼申し上げまする」
小一郎に続いて重秀も口上を述べる。
「この度、上総介様にとって大切な姫君を我が妻として頂けること、祝着の極み。生涯大切に致しますこと、天地神明にお誓い申し上げまする」
二人の口上の後、今度は信包が口上を述べる。
「此度は心のこもった口上をして頂き恐悦至極。すでに上様の養女と相成り申したが、長い間育ててきた我が娘でございます。不束かな娘でございまするが、何卒よろしゅうお願い申し上げまする」
互いの口上を述べ合った後、三献の儀を交わして両家の挨拶はおしまいである。この間、長野夫人は重秀の所作をつぶさに観察していた。
―――百姓出の猿の息子と聞いておりましたが、中々どうして、所作もきちんとこなしており、百姓の出の家の子とは思えませぬ。それに、なんと言っても顔が良い。勇ましくはないものの、品のある顔立ちじゃ。さだめし、母親は器量良しじゃったのかのう―――
そう思いながらも、娘の相手である重秀を満足そうに見ていた。そして、当然小一郎のことも長野夫人は見ていた。
―――あの筑前の弟、真に百姓の出か?ちゃんと武家の所作をこなしておるではないか。本当は羽柴家は元々武家の出ではないのか?没落して百姓に成り果てたとか、そんな感じなのではないか?―――
長野夫人はそんな疑問を持ちながら小一郎や重秀を見ていた。
三献の儀も終わり、一通り挨拶が終わって羽柴の者達が退出しようとした時であった。信包の小姓が客間に入り、客間の隅にいた家臣に耳打ちをした。その家臣が信包に近づくと、信包に耳打ちをした。
「何、三介(北畠具豊のこと。のちの織田信雄)が我が屋敷に?」
「如何なさいましょう?」
家臣が信包に聞いてきた。
「別室で待たせておけ。すぐに参ると言ってな」
「承知しました」
家臣がそう返事をすると、再び客間の隅に戻った。そしてそこで待機していた小姓に耳打ちすると、小姓はすぐに立ち上がってどこかへ行ってしまった。その様子を見ていた小一郎が信包に尋ねる。
「三介様がお越しだとか?」
「うむ。事前に来るとは聞いておらぬから、なにか急用みたいじゃ。一体何があったのか・・・?」
信包がそう言って首を傾げた。しかし、すぐに視線を小一郎から重秀に移した。
「婿殿から見れば三介は義兄。何卒、若殿様だけではなく三介のことも義兄として敬ってくれ」
「ははっ。承知いたしました」
重秀がそう言った横で、小一郎が信包に声をかける。
「それでは我等はこれで。明日の祝言には上総介様も楽しみにして下され」
「うむ、流行りの琵琶湖の鯨、楽しみにしておるぞ」
信包の言葉に、隣りに座っていた長野夫人は「琵琶湖の鯨?」とつぶやきながら首を傾げるのであった。




