第75話 羽柴の嫁取り騒動(完結編)
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天正四年(1576年)七月最終日。岐阜城から主だった織田家家臣及び与力大名に対して、織田家と羽柴家の婚姻が決まったことを報せる書状が使者によってもたらされた。
そして同じ頃、長浜城に集められた秀吉の親戚縁者、家臣、与力達にも秀吉の口から重秀の婚姻についての発表がなされた。養女とは言え、主君である信長の娘を娶ったということで重秀の長浜城での地位は盤石となった。もっとも、重秀の地位を脅かしそうな存在は長浜城にはいない。石松丸は亡くなっているし、叔父の小一郎は重秀に取って代わろうなどという気持ちは微塵もない。秀吉や小一郎の甥であり、重秀の従弟である治兵衛(のちの三好秀次)や小吉(のちの豊臣秀勝)は未だ幼年であり、相手にすらならない。
というわけで、主家と縁戚関係となり、お家騒動になりそうなライバルがいない跡取りを持つ羽柴家は、家臣や与力から見れば実に安定した家であると認識されるようになった。特に百姓出で一代で城持ち大名までにのし上がった秀吉の不安定さを不安視していた新参の家臣や与力は、羽柴家の安定化にホッとしていた。
さて、なにはともあれめでたい、ということで羽柴家ならここで酒宴になだれ込むのであるが、さすがに石松丸を失って日が浅い南殿の心情を慮って、酒宴は無くそのまま解散となった。しかし、家臣や与力には関係ないということで、秀吉から若干の金子が配られ、それらは酒代として消えていった。
その日の夜。秀吉はある一室で一人酒を飲んでいた。一応、我が子を亡くし、娘が未熟児であるという不安で情緒不安定な南殿を思いやって、目立たぬように隠れて酒を飲んでいた。
秀吉は手酌で酒を飲みつつ、目の前にあるねねの位牌に語りかけた。
「・・・ねねよ。大松が、お前と儂の子が、とうとう織田家の一門衆に加わったぞ。あの日、狭い長屋の一室で、藁と薄縁を敷いただけで祝言を挙げてからは想像もつかない身丈になったぞ。ねねの産んだ子が、今や天下人の縁者じゃ。ねね、お前も喜んでくれ」
そう語りかける秀吉の目からは、涙がこぼれ落ちていた。
「ねね。儂はまだまだ出世するぞ。そして、全てを大松にくれてやるんじゃ。大松が、ずっと苦労せんようにのう。ねね、あの世でしかと見届けてくれ・・・」
秀吉はねねの位牌の前で、夜遅くまで静かに酒を飲んでいたのだった。
さて、羽柴と織田の婚姻が決まると、大体の重臣達は「良かったですね」と多少なりの祝いの品を持たせた使者を長浜城に派遣してきた。中には明智光秀や堀秀政、森長可といった当主自ら祝いの品を持って長浜城へ来るものもいた。そんな中、羽柴へ娘を嫁がせようとしていた蒲生賢秀は、少し対応が異なっていた。
重秀が織田信包の娘と祝言を挙げるようだ、という情報は、織田家に独自の情報ルートを持っている蒲生賦秀の妻によって七月後半には蒲生家には伝わっていた。この情報を掴んだ蒲生賢秀は、同じく情報を共有していた蒲生賦秀と今後の対応を話し合っていた。
「筑前殿のご子息の正室がこれで決まったな」
「はい。これで藤十殿は晴れて織田家一門の端くれでございますな、父上」
「一応、上様の養女となるようじゃから、忠三郎から見れば義理の弟になるのか?」
「我が妻は永禄四年(1561年)生まれなれば、そうなりますな」
「ということは、すでに蒲生は羽柴と縁続き、と言えるな」
「父上のおっしゃるとおりでございまする。しかし、そうなると我が妹、とらの婚儀を如何なされるおつもりですか?」
「それよ。羽柴には『側室でも良いから貰ってくれ』と言ってしまったからのう・・・。側室として送り出す必要があるかどうか、じゃな」
「上総介様(織田信包のこと)の姫君ではございまするが、上様とお濃の方様が養親となられますれば上様の姫君でございます。その様なお方が正室であるならば、格という点では特に問題はないかと存じますが?」
「格の問題ではない。羽柴との結び付き、これ以上深めても良いものか、ということじゃ」
「父上。羽柴は上様の信任厚い重臣でございまする。それに、長浜城下で行われている十日に一度の市に参加している日野の商人の話では、我が日野椀が竹生島詣に参る人々によく売れているとか。さらに長浜城下に南蛮寺(カトリック教会のこと)がある関係で、長浜にも南蛮人が来て商売をしており、日野椀を珍しげに買うていくようでございます。
・・・父上、ここは更に羽柴との結び付きを強めれば、蒲生により多くの恩恵があるものと思われまする」
「しかし、それは銭のために娘を差し出すも同じよ。蒲生の名が廃る」
賢秀が渋い顔をするが、賦秀はさらに話を続ける。
「父上、日野筒や日野椀だけでは日野は発展できませぬ。また、日野の商人だけでは数は足りませぬ。やはり長浜の商人の力も借りとうございます」
元々祖父である蒲生定秀が商業を重視していた影響と、堺で重秀が南蛮人や商人とやっていた交渉を見た賦秀は、これからはより一層商業も盛んにしなければならないと考えていた。堺から戻った賦秀は、賢秀が推し進めた鉄砲鍛冶職人の誘致だけではなく、付加価値を付けた日野筒の開発や竹早合の量産に積極的に関わっていた。さらに、今まであった産業(日野椀や刀鍛冶)をさらに拡張させていた。そして、『三方良し』で有名な近江商人の元祖とも言える日野商人の保護にも積極的になっていた。
しかし、蒲生が治める日野城周辺は伊勢からの街道が通っているものの、人の流通は長浜よりも少ない。やはり、琵琶湖の水運の要である長浜、塩津、大浦を抑えている羽柴と縁続きにならなければ、日野椀や日野筒は諸国に行き渡らないであろう。
「・・・日野の発展には羽柴との結び付きが必要か」
賢秀の呟きに賦秀が頷いた。
「・・・相分かった。藤十郎殿は正室を迎えたばかり故、今すぐ側室を送り込む、というのは止めておこう。だが、今のうちに布石は打っておこう。忠三郎、任せて良いか?」
賢秀がそう言うと、賦秀は「お任せください」と言って平伏したのだった。
越前府中城。ここの城主である前田利家が、重秀の婚姻を知ったのは八月に入った直後であった。早速まつを呼ぶと、祝いの品について相談を始めた。
「藤十郎が祝言を挙げる!実にめでたい!まつ、すぐに祝いの品を用意せよ!銭を惜しむなよ!明日にも長浜へ儂が届ける!」
「御前様、まずは落ち着いてください」
興奮気味に話す利家に対して、まつは終始落ち着いた様子であった。
「なんじゃ、まつは藤十郎の祝言が嬉しくないのか?」
「とんでもございませぬ。私の乳を飲んで育ったねね様の子が祝言を挙げられるのです。どうして嬉しくないことがございましょうか」
「ならば何故そんなに落ち着いているのだ?もっと喜べばよいじゃろう?」
「それとこれとは話は別でございまする。そもそも、我が家に銭がどれだけ残っているか、御前様はご存知なのですか?」
まつの言葉に利家は「うっ」と唸って黙り込んでしまった。
実はこの時、利家は越前府中城の改築にだいぶ銭を使い込んでしまっていた。しかも、領地である越前府中周辺の再建にも多額の銭を使っていた。
領地については佐々成政、不破光治との共同統治なので、再建についての費用は三等分なのだが、秀吉から購入した牛や蚕種の代金は利家が負担していた。むろん、秀吉と利家の仲であるので、多少は安くなっているが、それでも利家からすれば高い買い物であった。
「藤吉郎様への牛や蚕種の支払い、全て終わってはおりませぬよね?」
「し、仕方なかろう!養蚕は始めたばかりだし、離散した百姓はまだ完全には戻っておらぬ!ないないづくしで今必死に骨を折っておるのじゃ!それに、藤吉からは『支払いは余裕ができてからで結構』と言われておるし・・・」
「だからといって甘えている場合ではございませぬよ!?・・・まあ良いでしょう。私が貯めたへそくりがございます故、藤十郎殿への祝いの品は私の銭を使いましょう」
まつがため息をつきながらそう言うと、利家は「有り難い!」と言って両手を合わせながらまつを拝んだ。
「・・・せっかくですから、祝いの使者は私が参りましょう。久々に大松に会いたくなりましたし」
「・・・豪(利家の四女)の世話はどうする?あれはまだ三つであろう?」
利家が心配そうにまつに聞いた。
「乳母がおります故、大事無いでしょう。それよりも、孫四郎(前田利勝のこと)も連れていきますか?」
「ああ、そうだな。あやつも藤十郎に会いたいだろうし・・・。いや、儂も行こう。藤吉の顔を拝みたくなった」
「拝んで借金の返済を先延ばししようと?」
「違う!・・・いや、それもあるが、孫四郎の祝言について上様から何か聞いていないか聞きたいだけよ」
前田利勝の妻も織田家の姫にする、というのは信長が言ったことであるので利家とまつは他家からの縁談を断っていた。しかし、信長からは具体的な話が来ず、利家とまつはやきもきしていたところであった。
「大松のところには上総介様のご息女が上様の養女として来られるから、孫四郎もそうなるのかな?」
「はて、その様な姫君がまだ織田家に居りましょうや」
まつが首を傾げながらそう呟くと、利家も首を傾げながら言う。
「さあ?そういうのにはとんと縁がないからのう。ま、それも藤吉に聞けば分かるやもしれん」
のほほんと答える利家に、まつは胡散臭そうに利家を見つめるだけであった。しかし気を取り直して利家に話しかける。
「ときに御前様。羽柴へ娘を差し出すということはもう考えなくてよろしいのでしょうか?」
「ああ、良いだろう。結局、摩阿(利家の三女)を上様の養女にする話もなかったからな。とはいえ、急に良き縁談が入るやもしれぬ。娘達の事は任せたぞ」
利家からそう言われたまつは、「承りました」と言って頭を下げたのだった。
近江永原城に居た柴田勝家は、羽柴と織田の婚姻について報せを受けると、すぐにお市の方に報せた。お市の方にしてみれば、茶々を羽柴へ嫁入りさせる必要がなくなったので、きっと喜ぶであろうと勝家は想像していた。しかし、勝家がお市の方にその報せを伝えると、勝家の予想に反してお市の方は大声を上げた。
「ゔぅえああああああ!口惜しやぁああああああ!」
「ど、どうした市よ。そのような奇声を上げて。娘が猿の息子に嫁がなくて済むんだぞ?」
戦場ではうろたえることのない勝家が、うろたえながらお市の方に尋ねると、お市の方は如何にも悔しそうな顔をしながら勝家に言う。
「あの猿め!妾がせっかく茶々を仕方なく、仕方なく嫁がせようと思うておったのに!」
お市の方の発言に勝家が思わず「ええ・・・」と声に出した。そんな勝家を無視してお市の方は一方的に喋りだした。
「乳母達に調べさせたら、北近江で養蚕とか色々やって羽柴の富を増やしたり、南蛮船を見様見真似に作ったりと、才ある若者故、茶々にふさわしいかも?と少し思い直していたというのに!よりによって三十郎兄上(織田信包のこと)の娘御を選ぶとは!あの猿面冠者は阿呆か!」
「いや、阿呆って・・・」
「御前様も御前様です!何故、兄上に茶々を養女として出さなかったのですか!御前様も石山本願寺との戦いで身を削っているのですから、茶々を嫁に出せば羽柴から縁戚の誼として銭なり兵なりを搾り取れたのではございませぬか!?」
「お、お前が『羽柴に娘をやりたくない』と言うから上様に直に断ったのに・・・」
勝家は怒鳴りたい衝動を抑えながらそう言った。婚姻して日が浅く、未だ信長の妹である、という意識が残っている勝家には、お市の方を怒鳴りつけることに遠慮がまだあった。
お市の方がまだ文句を言う。
「貴方男でしょ!?男なら妻の言うことを唯々諾々と聞くのではなく、妻を少しは説得するなり『だまって俺について来い!』とか、もっと男らしいところをお見せくださいまし!」
ややヒステリック気味に叫ぶお市の方に辟易しながら話を聞いていた勝家は「分かった分かった」と言うと、溜息をついた。続けてお市の方に言う。
「とにかく、茶々を養女にする話はなくなった。儂はこれから石山本願寺対策を話し合わなければならないから、もう行くぞ」
そう言うと不満そうな表情を顔に浮かべているお市の方を置いて、勝家は部屋から出ていった。
部屋に残されたお市の方は三人の茶々の乳母をすぐに呼びつけた。
「御方様、お呼びでございましょうか?」
三つ指ついて平伏している三人の乳母達を代表して、大野さんがお市の方に尋ねると、お市の方は茶々の嫁入りの話がなくなったことを伝えた。
「承知いたしました。それでは、羽柴藤十郎殿についてはもう調べなくても?」
「ええ。あそこと縁続きとなることはないでしょうから、もう必要ありませぬ」
お市の方がそう答えると、大野さんは「承知いたしました」と言って頭を下げた。そして、今度は田屋さんが口を開く。
「しかし、よろしゅうございましたな。茶々姫様とお別れせずに済みました。正直な話、殿様(柴田勝家のこと)は羽柴との縁組を推し進めるものとばかり思っておりました」
「ええ、私もそう思い、覚悟をしておりました。ただ、あのお方は妾の意見を聞いて下さいました。兄上にお断りの返事を直に申し渡していただけたようです」
「さすがは殿様です。御方様の事を大事になさってくださいまするな」
田屋さんの言葉に、お市の方は「物足りませぬ」と不機嫌そうな口調で言った。佐脇さんがお市の方に尋ねる。
「御方様?何故そのようなことを申し上げるのですか?妻の話を聞く男など、そう滅多に居りませぬよ?」
「妾は新九郎様(浅井長政のこと)のような強引なお方に惹かれるのです。無理矢理迫ってきた新九郎様は、それはそれは男らしゅうありました・・・」
うっとりとした表情を浮かべながら話すお市の方に、大野さん達は少し引き気味であった。そんなことも気にせず、お市の方は話を続ける。
「それに、よくよく考えれば羽柴との縁戚、必ずしも悪いというわけではありませぬ。兄上の養女となるとは言え、茶々が羽柴に嫁げば羽柴を柴田の影響下に置くことが可能となります。そうなれば、柴田を脅かす存在にしないようできるはずです。
それに、羽柴は十二万石・・・いえ、十三万石でしたか。それなりの兵力を動員できるはず。その兵力を権六様が援軍として呼び寄せることが可能になるのです。しかも、援軍の総大将はあの猿です。認めたくはありませぬが、戦上手なのは確か。きっと権六様の良き手足となれたでしょうに」
意外にも羽柴との婚姻のメリットを分かっているお市の方を唖然として見つめる三人の乳母達。大野さんがおずおずとお市の方に尋ねる。
「・・・御方様は筑前殿を許されたのでございまするか?」
「いいえ。万福(万福丸のこと。浅井長政の長男)を殺したあの猿めを許してはおりませぬ。が、それはそれ、これはこれです。それに・・・」
お市の方がそこまで言うと、続きを言うのをためらった。三人の乳母達が不思議そうな顔をしながら、お市の方が話し出すのを待っていると、お市の方は決心したような顔つきになって話し始める。
「・・・万菊(万菊丸のこと。浅井長政の次男であるが、お市の方の子ではない)が見つかり、処刑されたという話を聞きませんし、他国に流れたという噂も聞きませぬ。おそらく、まだ近江、しかも旧浅井領に隠れている可能性があります。羽柴とつながりを持てば、万菊を見つけ出せるかも、と思ったまでです」
お市の方はそう言うと、「ふう」と深く息を吐いたのであった。
こうして、重秀の正室が決まった。羽柴と織田が縁戚になることで、羽柴は織田の一門と見られるようになった。一方、実の娘ではなく養女を迎え入れたことについては、後の歴史の進行から見れば、実の娘を娶らなかったのは正解であった、と言うのが歴史学者の一致した意見である。