第73話 羽柴の嫁取り騒動(中編)
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天正四年(1576年)七月に変わった直後のある日。近江永原城にいた柴田勝家に、信長からの書状が届いた。書状の内容を確認した勝家は、渋い顔をしながら本丸御殿の奥座敷へと向かった。
「市、入るぞ」
奥座敷の一室に入った勝家の目の前には、妻となったお市の方と三人の娘―――茶々、初、江が貝合せで遊んでいたところであった。
「これは御前様。お勤めはもうよろしいので?」
お市の方が三つ指をついて平伏しながらそう尋ねると、勝家は渋い顔をしながら頷いた。そしてぎこちない笑顔をしながら「すまぬが、母上とお話がある故、別の部屋で遊んでくれぬか?」と娘達に言った。
「・・・大野さん、茶々達を別室へ」
お市の方がそう言うと、側に控えていた大野さんと呼ばれた妙齢の女性が、勝家に平伏しながら固まっている茶々達を退出させるように促した。茶々達がそそくさと部屋から出た後、勝家はお市の方の前で胡座をかくと、溜息をついた。
「姫達は儂のことが嫌いなのか・・・?」
「そのようなこと決して。ただ、あの笑顔はかえって恐ろしゅうございまするよ」
お市の方が口元を手で隠して笑いながらそう言うと、勝家は「そうか・・・」と言いつつも複雑そうな表情を顔に浮かべた。
「御前様は笑顔が苦手なのですから、娘達に無理に笑顔にならなくてもよろしゅうございまする。普通に接していただければ、娘達もそのうち慣れまする」
「だと良いが・・・。ただ、茶々は慣れぬやも知れぬな・・・」
勝家の意味深な発言に、お市の方は怪訝そうな顔をした。そんなお市の方に気がついた勝家は、「上様からの書状だ」と言って、右手に持っていた紙をお市の方に差し出した。
「・・・読んでもよろしいので?」
お市の方がそう聞くと、勝家は黙って頷いた。お市の方は勝家から書状を受け取ると、読み始めた。
お市の方が読みを進めていくうちに、お市の方の顔は段々と険しくなっていった。さらに読み進めていくと、顔に赤みがさし、目つきが鋭くなっていった。その鋭さは猛将と言われた勝家でさえ若干の恐ろしさを感じていた。そして書状を読み終えたお市の方は、勝家が思わず耳を手で塞ぐほどの大声を張り上げた。
「茶々を、私の娘を、あ、あの猿の嫁にするですって!?しかも、兄上の養女として!?猿めに我が娘を嫁がせるとは、兄上は一体何を考えておられるのか!?」
全身を戦慄かせて叫ぶお市の方に対して、勝家は冷静な声でお市の方に話しかけた。
「落ち着け。相手は猿ではなくてその息子じゃ」
「同じようなものです!わ、妾の愛しい娘に猿の血を入れるなどと、なんとおぞましい!」
嫌悪感から身を震わせるお市の方。少し経って何かに気がついたような顔をすると、その顔をそのまま勝家の目の前に持ってきた。
「御前様、まさかお受けする訳ではございませぬよね!?」
お市の方の質問に対して、勝家は複雑そうな顔をしつつも沈黙で返した。お市の方は声を上げる。
「よろしいですか!?あの猿は、我が息子の万福を関ケ原にて串刺しにした血も涙もない男なのです!しかも、義母上の指を数日に渡って切断した後に殺した残酷な男なのです!猿は私にとって夫とその息子、義母を殺した憎き仇。その息子に誰が娘を渡すというのですか!」
浅井長政の母である小野殿が、関ケ原にて指を切断されるという苦痛を与えられながら殺されたのは事実であるが、それを実行したのが秀吉であるという確固たる証拠は見つかっていない。恐らく、お市の方には関ケ原で万福丸が処刑された情報と、小野殿が関ケ原で処刑された情報がごっちゃになって認識していた可能性がある。
「御前様!あの猿は御前様の織田家中の地位をも脅かす存在なのです!そんな者と血縁関係になってよいはずがございませぬ!そうではありませぬか!?」
「・・・相分かった。この件については市に従う故、上様には儂から言っておく」
疲れたような表情で勝家がそう言うと、お市の方は怪訝そうな顔で勝家を見つめた。
「・・・よろしいのですか?こういう事は、男が女の意思を無視して勝手に決めるものとばかり思っておりましたが?」
実際、お市の方の婚姻も離別(死別)も全て信長の一存で決められたことであり、お市の方の意思など全く顧みられたことなど無かった。なので、お市の方は勝家の言葉を疑ってしまった。
「・・・儂も、茶々が羽柴に嫁ぐことに思うところがないわけではない。それに、有岡城の荒木摂津から、石山本願寺への輜重を運ぶことを目的に、毛利が村上水軍を中心とした船団を派遣するらしいという報せが入ってきている故、その対応をしなければならぬ。他の瑣末事にかまけている時ではないのだ」
―――養女とは言え、娘の婚姻が瑣末事ですか―――
勝家の言葉に心の中で反発したお市の方であったが、とりあえず断ってもらえることは分かったので、お市の方は胸をなでおろしたのであった。
勝家が部屋を出ていった後、お市の方は手に持っていた書状をビリビリに破いた。そして、さんざん破った後に側にいた侍女に茶々の三人の乳母を呼ぶように命じた。
「お呼びでございましょうか?御方様」
少ししてから、三人の乳母―――大野さん(大野定長の妻)、田屋さん(田屋明政の娘)、佐脇さん(佐脇良之の妻)が部屋に入ってきた。三人はお市の方の前に来ると、破かれた書状を見てギョッとした。
「御方様、如何なさいましたか?」
大野さんがそう言うと、お市の方は怒気のこもった声で書状の内容を話した。
「まあ、羽柴筑前守様の息子と茶々様を?」
大野さんが驚いたような表情でそう言うと、お市の方は頷いた。
「まったく、猿の息子なんぞに茶々を娶せられようか。父親に似た猿顔の息子に、美しい茶々が釣り合うわけなかろうに・・・」
「え?大松殿は母親似で、父の筑前とは似ても似つかないお顔でしたよ?」
佐脇さんがそう言うと、大野さんと田屋さんが佐脇さんに視線を移した。しかし、それに気が付かないお市の方が話を続ける。
「まったく、下賤の身である猿めの息子なら、きっと振る舞いも下賤の者でありましょう。そんな男子など、高貴な茶々に相応しい訳がない」
「え?大松殿は義兄上や義姉上から犬千代殿と一緒に厳しく育てられておりました故、武家の礼儀作法は幼少の頃から身につけておりましたよ?」
そう話す佐脇さんを大野さんと田屋さんは唖然とした表情で見つめていた。そんな状況にも関わらず、お市の方は更に話を続ける。
「あの猿の息子のことです。きっと無学に相違ありませぬ。ああ、嫌だ嫌だ。そんな所に茶々を出すなんて」
「え?大松殿はむしろ勉学は出来る方でございますよ?七つですでに寺に学びに行っておりますし、確か竹中半兵衛様から漢学を学んでいたと義姉上から聞いたことがございますよ?」
佐脇さんが話し終えると、いつの間にか大野さんや田屋さんだけではなく、お市の方さえも唖然とした表情で佐脇さんを見つめていた。佐脇さんが首を傾げながら尋ねる。
「御方様?皆様も如何なされましたか?」
「貴女、さっきから何を言っているの?猿の息子をやたらと庇っておるようだが?」
お市の方がジト目でそう尋ねると、佐脇さんはしれっと答える。
「ええ、羽柴筑前守様の息子でしょ?恐らく大松殿のことなれば、よく知っておりますよ?」
「・・・何で知っているのよ」
「え?だって何度か会ったことありますよ?」
佐脇さんの言葉に、一瞬部屋が静まり返った。しかしすぐに「えーっ!?」と言う大声が複数上がった。
「佐脇殿!?いつ筑前様の倅にお会いしたのです!?詳しくお話くだされ!?」
田屋さんが詰め寄りながら佐脇さんに聞くと、佐脇さんは詳細を話し始めた。
佐脇さんは未亡人である。亡くなった夫は佐脇良之と言う。実はこの夫、尾張荒子城主の前田利昌(利春とも言う)の五男である。つまり、前田利家のすぐ下の弟である。良之は佐脇家に養子に出されたものの、信長のエリート集団である赤母衣衆に組み入れられており、同僚として兄の前田利家と共に戦場を駆け巡っていた。なので利家とは仲がとても良いのである。
その後、良之は結婚し、その妻である佐脇さんと共によく利家の屋敷を訪れていた。その時に利家とまつに育てられていた大松―――羽柴藤十郎重秀とよく会っていたのである。
永禄十二年(1569年)以降、良之は信長の勘気を被って追放され、三河にて徳川家康に仕えている。そして元亀三年(1532年)、三方ヶ原の戦いで戦死。未亡人となった佐脇さんは実家に戻った後に色々あって茶々の乳母となったのである。
「え?本当に?猿の息子・・・、大松でしたっけ?その者は猿顔でも野蛮でも無学でもないと?」
「はい。まあ、夫が織田家より追放された後は会ったこと無いので、ひょっとしたら違うかも知れませぬよ?」
お市の方の質問に佐脇さんは首を少し横に傾けながら答えた。直後、大野さんが何かを思い出したかのように口を開いた。
「そう言えば、筑前様の息子は実は筑前様の実の子ではないという噂を聞いたことがございます。なんでも、それほど父親に似てないのだとか」
「義姉上が言うには『母親のねね様に生き写し』だそうです。なので『ねね様が生娘のまま息子を産んだ』という信じられぬ噂が流れたそうですよ?」
佐脇さんが大野さんの後を継いでそう話すと、お市の方は右掌を口に当てて考え込んだ。しばらく経って姿勢を正すと、三人に凛とした声で命じた。
「・・・三人共、すぐに猿・・・、いえ、羽柴筑前守の子息について調べなさい」
三人の乳母は平伏しながら、「承知しました」と声を揃えて答えたのだった。
同じ頃、伊勢安濃津城では、北伊勢の支配拠点としてふさわしい城となるべく日夜拡張工事が行われていた。そんな中、先に完成した本丸御殿の書院では、つい先日に伊勢上野城から引っ越してきた織田信包と妻の長野夫人が、娘の藤を呼び出していた。
「父上、母上、お呼びにより参上いたしました」
信包と長野夫人の前で姿勢正しく三つ指をついて平伏する藤に、信包は優しい声を掛けた。
「お藤よ。上野城からの引っ越しが終わって疲れているところ、呼び出して申し訳ないのう」
「お心遣い感謝致します父上。でも、藤は平気でございますれば、どうぞご心配なく」
藤がそう答えると、信包は「そうか」と言って相好を崩した。そして一息つくと、話を始めた。
「実は、兄上・・・、上様がお藤を養女として迎えたいと申し出てきた」
「上様が?私を養女に?」
「うむ、そして・・・、そなたを羽柴筑前守の子息、羽柴藤十郎に娶せたいと申してこられた」
真剣な眼差しで藤を見ながら話す信包。その隣では長野夫人が苦虫を噛み潰したような表情を顔に浮かべた。二人の様子を見ながら、藤は首を少し横に傾けながら信包に聞いた。
「羽柴・・・?伊勢にその様な国衆がいましたでしょうか?」
「伊勢ではない」
「では尾張か美濃でしょうか?」
「尾張でもないし美濃でもない。ついでに言えば羽柴は国衆ではない。北近江十三万石を領する大名よ」
信包の答えに対して、藤は目を見開き口元を両手で覆い隠すようにして驚いた。
「北近江十三万石の大名のご子息が・・・。ひょっとして、高貴なお方なのでは?」
藤がそう呟いた瞬間、信包は思いっきり吹き出し、長野夫人は「高貴など、とんでもない!」と言って激怒した。
「羽柴なぞ、元は百姓の身から上がった成り上がり者ですよ!」
「ええっ・・・!?」
母親から予想外の発言を受けた藤はさらに驚いた。百姓から大名に成れるということがあるのだろうか?藤はそう思った。
「まあ、それだけ筑前には才能があったということよ。そして、その息子である藤十郎もまた、才の溢れる若武者よ」
そう言うと信包は藤と長野婦人に対して、秀吉のこれまでの活躍と、重秀が大松だった頃に長島の戦いで会った時のこと、そして重秀が近江でやっていることを話し始めた。そして話し終えると、信包は一息ついてまた話し始めた。
「・・・というわけで、織田家にとって羽柴家は重要な家なのだ。上様も殊の外筑前守を大事に扱いたいが故、藤を上様の養女とした上で羽柴家に嫁がせたいと考えておるのじゃ。とは言え、今のところ命令ではなくて要望という形で来ておる。断ることは可能じゃが・・・」
信包がそう言うと藤に視線を向けた。藤が母である長野夫人を見ると、長野夫人は首を横に振った。どうやら反対らしい。藤は視線を自分の前の畳の上に落とした。そしてそのまま黙ってしまった。
それから時間が経ち、顔を上げた藤は、朗らかな声で信包と長野夫人に語りかけた。
「父上、母上。藤は上様の要望を受け入れようと存じまする」
「お藤!?」
藤の発言に対して、長野夫人が驚きの声を上げた。藤が落ち着いた口調で話し出す。
「母上。私も武家の娘。お家のためにどこかに嫁ぐことは覚悟しておりました。また、父上は母上の実家である長野家を再興してくださり、母上と私めを故郷へと戻してくださいました。残念ながら長野の名は無くなりましたが、それでも長野家の一族や家臣、領民を守って頂いておりまする。私は、父上のために恩をお返ししとうございまする。そして、私が羽柴へ嫁ぐことが、長野・・・いえ、織田のためになるのであれば、喜んで羽柴へ参りまする」
そう言って藤は平伏した。長野夫人は静かに涙を流し、信包は「うん、うん」と頷いた。
「お藤よ。よくぞ決断した。案ずることはない。お藤は上様の娘として羽柴へ嫁ぐのじゃ。きっと、お主を大切にしてくれようぞ」
信包はそう言うと、今度は長野夫人に語りかけた。
「・・・確かに、羽柴は百姓の出自。お前から見れば下賤の輩かも知れぬ。しかし、藤十郎は若殿様の小姓を務めていた故、そこら辺の国衆の倅よりは育ちは良い。儂も会ったことはあるが、決して下賤な振る舞いをするような者ではなかった。きっと、良き夫婦になるじゃろうて」
そう言って信包は長野夫人を慰めた。長野夫人は涙を拭い、溜息をつくと、藤に語りかけた。
「・・・そなたが受け入れるというのであれば母は何も申しませぬ。ですが、そなたは名門長野家の血筋の者。羽柴と違うのですから、夫や姑や舅に何か不躾なことをされたらすぐに帰ってらっしゃい」
「あっ」
長野夫人が話している横で、信包が何かを思い出したかのような声を上げた。長野夫人と藤が信包を見つめる。
「言うの忘れておったが、羽柴には姑がおらぬ。筑前の正室で藤十郎の母であるねねとやらは藤十郎を産んだ際に亡くなっておる。大姑や小姑はおるが、百姓出身じゃ。なので、羽柴家の慣習などというものがない、と上様が言っておったな」
信包の話を聞いた長野夫人は、最初は唖然とした顔をしていたが、そのうちに長野夫人の顔が紅潮していった。信包がなだめるような口調で長野夫人に話しかける。
「ま、まあ、上様の養女となった後に、織田家の慣習や礼儀を知っている女子を乳母とか侍女として付けて一緒に羽柴へ行かせる故、案ずることはないと思うが・・・」
「断って下さい」
「断るって、お前・・・。お藤は良いと申したではないか・・・」
「違います。織田家からの乳母や侍女を出すのを断って下さい。乳母や侍女は我等長野家から出します故」
―――名門長野の家名はすでに無くなりました。しかし、長野の慣習や礼儀はまだ知っている者が多く残っております。それらを羽柴に送り込み、羽柴を長野で染め上げてくれましょうぞ!―――
そう思いながら悪巧みするような笑みを浮かべて笑う長野夫人を、信包と藤は唖然とした顔で見つめていた。
その後、伊勢安濃津城の本丸御殿にある自室に戻った藤は、机の前に座ると、両手で頬杖をついてため息をついた。
「私がまさか十三万石の大名家に嫁げるとは・・・」
母親からは「伊勢のどこかの国衆へ嫁ぐことになりましょう」と聞いていたので、まさか伊勢から出ることができることに、藤は心が弾んでいた。
「しかし、北近江か・・・。『近江の君』と呼ばれるのは嫌だわ・・・」
そう言って藤は視線をある所へ向けた。そこには、54冊の本がずらりと並んでいた。その中から1冊の本を取り出して表紙を見つめる。何度も読んだ54冊の本は、藤が13年の生涯の中で唯一夢中になった本であった。
「羽柴では若君(石松丸のこと)が亡くなられて忌中故、婚儀は当分先だと聞きました。それまでに歌をもっと上手に詠めるように致しましょうか」
そう言うと藤は手にとった本―――『須磨』を開くと、そこに書かれている歌を指でなぞったのであった。
天正四年(1576年)七月十四日、岐阜城の本丸御殿で信長は信包と勝家から一通ずつ書状を受けていた。信包からの書状は、娘の藤を信長の養女とすることに同意する旨の報せであった。一方、勝家からの書状は、茶々を信長の養女にすることの可否を伝えるものではなかった。
勝家からの書状。それは七月十三日に木津川口で毛利水軍と織田水軍との間で起きた戦いで、織田水軍を率いていた真鍋貞友が戦死したこと、そして織田水軍が敗北し、石山本願寺に兵糧物資の搬入を許してしまったことを報せる書状であった。
注釈
現代と違い、この時代では女性が嫁ぎ先の名字を名乗ったり呼ばれることはない。大体は『長野夫人』のように出身の家の名字で呼ばれることが多い。なので、この小説のように『大野さん』とか『佐脇さん』と呼ばれることはない(『田屋さん』は田屋家の出身)。
しかし、茶々の乳母については実名が不明なこと、『大蔵卿局』や『大局』と呼ばれた時期が不明であることから、この小説ではあえて嫁ぎ先の名字で呼んでいる。