第69話 夫婦喧嘩
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天正四年(1576年)三月のある日。重秀は小谷城跡に来ていた。完成した養豚場や養鶏場、屠殺場を視察するためである。
「養豚場は福寿丸に、養鶏場は山崎丸に作りました。また、福寿丸には溜池を作ることで、養豚場と養鶏場の水を確保しておりまする」
加藤教明がそう説明すると、重秀が尋ねる。
「あそこ井戸なかったっけ?」
「ありますが足りませぬ。豚は意外と泥浴びを盛んに致します故、井戸だけでは水が足りませぬ」
重秀の質問に答えたのは教明ではなく本多正信だった。重秀はさらに質問をする。
「屠殺場を山の上の旧馬場に作った理由は?」
「一つは人目につかぬこと、一つは井戸を始め、溜池がありますので水が豊富で血を洗いやすいこと、最後に鉄砲の音を聞かれにくくするためでございまする」
牛の屠殺が大変なことを知った重秀は、教明と正信にその旨をまとめた書面を作って秀吉に渡した。その後、秀吉のアイデアによって、牛の屠殺は再び進められるようになった。
すなわち、屠殺するのはあくまで南蛮人が必要とする場合のみとし、無闇に殺さないようにするための掟が定められた。また、火縄銃で牛の後頭部を撃って気絶させる、いわゆるスタンニングをしてから斧で牛の首を刎ねる方法が取られることとなり、気絶させるという過程が入ったために牛が暴れるという危険性を減らすことができた。また、そのための作業員は長浜から腕の良い鉄砲撃ちと木を切り倒すのが得意な足軽を派遣することで、牛飼いの心理的負担を和らげることにした。この時使われる火縄銃は従来の火縄銃ではなく、専用の侍筒を国友で特注品として作らせたものである。これには正信も「牛を気絶させるだけの鉄砲を作るとは、羽柴も贅沢ですのう」と呆れていた。
結果、牛から肉を取ることが可能となり、南蛮人向けの精肉が出来る体制となった。また、鶏については、元々締めることにそれほど抵抗がないためここまで苦労することなく精肉が可能であり、すでに味噌漬けや糠漬け、たまり漬けを製造するまでになっていた。ただし、鶏の数はまだ不足しているため、当分は食さずに増やすことが優先されている。
豚に関しては飼育が始まったばかりでまだ試行錯誤の状態なので、まだ肉を取るところまではいっていない。
「ところで、話は変わるが・・・」
重秀が教明と正信に聞いた。
「先日、伴天連が来て色々話をしていっただろう?皆の様子はどうであった?」
秀吉の許可を得たフロイス達は、長浜から小谷へわざわざ布教活動をしにやってきていたのだ。そして、教明も正信もフロイス達の説法を聞いていた。
「あまり興味なさそうでしたなぁ。直前と直後に性慶殿がやってきて阿弥陀如来のお慈悲を説いて回っておりました故、小谷に住む一向門徒でキリシタンになるものは居りませんでした」
正信がそう答えると、教明が続けて答える。
「小谷城だけではなく、周辺の村々にも伴天連共は布教していたようですが、その後キリシタンになったという者がいるとは聞いておりませぬ」
フロイス達が長浜にやってきて一月が経った。すでにフロイス自身は京に戻っていったが、ロレンソ了斎や他の伴天連が残って長浜や山本山城周辺で布教を行っていた。それらの地域では少しではあるがキリシタンとなる者がいたが、まだまだ爆発的に増えたというわけではなかった。
「まあ、ここら辺は宮部城からも近く、宮部様の領地に接する場所。宮部様の影響力が全く無い訳ではありませぬからなぁ。宮部様はこちらには口を出してきませぬが、宮部領の百姓とこちらの百姓は繋がりがありますからなぁ」
正信の言うとおり、小谷城の南には宮部継潤が城主を務める宮部城がある。秀吉のやることには諸手を挙げて賛成する継潤であったが、こと伴天連のことについては積極的に苦言を呈していた。やはり僧侶だったということで、異国の宗教には拒否反応が出るらしい。自分の領地内での伴天連による布教を断固拒否していた。継潤は秀吉の与力であって家臣ではないため、秀吉も強くは布教の手伝いを命じることはできなかった。もっとも、家臣であっても秀吉は布教の手伝いを強要していないが。
「まあ、今の所小谷城周辺の百姓は安定した生活を送っていますからな。生活が安定していれば、神だとか仏だとかデウスだとかに救いを求めはしないでしょうな」
正信の発言に対し、重秀が「そうなのか?」と聞いてきた。正信は話を続ける。
「そりゃあそうでしょう。自分ではどうしようもない、例えば疫病や戦乱で将来が不安になるから、現世の救いを求めて宗門に縋るのです。しかし、ここら辺では羽柴領になってからは戦に巻き込まれる百姓はおりませぬ。年貢は結構取られますが、若の養蚕で百姓達が銭を稼げるようになりました。命の安全と懐の余裕ができれば、人は将来に望みが持てます。そうなれば宗門にあまり縋り付くことは少なくなります」
「・・・父や私は善政を敷いていると考えても良いのかな?」
重秀が照れながらそう言うと、正信はすました顔で答える。
「ま、越前の坊官よりはマシですな」
「あれと一緒にするなよ」
重秀がそう言うと、正信と教明は笑い出した。それにつられて重秀も笑い出した。
小谷城から長浜城に帰ってきた重秀は二の丸御殿の自分の部屋に入ろうとする。しかし、そこに千代が大声を上げて近寄ってきた。
「若君、若君!ああ、お戻りなさいませ!」
「・・・只今戻りました、千代さん。如何なされたのです?そんな大声を上げて」
普段は明るいながらも冷静沈着な態度の千代なのだが、重秀の目の前にいる千代は見るからに狼狽していた。初めて見る千代の態度に訝しがりながらも、重秀は千代を落ち着かせるように言った。
「夫が、伊右衛門殿が、キリシタンになると言っているのです!」
「ええっ!?」
「私は反対申し上げたのですが、『これは千代のためでもあるんだ!』と言って聞かず、今日明日にも殿のお許しを得ると申されて・・・。私はどうしたらよいかと居ても立っても居られず・・・」
千代はそう言いながらも廊下をあっち行ったりこっち行ったりとウロウロしながら声を上げていた。その声に何事かと、近くの部屋で待機していた福島正則や加藤清正、侍女たちが廊下に出てきてしまった。
「ち、千代さん。とりあえず、私の書院で話を聞きましょう。市、虎、お前達もついて参れ。他の者は戻れ戻れ!」
重秀はそう声を張り上げると、千代を書院へと連れて行った。
書院では重秀と千代、正則と清正が車座になって座っていた。とりあえず、重秀は千代にこれまでの経緯を聞いた。
千代が言うには、10日ほど前から何かを悩んでいる様子であった。と同時に、時間を見つけては屋敷から外に出る回数が増えていった。祖父江勘左衛門がこっそりと後を付いていくと、一豊が長浜城下町の端にある伴天連の教会なる建物に入っていったところを目撃した。
勘左衛門からその旨の話を聞いた千代は、最初は秀吉か重秀の命令によるものだと思っていた。秀吉も重秀も伴天連達を他の宗門から守るように命じていたので、一豊も警固を行なっていたのだろう、と思っていた。
しかし、3日前に山内の屋敷に伴天連が来て、一豊と千代に伴天連の教えについて説明をしに来た時には、千代もおかしいと思ったようだ。伴天連が帰った後に千代が一豊に問うと、一豊が「伴天連の教えについてどう思う?」と聞いてきたのだった。
千代からすれば、伴天連の教えは特に拒否するようなものではなく、信じたい者がいれば信じれば良いという考えだったので、そのまま自分の考えを述べた。そしてそれを聞いた一豊が嬉しそうに「そうか」と言った時には、千代の心の中で、おかしいという気持ちは不安という気持ちに変化していった。
そして昨日、千代は一豊から「共にキリシタンとなり、伴天連の教えと共に生きていこう!」と純粋な目で打ち明けられたのであった。そして一豊は千代を説得し始めた。とは言え、一豊も家臣を抱える武家の当主。伴天連の教えの素晴らしさだけではなく、キリシタンになった場合のメリットを千代に説いていた。すなわち、重秀が望む南蛮の知識を一豊や千代が聞き、それを重秀に教えれば、重秀や秀吉は山内家を重用するだろう。そして、それこそ山内家の功名をより高めることになる、と言うのであった。
千代にしてみれば、急に言われても、という気持ちなのであるが、『夫を立てることこそ最良の妻』という戦国時代的価値観の持ち主であった千代は、キリシタンになることに心が傾いていた。しかし、一豊の次の台詞が、千代を反キリシタンとしてしまった。
「キリシタンになれば、妻は一人のみとされる。これならば母上から『側室を持ったら?』という小言を聞く必要がなくなる!妻は千代一人だけじゃ!」
一豊にしてみれば、妻は愛する千代だけいればよいのであって、側室は持つ気はなかった。しかし、実母である法秀院を始め、家臣の一部から側室を持つよう言われ続けており、そのたびに断っていた。最近になると千代までも側室の話を持ってくるようになっていた。そこで一豊はキリシタンになることで、伴天連の教えである『一夫一妻』を盾に側室を断ろうと考えたのだった。
一方、戦国時代的価値観の持ち主であった千代は、まずは山内家の存続を願っていた。今年で一豊は32歳、千代は20歳。一応、子供は授かる年齢であるが、長年頑張ってきても授からないことを考えると、ひょっとしたら、という想いが千代にはあった。なので一豊には側室を持ってもらい、山内家の跡取りを作ってもらいたかったのだった。実は法秀院に側室を持つよう、一豊に言って欲しいと頼んだのは千代だったりする。
そんな訳で、千代は一豊や自分がキリシタンになることに猛反対し、キリシタンになりたい一豊との間で喧嘩が始まった。そしてその喧嘩は、『キリシタンになるならない』から『側室を持つ持たない』へ、そして何故か『夫婦間の日頃の不満』へと戦線が拡大していったのであった。
「それは・・・。千代さんや伊右衛門には申し訳ないことをしたな・・・」
一豊が自分のためにキリシタンになろうとして、結果千代さんと喧嘩してしまったことに申し訳無さを感じた重秀がそう言うと、千代は首を横に振った。
「いえ、若君のせいではございませぬ。全ては我が夫の短慮のせいでございまする」
「なにはともあれ、私のせいで山内家が断絶する虞があることは私の本意ではない。私も伊右衛門を説得しよう。で、伊右衛門はどこにいるんだ?」
「屋敷には居りませぬ故、伴天連の教会とやらに甚左衛門殿が、その他長浜城下で行きそうな所へは吉兵衛殿(五島為浄のこと)が探しに行っております。二の丸御殿には居りませんから、あと思いつくことは本丸御殿しか・・・」
「相分かった。では私は本丸御殿へ行こう。市と虎はここで待機しろ。ひょっとしたら伊右衛門がこっちに来るかも知れないからな」
重秀がそう言うと、正則と清正は「承知!」と声を揃えて平伏した。その時、千代が声を上げた。
「若君、私も本丸御殿へ参りまする」
「千代さんも?」
重秀がそう言うと、千代は力の入った目をしながら頷いた。
「ひょっとしたら、殿が同意されているやも知れませぬ。山内家の存続に関わる大事故、私が殿を翻意させる必要がございまする」
重秀が千代を連れて本丸御殿に乗り込み、秀吉のいる小書院へ入った時、そこには一豊が下座にて座っていた。
「おお、藤十郎。何用か?」
明るい表情でありながら、若干困惑気味の声を出しながら言う秀吉に対して、重秀は挨拶もそこそこに切り出した。
「伊右衛門、キリシタンになりたいというのは真か?」
「御意にございまする」
真面目そうな声で答える一豊。重秀は秀吉に視線を向けた。
「・・・儂もさっき聞いたところよ」
秀吉が困り顔でそう言うと、重秀は一豊の横に座り説得を始めた。
「伊右衛門、私への忠誠心からキリシタンになりたいというのであれば無用ぞ。南蛮の知識は別の方法で手に入れられる。そもそも、山内家を断続の危機に陥れるようなことは望んでおらぬ」
重秀の言葉に対して、一豊は首を横に振った。
「確かに、伴天連に近づいたのは南蛮の知識を手に入れ、若君のため、そして羽柴家へのご奉公のためでございました。しかし、伴天連の教えを聞くうちに、デウスへ帰依することは、それがしや妻の千代のためと思うようになりました。これは、それがしの心の内の想いでございますれば、若君の指図をお受けするわけにはいきませぬ」
「御前様、お願いでございまする。どうかキリシタンになることだけはお止め下され。側室を持ってはいけないという教えに帰依しては、山内家が断絶してしまいまする」
千代の説得に、一豊は声を上げて反論する。
「何を言うか!側室がいなくとも、儂と千代が励めば子などすぐに授かるわ!それに、側室を持つか持たぬかは当主が決めること!千代が口をだすことではないわ!」
「伊右衛門、千代さんに対してそのような物言いは・・・!」
重秀が抗議の声を上げるが、秀吉が「控えよ、藤十郎」と重秀を抑えた。重秀が黙り込むと、部屋に沈黙が広がった。少し経った後に秀吉が口を開いた。
「・・・本来、儂が山内家の内部に口をだすのは憚られるのであるが、家臣の家中を鎮めるのも主君の務め。よって、沙汰をいたす。しかし、伊右衛門と千代の言い分を詳しくは聞いておらぬ。双方、心ゆくまで述べるが良い」
そう言うやいなや、一豊と千代が互いの想いをぶちまけた。重秀はただ唖然と聞くことしかできなかった。
一豊と千代が言い合いをしている中、重秀は秀吉が手招きをしていることに気がついた。重秀が二人に気付かれぬよう、そっと離れると、秀吉の傍にやってきた。
「父上、何か?」
「せっかくじゃ。お主も今後の参考として、夫婦喧嘩というものを見ておけ」
「ええ・・・」
重秀が露骨そうに嫌そうな顔をしながらそう言うと、秀吉はいたずらを仕掛けるような顔つきをしながら言う。
「まあ、そう言うな。ほれ、二人の言い分をよく聞いてみい。もはやキリシタン云々の話ではなくなっておるわ」
そう言われた重秀は、二人の方に視線を移して、二人の言い合いを聞いてみた。確かに、秀吉の言うとおり、二人の口論は『側室を取るか取らないか』の平行線と化していた。
「結局、二人の問題はあれだけということよ。キリシタンになるかどうかは切っ掛けに過ぎぬわ」
「はあ。と言う事は、私めには関係のないこと、となりますか?」
「二人の喧嘩の原因として、と言う意味では無関係じゃな。しかし、主君となる以上、家臣の揉め事を鎮めるという点では関係大有りじゃ」
秀吉がそう言うと、今度は一豊と千代の方を見た。二人は言い合いに疲れたのか、肩で息をしながら睨み合っていた。
「では、そろそろ儂が出張るかのう」
秀吉がそう言うと、「やあやあ、お二方。言いたいことは言い合ったかな?」と明るい声を二人にかけた。続けて秀吉が語りかける。
「お互いの言い分よう分かった!伊右衛門、お主が千代殿の事を想っていることはよぉ〜く分かった!じゃが、千代殿の気持ちも汲み取ってやれ!自分を差し置いて『側室を持て』などと言う妻は貴重じゃぞ!」
秀吉の発言に一豊の顔色が変わった。一豊が何かを言おうとしたが、それを遮るように秀吉が話を続ける。
「しかしのぉ、千代殿。一豊がそなたを大切に想っていることは無下にするな。これほど夫に慕われている妻はそうそういないぞ!そもそも、千代殿もまだまだ若い!諦めるにはちと早いのではないか?」
秀吉にそう言われた千代が、複雑そうな顔をしながら秀吉を見つめる。
「し、しかし、今まで子を授からないのは・・・」
「やり方がまずいのかも知れぬなぁ」
千代の反論に対して秀吉が右掌で顎をさすりながら答えた。そして話を続ける。
「実はのう、唐の国では房中術という秘儀があってのう。それを使えば、丈夫な子が生まれると言われておる。それを試してみて、駄目なら改めて側室について話し合えばよいのでは?」
「房中術ですか・・・?しかし、唐の国の秘儀など私共には良く分かりませぬが・・・」
困惑する千代に対し、秀吉は重秀を指差しながら言う。
「心配するな。藤十郎が存じておる。藤十郎から教えてもらえ」
「はあぁ!?」
秀吉の予想外の発言に重秀は驚きの声を上げた。そんな重秀に構わずに秀吉が話を続ける。
「藤十郎は房中術の漢籍を持っておるからのう。藤十郎に読ませておるが、実践までは至っておらぬはず。そこで藤十郎、お主が房中術の内容を教えてやれ。そしたら伊右衛門と千代が実践して、どういうものかお主に報せてくれるじゃろう。藤十郎は房中術の具体的な内容を知ることが出来るし、山内夫妻は子が授かる。一石二鳥ではないか」
我ながら良い考えじゃ、と自画自賛しながら言う秀吉に、重秀が大声を上げる。
「な、何で私が教えなければならないのです!?書物を伊右衛門に渡せばよいだけではないですか!?」
「何言っておる。『他人に教えることで自らも理解が深まる』と、お主が昔言っていたではないか」
秀吉の反論に重秀が黙りこんだ。秀吉は一豊と千代の方へ視線を移す。
「伊右衛門も千代も、藤十郎の傅役で乳母じゃ。藤十郎もそろそろ妻を娶る歳でもある。当然、子を作る必要もある。それを教えるのも二人の役目ぞ」
そこまで言った秀吉は、何かを思いついたのか両の掌を叩いた。そして話を続ける。
「・・・そうじゃ!せっかくだし、伊右衛門と千代で藤十郎の目の前で房中術を実践して見せい!藤十郎も具体的な内容を見学できるし、伊右衛門も千代も藤十郎の指導で子を成すことが出来る!うむ、我ながら良き考えじゃ!」
秀吉がそう言った瞬間、重秀と一豊、千代までも「絶対に嫌です!」と城内に響くほどの大声を上げたのであった。