第6話 秀吉死す?
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「・・・皆、集まったな」
木下屋敷の客間には、上座に前田利家が座り、下座の先頭には大松が座り、その背後に弥助、とも、あさが座っている。更に後ろには副田吉成と村井長頼が座っていた。
「前田の父上、皆揃っておりまする」
大松がそう言うと、利家は一旦目を瞑った。少し時間が経った後、目を開くと、覚悟を決めたような表情で話し始めた。
織田信長率いる軍勢は徳川家康の軍勢と共に若狭国ではなく、越前国へと3万の兵を進めていた。4月25日(旧暦、以降原則として日付は旧暦とする)、手筒山城を陥落させると、次の日には近くの金ヶ崎城を陥落させた。結果、両城を抱える越前国敦賀郡は信長が掌握することとなった。
さて、織田・徳川連合軍は朝倉軍の防衛ラインである木ノ芽峠にいる朝倉軍に対応するべく軍議を開いていた。その最中に、それは起こった。
「は?備前守(浅井長政のこと)が裏切った?」
目の前にいた老年の武将から聞いた言葉に、信長は普段は言わないであろう間の抜けた口調で思わず聞き返した。
「はっ、それがしが北近江に放っていた忍びからの報せです。すでに、浅井の軍勢がこちらに向かっているとのこと」
老年の武将は特に慌てるような口調で言わず、淡々と述べていた。
「弾正、冗談にしては面白くないな」
「御屋形様、このような状況で冗談を言うほど、それがしの心の臓は強くはありません」
どうだか、と信長は思った。目の前にいる老将―――松永久秀は、室町幕府第13代将軍の足利義輝を襲撃して殺し、三好三人衆との戦いで東大寺を焼いたとされている。どう考えたって普通の心の臓を持つ人間にはできないことだ。
「・・・義兄上。真偽の程はともかく、物見を増やしては?」
信長の隣りに座っていた徳川家康がそう言うが、信長は一笑に付した。
「竹千代もこんな冗談に付き合うのか?馬鹿馬鹿しい。備前守は我が妹、市の夫ぞ。我の義弟ぞ。六角攻めのときや上洛の際の畿内での戦いでは援軍を出してくれた。裏切るわけがない」
「恐れながら御屋形様」
そう言ってきたのは織田家重臣の佐久間信盛であった。
「浅井との盟約を結ぶ時、我らは浅井に対して、朝倉とは戦わない旨、約定が結ばれておりまする。ひょっとしたら、その約定を破ったと思われたのでは・・・?」
「黙れ!我らは若狭を攻めておるのだ!敦賀郡を攻めているのは、若狭の武藤(若狭武田家の家臣、武藤友益のこと)めに援軍や兵糧が行かぬようにしているためじゃ!朝倉と戦するためではないわ!」
いや、その理屈はおかしい、とその場にいた全員が思った。確かに、武藤友益は若狭武田家の家臣ながら、朝倉の影響下にある武将である。また、信長の言うとおり、敵の後方遮断は戦術的に正しく、武藤討伐のために敦賀郡への侵攻は補給線を絶つという点では正しい。正しいが、浅井からしてみれば『朝倉領を攻めている』ようにしか見えないのだ。
「御屋形様、ここは松永様の言うことを信じるべきかと存じまするが」
そう言いながら片膝をついて跪いたのは明智光秀である。実は、光秀も織田・徳川連合軍が敦賀郡へ侵攻する直前で浅井が裏切ることを予想していた。このことは光秀が京にいる細川藤孝へ宛てた手紙にも記されている。
そんな時であった。一人の武者が飛び込んできた。
「申し上げます!お市の方様より、陣中見舞いが届きました!」
そう言うと、武者は一人の使者を幕の中に入れた。使者は信長に平伏すると、懐から何かを取り出して側にいた光秀に手渡した。
光秀から手渡された物を見た信長は、首を傾げた。
「・・・なんだこれ?」
それは、高価な絹地でできた袋であった。ただ、袋の両端が閉じられていた。信長が袋を開くと、そこには大量の小豆が入っていた。
「袋の小豆・・・。袋のネズミみたいですなぁ」
久秀の人を喰ったような言い方に、信長を始め、陣内にいた全ての人間の顔色が失われた。
「備前守・・・!裏切ったか!」
そう大声を上げて叫んだのは柴田勝家であった。隣りにいた丹羽長秀が信長に直言する。
「御屋形様、このままでは挟み撃ちにあいまする。何卒、撤退のご命令を!」
呆然としながら長秀の話を聞いていた信長の耳に、今度は木下秀吉の声が入ってきた。
「御屋形様!物見より報告!浅井の軍勢が、北国街道を北上中!」
利家の話を聞いていた大松達は、利家の臨場感のある話に息を呑んでいた。
「・・・御屋形様は藤吉を、そなたの父を金ヶ崎城に入れると、儂を連れて京まで逃げおおせたのじゃ」
利家の言葉に、大松は震える声で質問した。
「・・・それはつまり、殿ということでございますか?」
「・・・そうだ」
利家が答えると、客間に声にならない悲鳴が広がった。
「おじ上方や、蜂須賀様、前野様、竹中様もでございますか?」
大松の質問に利家は黙って頷いた。
「・・・」
大松は黙りこくってしまったが、他の家族が声を上げた。
「そ、それじゃあ、藤吉郎や小一郎は帰ってこんちゅう事ぎゃ!?」
「と、とも。殿さんが、殿さんが〜!」
「・・・ふふふ、不幸すぎるわ・・・」
「み、皆様。落ち着かれよ。殿だからといって、死ぬとは限りませぬ!」
ともが利家につっかかり、弥助が狼狽し、あさが呟いて、吉成がなんとかなだめようとしていた。皆が皆動揺していた。しかし、それも長頼の一喝で収まる。
「黙れ!大松の気持ちも少しは考えろ!」
皆が黙ったところで、利家は話を続けた。
「・・・甚兵衛の言ったとおり、殿だからといって必ず討ち死にするわけではない。金ケ崎城には明智殿も入っておられるし、聞いた話では徳川勢も残ったとも聞く。しかし、戦場は戦場。藤吉が死ぬ事もあり得る。そこで、大松よ」
「はい・・・」
大松は体を震わせてはいたが、両手の拳に力を入れて、利家の目を真正面から見つめていた。
「そなたの父、木下藤吉郎から預かった言葉を伝える」
利家の言葉に大松は息を呑んだ。
「もし、父が帰らなくても、小一郎が生きて帰ったならば、大松は幼少ゆえ小一郎に木下家の家督を譲る。そなたは小一郎の家臣として、小一郎に忠誠を誓い、何事も小一郎に従うように」
利家はそこまで言うと一旦話を止めた。大松が「承りました」と答えると、話を続けた。
「・・・もし、父と小一郎が帰らなければ、木下家は断絶とする。そなたは全て前田又左衛門の指示に従うようにせよ」
「だ、断絶!?何故ですか!若がいらっしゃるのに、家督を譲らせないということですか!?」
利家の言葉に吉成が猛反発した。
「御屋形様は、幼少の大松へ木下家の家督相続を許すまい。我が前田家も、兄が病弱故、家督を儂に譲るよう命じたからな」
利家の複雑そうな表情から発せられた言葉に、吉成が黙り込んだ。
「それに、藤吉と事前に話し合っていたことだ。『もし、お互いの身に何かあれば、残ったほうが家族の面倒をみる』とな。そこで、藤吉は大松を儂に託したのだ。むろん、そなたたちの身も儂がなんとかするつもりだ」
利家がそう言うと、ともと弥助は顔を見合わせた。そして、ともの口が開いた。
「・・・まあ、私等やあさは故郷の中村に戻って百姓やればいいし、副田様は侍だぎゃ、誰かに仕えることもできる。特に心配はねえ。だけんども、大松はこの後どうなるだ?」
「・・・前田の婿養子とする。蕭と娶せるつもりだ」
「・・・待ちなさいよ。幸ちゃんじゃないの?藤吉兄様とそう約束したんじゃないの?」
利家の答えに、あさが今まで以上に低い声で唸るように聞いてきた。
「・・・幸も考えているが、それは前田の都合による」
「・・・ふざけないで!藤吉兄様との約束を破るなんて。それで信用しろと!いずれ大松も邪険にするつもりでしょ!」
利家を睨みつけるあさの姿に、ともや弥助、吉成はもちろん、利家や長頼も驚いていた。常に暗く、人とあまり会話を交わさないあさが、ここまで食って掛かるのを見たことがないからだ。その姿は、あさの元から暗い表情も相重なって、まるで亡者が呪い殺そうとしている様に見えた。
「・・・叔母上、落ち着いて下さい」
そんなあさに、大松が話しかけた。青白い顔をしながら、大松は話し続ける。
「・・・父上が決めたことです。それに、前田の父上は嘘を付くような方ではありません。それに・・・」
そう言うと、大松は弱々しく微笑んだ。
「前田の母上なら・・・、それでも前田の母上ならなんとかしてくれまする」
「・・・大松・・・」
あさはそう言うと、そっと大松を抱きしめた。
「・・・それに、父上や叔父上ならきっとご無事に戻ってきます」
「・・・そうだ。大松の言うとおりじゃ。まだ藤吉らが死んだとは決まってないんじゃ。あやつは美濃攻略の時も、命の危険にさらされたことがあるんじゃ。それでも戻ってきたのじゃ。大松も、皆も藤吉を信じてやれ」
大松の言葉に続けて、利家が力強く答えた。
―――大松は冷静でよく気が利く。立派じゃ。あれは猿、いや弟の薫陶だな―――
大松の振る舞いや言動を見ながら、長頼は心の中でそう思った。利家や秀吉が小牧山城下に住んでいた頃、利家の使いでよく木下家を訪れていたが、そこで大松がよく小一郎に叱られているのを見かけていた。実の父である秀吉が家にいないため、留守を守っている小一郎が大松の躾をしているのを見ていたのだ。長頼はそんな一場面を思い出していた。と同時に、別の事も思い出していた。小一郎が、大松に一度も手を上げた場面を見たことがない、ということを。
当分の間、利家は岐阜の前田屋敷に滞在するらしく、その旨を大松らに伝えると、利家と長頼、そして利家についてきた赤母衣衆の騎馬武者達が隣の屋敷に入っていった頃、大松は居間で1人座っていた。
大松の前には小さな位牌が一つ置いてあった。大松を産んだ直後に亡くなった母、ねねの位牌だ。その位牌に、大松は手を合わせた。
「母上様、どうか、どうか父上達をお守り下さい。そして、皆様を無事にご帰還されるよう、お力をお貸しください」
そう呟きながら、大松は一心に願った。それは、皆が居間で晩飯を食べている横でも続き、夜遅くまで続いていた。とももあさも、もう休むように言ったが、大松は「もう少しだけお願いします」と言っては婉曲に休むことを拒否した。結局、大松は徹夜してまでねねの位牌に手を合わせ続けていた。
秀吉との約束により、仕方なく午前中に寺に行って勉学に励んでいる時間帯を除き、それ以外は食事もろくに摂らずに、ねねの位牌に手を合わせ続けていた大松。
その願いがねねに届いたのか。利家が木下屋敷で大松に説明していた2日後の深夜、秀吉を始め小一郎、浅野長吉、杉原家次、杉原家定、蜂須賀正勝、前野長康、竹中重治らが岐阜へ戻ってきた。
深夜にも関わらず木下屋敷の門先では多くの馬がいななき、その声を聞いた木下家の人々は驚いて飛び起きた。そして、玄関に出てみると、そこには鎧がボロボロで髪も乱れている武者が数人立っていた。その異様な光景に、弥助が驚いて腰を抜かしてしまうほどであった。
「おい弥助、何を驚いておる!儂じゃ儂じゃ!」
「お、お、お殿さん!?」
「そうじゃ!何を腰を抜かしとるんじゃ!情けないのう!それでは武士になれんぞ!」
そう言いながら、秀吉は小一郎と一緒になって弥助を助け起こした。
「藤吉!小一!あんたら生きてたんがね!?」
「おう!姉ちゃん!儂も小一郎も、皆無事じゃ!」
その大声でやっと秀吉達が無事に帰ってきたことに実感が持てたともらは、一斉に秀吉に飛びついた。
「もう!アンタはそうやって昔から無茶なことして!それで母ちゃんそれだけ泣かせてきたと思ってるんだぎゃ!」
「・・・藤吉兄様が生きてる・・・。ふふふ、不幸だわ・・・」
「殿さん!良かった、本当に良かった・・・!」
「殿!よくぞお戻りに!ご無事で何よりでございました・・・!」
とも、あさ、弥助そして吉成がそれぞれ秀吉の帰還を喜んだ。そんな中、秀吉があることに気がついた。
「ん?大松はどうした?あいつ寝てるのか?」
「・・・そんな訳無いでしょう。このクソ兄貴・・・」
秀吉の疑問に辛辣な言葉を投げかけるあさ。続けてあさは秀吉に言った。
「・・・大松は、居間でねね様と一緒よ・・・」
「大松!父の帰還じゃ!只今戻った!」
秀吉が小一郎を連れて居間に入ると、そこでは大松がねねの位牌の前で正座になりながら船を漕ぐように居眠りをしていた。おそらく念じているうちに寝てしまったのだろう。
「大松・・・」
秀吉と小一郎が感慨深くその様を見つめていたが、秀吉は居間に入ると大松をいきなり抱きかかえた。
「・・・!?」
急に抱きかかえられた大松は、何が起きたかすぐには理解できなかった。
「おお、大松。父じゃ。藤吉郎じゃ!只今戻った!」
「父上?・・・父上!」
自分を抱きかかえているのが自分の父だと分かった大松はそう言うと秀吉に抱きついた。
「良かった・・・。生きていて本当に良かった・・・!」
今までの緊張が急に解けたのだろうか。涙を流しながら秀吉に言った。
「おお!父がそう簡単に死ぬか!父は日輪の子じゃあ!朝倉ごときにやられる父ではないわ!」
大笑いしながら言う秀吉。大松は秀吉に聞く。
「叔父上は?先生は?皆さんは!?」
「おう、みんな生きてるぞ!小一郎も、浅野の叔父上も、杉原の叔父上や大伯父様も、竹中殿も蜂須賀殿も前野殿も、皆皆様生きておるぞ!」
そう言いながら秀吉は大松の顔を小一郎の方へ向ける。そこには小一郎だけではなく、遅れてやってきた者たちも揃っていた。大松が「お戻りなさいませ!」というと、皆が微笑みながら頷いたり手を振ったりしていた。
「・・・かか様にお願いごとをしていたのか?」
秀吉がねねの位牌を見ながら大松に聞くと、大松は頷いた。
「そうか・・・。感謝するぞ、大松。そなたのおかげで、儂らはかか様の加護があったのじゃ」
そう言うと、秀吉は大松を下ろした。そして、ねねの位牌の前に座ると、パンッと音を立てて両手を合わせた。
「ねね!お前のおかげで帰ってこれたぞ!これもねねのおかげじゃ!」
そう言って秀吉は手を合わせながら黙祷した。小一郎たちも秀吉に合わせてねねの位牌に手を合わせて黙祷した。
大松は、大人たちの様子を見ると、正座してねねの位牌に向かって手を合わせた。そして心の中で、母に対して感謝するのであった。
注釈
お市の方が金ケ崎にいた信長に、小豆の入った袋を送って浅井の裏切りを報せたという逸話は、現在では創造であるという説が一般的である。一方、お市の方が何らかの方法で信長に報せたのは間違いない、という説もある。
この小説では、手っ取り早く話を進めるため、小豆の入った袋を小道具として使わせてもらった。