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第57話 ブレックファースト・ミーティング

感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。


PV95万突破いたしました。大変励みとなっています。ありがとうございました。


第27話の内容を少し変更しました。詳しいことは最新の活動報告をお読みください。

 天正三年(1575年)七月の終わり頃、重秀は本丸御殿の小広間で開かれたブレックファーストミーティングにいつもどおり参加していた。ちなみに今回の参加者は秀吉と小一郎、重秀、それに福島正則と加藤清正、石田正澄と三成の兄弟、大谷桂松だけであり、南殿と御祖母(おばば)様が朝餉を取るためだけに参加していた。

 本来ならば他の家臣、特に杉原家次や木下家定、浅野長吉などの一門衆、竹中重治や蜂須賀正勝、前野長康といった古い付き合いの家臣、与力なのに何故か長浜城に入り浸っている宮部継潤といった面々が共に朝餉を取るのだが、それぞれが仕事に出ていて今回は参加していなかった。

 ちなみに、山内一豊と千代は偶然休暇が一緒になったので自分の屋敷に帰っており、加藤孫六は父である加藤教明が小谷城跡に詰めているため、父の仕事を手伝いに小谷城跡に行っていた。


「おっ母、畑の様子はどうじゃったか?」


 秀吉は四月より尾張中村から長浜城に引っ越してきた自分の母親である御祖母様に声を掛けた。秀吉は御祖母様の要望により、長浜城内に畑を作っていたのだ。御祖母様はお城暮らしをしていても、未明から城内の畑に出ては作物を育てていた。もっとも、城内で育てているのは尾張中村で育てていた野菜ではなかったが。


「いやぁ〜、初めて育てる木じゃで、自信はなかったんじゃが、やってみたら上手くいってのう。今は良う育っとるわ」


 嬉しそうに言う御祖母様に対して、重秀が声を掛ける。


「申し訳ございませぬ。御祖母様に桑の木と油桐を育てていただいて。聞けば、桑の木はすでに根が張り、油桐は種から芽が出ているとか」


 重秀の言う通り、御祖母様が城内の畑で育てているのは桑の木と油桐の苗木であった。桑の木の葉は当然ながら養蚕に必要なものである。蚕の幼虫は意外と大食漢であり、幼虫の間の約1ヶ月間は1日たりとも桑の葉を切らせてはいけないのだ。なので桑の木も大量に必要なのであった。

 ただ、桑の木は挿し木によって簡単に増やせる木である。初夏の頃に新しく伸びた枝を葉を残して切り落とし、そのまま養分が豊富な土に挿せば、後は水やりを欠かさなければ2週間程度で発根する。御祖母様の畑でも挿し木で桑の木の苗を育て、ある程度大きくなったら養蚕をしている百姓に譲るか安価で売ろうとしていた。


 油桐はその種を絞って桐油を採って利用しようとしていた。桐油は紙早合に使われる油紙の材料としてだけではなく、その高い防水性と防腐性から、船体に塗ったり、船の木材の隙間を埋めるマキハダ(ヒノキなどの樹皮を剥いで繊維状にしたもの)に浸すなど、需要が増加したことで菅浦の元からある油桐だけでは間に合わない可能性が出てきた。そこで、油桐の苗を城内である程度育ててから移植することとなった。

 ちなみに、油桐は当分の間、菅浦周辺の山々に優先的に移植することになっていた。元々油桐の実を年貢として納めていたので、油桐を育てるノウハウを持っていたことから選ばれたのであるが、ぶっちゃけ、菅浦の舟手衆をつなぎとめるための重秀による優遇策である。


「藤十よ。こう言ってはなんだが、油桐はともかく、桑の木は誰でも増やせるぎゃ。わざわざ城内で大切に育てる必要はねーと思うんじゃがのう」


 御祖母様の言う通り、桑の木は挿し木で簡単に増やせるし、しかも、大して苦労せずに増やすことが出来る。失敗することもあるが、大体は上手くいくのだ。多少植物を育てる知識を有する者(それは農作物を育てている農民も含まれる)ならば、簡単に育てられるだろう。


「まあ、養蚕は長浜の城下町や城内でもすることになったんで、城内に桑の木がないと不便じゃからのう。おっ母、当分は桑の木を増やしてくれんかのう?」


 秀吉がそう言うと、御祖母様は笑って「そういうことなら仕方ねぇ、任せとけぇ」と笑いながら言った。





「藤十郎よ、養蚕はどうなっておるんじゃ?もう繭の収穫は終わってるんじゃろ?」


 秀吉が話題を桑の木や油桐から養蚕に変えて重秀に聞いてきた。


「はい。ただ、今回はほとんどの繭から糸を作らず、蛹から羽化させて産卵させますので、商品になるのは羽化させない一部の繭だけでございます」


 重秀がそう答えると、秀吉が怪訝そうな顔で重秀に聞く。


「堺の宗易様に生糸を送るのではなかったのか?」


「それは一部の繭からすでに紡いでおりまするが・・・、正直、生糸に適した繭が少なすぎます。よって、宗易様が満足できるものではないかと・・・」


 重秀の答えに対して、小一郎が口を挟む。


「しかし、実際に綸子りんず縮緬ちりめんに使えるかどうかは送ってみなければん分からないじゃないか。数は少なくても送るべきじゃろう」


「小一郎の言うとおりじゃ。ものは試し、送ってみよ」


 小一郎に続いて秀吉がそう言うと、重秀は「承りました。早急に堺にお送り致します」と言って頭を下げた。秀吉の質問はさらに続く。


「蚕の糞はどうした?」


 秀吉の問いに重秀が答える。


「父上のご命令通り、小谷城の奥、大嶽城おおずくじょうの跡地にある蔵に貯蔵しておりまするが・・・。あれ、本当に硝石になるのですか?」


「・・・らしいのう。称名寺の住職、性慶しょうけい殿からそう聞いておるから、嘘ではないとは思うのじゃが・・・」


 重秀の疑問に秀吉が珍しく自信なさげな声で答えた。


 称名寺とは湖北十ヶ寺の一つである。その住職である性慶は、秀吉が旧浅井領を治めた直後から秀吉に接近し、湖北十ヶ寺の保護を訴えてきた。秀吉にしても、石山本願寺の要請を受けて浅井を支援した湖北十ヶ寺とその信者(当然一向門徒である)を敵にする気はなく、秀吉は性慶と個人的な友誼を結ぶことで、湖北十ヶ寺を支配下に治めていた。


 その性慶から聞いた話によれば、越中国礪波(となみ)郡の山奥で、昔から塩硝と呼ばれる硝石が作られているらしい。その塩硝を作っている地域は今は石山本願寺の末寺である瑞泉寺の支配下にあるため、塩硝は海路で石山本願寺に送られているようだった。

 秀吉はその話を聞いた時、即座に荷留(経済封鎖のこと)を考えたのだが、そもそもどの様なルートで石山本願寺に持ち込まれているかが性慶にも分からず、荷留はできなかった。

 次に秀吉は塩硝を北近江で作れないかを考えた。南蛮貿易によって持ち込まれる硝石を自国領で作れるようになれば、より多くの火薬を作ることができ、より銭を集めることが出来るし、信長も喜ぶであろうと考えたのであった。

 しかし、性慶は材料は聞いたことはあったが具体的にどうやって作るのかを知らなかった。そこで秀吉は、とりあえず材料を集めて試行錯誤で作ってみようとしたのであった。そしてその責任者に重秀を指名したのであった。


「蚕の糞によもぎ、干し草と尿いばりでどうしろというのですか・・・」


 頭を抱える重秀に秀吉は優しく言った。


「まあ、そんなに己を追い詰めるな。ひょっとしたら、何か良い案が思い浮かぶやも知れぬではないか」


 秀吉に続いて小一郎も重秀に話しかける。


「そうだな・・・。取り敢えず全部混ぜて放置しておけばいいんじゃないか?すごく臭そうだけど」


「肥やしみたいに寝かしたほうが良いではないのか?どうも製造に時間がかかるらしいぞ」


 秀吉の意見に重秀が首を傾げながら言う。


「なら、何故(ばば)を入れないのでしょうか?尿だけというのが解せませぬ」


「あの・・・、よろしいでしょうか?」


 重秀達が話をしているところに、一緒に食事をしていた南殿が口を挟んできた。まつりごとには口を挟まない南殿には珍しいことであった。


「どうした?()()よ」


 秀吉がそう聞くと、南殿はためらいがちに話した。


「政の話に口を出す気はないのでございまするが、朝餉の最中に糞とか尿とかの話をするのはいかがかと存じまするが・・・」


 南殿の言葉に秀吉達は顔を見合わせた。しばしの沈黙の後、秀吉が苦笑しながら言った。


「・・・そうじゃな、この話は後でしよう。藤十郎よ、牛はどうなった?」


 秀吉は話題を変えるべく重秀に聞いた。


「三組の雄雌の牛はつがいとなっており、すでに子牛を産んでおりまする。長浜城内ですくすくと育っておりますれば、そろそろ小谷城の牛舎に移したいのですが・・・」


「小谷城へ移すのはまだ待て。理由は後で話すが、当分は長浜城で育てるが良い」


 重秀が小谷城での牛の飼育を希望したが、秀吉がそれを却下した。重秀は疑問に思ったが、理由を「後で言う」と秀吉が言っているので、重秀は素直に従うことにした。


「承知しました。当分は長浜城で育てまする」


 そう言う重秀に、今度は小一郎が話しかける。


「ところで、安宅船はもう作っているのだろう?どうなっているのじゃ?」


「長浜、大浦、塩津の湊で一隻づつ建造中です。九月までには完成するものと報せが入っております」


 越前の一向一揆を鎮圧すべく、若狭で九鬼水軍の船大工の指導の元、長浜や塩津、大浦や菅浦の船大工が多くの船を作っていたが、その中には関船や安宅船も作られていた。その後、九鬼水軍の船大工と彼らから教わった地元の船大工を中心に、現在長浜や大浦、塩津の湊で作られていた。ちなみに菅浦は湊が小さいため、安宅船を作るスペースがない。なので安宅船は作っていなかった。その代わり、別の船を作っていた。


「菅浦ではフスタ?とかいう南蛮船を作っているんだっけ?」


 小一郎の質問に重秀が首を横に振りながら答える。


「いえ、フスタ船はまだまだ分からぬことが多いため、私の書いた絵図を元に、小型の丸子船を改造した船を作って試しております。しかし、三角帆については使い方を何とか解明できましたので、三角帆で動く丸子船を菅浦で建造中です。すでに十隻以上が菅浦で使われておりまする」


「ああ、藤十郎が菅浦に赴くのに使っているあの船か。あれ、本当に風上に向かって走るのか?」


 秀吉が何かを思い出したかのような表情を浮かべながら重秀に聞いた。


「まあ、正確に言うと、風上に向かってまっすぐ進むのではなく、風上に対して斜め前方に進みます。それをこう左右に繰り返していけば、風上にある目的地へと進みます」


 重秀が右腕と右手首をくねらせながら解説した。秀吉も小一郎もよく分かっていないようであった。


「・・・よく分からんのう。何故それで船が風上に向かって走るんじゃ?」


「・・・私にもよく分かりませぬ。丸子船の船頭が言うには、『向かい風を帆が上手く逃しているからではないか』と言っていましたが・・・」


 重秀は知らなかったが、三角帆が風上に向かって走るのは『ベルヌーイの定理』を使っているからである。『流体は高速で流れるほど圧力が小さくなる』というのが『ベルヌーイの定理』であるが、三角帆の場合は向かい風を適度な角度で受けることによって帆が膨らみ、帆の膨らんだ部分を向かい風が通ることによって、風の速度が速くなると同時に気圧が薄くなる。結果、帆の膨らんだ方向へと引っ張る力が出来る。これは飛行機の翼に揚力が発生するのと同じ仕組みである。

 ちなみに、丸子船を始めとする和船で使われるもまた、この『ベルヌーイの定理』を利用した推進方法である。櫓の水に入れる部分の断面は半月状になっており、カーブした部分を水底の方を向くようにして船尾や船横に取り付け、漕ぐことによって揚力を発生させそれを推進力としていた。


 さて、三角帆をつけた丸子船は、それだけで向かい風に向かって進めたわけではない。なぜなら三角帆だけでは膨らんだ帆に垂直の揚力が発生するため、船が横滑りしてしまい船首方向へ進まなかったからだ。これが南蛮船の場合、キール(竜骨と訳される)と呼ばれる船底につけられる縦方向の骨が船外にまで出っ張っていて、これが横滑りを防ぐ抵抗力を生み出しており、船を船首方向へ進ませていたのだ。一方、丸子船は琵琶湖の浅瀬も走れるように喫水は浅く、また船底は真っ平らになっていた。そのため、揚力に抵抗する部分がなかったため横滑りしてしまうのであった。


 重秀もフスタ船を見たときには、船底には床板が敷き詰められていた。そのため、その下にあったキールを見ることができなかった。また、例え見えたとしても、それが船外にまで出っ張っているとは気が付かなかったであろう。なので重秀は横滑りの原因が分からず、三角帆の使用を諦めかけたほどであった。

 しかし、素人の重秀が見つけられなかった解決方法は、玄人の船頭や船大工によって何とか見つけることができた。というより、原因を探るべく多くの船大工や船頭、長浜に滞在中の九鬼水軍の船大工らを乗せたときに偶然見つけだしたのだった。

 すなわち、人が多く乗ることで喫水線が深くなり、船そのものが抵抗力を持ち出したのであった。そこで九鬼水軍の船大工達は喫水を深くすれば良いと考えた。しかし、丸子船を作る船大工や船頭達が反対した。喫水が深いと琵琶湖の浅瀬を航行できなくなるからだ。

 そこで、船頭や船大工達が知恵を絞って横滑りしない方法を編み出した。一つは船首に一本水押(みおし)を取り付けた。水押とは船首の先に付ける木材のことで、船外に出ているため揚力に対する抵抗力を作り出すことが出来るのである。のちに丸子船の水押は『シン』と呼ばれるようになる。もう一つは舵を大きくすることで揚力に対する抵抗力を大きくすることにした。ちなみに舵を大きくして抵抗力を大きくするのは、風上への航行を得意とする中国のジャンク船と同じである。ただし、舵を大きくしては浅瀬での航行が難しくなる。そこで丸子船では、舵を上下できる調整機能をつけることで、浅瀬での航行ができるようになった。

 苦労しつつも三角帆を使った丸子船の実用化に成功した羽柴領では、菅浦を中心に量産が始まっていた。


「なにはともあれ、今は小型の船でしか使われていない三角帆ではございまするが、大型の船にも使えるように今後とも調べていく所存でございまする」


 重秀の発言に、秀吉は満足げにうなずいた。


「うむ。船を大型化していけば荷を多く積めるようになるし、帆走だけで航行できれば櫓漕ぎに人数を取られなくなるから、その分人を雇わずに済むし、その分だけ船賃を安く出来るな」


 秀吉はうなずきながら言うと、重秀にさらに言った。


「水軍はお主の好きにせよ。銭が足りないようであったら、早めに儂か小一郎に言えよ」


 重秀が「承りました」と言って平伏した。





「さて、実は朝の評定が始まる前に小一郎と藤十郎に話しておきたいことがある」


 朝餉も終わり、膳が南殿に片付けられられた後、小広間には秀吉と小一郎、重秀の三人しかいなかった。正則や清正、正澄は二の丸御殿に引き上げたし、三成は本丸御殿の別室で別の仕事を開始していた。桂松は前日は本丸御殿での寝ずの番だったので、今は二の丸御殿の自分の部屋で仮眠を取っているはずである。


「昨日、岐阜城より使者がやってきてのう。久太(堀秀政のこと)から書状が届けられた」


 そう言うと、秀吉は懐から一通の書状を取り出して小一郎に手渡した。小一郎がそれを受け取ってざっと読み進める。


「・・・越前攻め、じゃと・・・?」


 小一郎がそう呟くと、秀吉は頷きながら話をすすめる。


「来月には動員令を出し、織田家の全軍を持って越前の一向一揆勢を殲滅するつもりらしい。岐阜城内では儂と明智殿を先陣にすることを計画しているそうじゃ」


 秀吉が一旦話を止めて小一郎と重秀を見つめる。二人からは特に意見が出なかったので秀吉は話を続けた。


「まあ、儂等としては越前攻めは準備しておったので特に問題ない。朝の評定ではこのことを皆に話す。んで、その前に藤十郎に命じたいことがあるのじゃが・・・」


 そう言うと秀吉は重秀の方を見た。重秀が真面目そうな顔をしながら秀吉を見つめ返す。秀吉は重秀からの視線を避けるように目線を下げると頭を下げた。そして重秀に言った。


「すまぬが藤十郎を越前には連れて行けぬ。長浜城代として、留守居役を申し渡す。これは命じゃ。拒否は許さぬ」





 後世に書かれた軍記物では、出陣できなかった重秀の荒れようを凄まじく書いており、諌めようとした家来を斬る逸話が残っている。

 一方、浅野家や蜂須賀家に残る資料にはその様な乱暴狼藉を働いた記録は残っていない。恐らく軍記物で描かれた狼藉は創造の産物であろう、というのが通説である。しかし、上記資料によれば、重秀はだいぶ不機嫌になっていたらしく、重秀と秀吉、または重秀と小一郎長秀が長時間口論をしていたのを浅野長政や蜂須賀家政が目撃していたと記されている。

 なお、豊臣秀重の日記『長浜日記』にはその日の記録がすべて墨で塗りつぶされており、判読不能となっている。恐らく何らかの事情で秀重本人が塗りつぶしたものと思われる。


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[良い点] ああ、越前攻めは、ね。うん、まだ早すぎるよ
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