第56話 長篠の戦い(その9)
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天正三年(1575年)五月二十一日未の刻(午後3時頃)、武田勝頼のいる武田本陣から法螺貝を吹く音が戦場に鳴り響いた。何回か聞こえた後、武田兵の中から「引け、引けーっ!」という怒鳴り声が上がると、それまで馬防柵を倒し、織田・徳川連合軍と戦っていた武田の将兵は逃げ出すかのように東へと移動し始めた。
「今こそ好機!打って出る!」
信長を始め、織田・徳川連合軍の諸将は同じタイミングでそう命じると、織田・徳川連合軍の将兵は一斉に武田勢の追撃を始めた。
その様子は、牛倉の羽柴勢の本陣にある物見櫓からも見えていた。
「戦が始まって四刻(約8時間)、やっと武田は兵を引きましたね」
物見櫓の上で竹中重治と一緒に戦場を見ていた重秀が、隣りにいた重治に声を掛けた。
「ええ、武田もここまで粘るとは、それがしにも予想できませんでした」
重治が感嘆・・・ではなく軽蔑の籠もった声で重秀に言った。重秀が重治の様子に疑問を持ったのか、不思議そうな顔で重治の顔を見つめた。重治は重秀の視線に気がついたのか、右人差し指で武田軍を方を指差しながら言った。
「・・・引いていく武田の兵を御覧ください。少ないでしょう?本来なら余力を持って兵を引くべきでしたが、武田はそれができずに兵を引いています。あれは撤退ではありませぬ。敗走です」
「確かによく見れば陣形も整えずに撤退していきますね。・・・しかし、何故武田は兵を早めに引き上げなかったのでしょうか?」
重秀の質問に重治が答える。
「引き上げなかったのではなく、できなかったのでしょう。我等の兵力は武田から見れば少数に見えていたはずですし、長篠城を攻め落とせなかった以上、何らかの勝利を得なければ武田勝頼の当主としての威厳が損なわれます。それに、撤退したとしても長篠城と我等で挟撃もできましたことを考えれば、むやみに撤退はできませぬ」
「・・・半兵衛殿でしたらどの段階で撤退したしますか?」
重秀がそう聞いてきたので、重治は笑いながら答えた。
「はっはっはっ。それがしなら撤退するしないではなく、そもそも設楽原に出てきませぬよ。我等が設楽原で馬防柵を立てている時点で鳶ヶ巣山砦を中心とした複数の砦や陣に兵を入れて迎撃いたしますよ」
重治の台詞に対して、重秀は頬に手を添えながらさらに聞く。
「・・・私ならば、我等の兵三万、いや徳川勢を含めて四万近い軍勢で長篠城を解放した後に、鳶ヶ巣山砦などを攻め落とそうと致しますが?」
「さすがに四万の兵力を見たならば武田は兵を引き、長篠城は守られるでしょうな。しかし、武田は兵を温存できますし、勝頼も『四万近い大軍相手なら引いても仕方ないね』ということで面目も施せましょう。武田は勝てませんでしたが、負けてもいませぬ。
それに、鳶ヶ巣山砦を始めとした武田の砦を落とすは苦労いたしますよ。恐らく、こちらも大損害を被ったでしょう。そうなった場合、喜ぶのは石山本願寺と越前の一向一揆衆です」
「ああ、そうか。我等は今後の戦も考える必要がありますね。なるほど、武田にしてみれば、設楽原に出てきた時点で負けは確定していたと言うことですか」
重秀はそう言って納得したかのような表情をした。それを受けて重治が「おっしゃるとおりです」と同意した。
それから重治は重秀に対して今回の戦についての解説を行っていた。そんな二人の元に、石田正澄がやってきた。
「若君、御屋形様の陣より伝令が来ております」
「伝令・・・?分かった、今行く」
御屋形様から、何か緊急の言伝か?と思いながら重秀は返事をしたのだった。
重秀が伝令から聞いたのは、この戦闘で戦死した武田の将の名前であった。山県昌景、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋貞綱、原昌胤、原盛胤(昌胤とは別系統)、甘利信康の名が告げられた。
「山県昌景は甲斐の赤備えとしてその名を天下に轟かせた名将。そんな名将をも討ち取ったのか・・・」
一緒に聞いていた杉原家次が感嘆の気持ちを込めながら呟いた。重治が伝令に尋ねる。
「馬場信春、内藤昌豊は討ち取っていないのか?」
「そういった話はまだ・・・」
伝令がそう伝えると、重治は「ふむ・・・」と言って考え込んだ。
「半兵衛殿、何か?」
重秀が重治に声を掛けると、重治が「いえ、何でもありませぬ」と言って首を横に振った。
伝令が帰った後、重治が重秀達に自分が抱いた懸念を小声で伝えた。
「馬場信春と内藤昌豊は戦巧者。殿軍についていると考えると、追撃は苦労しそうですな・・・」
重治の言った通り、武田の殿軍は馬場信春と内藤昌豊であった。二人は織田・徳川連合軍の追撃をよく防ぎ、武田勝頼が撤退する時間を稼いだ。そして、勝頼の撤退が成功すると、二人は最後の突撃を織田・徳川連合軍に行なった。
結局、二人は討ち取られてしまったが、勝頼を始め武田一門の軍勢は無事に退却を済ませたため、武田一門を討ち取って一気に滅ぼすということはできなかった。もっとも、信長もそこまでの大戦果が出せるとは思ってはおらず、各部隊に余計な損害を出さぬために、各隊に対して深追いをさせないようにしていたが。
その後、信長と家康は揃って長篠城に入城すると、守将であった奥平貞昌を称賛した。そして、長篠城防衛の恩賞として、信長は自らの名前から『信』の字を貞昌に与えた。これ以降、貞昌は奥平信昌と名乗るようになる。また、家康からは後日名刀を授けられた。
こうして、長篠城は守られ、織田・徳川連合軍の勝利でこの戦は終了した。
その日の夜、長篠城では酒宴が開かれていた。武田の猛攻でボロボロになった長篠城での酒宴は、もしかしたら武田が奇襲を狙って引き返してくるのでは?という懸念から大した酒宴にはならなかったものの、あの武田に完勝したということで皆が勝利の美酒に酔いしれていた。
そんな中、重秀は一人長篠城の東側にある物見櫓の上にいた。前線に出ることなく本陣で待機していた重秀は、とても酒宴に参加する気にはならず、父秀吉に頼んで酒宴の間の見張りを買って出ていたのだ。重秀にとって、前線に出ていた将達と肩を並べて酒を飲むことに抵抗があったのだった。
「兄者、見張りの交代に来たぜ」
物見櫓に上がる梯子がある方から声が聞こえたので、重秀が振り返ると、福島正則が梯子を登ってくる様子が見えた。
「なんだ、市か・・・。って、虎も来ていたのか」
正則に続いて加藤清正も登ってくると、二人は重秀の前まで来た。二人が酒の匂いをさせていないことに重秀は違和感を抱いた。
「珍しいじゃないか。酒宴で酒の匂いをさせてないなんて。特に市は酒宴になると足腰が立たなくなるまで飲みつぶれるのに」
重秀がそう言うと、正則はバツの悪い顔をしながら言った。
「今回は首級を一つも取れなかったからな・・・。とても酒を飲む気にはならねぇよ」
正則の隣で清正も同じ様にバツの悪い顔をしながらうなずいた。
武田勢が撤退を開始した時、羽柴隊も当然追撃を開始した。しかし、相手はあの馬場信春率いる精鋭部隊。慎重に追撃してたときに佐久間隊と柴田隊が競い合うようにして馬場隊に突撃していった。先に突撃された羽柴隊は佐久間隊と柴田隊を支援する側に回らざろう得なかった。
ところが馬場隊がここに来て猛反撃に移った。敗走する相手と舐めてかかっていた佐久間隊は返り討ちにあって撤退。馬場隊の反撃に対応しようとした柴田隊と混乱状態になってしまった。当然羽柴隊は混乱を回避すべく迂回しようとしたが、その間に追撃に参加していた塙直政率いる鉄砲隊が馬場信春を狙撃、馬場信春が戦死するとそのまま塙隊が馬場隊を殲滅してしまったのだった。
「・・・おかげで森様(森長可のこと)に顔を合わすことができませぬ・・・」
清正ががっかりしたような表情で言った。
森長可は当然追撃戦に参加し、首級を上げている。もっとも、本人は武田の名のある武将の首級をあげることができなかったことと、追撃戦にしか参加できなかった(森隊は予備兵力の信忠軍の、さらに予備部隊であった)ことから暴れ足りず、今回の戦に不満を持っていたが。
「まあ、あの人に会わないように気をつけておけよ。何言われるか・・・、いや、何されるか分からないからな」
重秀がそう言うと、正則は「勘弁してくれよ・・・」とげんなりとした表情を浮かべた。
「長兄、それよりも、下で佐吉が酒を用意しております。ここは我等にまかせて、少し休んで下さい」
「そうか。では少し休むとしよう。任せたぞ」
清正に促された重秀はそう言うと、物見櫓から降りていった。
物見櫓から降りた重秀は、篝火の近くで待っていた石田三成に会った。三成の顔をよく見てみると、顔が腫れ上がっていた。
「お、佐吉は名誉の負傷か?」
「いえ、ただの喧嘩です・・・」
重秀の質問に三成が答えると、三成は事の顛末を話し始めた。
「若君のお休み処を探していたら、良き処がありましたので、そこにいた足軽達に立ち退くように申し渡したところ、殴られて追い出されました・・・」
「喧嘩ですら無いじゃないか・・・。で?お前を殴ったのはどこの兵だ?」
呆れながら重秀が三成に聞くと、三成はある小屋を指差した。
「あそこの中の足軽です」
三成がそう言った瞬間、重秀が叱責の声を上げた。
「あれは奥平家の足軽が待機する小屋じゃないか!一月近く長篠城に籠城していた足軽を追い出すなど、とんでもないことだ!」
「え!?し、知りませんでした・・・。も、申し訳ありませぬ・・・」
驚いた表情をした後、恐縮したかのように呟いた三成に、重秀は声をかける。
「佐吉は意外と周りと相手を見ないんだな。俺の時もそうだったろ?いきなり頭を打とうとして返り討ちにあっているし、森様の時だって、刀を抜いて襲いかかっているし。状況を見ずに突っ走るのは匹夫の勇というものだ」
「申し訳ございませぬ・・・」
重秀の叱責に恐縮する三成。そんな二人に近づく影があった。
「そこの者。何をそんなに騒いでいるのか」
そう声を掛けられた重秀と三成が声のする方を見ると、そこには二人の男が立っていた。三成が「何者か」と誰何をしようとしたが、聞く前に男たちが近づいてきた。しかし、三成の近くにあった篝火の光が当たらないギリギリのところで止まってしまった。おかげで顔ははっきりと見えなかったが、何となく輪郭が見えてきた。一人は壮年の武将で、もう一人はどことなく高貴な雰囲気を醸し出している若い武将であった。
「今宵は勝利を祝う夜ぞ。多少の失敗は大目に見てやれ」
若い武将がそう言うと、三成が腰の刀に手をかけながら「何者か、名を名乗れ!」と声を上げた。すると、壮年の武将が「無礼者!この御方をどなたと心得る!」と怒声を浴びせた。若い武将が壮年の武将をたしなめる。
「止めよ、七之助。今宵は勝利を祝う夜だとさっき申したではないか。大目に見てやれ。それに、見たところ織田家中の方と見受けられる。我等を知らないのは致し方ないであろう」
重秀はこの時、若い武将の声をどこかで聞いた事あるような気がした。しかもつい最近だ。さらにある事に気がついた。物言いそのものは偉そうであるが、言葉の端々に上品さがあった。それはまるで、人の上に立つことが当たり前だと言わんばかりの気品が備わっていた。
―――まるで若殿様(織田信忠のこと)が話されているような雰囲気だな・・・。だとすると、まさか・・・?―――
そう思った重秀は、片膝を付いて跪いた。三成が「若君!?」と声を上げるが、重秀は構わずに声を出した。
「長浜城主羽柴筑前守が息、羽柴藤十郎重秀と申します。岡崎の若君とお見受け致します。お見苦しいところをお見せして申し訳ありませぬ」
隣で三成が唖然としている中、重秀がそう言うと、若い武者は豪快に笑った。
「あっはっはっ!よく私が三郎信康と気がついたのう!顔を見せぬよう、暗がりに紛れていたつもりであったが!さすがは知恵者と名高い羽柴筑前の息子よ!」
そう言うと、若い武将は篝火が照らすところまでさらに近づいてきた。そして顔がはっきりと見えるようになった。確かにその顔は、岡崎城で家康の隣りに座っていた徳川信康のものであった。
三成が慌てて「ご無礼仕りました!」と声を上げてその場に座って平伏した。もっとも、三成は信康の顔を見たことはない。しかし、本人が『三郎信康』と名乗っているし、重秀が跪いたままだったので、三成も平伏しただけなのだが。
「この者の致しました無礼は我が罪にございます。何卒、処断はそれがしに」
「羽柴家の嫡男を守ろうとしただけではないか。咎めるに値せぬ。さあ、立たれよ」
重秀が謝罪すると、信康が立つように促した。しかし、重秀は拒否する。
「とんでもございませぬ。三河守様(徳川家康のこと)のご嫡男にして若殿様の義兄弟たる若君の前で、恐れ多いことでございまする」
「まあ、そう言うな。先程申した通り、今宵は勝利を祝う夜よ。無礼講で構わぬ」
信康がそう言うと、自らしゃがみこんで重秀の肩に手をおいた。そして「さあ、立たれよ」ともう一度言ったので、重秀は頭を下げてから立ち上がった。
「それで、そちはこんな所で何をしていたのだ?羽柴筑前と言えば織田家中でも義父上(織田信長のこと)の信任厚い重臣。その息子が酒宴にも出ずに何をしていたのだ?」
重秀と一緒に立ち上がった信康がそう尋ねてきたので、重秀は正直に答えた。
「・・・私めは此度の戦では本陣詰めでしたので、大した働きをしておりませぬ。皆様と酒を酌み交わすなど、できませぬ故」
「・・・そうか」
重秀から話を聞いた信康が神妙な面持ちでそう答えた。信康は少し考えると、再び話しかけてきた。
「ときに、そちは此度の戦が初陣かな?」
「はあ、まあ、そうですが・・・」
長島の戦いについて話すのが面倒くさいので、重秀は嘘をつくことにした。それを真に受けたのか、信康が頷きながら話を続けた
「ふむ、確かそちは十四だったな。では本陣詰めも仕方あるまい。初陣で戦死されては、筑前殿も悔やまれよう。ま、今回は諦めて、次の戦で功を上げればよかろう」
信康がそう言うと、何かを思いついたような顔をした。そして、重秀に顔を近づけると、耳元で囁いた。
「次の戦でも本陣詰めを命じられた時は、構わないから抜け駆けしてしまえ。敵の首級を二つか三つ挙げることができれば、多少の命令違反など大目に見てくれようぞ」
―――あれ?この人ひょっとして勝蔵殿と同類か?―――
徳川信康イコール森長可という定式が重秀の頭の中に浮かんでいる事も知らず、信康は顔を離して話を続けた。
「そもそも、紙の早合を作っただけでもお手柄ではないか。おお、そうじゃ。あの紙の早合、我が徳川にもいただけぬか?」
「・・・あれは此度の戦で実戦投入されたものでございまするが、まだ実戦で使えるかのどうかの判断がされていない以上、早急な徳川様への供与は難しいかと存じまする」
重秀がそう言って頭を下げると、信康は「そうか・・・」と言って、また考え込んでしまった。少し経って、また口を開く。
「では、実戦配備になったらお願いしよう。その旨、報せてくれると有り難い」
「承知したしました。父と相談の上、御屋形様の許しを得ましたら、お報せいたしとうございまする」
同盟国とは言え、他国に織田の軍事技術を流出するのはまずい、と思った重秀がそう答えると、信康が「頼んだぞ」と言った。続けて「邪魔したな」と言うと、右手を軽く振りながらその場を離れた。近くにいた壮年の武将―――平岩親吉が一礼すると、信康の後をついていくようにその場を離れていった。
その後、織田・徳川連合軍は五月二十三日に岡崎城へ帰還。ここで大規模な酒宴を開いた。この時は重秀も酒宴に参加していた。もっとも、父秀吉の影に隠れて目立たないようにはしていたが。翌日には織田軍が岡崎を出立。ゆっくりとした進軍のため全軍が岐阜に着いたのは五月二十八日であった。その後、織田家の諸将は岐阜城内で褒賞(そのほとんどは銭か茶道具であったが)が授けられた。
秀吉以下羽柴勢の諸将は岐阜の羽柴屋敷に数日滞在し、長浜へと帰っていった。羽柴勢が全員長浜に着いたのは、もう六月になってからの頃であった。