第51話 長篠の戦い(その4)
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天正三年(1575年)五月十日、岐阜城に集結していた総勢3万の織田軍が三河の岡崎城に向けて出陣。五月十四日には信長と主だった重臣達は岡崎城に到着していた。
「参議様(信長のこと)、岡崎城へのわざわざのお運び、大変恐縮でございます」
岡崎城の城門前まで出迎えに来ていた徳川家康が、馬上の信長に恭しく頭を下げると、周囲で片膝をついて跪いていた徳川家臣団もまた、頭を下げた。
「竹千代、いや三河守殿(徳川家康のこと)。わざわざの出迎え、大義!」
そう言うと信長は馬から降りて家康に近づいた。家康を促すと、信長は家康とともに歩いて城門をくぐった。その二人の後を追うように、馬上から降りた信忠を始めとした織田一門衆と徳川家臣団が一緒になって岡崎城の城門をくぐって場内に入って行った。
さて、この時重秀は父である秀吉の仕事の手伝いをしていた。具体的には羽柴軍を指定された野営地へと導いていたのである。野営地、といっても今回は徳川が借り上げた岡崎城外の寺や農家の建物に泊めさせてもらうだけなのだが。
「申し上げます。筑前守様、軍議が行われますので岡崎城へお越し下さい。また、藤十郎様に鉄砲と早合を持って来るようにとのことです」
岡崎城から来た伝令に秀吉が「相分かった!」と言うと、側にいた重秀に声を掛けた。
「藤十郎、御屋形様がお呼びじゃ。儂と共に参れ。鉄砲と紙早合を忘れずにな」
「は、はい」
秀吉から命じられた藤十郎は、小具足の格好から具足を身につけ、鉄砲と紙早合を入れた胴乱を持って、秀吉と共に岡崎城へと向かっていった。
岡崎城についた重秀は、軍議に参加する秀吉と分かれた。そして同年代の、やたらと可愛らしい徳川家の小姓の案内で鉄砲の演舞が行われる庭先に来ていた。そこには、すでに具足姿の蒲生賦秀が床几に座っていた。
「こちらでお待ちくださいませ」
可愛らしい小姓はそう言うと、きれいなお辞儀をして重秀の元から去っていった。そんな様子を見た賦秀が、隣の床几に座った重秀に話しかけた。
「三河武士は田舎臭い武辺者ばかりと聞いたが、なかなかどうして、ああいう振る舞いのできる者もいるものだな」
「真に。しかし、あの礼の作法は寺の作法ですね。崇福寺で習ったのを思い出しまする」
「ああ、道理で違和感を感じたと思ったら。寺の出なのか、それとも寺で勉学に励んでいたのか・・・」
賦秀の言葉を最後に、二人は口を閉ざしてしまった。別に話が続かなかったわけではない。織田家とは別の大名の城で、織田家臣の息子二人がペチャクチャお喋りをするのは憚れること、そんな姿を徳川家の者に見られては恥だという意識が二人にあった。
二人が黙って待っていると、庭先に誰かが現れた。よく見たら、それは堀秀政であった。
「やあやあ、お二人さん。骨折りだねぇ」
「堀様!?何故ここに!?」
重秀が驚いて尋ねると、秀政はのほほんと答える。
「そりゃあ、こう見えても御屋形様の馬廻衆だからね。御屋形様が出陣すれば、私も出陣するさ」
「いや、そういう意味ではなくて・・・」
秀政の回答に重秀が困惑した。そんな重秀を横目に、今度は賦秀が尋ねた。
「・・・今は軍議中でしょう。抜け出してよろしかったのですか?久太殿」
「ああ、軍議はもうすぐ終わるよ。その後に皆で二人の鉄砲の演武が始まるから、それを伝えに来たのさ。ついでに、演武の準備を仰せつかってね。これから的を準備するから、二人はそこで待機しといてね」
秀政がそう言うと、秀政の後方から足軽達が数人現れた。なにやら的や棒、木槌を持っていたので、恐らく彼等が準備を行うのだろう。
そんな様子を見ていた重秀と賦秀の耳に、屋敷の中から人の話し声や足音が聞こえてきた。しかも、大人数が発する音だった。
「おっと、皆さんのお出ましだ。じゃあ、お二人さん気張ってね」
秀政がそう言うと、右手をひらひらさせながら去っていった。
信長と家康、そして織田重臣や徳川重臣の前での鉄砲の演武は成功に終わった。賦秀の竹の早合も重秀の紙の早合も、家康や長男の徳川信康を始めとした徳川家の者達も興味深く見ていた。
演武が終わった二人を信長が呼ぶと、二人は信長と、並んでいる家康の前に来て片膝をついて跪いた。
「三河殿、この二人は将来有望な若人じゃ。こっちの忠三郎は儂の女婿で、もう一人は藤十郎、あの猿の長子よ」
信長はそう言って二人を紹介した。特に重秀の紹介の時は、側で控えていた秀吉のことを指差しながら紹介していた。家康は賦秀と重秀の顔をまじまじと見ていたが、やがて口を開いた。
「ほう・・・。確かに良き若武者でございまするな。参議殿、少しこの二人に早合について聞きたいことがございまするが、よろしいか?」
「構わんぞ。二人共、直答を許す故、三河守殿の問いに答えよ」
信長の命に対して、二人は「ははっ」と答えた。その後、家康から早合についての質問を浴びせかけられた。
家康は信長が岐阜で行った以上の質問を二人に聞いた。特に早合の材料について詳しく聞いてきた。
「この油紙、どこで手に入れた?」
家康の問いかけに、重秀が答える。
「紙は近江国伊香郡小谷から、桐油は近江国浅井郡菅浦から手に入れましてございまする」
「桐油?毒荏のことか?」
「御意」
「何故毒荏を使われるか?」
家康が怪訝そうに聞いた。重秀は答える。
「菅浦は古より油桐の実を年貢として納めておりました故、簡単に手に入りまする」
「なるほど、年貢として納めさせれば、入手は容易か・・・。聞けば、この紙の早合、そなたが考えたとか?」
家康からそう聞かれた重秀は、チラリと秀吉の顔を見ながら答えた。
「ぐ、偶然にも桐油と紙が領内で作れることを知ったので、試しに作ってみただけでございます・・・」
嘘を付く罪悪感と戦いながらも、なんとか絞り出した答えに、家康はただ「ふむ」と頷くだけであった。
「時に羽柴殿はお何歳か?」
家康が重秀に聞いた。
「十四にございまする」
「ほう・・・、十四で紙の早合を考えたのか。大したものよ」
そう言うと、何か考え事をしていたようであったが、すぐに「相分かった」と言うと、今度は賦秀の方を向いて、賦秀に竹の早合について質問をしだした。
こうして、重秀も賦秀も家康の細かい質問に答えることが出来た。そして、家康は満足げに頷くと、顔を信長の方に向けた。
「参議殿、もうよろしゅうございまする。大変参考になり申した」
「おう、そうか。忠三郎に藤十郎、大儀であった」
信長がそう言ったので、賦秀と重秀は頭を下げると、信長と家康から離れていき、さっきまで座っていた床几に座った。その後、信長と家康が互いの家臣と色々話しした後、解散となった。
この日の夜は岡崎城内でささやかな酒宴が開かれた。しかし、この酒宴に参加できたのは秀吉だけで、重秀は参加させてもらえなかった。秀吉の長子とは言え十四歳の若造であり、立場は秀吉の家臣。即ち織田家の陪臣なのだ。家康やその嫡男である徳川信康と同席できる立場ではないのだ。
しかしその日の夜、羽柴勢が泊まっていた寺で、重秀は有り得ない事実と向き合おうとしていた。
「若君!大変です!」
寺の一室で日記を記していた重秀の元に、石田正澄が飛び込んできた。
「弥三郎、何事か?」
重秀の問いに、正澄が息も絶え絶えな状態で答える。
「金山城主、森勝蔵様がお見えです!」
「はあぁ!?」
森勝蔵長可は金山城主であり、歳が若いとは言え一応織田家の重臣である。なので本来は岡崎城で徳川家の饗応を信長や信忠と共に受けているはず、というのが重秀の認識であった。
とりあえず寺の門前にやってきた重秀の目に飛び込んできたのは、信じられない状況であった。
「おう!猿若子!久しいな!」
長い槍を持った小柄の若武者が一人、重秀達が泊まっている寺の門前で大声を上げていた。その若武者の後ろでは福島正則と加藤清正が倒れており、前では石田三成が倒れていた。
「佐吉!市兵衛殿!虎之助殿!」
正澄が驚いて三成に駆け寄る。どうやら気を失っているらしい。正澄は正則や清正の側にも行って容態を確かめるが、三成と同じく気を失っているだけであった。
「・・・弥三郎、三人を寺に入れて介抱するように」
重秀がそう言うと、長可の前まで足を進めた。
「これは森様。夜にわざわざおいでとは、いかなる要件でございましょうや」
義弟を叩きのめされたことに対する怒りを抑えながらも重秀は長可に聞いた。長可も長可で、重秀の怒りを汲み取ったのか、肩をすくめながら答えた。
「おいおい、こっちは無礼を働かれたんだぜ?これが羽柴の武士でなければ、問答無用で斬って捨ててたぞ」
そう言われては重秀も黙ることしか出来なかった。もっとも、どんな無礼を働いたかは分からなかったが。
「・・・それはご無礼をお詫び申し上げまする。それで、我が義弟達はどの様な無礼を?」
「義弟?後ろで倒れていたあの二人か?」
長可が親指で後ろを指差した。そこは正則と清正が倒れていた所だった。
「はい」
「あれは無礼打ち(殺していないので『討ち』ではない)ではないぞ。いや、やっぱり無礼打ちか?」
長可がそう言うと、事の顛末を話し始めた。
岡崎城での鉄砲の演武を見ていた長可は、鉄砲を撃っていたのが顔なじみの賦秀とかつて大松と呼ばれていた重秀だと気がついた。そして、紙の早合を考えたのは重秀である、という噂を小耳に挟んだ。ちなみにこの噂を流したのは秀吉と竹中重治である。
そんな噂を小耳に挟んだ長可は、「紙早合なら俺の領地でも作れるかも」と思ったらしい。
―――紙なら北美濃で大量に作られているから安く手に入るし、後は油が手に入れば俺の領地で作れるな。よし、猿若子に頼んでみるか―――
そう考えた長可は家臣に「ちょっと羽柴勢のところに行ってくる」と言い捨てて、槍持の下男を連れ、馬に乗って羽柴勢が宿泊している寺にやってきたのだった。
「お待ち下さい、森様。今宵は岡崎城にて酒宴では?」
右手でおでこを押さえながら、重秀は長可に聞いた。若年とは言え、美濃金山城城主で信長の信任厚い長可である。織田家の重臣として酒宴に参加してなければならない。本来ならば。
「ああ、前に徳川との酒宴で平八郎(本多忠勝のこと)と戦功で喧嘩して以来、御屋形様から『勝蔵は出なくて良い』って言われてる。そもそも徳川の饗応なんて酒飲んで左衛門尉(酒井忠次のこと)の海老すくい見て終わりだから、行ってもつまらねぇんだよ」
「はぁ」
重秀が呆れたような返事をしたのを無視して、長可は話を進めた。
羽柴勢の宿泊している寺の前に来た長可は、寺の門前で槍の試合をしていた二人の若者を見つけた。近寄って馬上から声を掛けたところ、その若者達は名を福島市兵衛と加藤虎之助と名乗った。そして今回の戦が初陣で、敵将の首三十取るんだと息巻いていた。
「森某、という奴が初陣で敵将の首二十七個取ってるから、それを超えるんだ!」
正則がその『森某』さんが目の前にいることを知らずにそう息巻いた。そう言われた当の本人は面白がって「では俺が槍捌きを見てやろう」と言うと馬から降りた。長可は馬を下男に預け、槍を受け取ると、「さあ、かかってまいれ。二人同時で構わないぞ」と正則と清正に言った。
正則と清正は顔を見合わせると大笑いした。ひとしきり笑うと、清正がとんでもないことを言った。
「おいチビ。粋がっていると怪我をするぞ。さっさと・・・」
帰れ、と言おうとした瞬間、清正の体が宙に舞った。正則が即座に反応して長可に槍を向けて刺そうとしたが、長可は軽く躱すと槍で正則の首を突いた。槍には鞘が被せており、正則の首を貫くことはなかったが、それでも急所である喉を突かれた正則は、一撃で無力化されてしまったのだった。
「・・・んで、その後に門から弱っちい奴が出てきて刀を抜いたので、そいつは槍の柄で殴ったら気絶したって訳さ」
長可から事の顛末を聞いた重秀は目の前が暗くなるのを必死になって抑えていた。まさか三人が森家当主たる長可にそんな無礼を働いていたとは。
「・・・我が義弟達による無礼な発言、長兄として謝罪いたしまする。また、このことは羽柴筑前に報せ、追って沙汰を下しますれば、何卒今宵はお収めくだされ」
そう言いながら重秀は両膝をついて土下座しようとするが、長可から止められた。
「お前がそこまですることはねーよ。ま、あんな弱い奴を殺したところで、かえって勝蔵の名が廃ると言うもんだぜ」
「・・・森様の寛大なお心、感謝いたしまする」
重秀は立ち上がると、そう言って頭を下げた。そんな重秀に長可が話しかける。
「なあ、それより喉乾いちまった。白湯・・・いや、酒でも飲ませてくれぬか?」
「承知しました。ちょうど羽柴の家臣達が集まって酒盛りをしておりますので、そこから酒を運ばせまする」
重秀がそう言うと、長可は嬉しそうな顔をした。
「なんだ。それならその酒盛りに参加してやる。確か山内伊右衛門(山内一豊のこと)とか仙石権兵衛(仙石秀久のこと)が羽柴にはいるんだろ?一度話をしてみたかったんだよな」
「しかし、森様をその様な場所に案内・・・、分かりました。案内致します」
最初は断ろうとした重秀であったが、長可の無言の圧に負けて、羽柴の家臣が酒盛りしている場所まで案内することとなった。そこで、重秀は長可からガンガン酒を飲まされる羽目になってしまった。
次の日の朝、羽柴家のブレックファーストミーティングは秀吉の怒号から始まった。
「このド阿呆!金山城主をチビと呼び、しかも刀を向けるとは無礼千万!首を刎ねられても仕方のない所業ぞ!」
正則、清正、三成がしょげている前で、秀吉がこれでもかと怒り狂っていた。
「しかも、このことで藤十郎が頭を下げておるのじゃ!羽柴の嫡男に頭を下げさせるとは、それでも羽柴の家臣か!?腹を切れ!」
口の中にあった米粒を飛ばしながら怒鳴る秀吉。そんな秀吉に重秀が恐る恐る話しかけた。
「ち、父上。それはやりすぎでは・・・?」
「阿呆!ここで許しては、『羽柴は身内に甘い』と織田家中、いや徳川家中にも笑いものにされるわ!」
秀吉がそう怒鳴ると、重秀は黙ってしまった。その代わり、今度は竹中重治が話しかけた。
「殿、ここでこの三人を怒鳴っても、森家がどう出るか分かりませぬ。ここは、殿自ら森様の元に向かい、勝蔵殿に頭を下げなければなりませぬ」
「分かっておるわ!おい、甚右衛門(尾藤光房、のちの尾藤知宣のこと)!」
秀吉が光房を呼ぶと、光房はすぐに飛んできた。
「お呼びでございますか?殿」
「お主、元は森家の家臣だったな!?今すぐ森勢の陣へ向かい、儂が昨日のことで詫びを入れる事、伝えて参れ!」
秀吉の命を受けた光房が「承りました」と言って飛び出していった。秀吉は重秀に顔を向けると、重秀に命じた。
「藤十郎!儂がいない間、留守を預かっておれ!」
そして秀吉は朝飯を急いで平らげると、重治と共に正則、清正、三成を連れて長可のいる寺へと向かっていった。
それから半刻ほど経って、秀吉達が帰ってきた。秀吉と長可の直接会談で秀吉が頭を下げ、長可が受け入れたことでこの問題は解決された。また、正則、清正、三成も許され、秀吉からも何らお咎めはなかった。むしろ長可からは「敵の首を二つ三つ取って帳消しにしてもらえ」と発破をかけられたことで、正則と清正は闘志を体中から溢れさせていた。一方の三成は、長可の無茶振りにげんなりとしていた。
「ま、三人については敵の首一つで許してやることにするわ」
―――佐吉には無理でしょうに―――
秀吉の発言を聞いた重秀はそう思いながら、三成に同情していた。