第50話 長篠の戦い(その3)
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天正三年(1575年)五月七日、前日に岐阜に到着した羽柴勢はこの日、他の軍勢が来るまで待機していた。その間、秀吉は家臣を連れて信長へ着陣の報せを行うために岐阜城へ行っていた。一方、重秀は岐阜城のある稲葉山麓のある屋敷に具足を身に着けて向かっていた。
そこでは、前田利家が佐々成政等と共に織田全軍の鉄砲の管理を行っていた。
「羽柴藤十郎重秀、羽柴勢の鉄砲の数の報告、及び明智様より預かりし鉄砲を引き渡しに参上致しました」
利家の前に通された重秀は、片膝をついて跪きながら利家に報告した。
「おう、藤十郎。骨折りだったな。孫四郎(前田利勝のこと)、助十郎(奥村永福のこと)、ここは頼んだ」
「父上、どちらへ?」
立ち上がろうとした利家に、そろばん片手に計算をしていた利勝が聞いてきた。
「明智様から届いた鉄砲の数を確認してくる。儂一人だけでよい」
利家がそう言うと、利勝と永福が「承知」と言って頭を下げた。
利家が明智の集めた鉄砲が置いてある場所に向かっている間、利家が重秀に話しかけてきた。
「大松・・・じゃなかった、藤十もこの戦では羽柴の将か。実質、初陣だな」
「はっ、身を引き締める所存です」
「良き心掛けぞ。しかし、此度の戦はよく分からぬ・・・」
利家がそう言って溜息をついた。重秀は思わず「はっ?」と聞き返してしまった。
「御屋形様はこの戦を『鉄砲の戦』と言っていた。儂には意味が分からぬ・・・。武田の、いや武田でなくとも騎馬隊相手に鉄砲持った歩兵が立ち向かっても蹴散らされるのがオチじゃ」
当時の日本在来の馬は体高の平均130cm、体重が300kg。最高速度は時速40km。これが鎧武者を乗せて突撃してくるのである。どんな歩兵でも飛ばされてしまうだろう。もっとも、地面の状況や馬のコンディションを考えれば、時速40kmも出ないだろうが、それでも人の耐えられる衝撃ではない。
もちろん、鉄砲で騎馬武者や馬そのものを仕留めて突進を止めることは出来るだろう。だが、当時の火縄銃の命中率は現代の銃よりも命中率は劣るし、そもそも連射ができない。弾を込めている間に間合いを詰められて蹴散らされるのがオチだ。従って、鉄砲を使って騎馬隊を止めるのは難しい、とされてきた。
しかし、信長は武田との戦に備えて鉄砲をかき集めてきた。ということは、鉄砲で武田を打ち負かす、ということである。しかしどうやって?利家はそこが理解できていなかった。もっとも、作戦内容はまだ明らかにされていないため、この時点では誰も理解できていないのだが。
「・・・早合を使って素早く撃つことはできるようになりましたし、武田の騎馬隊と言っても全てが騎馬隊というわけでもありますまい。そもそも騎馬隊は銭がかかりますれば、それほど数も多くないと思われまするが・・・」
重秀がそう言うが、正直重秀もどう戦うかはよく分からなかった。
そんな話をしながら明智が集めた鉄砲をまとめた場所に来た利家と重秀。そこで鉄砲を監視していた山内勢を指揮していた一豊と一緒に、明智から渡された鉄砲を確認していくのであった。
鉄砲の引き渡しが無事に終わり、羽柴屋敷に戻った重秀達。羽柴屋敷の前で石田正澄が待っていた。
「若君!殿からの言伝です!鉄砲と紙早合を持って岐阜城に上がれとのことです!御屋形様と若殿様の前で紙早合の演武をしろとのことです!」
「相分かった!」
正澄が大声でそう報せてくると、重秀は大声で返事した。もっとも、内心では「ついに来たか・・・」と呟いていたが。
鉄砲を担ぎ、紙早合を入れた胴乱(革でできた小型のかばんのこと)を腰につけ、正澄を共に岐阜城に入ると、小姓に連れられて本丸御殿の庭へとやってきた。そこには、御殿の縁側に小具足をつけ、陣羽織を羽織った信長と信忠、そして主だった織田一門の武将が床几に座っており、庭の縁側のすぐ側では秀吉を始めとした織田家の重臣たちが、やはり小具足の姿で床几に座っていた。
小姓に案内された場所には、既に当世具足姿の若武者が片膝をついて座っていたが、よく見るとそれは蒲生賦秀であった。賦秀も重秀に気がついたのか、軽く会釈をしてきたので、重秀も頭を下げた。そして賦秀の隣に同じ様に片膝をついた。
「ふむ、揃ったようだな。猿(秀吉のこと)、左兵衛大夫(蒲生賢秀のこと)。始めよ」
信長がそう言うと、秀吉ともう一人の武将が立ち上がって「はっ」と返事をした。
「では、まずはそれがしが息、忠三郎が演武を始めまする」
もう一人の武将―――蒲生賢秀がそう言うと、賦秀が立ち上がって所定の位置に立った。立った所から30間(約54メートル)先には、棒の上に付けられた的があった。どうやらその的に弾を当てれば良いらしい。
賦秀は立ったまま先ずは信長等のいる場所に向かって頭を下げると、体の向きを鉄砲が的に向けて撃ちやすい様に調整した。次に手に持っていた鉄砲の持ち手の部分(当時の火縄銃に銃座はない)を地面につけ、銃口を真上に向けた。そして、賦秀は肩からたすき掛けにしてぶら下げている物を手に取った。よく見ると、それは早合であった。漆で赤く塗られた竹の早合を10個近く紐につなげて、それを肩からたすき掛けにして下げていたのだった。
賦秀がその一つを手に持ち、紐から外すように引っ張ると、一部を残して早合は紐から外れた。残っている部分はよく見たら蓋であった。賦秀は手にとった早合を素早く銃口に近づけると、一気に早合の中の火薬を注ぎ込み、早合の端を親指で押し込んだ。どうやら早合の蓋ではない端の部分は弾が蓋代わりになっていたようで、親指で押し込まないと外れないようになっていたようだった。空となった早合はその場に捨てられ、賦秀は槊杖で1回だけ弾と火薬を押し固めると、鉄砲を水平に持った。火皿に火薬入れから火薬を注ぎ、火蓋を一旦閉め、そして既に引き上げられている火縄ばさみに火縄を挟み込み、照準を合わせて火蓋を切り、引き金を引いた。その瞬間、発砲音とともに銃口から煙が飛び出した。直後、弾は見事的のほぼ真ん中に当たった。
賦秀はその動作を2回繰り返し、合計3発の弾を撃った。装填時間は1発辺り20秒ほど。安定した装填時間であったのは、賦秀の鉄砲の腕が良い証であろう。
「以上、我が蒲生家が作った早合での演武を終わります」
賢秀がそう言うと信長は満足そうに頷き、諸将は隣同士でささやきあっていた。
「次、猿。始めよ」
「はっ、藤十郎!始めよ!」
信長が秀吉に命じると、秀吉が重秀に始めるように命じた。重秀は「はっ!」と返事をすると立ち上がり、先ずは信長等のいる場所に向かって頭を下げた。そしてさっきまで賦秀が立っていた場所まで移動すると、体の向きを鉄砲が的に向けて撃ちやすい様に調整した。次に手に持っていた鉄砲の持ち手の部分を地面につけ、銃口を真上に向けた。そして、重秀は腰につけた胴乱から紙早合を一つ取り出した。
実はこの早合、重秀が国友村で使い方を習った後に改良したものであった。作りは変わっていないが、外見に微妙な違いがあった。紙早合は両端をねじって中身が出ないようにしている。そして、弾側の端のねじりは短いのだが、火薬側の端のねじり部分は長い。これは、どっちが火薬側なのかを触るだけで判断できるようになっていた。結果、わざわざ胴乱を見るという動作を省くことができ、さらに装填の時間がかからなくなっていた。また、夜間でも装填しやすいようになっていた。
重秀が紙早合を手に持ち、長い方のねじりを噛み切ると、開いた部分を素早く銃口に近づけ、一気に早合の中の火薬を注ぎ込んだ。そして、重秀が噛み切った部分を吐き出しながら紙早合の開いた部分を上にしてそのまま弾を紙ごと銃口に入れた。この開いた部分を上にして弾を紙ごと入れる、という行為もまた、重秀が国友村で習った後に改良されたものであった。
というのも、開いた部分を下に弾を入れようとすると、弾が先に銃身の根本まで落ちてしまうことが多々あったのだ。結果、弾の先で紙が蓋をする状態になってしまった。こうなった場合、鉄砲を下向きにすると弾が銃口から落ちにくくはなるのだが、撃つ時に紙が邪魔をしてしまい、有効射程が短くなるという欠点があった。また、火薬が爆発した時に、弾が邪魔をして紙に火がつかず、燃えにくくなってしまうという欠点もあった。そこで、銃口の方に紙早合の開口部分を向けるようにして、弾だけ銃身の根本まで落ちないようにしたのだ。こうすることで、紙の部分を火薬に触れさせることができ、紙は燃えやすくなった。と同時に、弾と銃身の間に油紙を挟むことで、銃身内を滑りやすくする一方で弾と銃身の隙間を埋めることができるようになり、鉄砲を下向きにすると弾が銃口から落ちにくくなるようにしたのだった。
その後は槊杖で弾と火薬を1回で押し込むと、鉄砲を水平に持ち、火皿に火薬入れから火薬を注ぎ、火蓋を一旦閉めた。そして既に引き上げられている火縄ばさみに火縄を挟み込み、照準を合わせて火蓋を切り、引き金を引いた。その瞬間、発砲音とともに銃口から煙と火のついた紙が飛び出した。直後、弾は的のほぼ真ん中に当たった。
重秀もまた、その動作を2回繰り返し、合計3発の弾を撃った。発射速度は1発辺り20秒ほど。これもまた安定した発射速度であった。
「以上、羽柴の紙早合の演舞を終わりまする」
秀吉の言葉に、信長も信忠も満足そうに頷き、諸将もまた隣同士でささやきあっていた。
「近くで物が見たい。左近尉(滝川一益のこと)、お前も来い」
信長がそう言うと、立ち上がって庭に降りてきた。隣りに座っていた信忠も一緒について来る。また、庭で床几に座っていた滝川一益も近づいてきた。
重秀と賦秀が片膝をついて待機していたが、信長が近づくと、重秀は胴乱から紙早合を一つ取り出して信長に差し出した。一方、賦秀は肩から下げていた早合のぶら下がった紐を肩から外すと、それごと信長に差し出した。
信長は先ずは重秀の紙早合を手に取った。両手でいじくり回した後、長くねじれている端の部分を噛み切ろうとした。重秀が思わず信長に声を掛けた。
「お、恐れながら御屋形様。噛み切るのはおやめ下さい」
「?、何故じゃ」
重秀に止められた信長がそう聞き返した。重秀が話すべく口を開きかけた時、秀吉が信長に話しかけた。
「恐れながら御屋形様。その紙に塗られている油は毒荏でございまする。むやみに口に含みませぬよう」
毒荏とは桐油の別名である。荏胡麻(シソ科の一種の植物)の種から採れる荏胡麻油(胡麻から採れる胡麻油とは別物)は、古くから日本で使われている油で、性質が桐油と同じ乾性油なので油紙を作るのに重宝された油であった。ただ、桐油と唯一違うのは、桐油が人体に有害な物質を含んでいるのに対して、荏胡麻油は人体に有用な物質を含んでおり、食用油としても使えるということである。なので、荏胡麻油に対して桐油は人体に毒なので、毒を持つ荏胡麻油という意味の『毒荏』という別名がつけられたのである。
むろん、桐油を塗った油紙を口に含んだからと言ってすぐに人が死ぬわけではない。しかし、誤って飲み込んでしまい、体に悪い影響があると困る―――というか、大事な武田との戦いの前に信長の体に異変が起きると大変なので、重秀だけではなく秀吉も止めに入ったのであった。
秀吉から毒荏と聞いた信長はもちろん、信忠や他の諸将も驚いた。特に一益は秀吉に「筑前殿!」と批難めいた声を上げた。しかし、信長は驚きの表情をすぐに消すと、躊躇なくねじりの部分を噛み切り、すぐに吐き出した。
「お、御屋形様!?」
一益が思わず声を上げたが、信長は「うるさいぞ、左近尉」と言うと、そのまま紙早合を観察した。
「ふむ、紙は二重にしているのだな」
「ぎょ、御意にございまする。一重では隙間から火薬が漏れ出しまする故」
信長の質問に対して、秀吉が狼狽えながらも答えた。その後も、信長はいくつか質問をした後、紙早合を藤十郎に差し出した。
「もう良いぞ。それはまた使えるようにせよ」
信長がそう言うと、重秀は「はっ」と返事をしながら信長から紙早合を受け取った。その後、信長は賦秀の前へ移動すると、今度は竹の早合を賦秀から受け取って質問をしていた。こちらも散々質問しながらいじくり回した後に賦秀に早合を返した。
「猿、左兵衛大夫、大儀であった。竹の早合も紙の早合も、共に甲乙つけがたいものであった。それぞれ一千貫文(約1億2千万円)与える故、さらに増産せよ」
破格の褒賞を聞いた秀吉と賢秀は片膝をついて跪き、「有難き幸せ!」と言って頭を下げた。一方、信長は重秀と賦秀の方を見ると、二人に命じた。
「忠三郎と藤十郎には、先程の鉄砲の演武を岡崎城でも行ってもらう。三河守(徳川家康のこと)や婿殿(徳川信康のこと)に見てもらおう」
そう命じられた重秀と賦秀は、「ははっ」と同時に言って頭を下げたのだった。
岐阜城出立は五月十日、それまで重秀は羽柴屋敷でゆっくり、とはいかなかった。秀吉とともに他の武将のところに行っては挨拶したり、また羽柴屋敷に挨拶にやって来る武将をもてなしたりと忙しく過ごしていた。その隙間を縫って、重秀は織田信忠の所へ挨拶に行っていた。
「ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極にございます」
信忠のいる屋敷の書院にて、目通り叶った重秀はそう挨拶すると、信忠は嬉しそうに頷いた。ちなみに書院には他にも津田信澄がいた。
「おう、藤十郎。よく来たな。先日の鉄砲の演武は見事であった。噂では、あの紙早合は藤十郎が作ったと聞いたが?」
楽しげな表情で話しかける信忠に対して、重秀はやや困ったような表情をした。
「・・・よくある父の法螺にございまする。まあ、材料の油は見つけましたし、改良した時に意見は述べさせていただきましたが」
もうあの噂を流しているのか、と重秀は秀吉の調略の腕の凄さを改めて感じていた。しかし、信忠に嘘を貫き通すのに気が引けた重秀は、本当のことを信忠に話した。
「ほう?そうなのか。しかし油を探し出したとはいかなる事だ?」
信忠の質問に対し、重秀は長浜での暮らしについて話した。特に菅浦の話をしたときには、信忠や側にいた信澄も興味深く聞いていた。
「なるほど。藤十郎も筑前の下で励んでいるようだな。北近江が豊かになれば、織田はもちろん、近くの京もますます栄えよう。そうなれば、織田は天下に面目を施せるというものよ。藤十郎よ、さらに励めよ」
「羽柴領はそういう風になっているのか。・・・実は俺は磯野丹波殿(磯野員昌のこと)の養子なんだけど、丹波殿の領地が近江の高島郡にあるんだよ。いづれ後を継ぐから、その時はよろしく頼むぜ」
信忠や信澄からそう言われた重秀は、「承知致しました」と微笑みながら平伏した。
「ああ、そうそう。お前が小姓を辞めた後に新しい小姓見習いが来てさ、そいつを紹介しようと思ってたんだけど・・・」
信澄がそう言うと、信忠が話を続ける。
「運悪く今は清洲城で新五(斎藤利治のこと)の手伝いをやっている。中々優秀な者故、小姓になったら儂の手元に置こうと思っている。機会があれば、今度紹介しよう」
「それは是非ともお目にかかりたいものでございます。して、名はなんとおっしゃるのですか?」
重秀が聞くと、信澄がいたずらっぽい笑みを浮かべながら答えた。
「ほら、お前も長岡兵部大輔(のちの細川幽斎)から有職故実を岐阜城で習ってたろ?その息子さ。名は熊千代さ」
「熊千代・・・」
随分強そうな名前だな、と重秀は思った。
この時、重秀は知らなかった。この強そうな幼名を持つ相手こそ、後に重秀の人生の中で一番手紙のやりとりをする相手―――細川忠興になるということを。
注釈
現代の日本在来馬の平均体高は120cmとされている。一方、鎌倉時代には140cmの中型馬がいたと記録されている。そこで、この小説では日本の馬の平均体高を130cmとしている。
なお、日本在来馬のうち、中型馬は西洋馬の導入の際に交配させられて絶滅したとされている。