第45話 堺にて(その4)
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実子と養子の婚姻について、たくさんのご意見を頂きありがとうございました。多くの意見を頂いたことで、私の知らなかったことまで明らかとなりました。大変感謝しております。
この時代の婚姻については、まあ身分差や家柄は重視すべきでしょうが、血縁や親族間の関係といった儒教的なタブーについてはあまり重視しなくてよいのでは?と思っています。少なくとも、近親婚に対する忌避は現代の日本人的感覚で書いても大丈夫そうだな、と考えています。この件で悩みながら話を書くという負担が無くなっただけでもありがたいです。
皆様のご協力、本当にありがとうございました。
また、感想欄にて糠味噌汁についてのご意見を頂きました。この件については活動報告をご参照ください。
今後ともよろしくお願い致します。
天正三年(1575年)、四月に入った最初の日、重秀達はまだ堺にいた。今井宗久、津田宗及の茶会の日程が詰められつつあり、それまでに茶会に出られるレベルにまで茶の湯の知識を高めるべく、連日千宗易と山上宗二の特訓を受けていた。
一方、蚕と牛については、薬問屋の小西隆佐も多額の資金援助を行うことに同意した。というのも、蚕は生薬として昔から利用されていたからである。具体的には、カイコの幼虫が死んだ後、腐敗せずに白カビで覆われた物が『白殭蚕』として、またカイコの幼虫が出した糞を乾燥させたもの『蚕沙』として、カイコの幼虫の脱皮殻を日干ししたものを『馬明退』として利用されていた。隆佐はこれらの取り扱いに目をつけたのだった。
とりあえず千宗易と小西隆佐の投資が決まり、資金調達の目処が立ったことに重秀はホッとしていた。後は今井宗久や津田宗及がどれだけ資金を出してくれるか、という事にかかっていた。
さて、重秀は茶の湯を習う傍らで、生薬についても興味を持ち始め、小西隆佐の薬問屋へ生薬について学びに行くようになっていた。もっとも、自分で薬を調合しようとは思っておらず、近江で採れたり栽培できたりして、少しでも銭が稼げるような物がないか探しているだけであるが。
そんなある日のこと、小西隆佐の長男で、京にいる隆佐に代わって堺の店を守っている小西弥十郎から、「南蛮船を見に行きませぬか?」と聞かれた。
「南蛮船?堺には来れないと聞いたけど?」
生薬の本を見ながら、仲良くなった弥十郎に対して気取ることなく聞いた重秀。これに対して弥十郎は笑いながら答えた。
「それはナウ船(キャラック船のこと)でしょう。今回来た南蛮船はフスタ船という小型の南蛮船です。父が羽柴様のために見学の根回しをしてくださいました。早速見に行きましょう」
そう言われた重秀は、宗易の屋敷で山上宗二にたっぷりとしごかれてフラフラになっている正則と清正を誘って、堺の湊へ赴いた。蒲生賦秀も誘おうと思ったのだが、この時は宗易から茶の湯の作法を学んでいたため、誘うことを断念した。
湊に着くと、重秀達は弥十郎と、弥十郎の知り合いの南蛮人の伴天連と合流、すぐにフスタ船へと向かっていった。
その船は、すぐに見つかった。周りの和船とは全く違う造形に、重秀達は驚いた。
まず、船首に角のように木の柱が水平に前に出ており、船首は関船の一本水押の様な尖った船首であった。関船と違って船体全てを覆う矢倉はなかったが、船尾に屋根付きの低い矢倉があった。そして、最大の特徴は、2本の帆柱にかかっている帆の形だった。
「なんだ、あの帆は。形が三角ではないか。あれでよく風を受けられるな」
重秀の見た三角形の帆は、ラテンセイルと呼ばれるもので、名前の通り地中海で発展した縦帆(船の中心線に沿った方向に張った帆のこと)であった。
「あの帆は上にある帆桁(帆を張るための横棒、ヤードのこと)が帆柱の周りを回るようにできており、縄や綱で帆の向きを簡単に変えることができるそうです。それを利用して帆を操り、追い風だけではなく向かい風でも進むことができるそうです」
弥十郎の解説に重秀は「へえ・・」と呟いた。
―――材料は木と布と縄と綱か。だとしたら、長浜で手に入るものばかりだから、丸子船につけて試せるな。しかし、帆を操るのにあれだけの縄がいるのか?―――
向かい風でも帆走できる南蛮船に興味を持っていた重秀は、そう思いながら、ラテンセイルをじっくりと見ていた。
弥十郎と一緒にいた伴天連が船の側にいた南蛮人と話をしており、その話が終わったのか、弥十郎に近づくと、片言の日本語で弥十郎に話しかけた。
「中、見せる。許し、得タ」
「分かりました。羽柴様、参りましょう」
弥十郎に促されて、重秀達は船と湊の桟橋を渡している板を渡って船の甲板へと向かった。
甲板では10本位ある櫂(オールのこと)を見学し、その櫂を1人ではなく2人で動かしていること、2人でどの様にどの様に動かしているかなどを聞いた。また、やたら多い縄や綱がどの様に使われているかを聞いたり、船首から伸びた角が一体何かも聞いた。ちなみに、フスタ船の船首の柱は、バウスプリッタとして使うのではなく、体当たり用の角として使うものである。それを聞いた重秀は思わず驚いてしまった。
というのも、当時の日本の水上戦では、船同士の体当たりを行わないのだ。大体弓矢か鉄砲の撃ち合い、もしくは接舷戦闘(船を近づけて相手の船に戦闘員を送り込ませて白兵戦を強いる戦いのこと)が主流だった。安宅船や関船、小早と言った軍船のベースとなった和船は、外からの衝撃に弱く(そもそも強い波を横から受ける様な外洋航行を想定してない)、敵の船に体当りすれば自分たちの船が壊れて沈んでしまうのだ。
一方、西洋や中国では船の体当たり攻撃は当たり前のように行われていた。古代ギリシア、古代ローマの時代から重秀の生きている時代まで、地中海では体当たりを主戦法としていたガレー船が主力艦であったし、中国では三国志の時代に蒙衝という体当たり専門の船があったことが『十八史略』に書かれている。
―――日本の軍船では体当たりはできないが、できるようになれば新しい戦い方ができるのではないか?―――
そう思いながら、重秀は甲板を見て回っていった。
甲板を一周りした後は船内にも案内された。先ずは船尾の矢倉のような建物に入り船長に挨拶した。人を見下すような視線を気にせずに挨拶した後、伴天連の通訳を介して色々聞いた。どことなく馬鹿にする口調の船長のポルトガル語を何とかマイルドに翻訳していく伴天連の話から、この船はポルトガルではなく天竺のゴアで作られたものであること、ポルトガルはゴアの他に唐の国の南にあるマカオというところにも拠点があり、そこでもフスタ船を作っていることを知った。
―――ひょっとして、条件次第では日本でも作れるのではないか?―――
そう思った重秀が質問したところ、なんと長崎と平戸で建造中だということが分かった。思わず「作り方を教えてくれ」と聞いたところ、何故か船長と伴天連が口論を始めてしまった。何やら伴天連が船長を叱責しているようだったが、何を言っているか分からなかった。結局、伴天連から「本国から許可がないと作れない」と言うことなので諦めたが、「本国の許可ってなんだよ」と、重秀は思わずぼやいてしまった。
伴天連がお詫びの代わり、ということで船倉も見せてくれた。船倉に入ると、思ったより広かったので、重秀は驚いてしまった。色々歩いて見ていると、重秀は気になる物を壁に見つけた。
―――やたらと壁に縦材を付けてるじゃないか。それに、よく見たら船の壁、木材の幅が狭いな―――
九鬼水軍の安宅船を知っている重秀にとって、フスタ船の内部はやたらと木が細いように思われた。安宅船で使われている材木は一本一本の幅が広く、厚みもあったが、フスタ船の材木は違っていた。
船の壁につけられた縦材は、甲板下から垂直に壁沿いに降りていき、重秀の立っている床を突き抜けているように見えた。反対側の壁も見てみると、同じ様に縦材が入っていた。
―――縦材で壁を補強しているのかな?―――
重秀がそう思っていた時だった。清正が「おかしいな・・・」と呟いた。
「どうした、虎よ」
正則の言葉に反応した清正が、正則と近づいてきた重秀に言った。
「船乗りがいないんですよ」
「船乗り?」
重秀がそう尋ねると、清正は頷いた。
「あの綱の数や櫂の数を考えると、もっと多くの船乗りがいてもおかしくないんですがね」
「堺の町に遊びに行ってるんじゃねーか?」
清正の疑問に正則が答えるが、清正は納得しなかった。
「それなら船員らしい南蛮人をどこかで見てるだろう。しかし、こっちに来るまで見た南蛮人はそこの伴天連のような格好か小洒落た格好の南蛮人ばかりだった。堺の湊にいた日本人の船員のような汚い格好の南蛮人なんぞお目にかからなかったぞ」
清正が正則に反論している横で、重秀が顎に右手を添えながら考えていた。そして口を開いた。
「分からなければ聞けばいい」
そう言うと、重秀はついてきてくれた伴天連に「船乗りはどこに行った?」と聞いた。
伴天連は少し考える素振りをした後、言葉を選ぶかのように話し始めた。
「船乗り、別の部屋休んでゴゼマス。船尾のカピタン(ポルトガル語で船長のこと)の下、船乗りの部屋ゴゼマス」
「ああ、そうなんだ。でも、船尾って狭くないか?」
船倉からでは船首と船尾の様子は壁があるのでよく分からなかったが、船倉の広さからすると、船尾は狭いのでは?と重秀は疑問を呈した。
「心配ナイ。休めるでゴゼマス」
若干うろたえた伴天連に、重秀は怪訝な目を向けたが、正直船乗りには興味なかったのでこれ以上聞くことはなかった。そして、重秀が質問を止めたので、清正もこれ以上は疑問を口にすることはなかった。
重秀が南蛮人の有するフスタ船の乗組員、特に櫂を漕ぐ者がどういう者かを知るのは、ずっと後のことである。
船を見せてもらった礼をしに船長室へ向かう重秀達。見下される視線に我慢して礼をした後、弥十郎が布の包を差し出した。船長が包を解くと、中から銀の塊が出てきた。船長は急にニコニコしだすと、機嫌の良い声で重秀達に礼をした。
調子のいい奴だと思いながらも船を降り、小西の薬問屋の店に向かった重秀は、歩きながら弥十郎に礼を言った。
「弥十郎殿、此度はかたじけない。この様に南蛮船を見せていただけるとは、この藤十郎、何度礼を言っても足りませぬ」
「いえいえ、父上から羽柴様には良うもてなせと言われてますさかい、気にせんといて下さい。それより、あの船長の態度、申し訳あらへんでした」
同じく歩きながら、弥十郎がそう言って頭を下げた。重秀はあの船長について弥十郎に聞いてみた。
「小西殿、あの船長をご存知なのですか?」
「父から聞いております。日本人を見下す嫌な奴でっせ。まあ、南蛮人は大なり小なり我ら日本の人を見下しますがね。そもそも、あいつ等なんで船を見せたと思います?」
弥十郎の質問に重秀達は首を傾げた。弥十郎は自嘲気味な笑みを浮かべながら答えた。
「我々日本人には作れっこない、と思ってるんですわ。だから、見せたところで痛くも痒くもない、と思ってるんでっせ」
弥十郎の言葉に、重秀は「ふ〜ん」と顎をさすった。少し考えた重秀は、弥十郎に話した。
「・・・全く同じものは作れないと思うが、似たようなものは作れると思うぞ」
重秀の言葉に目を丸くする弥十郎。そんな弥十郎に重秀は話し続ける。
「初陣・・・初陣?まあ、いいや。伊勢長島の戦いに出てたけど、あの時九鬼殿の水軍の船に乗ったことがあって、その時に安宅船や関船とかを見せてもらったのよ。ついでに、その船員や九鬼殿に、船について色々教わったから、その知識と今日見たフスタ船の内部を紙に書いて長浜の船大工達に聞けば、なんとかなるんじゃないかな」
「なんとかなりますかね?」
弥十郎の疑問に、重秀が答える。
「日本の軍船は体当たりができない。一方でフスタ船は船首からの体当たりを想定している。船の構造の違いが分かれば、なんとかなるかもしれない」
弥十郎は重秀の言葉を聞いて「楽観的すぎるな」と心の中で呟いた。しかし、「できるわけない」と言うことができなかった。父親である小西隆佐の人脈の関係上、南蛮人と接することが多く、結果南蛮人の差別的態度に嫌気と憤りを感じていた弥十郎は、目の前にいる若者に、南蛮人の鼻をあかして欲しい、と思った。
「・・・羽柴様、是非とも、南蛮人をあっと言わせるような船を作ってくださいませ。もし、困ったことがあれば、この小西弥十郎、ささやかながらお力をお貸しする所存でございますよって」
「それは有り難い。南蛮船に負けない船を作れば、父上はもちろん、御屋形様も若殿様も喜ばれるな。その時はよろしく頼む」
弥十郎の提案に、重秀は笑って答えた。
「小西殿よ。一つ聞きてえんだけど」
横から正則が口を挟んできた。弥十郎が「はい、何でしょうか」と聞いてきたので、正則は話を続けた。
「確かに、態度は気に入らなかったけどよ、言葉はそれほど見下してなかったじゃないか」
正則の言葉に、弥十郎は首を横に振りながら答えた。
「あれは伴天連が柔らかく言ったからです。もっときつい言葉だったと思いますよ。あの伴天連は南蛮人にしては日本人には敬意を持って接しますから」
「先日のうるがん殿も我らには敬意を持って接してきてましたが、伴天連は皆あんな風に穏やかな方ばかりなのですか?」
清正の質問に、これまた首を横に振りながら弥十郎は答えた。
「まあ、加藤様の言うとおり、伴天連の方は穏やかな方は多いですな。ただ、例外もおりまっせ。かぶらる殿(フランシスコ・カブラルのこと)は日本の人を低級な人だと言ったそうでっせ」
「しかし、あの船長、銀を見せたらやたら機嫌が良くなったな」
重秀がそう言うと、弥十郎は下卑た笑みを浮かべながら言った。
「しょせん南蛮人と言えども人でおます。金や銀を見せて喜ばない者はいませぬて」
そんな事を言う弥十郎を冷めた目で見る重秀。気がつけば小西の薬問屋の前まで来ていた。
宿に戻った重秀は、長浜から持ち込んだ日記を書くための帳面に今日見たフスタ船の絵を書きつつ、自分の気がついたことを書いていった。特に、三角帆と船内の縦材は詳しく書き、自分の考えを書いていった。
「縦材をあんなに多く使うということは、ただ単に壁材を補強するためのものではないはず。船底を見れなかったのは残念だったな・・・」
そう言いながら、帳面に色々と書き込んでいると、障子が開いて正則が入ってきた。
「兄貴、殿さんからの文が来てたみたいだぜ。さっき宿の手代が持ってきた。」
そう言いながら正則は重秀に秀吉からの手紙を渡した。
「ああ、悪いな」
そう言うと、重秀は手紙を開いて読み始めた。
「・・・まずいな、そろそろ戻ってこいだとさ」
手紙にはそろそろ蚕が孵化しつつあること、牛の雄と雌が三頭づつ但馬より若狭経由で来たこと、紙の生産に目処が立ったこと、などが書かれていた。そして、紙はともかく蚕と牛の実用化に向けた動きを指揮するため、重秀に戻ってこい、と書かれていた。
「資金援助も宗匠や小西殿、あとは宗匠や小西殿に近い中小の商人が何人かのみ。できれば今井宗久殿か津田宗及殿に説明だけでもしていきたかったのだが・・・」
「その二人ってのは、そんなに銭持っているのか?兄貴」
「ああ。二人共ただの商人じゃないからな」
今井宗久は永禄十一年(1569年)、上洛した織田信長にいち早く会いに行き、茶の名器を何点か献上している。また、同じ年に信長から堺の会合衆(堺の自治を担った商人達の組織)に矢銭2万貫(およそ24億円)を要求してきた時、否定的な会合衆を説得して2万貫を支払わせたのである。その後、信長から知行をもらったり、堺の代官職をもらったりと信長に優遇されていた。そのため、堺でも抜きん出た商人であった。
一方、津田宗及は石山本願寺の下間家や三好家と友誼を結んでいたものの、後に信長に乗り換えている。乗り換えた者ではあったが、信長からは優遇され、宗久よりは少ないが信長から知行をもらっている。当然、信長の保護の下で商いを伸ばしており、やはり豪商と言われるだけの立場にあった。
「贅沢言わないから、端金として一万貫、ポンと出してくれないかな」
「兄貴、それは贅沢の極みだぜ」
重秀の愚痴に対して、正則が呆れたような声を出した。そんな時だった。清正が部屋に駆け込んできた。
「長兄!市松!宗匠から使いが来た!すぐに宗匠の屋敷に来いってさ!」
「宗匠が?」
「今から来いって・・・。もう暮六つ過ぎてるぞ」
重秀と正則がそう言って怪訝そうな顔をした。そんな二人を見ながら、清正はさらに言った。
「今、宗匠の屋敷に今井宗久殿と津田宗及殿が来ているらしい。だから、すぐに長兄に会わせたい、と使いの者が言ってた!」