第43話 堺にて(その2)
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少しネタバレになりそうなのですが、実は実子と養子の婚姻について、戦国時代にこれが認められていたのかが分からず悩んでおります。
現代日本の法律では認められておりますが(民法734条)、史実の江戸時代では儒教的観点から認められない、という話は聞いたことがあります(ただし資料を見たわけではありません)。江戸時代以前はどうだったか調べられず、困っています。
何か知っている方がいらっしゃいましたら、教えていただけたら幸いです。
宗易の支援の元、堺の絹織物商人や職人に長浜の養蚕について話をする重秀。そんな重秀に対し、絹織物商人や職人達は懐疑的な目を向けていた。実は、近江の絹はそのほとんどが真綿か紬糸となって地元で消費されており、生糸として出回ることが少ないのだ。しかも、運良く生糸になったとしても、買いつけた行商人達が京やその周辺に持ち込むため、堺にまで達していなかったのだ。なので、堺の商人も職人も、近江の絹を見たことがなかったのだ。しかし、長浜や小谷といった地域で大規模な養蚕をすることには興味を持っていた。
「とりあえず生糸を見せて欲しい。話はそれからだ」という意味の言葉を受けた重秀は、「今年の初夏にも生糸を作って堺に持ち込む」ことを約束した。そして、秀吉に「初夏の絹は生糸にして堺に送るため、百姓から先に買いつけて欲しい」と書いた文を急いで飛脚に持たせて長浜城へ向かわせた。だが、飛脚に頼んだ文はそれだけではなかった。
「・・・越前の絹ですか?」
「はい、越前も絹の産地だったそうです。しかも、朝倉家の手厚い保護を受けていたとか」
茶の湯の稽古が終わり、一息ついている重秀は、一緒に稽古を行っていた蒲生賦秀と会話をしていた。
堺に来てから半月が経ち、重秀が商人達と話し合っていることを賦秀に隠すことは出来なかった。興味本位で何度も聞いてくる賦秀に、重秀は隠し通すことが出来ずにとうとう蚕や牛のことを話してしまったのだ。重秀の予想通り、賦秀は蚕については賞賛していたが、食用牛の飼育については眉をひそめていた。
「それで藤十殿は筑前守様に予め文で報せたと?」
この時期には重秀も賦秀もお互いに『忠三殿』や『藤十殿』と気安く呼びあう仲となっていた。
「はい、忠三殿。御屋形様は今年中に越前の平定を行うことを考えている、というのが父の考えです。越前が再び御屋形様の支配下に入れば、越前の養蚕は復活するでしょう。その前に手を打つ必要があります」
越前国もまた、奈良時代には朝廷に絹を大量に納めていた。また、文明三年(1471年)に一乗谷に朝倉家が入って以降、代々足利将軍家に絹織物を献上していた。
今は一向一揆勢が圧政を敷いているので、養蚕は壊滅しているようだが、織田信長によって平定し、越前が安定すれば、必ず養蚕や絹織物も復活する、と重秀は考えていた。
「羽柴が長浜で養蚕を大々的にやれば、他の大名家も羽柴に倣うでしょう。特に、越前を領有する方はやらない訳がありません」
「確かに、一揆で荒れた越前を立て直すのに、養蚕と絹織物はうってつけですからな」
重秀の言葉を受けて、賦秀が頷きながら答えた。重秀が話を続ける。
「越前平定では必ず羽柴勢が参加するはずです。その時に越前の蚕なり絹織物の職人なりを確保できれば、長浜の絹はより発展するはずです。しかし、問題があります」
「・・・蚕に係る者や織物職人が一向門徒だった場合ですな」
賦秀の言葉に重秀が頷いた。
「はい。長島の事を考えれば、御屋形様は一向門徒は根切り(皆殺し)を指示なさるでしょう。できれば殺さずに長浜に連れていきたいのですが・・・」
「・・・御屋形様の事を考えれば、難しいですな」
長年小姓を務め、義父にも当たる信長のことをよく知っている賦秀の言葉に、重秀は重い雰囲気で頷いた。
そんな時だった。部屋に千宗易の手代がやってきた。
「失礼いたします。羽柴様、ご主人さまがお呼びです」
手代からそう言われた重秀は、賦秀に会釈すると宗易に会うべく部屋を出た。
宗易の前にやってきた重秀は、さっそく宗易から要件を言われた。
「藤十郎様、小西隆佐殿から文が参りました。五日後に堺に戻るので、その日にお会いしたいと。また、その時に伴天連を一人同行させたいとのことでございます」
「おお、伴天連から直接話を聞けるのはありがたいです。南蛮ではどの様に牛を増やして食しているのかが分かりませんでしたからな」
重秀がそう喜んでいる中、さらに宗易が話をすすめる。
「また、近江の養蚕について今井宗久殿、津田宗及殿にお話ししたところ、資金援助については即答しかねる故、後日、茶を飲みながらお話を聞きたいとのことでした」
「・・・まあ、始まってすらいない養蚕にそうやすやすと銭は出せませんか」
宗易の話を聞いて重秀は溜息をついた。宗易がそんな重秀を励ますかのように語りかける。
「しかし、お二方も茶人として、また商人として堺の縮緬や綸子が多くの人の手に入ることに賛同致しております。後は、藤十郎様の説得次第では資金援助を引き出せるものと思われます」
「あのお二方から資金援助を得られるのはありがたいことですが、茶を飲みながらということは・・・」
重秀がおずおずと宗易に聞くと、宗易は頷いて答えた。
「ええ、二人の茶会に参加しろ、ということでございましょう」
「・・・いいのですか?御屋形様の許しなく茶会を開いても」
当時、信長は家臣に対して自分の許しなく茶会を開くことを禁止していた。これは、恩賞とするための許可制だったと言われている。
重秀の質問に対して、宗易は笑いながら答えた。
「ご心配には及びませぬ。あれは御屋形様の家臣に向けて言われたこと。商人には関わりない命にございまする。それに、茶会と言わないまでも、商談で茶を飲むことはよくある話でございまする」
「はあ、分かりました」
そういうものなのか、と思いながら、重秀は返事をした。
それから五日後。重秀と正則、清正、そして興味本位でついてきた蒲生賦秀が小西隆佐の店を訪れていた。小西隆佐の長男である小西弥十郎の案内の元、店舗の裏にある屋敷の客間へと通された。
客間では、畳の上に南蛮風の長テーブルが置かれていた。そして、テーブルを挟むかのように対面形式で椅子が複数置かれており、すでに二人の男が椅子の側で立っていた。
「お初にお目にかかります。ワテが薬屋の小西隆佐でございます。こちらにおんのが伴天連の宇留岸殿です」
やや背の低い、首からロザリオを下げた日本人がそう言って自己紹介をし、隣りにいた南蛮人を紹介した。そして、紹介された南蛮人が深々と頭を下げると、片言の日本語で自己紹介を始めた。
「お初、お目にかかりまする。ワタクシ、ウルガン・ニッキ・ソルデ(ニエッキ・ソルディ・オルガンティノのこと)と申し、ゴゼマス」
「近江長浜城主、羽柴筑前が息、羽柴藤十郎と申します。こちらは義弟の福島市兵衛と加藤虎之助。そして・・・」
「近江日野城主、蒲生左兵衛大夫が息、蒲生忠三郎でござる」
それぞれの自己紹介が終わると、隆佐とオルガンティノ、重秀と賦秀がそれぞれ並びつつもテーブルを挟んで座った。正則と清正は椅子に座らず、重秀の後ろで控えるように畳の上で胡座をかいて座った。
互いが席に着くと、小西家の侍女たちがお茶を持ってきた。重秀達に出されたお茶は普通に点てた薄茶であったが、問題は隣に置かれた茶菓子であった。
「・・・これはなんですか?」
思わず聞いてしまった重秀に、隆佐は微笑みながら答えた。
「これはカステイラなる南蛮の焼き菓子でおます。甘うて美味しゅうございますよって、ささ、どうぞどうぞ」
隆佐に勧められてカステイラを食べる重秀達。口に入れた瞬間、甘さが口に広がり、そして今まで食べたことのない食感に、思わず驚きの声を上げてしまった。
「いや・・・!これは美味いな・・・!」
「・・・どうやって作ってるんだろうか・・?」
賦秀が美味さに感動し、重秀がお皿を持ってカステイラをまじまじと見つめる。そんな二人の様子を見て、隆佐は笑いながら言った。
「気に入って頂き恐悦至極。もしお気に入りでございましたら、お土産に差し上げますよって、持って帰ってください」
「い、いや、私はまだ堺で会う人がおります故、当分は長浜には帰りませんよ」
「それがしも、宗匠からまだ茶を習ってますので、日野へはまだ戻りませぬ」
重秀と賦秀が断ると、隆佐は「ではお城に戻られる時はお立ち寄りくださいませ」と言って頭を軽く下げた。そして、今まで笑顔だった顔を止めて、真面目な顔になってから、重秀に聞いた。
「ところで、羽柴様のところで南蛮人のための牛を飼育なされる、と宗易様よりの書状で知りましたが、真でございまするか?」
隆佐の質問に「はい」と重秀が答える。続けて岐阜でルイス・フロイスやロレンソ了斎から南蛮人が牛を食べるのに苦労していることを聞いたことを話すと、オルガンティノが声を上げた。
「フロイス殿、ロレンソ殿、ご存知でゴゼマスカ?」
「はあ、お二方は私のことは知らないでしょうが、岐阜城にてお二方が若殿様(織田信忠のこと)とお会いした時、小姓として一緒に話を聞いたことがあります」
「オオ、ソウでしたか。トコロで、タシカ牛のこと、聞きたい、デシタネ?」
オルガンティノの言葉に重秀が頷いた。オルガンティノはそれを見ると、牛について話し始めた。
南蛮(スペインやポルトガルのこと)やオルガンティノの生まれ故郷(イタリア北部)では、牛はもっとも重要な家畜であった。役牛として農耕や運搬で使われるのはもちろんであるが、食用としても重要であった。牛の乳を飲んだり加工して食べたり、そして解体して肉を食べたのである。
「牛の乳を飲んだり、食べるのですか・・・?」
賦秀が信じられない、という表情をしながら呟いた。重秀も興味深そうにオルガンティノを見つめるが、答えたのは隆佐だった。
「別に不思議がることではあらしまへん。日本でも昔は牛の乳を加工したものを朝廷に納められ、食べられてましてん」
飛鳥・奈良時代には租庸調の調の一種として『蘇』が納められていた。この『蘇』については、律令の取説と言われる『延喜式』に作り方やどこから納められたかが記録されている。
「ワタクシ、生まれた場所、Formaggio(イタリア語でチーズのこと)、食べマス。Burro(イタリア語でバターのこと)、食べマス。二つトモ、牛の乳、使いマス」
オルガンティノの話を聞いた重秀は「うーん」と唸り、腕を組んだ。そして、オルガンティノに聞いた。
「南蛮ではそれほど牛が多く利用されているようだが、どうやって増やしているのだ?食べてしまったら数が減るばかりではないか」
「牛、食べる用、乳絞る用、働かせる用、全て違う牛デス。それに、食べる牛、男の牛だけ。女の牛、食べないデス」
「ああ、そうやって分けているのか」
重秀が納得するように頷くと、オルガンティノはさらに話し続けた。
「牛、年に一回、子ども一人しか産まナイ。ダカラ、他の肉、食べマス。タトエバ、豚、食べマス」
「ぶ、豚ですか!?」
重秀が思わず叫んだ。オルガンティノが驚いて「ドウシマシタ?」と聞いた。続けて隆佐も重秀に聞いた。
「羽柴様は豚はご存知あらしまへんか?唐朝鮮はもちろん、ルソンや琉球では食されとる猪のような獣で・・・」
「いや、豚は知ってます。ただ、豚って人糞食べるんでしょ?そんな物食べる獣の肉って、食べても大事無いんですかね?」
重秀は漢籍を好んで読んでいたため、中国や朝鮮で豚という獣が飼われていて食されていることは知っていた。そしてその飼育方法も知っていた。
中国では秦の時代以前から豚が人糞を食べることが知られていた。元々豚は雑食性で、食糞の習性を持っていたためである。そこで、一定の土地を土塀(柵だと豚の突進で破壊される)で囲ってその中で豚を飼い、その土塀の上に厠を作ったのである。人が厠で大便をすると、それが下に落ちて豚が食べる。そうして豚が育ち、育った豚を人が食べる、という循環型システム(?)が発明されたのである。これが俗に言う『豚便所』である。ちなみに、豚は人糞だけ食べて育てられたわけではなく、人が尻を拭いた時に使った木の葉や藁も食べていたし、人が残した残飯も与えられていた。
さらに、重秀は『史記』を読んでいた。当然、『呂太后本紀』も読んでいた。なので人豚の逸話も知っていた。
昔、漢王朝の創始者である劉邦には糟糠の妻である呂雉(呂太后)がいた。しかし、その後に戚夫人という愛妾が出来ると、劉邦は彼女との間にできた子を跡継ぎにしようと考えた。劉邦が皇帝となり、戚夫人との間に生まれた子(劉如意)を皇太子にしようとしたが、股肱の臣達の猛反対によって頓挫し、呂雉との間の子(劉盈、のちの恵帝)がそのまま皇太子となった。
劉邦死後、呂雉は劉邦の寵愛と息子の皇太子の座を奪おうとした戚夫人に対して報復を開始。恵帝の保護下にあった劉如意を暗殺すると、今度は戚夫人を捕らえる。捕らえられた戚夫人は丸坊主にされた後に監禁され、その後に手足を切断し両目をくり抜いて喉を潰した。そして厠(豚便所だと言われている)に投げ込むと彼女を「人彘(人豚)」と呼び、さらに息子の恵帝にその姿を見せて大笑いしたとされる。心優しい恵帝はそんな状況を見てショックを受け、精神的に病んでしまったとされる。
そういう訳で重秀にとって豚のイメージは最悪なものであり、豚を食すのには抵抗があった。その旨、オルガンティノに伝えたのだが、オルガンティノは顔をしかめながら言った。
「ワタクシの生まれた所、人の糞、豚に食べさせナイ。豚、山で放しマス。豚、山で木の実や草食べて育ちマス。南蛮の国々、ミンナそうやって育てマス。そうやって育てた豚、美味しいデス」
続けて隆佐も重秀に言った。
「唐朝鮮や琉球での話やけど、豚は多産ゆえ、肉としては安価で手に入る事ができます。確か、一回の出産で五、六匹産みますが、それを年二回やります。やから、一年で十匹以上産むことになりますな。ほんで子を成すことが出来るまで成長するのは半年ほどやて聞ぃたことがあります」
「・・・随分とお詳しいですな、隆佐殿。いくら唐朝鮮、琉球の話とは言え、そこまで詳しくなりますか?」
隆佐の豚に対する知識に対して、賦秀が疑問を呈した。それに対して隆佐がしれっと答える。
「そりゃまあ、食べたことありますさかいに。長崎では、南蛮人達が牛、豚、羊、鶏を持ち込んで飼ってますからな。南蛮人達と商いするなら、これくらい食えんようにはならんと」
隆佐の答えを聞いて絶句する賦秀。一方の重秀は「へぇ〜」と感心したような声を上げた。そんな重秀に、オルガンティノが話しかけた。
「トコロデ、ハシバ様。牛、誰が殺す、デスカ?」
「はっ?」
オルガンティノの質問に重秀は思わず聞き返した。オルガンティノが話を続ける。
「この国の人、ホトケ信じる。ホトケ、ケモノ殺すダメ。だから、牛殺せナイ。どうやって肉とりマスカ?」
オルガンティノの言葉に賦秀や、後ろに控えていた正則や清正も息を呑んだ。
西暦675年、天武天皇による食肉禁止令以来、日本では度々食肉を禁止していた。食肉が禁忌とされてきた理由は諸説あるが、恐らく仏教の殺生戒めと、古来より血や動物そのものを穢れとして忌み嫌う風習が混ざったのではないか、と思われる。また、人間固有の心情により、身近にいる生き物をむやみに殺すことに、抵抗を感じていたことも理由の一つであろう。この件についてはここで記すと長くなるので省くが、とりあえず当時の日本人にとって牛を殺すことはものすごく抵抗があったと思われる。
「それは、牛は生きたまま売ろうかと思っています」
重秀がそう言うと、オルガンティノは首を横に振った。
「生きた牛、ワタクシたち買っても殺せナイ。殺す人、別にイル。シカシ、その人、長崎にしかイナイ」
「なるほど、牛を捌くのは我々にしろ、ということですか。しかし、我々には牛を捌く方法を知りませぬ」
重秀がそう言うと、横から隆佐が口を挟んできた。
「いや、牛を捌くこと自体は難しいことではありません。死んだ牛を捌いて肉や革をとる職人は私も知っておりますさかいに。よろしければ、紹介しまひょか?」
隆佐の言葉に重秀は黙ってしまった。そんな中、賦秀が口を開いた。
「しかし、牛を捌くはできても、牛を殺すことはその職人もできまい。結局、誰かが殺さなければならないわけだ。で?牛を殺すのに藤十殿は何をすればよいのだ?」
オルガンティノの発言に何かを感じ取った賦秀が、オルガンティノに対して鋭く追求した。黙ってしまった重秀もオルガンティノを見つめた。オルガンティノはそれまで真剣な表情をしていたが、口元を緩め優しそうな表情で言った。
「ワタクシたちの神、生きるためにケモノ殺す、赦しマス。ワタクシたちの神の教え、ドウゾ受け入れてクダサイ。受け入れた人、牛、殺しても救われマス」
注釈
豚は一回の出産で10頭以上生む場合がある。これは品種改良の結果であり、当時の豚がそれだけの数を生むとは考えづらい。なのでこの小説では、イノシシの一回の出産数である4〜6頭を参考にしている。