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第40話 菅浦(後編)

感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。


誤字脱字報告、大変ありがとうございました。いつもお手数をおかけして申し訳ありません。今後ともよろしくお願い致します。


この小説では村の指導的立場にある人を名主みょうしゅとしています。しかし、庄屋とも言うらしいのですが、正直違いが分からず困っております。もし、分かりやすい解説をしているサイトや資料をご存知でしたら、お教えいただければ幸いです。


どうぞよろしくお願い致します。


 次の日、秀吉と重秀は福島正則、加藤清正、石田三成、前野長康と兵50人ほどと共に竹生島にいた。秀吉と重秀以外は具足を身にまとっており、いかにも戦に出ようという出で立ちであった。

 一方、秀吉と重秀は小具足姿でその上に胴服(小袖の上に羽織る上着のこと。羽織の原型であり、これから袖を取ったのが陣羽織の始まりと言われている)を着た姿であった。ちなみに頭には烏帽子をかぶっていた。


「殿さん、兄貴。本当に鎧をつけなくて良いのか?」


 正則の言葉に、秀吉は肩をすくめながら言う。


「儂はともかく、藤十郎は鎧兜がないんだから致し方あるまい」


 実はこの時期、重秀は具足を持っていなかった。長島に着て行った具足が小さくなったので、新しいものを京の具足師に発注していたのだが、秀吉が「嫡男なのだから派手に行こう!」ということで、特注の当世具足を注文していたのだった。おかげで制作に時間がかかり、去年の暮れに頼んだものの、まだ重秀の元には来ていなかった。

 ちなみに重秀が今身につけている小具足は小一郎から借りた物である。


「まあ、交渉に行きますからな。完全武装よりはよろしいのでは?」


 長康がのほほんとした口調でそう言うと、秀吉はウンウンと頷いた。


「しかし、松田とやらは遅うございまするな。これは我等を舐めているに相違ありませぬ。松田とやら、戻ってきたら斬り捨てましょうぞ」


 三成が苛立ちながらそう言った。横にいた清正が思わず話しかける。


「お前さぁ・・・。長兄を叩こうとした時から思ってたけど、俺よりも短気なんじゃね?」


「そんな訳無いだろ!お前と一緒にするな!」


「ああん!?何だとっ!?」


「やめろやめろ!父上の前だぞ!二人共喧嘩するなら、今すぐ琵琶湖に叩き落としてやろうか!?」


 三成と清正が怒鳴り合おうとしたところに、さらに重秀の怒鳴り声が被さってきた。正則が自分の柄じゃない、と思いつつも重秀達を宥める。


「虎も佐吉も落ち着けよ。そして兄貴、何をそんなに苛立ってるんだ?珍しいじゃねぇか」


「寒いんだよ!なのに長い間待たせやがって!」


 重秀から予想外の回答が帰ってきたので、正則だけではなく清正や三成も唖然としてしまった。そんな中、秀吉だけが珍しい物を見たような表情になっていた。


「ほう、藤十郎は寒いのが苦手か。いや、初めて知ったのう」


 秀吉が興味深そうにそう言うと、正則が疲れたような表情で秀吉に言う。


「殿さん。何を呑気なことを言ってるんですか・・・。しっかし、兄貴の言うとおり、松田の野郎遅せぇな」


 この時、秀吉達が竹生島に上陸しているのには訳があった。松田から「いきなり乗り込んでは村人を刺激する」ということなので、先に松田が行って、秀吉達を迎え入れるという手順になっていた。その間、竹生島で待機していたのだ。

 しかし、松田が戻ってから一刻経つが、未だに帰ってこなかった。


「・・・父上、ひょっとして何か企んでるのではないでしょうか?我等を討つか人質にするか」


「そこまでの連中なら百年前に大浦に滅ぼされているじゃろう。連中はそこまで馬鹿じゃない。多分何か話し合っているのだろうよ」


 重秀と秀吉が話し合っている側で、長康が話に入ってきた。


「まあ、そんな事もあろうかと、小六(蜂須賀正勝のこと)と伊右衛門(山内一豊のこと)が兵を率いて大浦に入っていますからな。心配には及びませぬ」


 そんな話をしていると、足軽の一人が走って秀吉達のいる所へ走ってきた。白い息を吐きながら、その足軽は片膝をついて跪くと、秀吉にこう言った。


「殿、松田様がお越しになりました」


「おお!ようやっと来たか!さあさ、こちらへお呼びせよ!」


 秀吉が即座にそう返すと、その足軽は「はっ」と言うと立ち上がり、その場を去っていった。そしてすぐに、松田ともう一人の初老の男性を連れてきた。


「若君、遅くなりました。こちらは乙名おとなの森田殿です」


「お初にお目にかかりまする。私は菅浦の乙名の一人、森田甲介と申しまする」


 初老の男性はそう言うと秀吉にお辞儀をした。秀吉が森田と名乗った男に問う。


「ご苦労、で?貴殿は何しに竹生島へ?」


「はい、殿様御自ら我らの菅浦へお越しになられると聞き、私も居ても立ってもいられずに迎えに参りました次第。ついでに殿様が菅浦へ訪れている間、私めがここの弁財天様にお参りしておこうかと」


「それは殊勝な心がけ。ではここで・・・」


 なるほど人質か、と思いながら森田の答えに対して重秀が返そうとした時だった。秀吉が横から口を挟んできた。


「おお!それはまたなんと信心深き御心よ!せっかくじゃ!儂も森田殿と共に竹生島の弁財天様にお参りしようかのう!」


「父上!?さっき島へ上陸した際に行きましたよね!?」


 秀吉の発言に重秀が思わず口に出した。しかし秀吉は重秀を無視して話し続ける。


「おお、そうじゃそうじゃ。森田殿には参拝後に儂の船で共に菅浦に戻られるがよろしかろう!」


 秀吉の突然の提案に、森田だけではなく松田も動揺した。森田が何とか声を出す。


「へ?い、いや。今日は弁財天様の下でお籠りしようかと・・・」


「いやいやいや。森田殿が早う帰らなければ、ご家族が心配なされよう!どうぞ遠慮なく!」


 ―――なるほど、人質はいらぬということか。脳天気なだけか、それとも腹の底に何か秘めているのか―――


 側で聞いていた松田が渋い顔をしながらそう思った。




 現代と違い、当時は菅浦へ行くには船を使うしかない。菅浦の周りを山が囲っているため、その山を獣道を使って越えなければならないからだ。そして菅浦には東西2ヶ所に船溜まり(小型船を停泊や係留させる場所)があり、その近くに桟橋が架けられていた。秀吉達を乗せた丸子船と長康が乗った丸子船が東側の桟橋に着くと、秀吉、重秀、正則、清正、三成が船から降りた。長康はそのまま船に残り、沖合に待機している配下の船団と共に監視をしていた。

 桟橋から居りて少し歩くと、菅浦名物の『四足門』(ただし、門の建築様式としては薬医門である)と木でできた柵が見えてきた。この門をくぐった先が菅浦である。


「ちょっとした砦ですな」


「ああ」


 清正と重秀が話しながら村の中心へ向かう。松田の案内で、一行は長福寺に着いた。そしてすぐに長福寺の本堂に通された。秀吉達はそこで菅浦の乙名19名と会見を行うことになっていた。

 本堂にはすでに乙名衆が揃っており、案内してきた松田もその集団に加わった。そして、それと対面するように秀吉と重秀が並んで座り、その後ろに正則達が座った。


 まずは秀吉が挨拶を始める。


「羽柴筑前守である。隣りに居るは嫡男の藤十郎じゃ」


「この度のお運び、恐悦至極にございまする。我ら菅浦の者一同、光栄の極みにございまする」


 一通り挨拶が終わると、早速話し合いが始まった。


「そこの松田から聞いていると思うが、羽柴は水軍を持つことを考えている。そこで、菅浦の力をお借りしたい」


 秀吉の代わりに重秀がそう話すと、菅浦の乙名衆の代表として話している土田という老人が話し始める。


「羽柴様のためならば、この菅浦の衆は犬馬の労を厭いませぬ。しかも、菅浦に海で使われる安宅船をいただけるとは、我ら一同、羽柴様のご命令をどうして断れましょうや」


 土田の話を聞いた正則と清正は「これは早く話が終わりそうだ」と心の中で呟いた。土田が話を進める。


「しかしながら、ご覧の取り、菅浦の男衆は大変少なく、安宅船を頂いても、男衆を全て動員して一隻動かすのが精一杯にございまする。その旨、なにとぞお考えの程を・・・」


「分かっている。若くて力のある男衆を出してくれれば良い。足りない分は長浜の舟手衆から出すことになっている。よって、羽柴に提供する水夫は、十五歳から四十五歳までの者といたす」


 重秀が事前に秀吉と決めていた台詞を言うと、乙名衆からはホッとした雰囲気が出ていた。


「羽柴様の御慈悲に感謝いたしまする。しかし、それでも村の働き手が激減いたしますことには変わりございませぬ。指定された歳の男衆は百名前後。すべて提供するとなると、村は困窮いたしまする。そこで・・・」


 土田はそこで一拍おいて再び話し出す。


「年貢の永年免除をお願いいたしまする」


 秀吉等の後ろで驚きの声を上げる正則と清正。三成は土田を睨みつけた。一方、秀吉と重秀は動じていなかった。


「ほう・・・。何故そうなる?」


 重秀が冷静な声で聞くと、土田もまた、冷静な声で答えた。


「恐れながら、少ない若い男衆が船に取られては、老いた者や女子供では田を維持できませぬ故」


「うん、一理ある」


 重秀がそう言うと、乙名達の顔色が明るくなった。自分たちの要求が通る可能性が出てきたことを喜んだのであろう。そんな様子を横目に、重秀は秀吉に聞いた。


「如何なさいまするか?父上」


「年貢の永年免除は認めぬ」


 秀吉が事前に決めていた台詞を言うと、すさかず土田が「これは異なことを仰る」と声を上げた。


「殿様は確か、今浜・・・いや、長浜に城を築く際に、年貢の永年免除を条件に人夫を城下に集めたとか。しかも、小谷城下の者共も移した際に年貢を免除したと聞きましたが?」


 土田の発言に、重秀が答える


「今回は長浜のときとは違う。長浜城築城の時は人夫に扶持米(給料としての米のこと)を支給しなかった。一方、今回は安宅船の水夫として働く者には扶持米を与える。また、特別な働きをしたものには銭も授けよう。なので、年貢を免除する理由にはならぬ」


 土田を始め、乙名衆は互いに顔を見合わせた。浅井の時はタダ働きだったのに、羽柴では働きに報酬が出ると言ってきたのだ。


「ちなみにこれから大浦と塩津の舟手衆も羽柴の水軍に組み込むつもりだが、同じ様に扶持米や銭を支払う予定だ」


 重秀の追加情報を聞いた乙名衆はヒソヒソと話し合いを始めた。そんな乙名衆に、今度は秀吉が話す。


「とはいえ、菅浦が苦しい思いをしていることは聞いている。確か、浅井家から来た代官を介して借財を重ねたとか。そしてその借財は未だ完済されていないと」


 秀吉の言葉に乙名衆の顔が一様に暗くなった。


 元々供御人の特権を使って船や物資にかかる通行税を免除されていた菅浦の者達は、琵琶湖水運で堅田衆などと競いながらも経済発展をしていった。しかし、応仁の乱以降、そういった商業活動は萎縮していき、菅浦の経済状況は悪化した。しかも、浅井家が北近江を支配すると、菅浦は浅井家より年貢はもちろん船や水夫としての労働力も徴収、稼ぎ手の居なくなった菅浦は困窮していった。困窮した菅浦は浅井家の代官を介して借り米や借金などの借財を重ねることになり、とうとう浅井家の言うことを聞かなければならない立場となってしまった。そして、惣の中心であった自検断を浅井の代官に奪われてしまった。

 菅浦にとって自検断を始めとする自治は誇りであったが、困窮と借財で全て失ってしまっていたのだった


「儂は浅井とは違う。万葉集に歌われた菅浦がこのまま無くなるのは忍びないし、淳仁帝(淳仁天皇のこと)の御霊をないがしろにいたす気もさらさらない。儂としては、菅浦に便宜を図る用意がある」


 秀吉はそこで黙ると乙名衆を見渡した。乙名衆が静かにこちらを見ているのを確認した秀吉は、再び話をし始めた。


「まず、年貢の納め先は羽柴だけとする。竹生島と日野家への年貢は羽柴が代わりに徴収し、我等でお届けする。叡山は三年前に御屋形様が燃やして無くなってしまったから、年貢を納める必要はない」


 秀吉は前日に受けた宮部継潤のレクチャーより、菅浦には多くの利害関係者がいることを知った。そしてその中に、公家の日野家がいることを把握していた。

 そこで秀吉は、菅浦から納められる年貢のうち一部を日野家に渡すことによって公家とのパイプを増やそうと思っていた。京での奉行職を務めていた頃に幾つかの公家とは繋がりを持てたが、荘園からの収入を羽柴が請け負うことで、日野家との結び付きを画策したのだった。


「次に、年貢は米か銭のみといたす」


「米か銭でございまするか?」


 秀吉の言葉に土田が聞き返した。秀吉は頷くと話を続ける。


「うむ。今まで年貢は米以外、例えばここでは鯉や油桐の実(絞ると桐油とうゆと呼ばれる油が取れる)、蜜柑や琵琶を納めてもらっていたが、それを米か銭に変えて納めてもらう。何、油桐の実などは上手くすれば高値で売れよう。さらに、ここに居る藤十郎は新たに銭を稼げる方法を実行しようとしている。藤十郎、教えてやれ」


 急に話を振られた重秀は慌てて「は、はいっ」と返事をすると、養蚕と牛の飼育について話した。

 重秀が一通り話し終えると、秀吉が再び口を開く。


「これらの新しい試みを、菅浦に優先的に回しても良い。そして、これらの管理、売買は全て菅浦に一任する」


 秀吉の言葉に乙名衆はざわめいた。土田が口を開く。


「儂等で好きに売り買いしても良いと?」


「そう考えて良い。羽柴としては、決められた年貢が手に入ればそれで良い」


 秀吉の言葉に、土田は黙り込んだ。乙名衆はヒソヒソと互いに囁きあった。その囁きの内容は秀吉や重秀の耳にかすかに入ってきたが、二人共何も言わなかった。


「・・・何故、儂等にそこまで気を使われるのじゃ?」


 乙名衆の囁きを聞いていた土田が、乙名衆の囁きを代弁するかのように聞いた。土田は質問を続ける。


「儂等は浅井の殿様から年貢やら役務やらを押し付けられた。儂等を守るためと言ってな。しかし、結局浅井の殿様はいなくなった。儂等は守られることもなくな。まあ、菅浦は被害に合っていないから、どうということはなかったがな。で、今の殿様は儂等にようしてくれようとしている。何故じゃ?何か、舟手以外でなにか企んでおるのか?」


 土田の鋭い眼光が秀吉にぶつけられる。秀吉の後ろにいた三成が立ち上がって大声を上げる。


「おいお前!殿に向かてその物言いは何だ!」


「黙れ佐吉!土田殿に対して無礼であろう!」


 土田を注意した三成に対し、秀吉が三成以上の怒声を上げた。三成が土田を睨みながら座った。秀吉が土田に視線を戻して話を続ける。


「ご無礼(つかまつ)った。先程の疑問に答えよう。確かに、儂は舟手以外のことを企んでおる。それは検地じゃ。お主等による自主的な検地ではなく、武士による検地じゃ。そして、検地帳は城で預かる」


 秀吉の言葉に土田を始め、背後にいた乙名衆も一斉に抗議の声を上げた。重秀が「お静かに!」と叫んだが、乙名衆は声を止めない。重秀がさらに言おうとするが、秀吉が先に大声を上げた。


「その代わり!年貢の割合は一公一民とし、それ以上の年貢や運上金、冥加金を取らぬことをお約束する!」


 秀吉の発言に乙名衆の抗議の声がピタリと止んだ。そしてザワザワとした声が乙名衆から湧き出した。一方、重秀は「一公二民では?」と言いたげな顔をして秀吉を見つめていた。秀吉がさらに声を上げる。


「この一公一民には日野家や竹生島への年貢も含まれておる!これは、浅井家の頃よりも年貢が安くなっているのではなかろうか!?

 しかも、舟手衆に支給される扶持米や銭は年貢から除外する!これで菅浦の民はだいぶ楽になるはずじゃ!」


 秀吉の言葉を、土田を始めとした乙名衆はじっと聞いていた。19名の視線をまともに受けながらも、秀吉は土田の目を見て言う。


「土田殿、そして乙名衆の皆々様。儂も百姓の倅、お主らの気持ちはよぉ〜く分かる。と同時に、御屋形様に武士にさせてもろうてからは武士の気持ちもよぉ〜く分かっておる。武士と百姓は車の両輪じゃ。百姓が物を作り、武士が物を年貢として貰う代わりに百姓を守り、揉め事を収める。武士と百姓はそういった関係になるべきじゃ。ところが武士はそれを忘れて百姓から年貢を搾り取るだけになり、百姓は検地を誤魔化して年貢を減らそうとする。どっちが先に関係を崩したかは知らんが、これでは互いを傷つけていくだけじゃ。

 のう、皆の衆。そろそろこの繰り返しをやめようではないか。御屋形様は天下布武により秩序を取戻さんとしている。儂等も、武士と百姓のあるべき姿に戻ろうではないか」


 秀吉の語りに乙名衆だけではなく、重秀達も聞き入っていた。秀吉が語り終わった後も皆一言も発さずにいた。ある者は呆然とし、ある者は考え込んでいた。

 そんな中、土田が口を開く。


「・・・殿様の言いたいことはよく分かりました。今まで殿様が儂等のような下々の者に直接何か言うことは無かったんで、面食らっとります。我等で相談しますよって、一旦引き取ってくだせぇ」


「いや、ここで待たせてもらう」


 秀吉がそう言うと、土田を始めとした乙名衆は一斉に息を呑んだ。秀吉の顔が、今までの愛嬌のある顔から一気に凄みのある顔に変化したからだ。その顔は、重秀にとって見たことのない戦国武将としての顔だった。秀吉は凄みのある声で言い放つ。


「儂が、羽柴筑前守が人質を取らずに嫡男を連れてここまで出向いてきた、という事をもっと深く考えてもらいたい。儂は歩み寄った。この歩み寄り、無駄足にさせるなよ?」


 秀吉の言葉に、乙名衆は何も言い返すことができなかった。そして、乙名衆は秀吉の前で論議をし始めたのであった。



注釈

淳仁天皇(在位758年〜764年)は奈良時代の天皇である。孝謙天皇の譲位を経て天皇となった淳仁天皇は藤原仲麻呂(のちの藤原恵美押勝)の補佐を受けながら統治していたものの、仲麻呂と孝謙上皇(と取り巻きの道鏡)が対立、恵美押勝の乱が起きる。乱が失敗し、藤原恵美押勝が処刑されると淳仁天皇は廃されて淡路島へ流され、その地で亡くなったとされる。

さて、実は菅浦にはこの廃された淳仁天皇が隠遁したという伝説がある。菅浦にある須賀神社は、淳仁天皇が造営した『保良宮ほらのみや』の跡地にできたと言い伝えられている。なので現代でも須賀神社の祭神には淳仁天皇が含まれている。


注釈

日野家とは元々は藤原北家真夏流(始祖が藤原真夏だから真夏流)の公家である。ただし、菅浦を荘園としていたのは分家の裏松家である。

日野宗家は嘉吉三年(1443年)の禁闕きんけつの変で断絶した後、裏松勝光(日野富子の兄)が日野を名乗ることで復活している。

しかし、天文二十二年(1555年)にまた断絶。永禄二年(1559年)にこれまた分家の広橋家より広橋兼保が祖父の広橋兼秀と日野家傍流の柳原資定の支持を受けて日野家を相続、日野輝資となって復活している。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 佐吉と重秀は短気すぎんか笑
[良い点] こんなリアルチートの父親から政務のイロハを現地で叩き込まれるなんて。重秀に対して本当に期待しているんだなあ
[一言] 西日本では「庄屋」、東日本では「名主」と呼ばれることが多いと授業で習った覚えがあります。
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