第39話 菅浦(前編)
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次の日の朝、重秀は秀吉らと朝飯を共にしながら、養蚕と牛の飼育に関する調査結果の報告を行った。この頃の羽柴家では織田家と同じくブレックファーストミーティングを行うことが多く、この日の朝飯も一門や家臣の何人かと共にしていた。
報告は概ね秀吉を満足させたものであった。しかし、養蚕については、百姓だけでなく足軽や下級武士の副業として拡大させることを秀吉は提案した。
「蚕は桑の葉を与え、育ちやすいように温めたり風を入れたりすれば良いのじゃろう?それならば女子供でもできよう。特に足軽や武士の女子供は百姓の女子供と違って田畑仕事などしないし、戦にも出ないんじゃから。それに侍女の一人や二人持っておる者もおるし、より蚕を育てやすかろう。・・・そうじゃ!城の侍女にも蚕を育ててもらうか!」
秀吉のとんでもないアイデアに唖然としながらも、重秀はふと疑問に思ったことを秀吉に言った。
「・・・父上、侍女達に蚕の世話なんて出来ますか?」
「お前が教えればいいだろうが。よし、城内に侍女用の蚕場を作るぞ」
秀吉の柔軟な考え方に、重秀はただ舌を巻くばかりであった。
牛については、秀吉は「せんの親戚に頼んでみるか・・・」と言って、但馬にいる南殿の親戚の伝手を使うことから始めることとなった。
「さて、蚕と牛についてはこの辺りでよかろう。藤十郎、水軍についてはどうじゃ?」
「はい、やはり軍船は長浜城の西側を守るための附城代わりとするべきです。ならば、大きさは最低でも関船、できれば安宅船がよろしいかと」
「ふむ、ならば安宅船とせよ。安宅船ならば附城代わりにもなるし、威圧できるからのう。後は丸子船で周りを護れれば十分じゃ」
秀吉の言葉に対して、重秀が「承知致しました」と返事をした。そして話を続ける。
「・・・菅浦は如何いたしましょう?菅浦の乙名衆とやらを調略すると申しましたが、具体的にはどの様にいたしまするか?」
重秀が聞いてきた。秀吉が少し考えてから答える。
「・・・まずは菅浦についての調べじゃ。午後には善祥坊(宮部継潤のこと)が城に来ることになっておる。まずはあの者に話を聞かなくてはのう」
その日の午後。重秀は秀吉と共に小書院で宮部継潤を待っていた。そして一人の若者が小書院の障子の外から声を掛けてきた。それは蜂須賀家政だった。彼は秀吉の馬廻衆の一人なのだが、秀吉の小姓である加藤孫六と大谷桂松が重秀の元に行ってしまったため、家政ら若い馬廻衆が小姓も務めていた。
「申し上げます。宮部様、お越しです」
「おお!通せ通せ!」
秀吉が喜びながらそう言うと、障子が開かれた。そこには僧衣を身にまとった宮部継潤が立っていた。継潤が中に入り、秀吉の前に来ると平伏した。
「羽柴様、宮部継潤、罷り越してございまする」
継潤がそう言うと、秀吉はニコニコ顔で「面をあげられよ、善祥坊殿」と言った。継潤が面を上げると、早速秀吉は菅浦の事を話した。
「なるほど、菅浦ですか。あそこを上手く治めれば、近江の者共は羽柴様を見直すでしょうな」
「ついては善祥坊殿に菅浦について我等に教えてやってほしいのだが」
「分かりました。とは言え拙僧も詳しくは分からないのですが・・・」
継潤はやや戸惑いながらそう言うと、秀吉が笑いながら右手を振った。
「分かる程度でよろしゅうござるぞ。後はこちらで何とかする。のう、藤十郎?」
秀吉がいきなり重秀に聞いてきたので。思わず「は、はあ」と答えた。重秀には秀吉のやることが分かっていないので、それ以外に答えようがなかったのだ。
その後、宮部継潤によるレクチャーはおよそ一刻(約2時間)以上かかった。その結果、菅浦の位置付けが特殊なのも分かってきた。
「え?菅浦って、堅田だけではなく塩津や大浦とも仲が悪いのですか?」
重秀が首を傾げると、継潤は「はい」と答え、さらに話を続ける。
「菅浦と塩津、大浦は琵琶湖の水運を巡って争っております。また、菅浦と大浦の間では土地の境目を巡って百五十年も諍いを続けてきました。菅浦と大浦は犬猿の仲とも言えるでしょうな」
菅浦は元々は大浦荘と呼ばれる荘園の一部であった。その後菅浦荘として独立(?)したのだが、この時に両荘園の境目を巡って紛争が起きる。特に、平地の少ない菅浦にとって、境目にある日指、諸河の平地部分は貴重な田地であったため、ここの領有権を巡って150年以上の長い間、裁判なり武力衝突なりで大浦と争ってきた。この争いの中で菅浦の人々は団結力を強めるために独自の警察権、裁判権を確立していった。また、長年の裁判対策として、当時としては珍しく庶民が文書で記録を証拠として残しており、これらの記録は現代にまで残っている。
継潤の話を聞いていた秀吉は、少し考え込んだ。そしておもむろに口を開く。
「なるほど、では大浦を利用できそうじゃ。まずは大浦、それと塩津に使者を寄越すように書状を送ろう。そしてそれを菅浦に書状で知らせてやれば良い。嫌でも菅浦は使者を寄越すじゃろうて」
もし大浦が羽柴に取り入れば、すでに決着している菅浦との境目争いを蒸し返すかも知れない。それを阻止するには、菅浦からも使者を出して羽柴に現状維持を訴える必要がある、と菅浦に思わせるのが秀吉の考えであった。
「なるほど。考えましたね、父上。しかし、少し気になることが」
重秀が首を傾げながら秀吉に言った。秀吉が「何じゃ?」と聞いてきたので、重秀が疑問を口にする。
「大浦や塩津はそこを取り仕切っている代官なり商人なり名主に書状を送れば良いですが、菅浦となると『乙名』に送ることとなります。あそこ、確か乙名は二十人居りますよね?二十人全てに送るおつもりですか?」
重秀からそう聞かれた秀吉は、困った顔をして腕を組んだ。それを見た継潤が声を掛けた。
「おそれながら、寺社に送ればよろしいかと。大体乙名達は寺社に集まって談合します故」
継潤の言を取り入れ、とりあえず竹生島の弁財天経由(菅浦荘は竹生島の荘園でもある)で菅浦の総氏神を祀る赤崎神社へ書状を送ることとなった。
書状を送って数日後、塩津や大浦から使者はやってきた。重秀は本丸御殿で秀吉と小一郎を始めとした家臣団と共に使者に会った。こうすることで、今回は羽柴家の公式な会談であることを使者達に教えることになるのだ。
秀吉が見ている中、重秀が羽柴で水軍を持つこと、そのための水夫を集めること、船は少数ながら安宅船を中心とした船団になること、このことについて御屋形様に相談するので何か問題があるなら忌憚なく申し出るように伝えた。また、近く重秀が現地調査に行くことを申し渡した。塩津や大浦の使者たちは謹んで承っていた。
重秀はついでとして菅浦について聞いた。思ったとおり、大浦の使者は菅浦についてはあまりいい印象を抱いていなかった。
「菅浦衆は浅井様に屈して以降、おとなしくなったとは言え独立心が旺盛で、とても殿様に協力的とは言えませぬ。水軍に菅浦衆を加えれば、必ずや殿様や若様に害をなすでしょう」
大浦の使者がそう言うと、隣りにいた塩津の使者も頷いていた。
「さすが、古より江北で水運をになってきた者達ぞ。この羽柴筑前、お主らの金言をしかと受け取りましたぞ」
秀吉がそう言うと、大浦と塩津の使者は喜びの表情を浮かべながら平伏した。支配者から煽てられれば誰だって嬉しいものである。
さらに数日後、菅浦より使者がやってきた。松田と名乗るその使者は1日長浜城に留め置かれた後、秀吉達と会談することとなった。
小広間にて会うことになった秀吉は、上座の上段の間にて思いっきり不機嫌そうな顔をして下座にて平伏している松田を睨みつけていた。これが演技であることは、この場にいた全ての者が知っていた。
「松田とやら、面を上げよ。父に代わって羽柴藤十郎が取り次ぐ」
事前に打ち合わせていた重秀が松田にそう言うと、松田は顔を上げた。緊張なのか若干顔色が青くなっていた。
「さて松田よ。遅かったではないか。すでに大浦と塩津の使者はやってきたぞ」
「申し訳ございませぬ。この時期は北西の風によって湖が荒れることがございまして・・・」
「比良おろしか?あれ湖の南側であろう?北側の菅浦には関係なかろう」
『比良おろし』とは現代の滋賀県に吹く局地的な強風である。晩秋から春先にかけて、若狭湾から吹く北西の風が滋賀県西部にある比良山地を吹き降りる時に発生する強風である。しかし、この『比良おろし』の影響が大きいのは主に琵琶湖中部から南部にかけてである。
「い、いえ、我が菅浦にも多少の影響はございまする・・・」
「まあ、それは良い。これより色々聞いていくので、包み隠さず答えるように」
どうせ乙名達で色々話し合って遅れたんだろ?と思いながら、重秀は松田に大浦や塩津の使者に言ったことをそのまま話し、それに関する質問をした。松田は質問には答えていたが、安宅船のところで困惑した表情を見せた。
「安宅船はありがたいのですが、動かす人がおりませぬ」
「そうなのか。菅浦にはどのくらい人がいる?」
「船が動かせる男衆は百人ほどかと」
安宅船の大きさによるが、安宅船の乗員数は150人から500人と言われている。もっとも、500人は戦闘員も含めた数であるが。
「ふむ、すると、菅浦で安宅船は無理だな」
上段から秀吉がそう声を上げた。続けて秀吉は松田に聞こえるような独り言を言う。
「残念じゃのう。大浦や塩津は安宅船を一隻づつ持たせる故、菅浦にも持たせようと思ったが、そうか、では菅浦には安宅船は無理かぁ。ああ、残念じゃのう。大浦が持っておるのにのう」
煽るように言う秀吉に松田は顔から汗が吹き出ていた。しばらく黙っているうちに、松田は口を開いた。
「・・・分かりました。菅浦に持ち帰り、皆と相談の上・・・」
「無用。今すぐここで決断せよ」
重秀が鋭い声で松田を制した。松田が黙り込む。その様子を見た秀吉が優しい口調で松田に言った。
「松田よ。すでに大浦や塩津からは了解を得ているのじゃ。これ以上菅浦に時は掛けられぬ。まあ、難しいというのならば、致し方ない。大浦と塩津の舟手衆を中心に羽柴の水軍を作れるし、最悪、堅田衆を長浜に迎え入れることもできるでのう」
「堅田・・・」
秀吉の話を聞いた松田が思わず息を呑んだ。秀吉はさらに言葉を続ける。
「堅田衆はすでにまとめ役の猪飼殿が坂本城主の明智殿の与力となっておる。儂が御屋形様を通じて明智殿に言えば、堅田衆の軍船など、すぐに琵琶湖北部で活動できるぞ。
しかしのぉ、そなた菅浦衆と堅田衆の話は儂も聞いておる。儂は堅田衆より菅浦衆を推したいのじゃ。じゃが、菅浦衆がそのような態度では、致し方ないのう・・・」
「わ、分かりました。羽柴様の提案を受けまする!安宅船、確かに拝領致しまする!ただ、男手全てを安宅船に乗せるわけには行きませぬ。なにとぞ、他の乙名達へ説得する時を頂きとうございまする」
秀吉のほぼ脅し文句で松田はついに折れた。秀吉は「おお、そうか!」と顔を喜ばせたが、すぐに不安げな顔を見せる。
「しかしのう・・・。松田殿だけでは乙名衆を説得させるのは難しかろう。なんせ、『惣』を乱した者へは惣掟で厳しく罰せられるからのう。松田殿が裏切り者として罰せられるのは、本意ではない」
秀吉の言葉に松田は「はあ」と答えた。秀吉が何を考えているか分からないからだ。しかし、秀吉の次の台詞で松田は驚くことになる。
「というわけで、儂も一緒に行こうと思う」
松田が「ええっ!?」と声を上げた。秀吉がさらに畳み掛ける。
「藤十郎、将右衛門、準備は出来ておるか?」
秀吉が側に居た重秀と前野長康に聞くと、二人は「はっ、準備はすでにできておりまする」と声を揃えていった。秀吉は視線を松田に戻すと再び話し出す。
「松田よ。将右衛門は美濃の木曽川流域を支配した土豪でのう。船の扱いはそこに居る小六(蜂須賀正勝のこと)と同じくお手の物じゃ。この二人がいたからこそ、木曽川を織田が好き勝手に往来できたのじゃ」
秀吉はほぼ事実を述べると、次に重秀を見ながら話を続けた。
「そして我が息子の藤十郎じゃが、此奴はすでに初陣を済ませておる。初陣はあの長島じゃ。お主も知っておろう、長島の一揆勢の根切りは。それに藤十郎は参加してたのよ。しかも、あの九鬼水軍と共に戦っていてのう。船戦は九鬼殿からしっかり叩き込まれとるわ。九鬼水軍の安宅船が長島城前で陸に乗り上げて兵を上陸させた時に先陣を切って突撃し、一揆勢を斬りまくった猛者よ」
松田は驚きの顔を重秀に向けていたが、それに対して重秀は無表情な顔で松田を見返していた。松田にはそれが恐ろしく感じていたが、実際のところ重秀は秀吉の法螺に対して呆れていただけであった。そして、その呆れた表情を表に出さないよう、必死になって演技をしていたのだった。
「松田、骨折りであった。明日、我等と一緒に菅浦へ参ろう。というわけで、今宵はささやかな宴を用意した。今宵はゆるりと城内で休まれるが良い。佐吉、別室へ案内いたせ」
重秀がそう言うと、松田は石田三成の導きで松田は小広間から出ていった。その様子を見た重秀が秀吉に話しかけた。
「・・・随分と脅しましたが、あれでよろしかったのですか?」
「あれで脅しとは言わんよ。交渉のやり方よ。いいか藤十郎よ。交渉で一番大切なのは、相手を追い詰めることができる、ということを見せつける事じゃ。しかし、実際には追い詰めすぎてはいかんぞ。ま、これは戦にも言えることじゃがな」
「・・・難しそうですが」
重秀が首を傾げながら言うと、秀吉はクツクツと笑いながら言った。
「まあ、まずはそういうものだと覚えておけ。後は実際の交渉を見せる故、それで理解してゆけ」
秀吉はそう答えると、すぐに真面目な顔をした。そして秀吉は重秀に話を続けた。
「藤十郎。此度の交渉はお前にとって初めての交渉じゃ。儂が交渉するとは言え、お主には気張ってもらわなきゃならん。これから先、国衆や村との交渉は多くなっていく。そしてお主もやっていくんじゃ。これはその鍛錬と心得よ」
「承知しました」
重秀がそう言うと、秀吉は笑い出した。
「うむ!大切なのは相手の気持ちに寄り添うことじゃ。こちらが相手の益を考えていると分かれば、向こうは心を開いてくれるでの」
秀吉の言葉に少しは緊張がほぐれたのか、重秀は表情を緩めながら「ははっ」と言って頭を下げた。
「では、これからは菅浦との交渉について、どの程度まで妥協できるかを話し合わねばならぬの」
秀吉のこの発言に、重秀は首を傾げた。
「妥協と言いますと?ただ安宅船を与えるための説得だったのでは?」
「安宅船を与える代わりに向こうは何かしらの妥協をこちらに要求してくるぞ。具体的には年貢についてじゃ。まあ、免除は無理じゃな。長浜の二の舞になる。それに、善祥坊の話では、菅浦は色んな所に年貢を納めておる。それを羽柴に一本化させよう
・・・そうじゃ。年貢は米か銭かのいずれにさせよう。これなら安定した収入を得られる」
菅浦は堅田との漁業権を巡る争いを有利にするために、朝廷から供御人(朝廷に直接物産品を納める人のこと、関所を通る際に通行料を免除されていた)の地位を与えられていた。それ以降、菅浦周辺の紛争が起きるたびに、菅浦の人は比叡山、日吉大社、公家の日野家、竹生島弁財天社の庇護下に入っていった。この結果、菅浦の支配権はものすごく複雑になっていった。
もっとも、戦国時代になればそんな複雑な支配権はすべて浅井家によって取っ払らわれてしまったが。
「なるほど、で、兄者よ。年貢の割合は如何する?」
それまで黙っていた小一郎が口を出してきた。秀吉が答える。
「浅井と同じ・・・、いや、この際じゃ。御屋形様が旧六角領に課した年貢が一公二民じゃから、そこまで年貢を下げよう」
「それは・・・、下げ過ぎでは?」
「但し、そこまで減らすならば、検地は我等羽柴で行うことを飲ませる」
秀吉がそう言うと、小一郎を始め、全ての者が息を呑んだ。
検地とはいわゆる土地の測量調査のことである。特に、この時代の検地は田畑の面積、等級、収穫量を測定し、年貢の量を定めるために行われていた。検地は村の名主が自主的に行う方法と、領主が役人を派遣して行う方法があるが、大体は村の名主が行う方法であり、検地帳も名主に保存されるのが普通である。
「検地を我等で行うのですか?村の名主にやらせるのではなくて?」
重秀がおずおず聞くと、秀吉は「菅浦に名主はいないのであろう?」と言った。続けて秀吉は話を続ける。
「百姓出の儂だから分かるがのう、百姓と名主は一緒になって検地をごまかすんじゃ。まあ、当然だな。年貢に取られれば自分たちの食べる分が減るんだかのう。しかし、それでは本当の石高が分からぬ。儂は、検地は武士が自ら行うべきじゃと思うんじゃ。その代わり、年貢を安くして百姓の負担を和らげる。これが、領地を治める者の心得じゃと思うんじゃ」
―――それに、独立心の強い菅浦が検地を受け入れたならば、他の村も受け入れやすくなるじゃろう。少なくとも、名主共は百姓を説得しやすくなる―――
秀吉はそう思いながら、重秀から視線を外すと、その場に居た者達を見渡しながら宣言する。
「というわけで、儂と藤十郎、将右衛門が明日菅浦へ向かう。その間の留守居は小一郎に任せる。そして、万一に備え、小六と伊右衛門(山内一豊のこと)は兵の準備をしておけ」