第3話 少年大松の一日
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永禄十一年(1568年)六月。梅雨も終わり、もうすぐ大暑となるある日のことである。
寅の刻(午前1時半頃から午前3時頃)の終わり頃に目を覚ました大松は、厠へ行って用を足すと、庭にある井戸から水を汲んで顔を洗い、指で歯の汚れを取って口を洗いだ。
一旦部屋に戻った大松は、部屋にあった木刀を持って庭に出ると、着物を脱いで上半身裸になって木刀を振り出した。朝の鍛錬―――木刀の素振りは、前田家に預けられていた頃からの慣習で大松の日課となっており、大雨や大雪にならない限り、庭でずっと続けられていたものである。
素振り50回、それを2回行うと、井戸にかけていた手ぬぐいを井戸から汲み上げた水の入った桶に漬ける。余計な水気を絞った後で、大松は手ぬぐいで全身の汗を拭き上げた。着ていた着物を整えた後、大松は庭の隅へと向かっていった。
庭の隅には箒が置いてあり、大松はそれを掴むと庭の掃き掃除を始めた。掃き掃除は庭だけではなく、門、そして門先の道路まで続いた。
「よお、大松」
「やあ、犬千代」
同じように前田屋敷の門先を掃除していた犬千代と挨拶を交わすと、交わしただけで後は二人で黙々と掃除を続けた。ここで立ち話をしようものなら、二人の父親から拳骨をもらうことは火を見るより明らかだ。
外の掃除が終わると今度は家の中の掃除である。庭にある納屋から室内用の箒やはたきを取り出すと、家の中に入って部屋や玄関、縁側などを掃除していく。大松は最初に居間を掃除することにしている。ここには亡くなったねねの位牌が置いてある。この位牌に手を合わせてから位牌を磨き、周りの埃を取っていくのが大松の仕事であった。
この時間帯になると秀吉や小一郎も庭にある畑に水やり、肥やりを行っていた。これは別に秀吉や小一郎が百姓時代を懐かしんでやっているわけではない。禄が足りない分は自給自足を行うのが、この時代の武士の常識だからである。
掃除が終わると大松は台所へと向かう。そこには、朝の市から戻ってきたあさがいた。
「叔母上、お戻りなさいませ」
大松が台所に入ってあさに挨拶する。
「・・・大松、今日も早いわね・・・」
相変わらず辛気臭い顔のあさであったが、そんな顔の中にも、少し嬉しそうな表情が現れていた。
「何か、市で良きものが手に入りましたか?」
「ふふふ・・・。干し魚が手に入ったわ・・・。不幸だわ・・・」
「それはよろしゅうございました。味噌汁に入れましょうぞ」
何が不幸なんだろう?と思いながら大松はそう言うと、竈の上に置いてあるお釜に向かっていった。前日、寝る前にお釜に玄米と水を入れることで玄米に十分な水分を吸わせることができる。その水を捨てて、水瓶にある水を入れ直した後、俵に入っていた大麦を入れて塩を少し入れてから炊き上げる。ご飯の炊き上げは、大松にとっては木下家に移ってから重要な家事であった。
火を調節し、40分ぐらいでご飯が炊きあがると、10分ほど蒸らして蓋を開ける。時計なんてないから全て勘である。しかし、小一郎叔父にみっちり仕込まれた時間配分を、大松は完璧にこなしていた。
「よし、今日も上手くできた」
「・・・本当に上手く炊くわね・・・」
あさが感心している中で大松はご飯をお櫃によそっていく。
「叔母上、味噌汁は?」
「もうすぐできるわよ・・・」
そういうと鍋をかき回している。2〜3回ほどかき回すと、鍋を竈から下ろした。
「・・・持っていくわよ」
そう言うと、あさは鍋を、大松はお櫃を持って居間へと向かった。
居間で秀吉、小一郎、あさ、大松が囲炉裏を囲んで朝食をとっていた。今日の朝飯は麦飯と干し魚の入った野菜の味噌汁、それと漬物である。現在の人々から見れば質素な朝食であるが、普段は干し魚の入っていない野菜の味噌汁なので、干し魚の入っている味噌汁というのは、ちょっとした贅沢であった。
この時期、夏なので囲炉裏に火は付けていない。正直、火のついていない囲炉裏を囲んで食事する必要はない。しかし、木下家では夏でも囲炉裏を囲んで飯を食べるのが習慣であった。
「父上、叔父上、今日のお帰りは?」
「儂は岐阜城で殿が京からの使者に会う。明智とか言う奴じゃ。夜は酒宴じゃろう。晩飯はいらんぞ」
「儂は蜂須賀殿と前野殿に会った後に墨俣の砦の様子見じゃ。儂も今日中には帰ってこられんじゃろう。晩飯はいらん」
大松の質問に秀吉と小一郎が答える。
「そうなると、晩飯は叔母上ただ一人ですか?」
「・・・大松は晩御飯どうするのよ・・・?」
あさの疑問に大松ではなく秀吉が答える。
「大松は午前中は寺で勉学。午後は浅野の家で剣術の鍛錬じゃ。いつも浅野の家で晩飯を食ってから帰ってきとるから、家では食わんのじゃ」
「・・・一人で晩飯・・・。・・・不幸だわ・・・」
「父上、今日は叔母上と晩飯を共にいたします」
肩を落とすあさを気遣ってか、大松が秀吉に言う。
「・・・いや、浅野には儂から言うておく。あさよ、夕飯は浅野家で食ってこい」
少し考え込んだ秀吉は、あさにそう言った。するとあさは不気味な笑みを顔に出した。
「・・・ふふふ、大松と一緒に夕飯・・・」
「その笑いと言い方やめろ」
秀吉は嫌そうな顔をしてそう言うと、お椀の中の飯をかき込んだ。
朝飯が終わり食器を台所で洗い終わると、大松は部屋で出かける準備を行う。寺ヘ向かうためである。と言っても着物を整えるだけで、筆などの文房具は持っていかない。そもそも持っていないし、寺で貸してくれるからだ。
準備できると再び居間に戻ってねねの位牌に手を合わせる。その後にまだ家に残っている秀吉とあさに挨拶をして門から外へ出る。
門の外ではすでに犬千代が待っていた。
「今日は、俺のほうが早かったな」
犬千代がしたり顔で言ってきたので、大松は言い返した。
「何か手伝いをさぼったのか?」
「さぼってねーよ。蕭に押し付けてきた」
「絶対怒られるぞ、それ・・・」
そう言いながら二人は崇福寺へと向かっていった。
崇福寺では大松や犬千代の他に学んでいる武士の子息が大勢来ていた。大体は大松や犬千代よりは年上だが、同じ歳の子もいないわけではなかった。
崇福寺ではだいたい似たような年齢の子を一緒にして勉強をしていた。大松らと同じ年齢の子は集まって寺の僧より読み書きを習っている。7歳程度で寺に来ている子は、大体大松や犬千代のように親や教育係から簡単な読み書きは習っているので、あとは応用の読み書きを中心に習っていく。
応用の読み書きとは何か。この時代、ひらかなは崩し文字であったし、現在のように一音一文字ではなかった。俗に言う変体仮名が多くあるのでそれを学ぶ必要があった。しかも、僧がお経に書き込むカタカナも学ばなければならないし、漢字も学ばなければならない。これらを使いこなして初めて『読み書き』ができている、と言えるのだ。
ちなみに、『読み書き』の教科書として有名なのは『庭訓往来』であろう。いわゆる手紙の雛形なのであるが、春夏秋冬の挨拶、その季節に必要な物の単語、手紙の締めの文、日付、差出人名、宛名(氏名だけではなく官名も含まれる)が数多く載っており、読み書きの教科書としては、この時代最もポピュラーなものであった。
寺での勉強は大体辰の刻(午前7時)から午の刻(正午)辺りまで行われる。それが終わると殆どの子供は帰宅していく。
「大松、この後どうするんだ?」
「浅野の叔父上に剣術を習う。そろそろ爺様(浅野長勝のこと。ねねの養父にあたる)に弓を習いたいんだけど、まだ早いって」
「ああ、俺も早いって言われたよ。十を超えてからだってさ・・・。それより、今は弓より鉄砲だって誰かが言ってたな」
「鉄砲は見たことないからよく分かんね」
そんな会話をしながら犬千代と大松が帰宅する。犬千代はそのまま前田屋敷に帰るが、大松は途中で別れて浅野屋敷へ向かった。
浅野屋敷は木下屋敷とほぼ同じ大きさの屋敷で、門も木下屋敷と同じようなものであった。
「ごめんください!」
「おお、待っとったぞ!大松」
玄関から出てきたのは浅野弥兵衛長吉。妻のややは大松の母であるねねの実妹であるので、長吉は大松の義理の叔父に当たる。元々は宮後城主安井重継の子として生まれるが、子のいなかった浅井長勝の婿養子となって浅野家の家督を継いでいた。
「よし、早速鍛錬を始めるぞ!」
「はい!叔父上!」
大松の剣術の鍛錬はそれから未の刻(午後2時頃)まで続けられた。
「お前様、大松、晩飯の準備ができましたよ」
庭で鍛錬を続けていた大松と長吉に、ややが声をかけた。
「おお、そうか。よし、大松。今日はここまでとする!」
「はい!ありがとうございました!」
「ちゃんと汗を拭いとけよ」
「はい!」
長吉にそう言われると、大松は返事を返した。そして裸であった上半身の汗を手ぬぐいで拭いていった。
拭き終わると着物を整えて一旦浅野屋敷を出ると、木下屋敷に戻った。そしてあさを連れ出して浅野屋敷へと向かった。
この時代、晩飯は大体今の時間帯で言うと午後2時から午後3時の間に食べていたとされている。現在の感覚で言うなら遅い昼ごはん、となるのだが、当時は朝夕二食が普通なので、晩飯はこの時間帯で正しいのである。
ややの作った晩飯のメニューは麦飯と野菜の味噌汁、それに納豆がついていた。
「・・・納豆なんて珍しい・・・」
「なぁ〜んか、浅野家では納豆がよく出るんだよな〜」
あさがまじまじと納豆を見つめていると、長吉が横から話しかける。どうやらあさの雰囲気に慣れたようだ。
「・・・おい、大松、納豆はちゃんと食えよ」
長吉が大松に声をかける。
「いただきますけど、このままではちょっと・・・。味噌汁に入れてよろしいですか?」
「駄目だ、と言いたいところだが、七つではまだ慣れぬか。いいぞ」
大松の提案に長吉は顔をしかめながら答えた。納豆は陣中食でもあるため、戦場ではそのまま食べることが多い。なので、小さい頃から食べ慣れさせる必要があった。ただ、そのまま食べるのはあくまで非常時の時(例えば兵糧の米が全部尽きた時とか)に食すのであって、普段は納豆汁と言って味噌汁の具材にするものであった。
「おう、大松。遠慮なくお替りしろよ」
「はい!ではさっそくお願いします!」
長吉に言われた大松は、空になったお椀をややに差し出す。ややは差し出されたお椀を受け取ると、お椀山盛りに麦飯をつぐと、「はい、どうぞ」と言って大松に差し出した。
この時代、米は玄米である。玄米は白米よりもビタミン、ミネラル、食物繊維を多く含んでいる。現在ほど豊富な食料のない当時の人々にとって、玄米は貴重な栄養源であった。そのため、大人の男性は一日5合は普通に食べていた。
「そういや、今日は寺で何を学んだんだ?」
「今日は素読に手紙の書き方、それに・・・」
そんな話をしながら、浅野家での晩飯の時間は過ぎていった。
暮六つ(現在の午後7時頃)に大松とあさが木下屋敷の戻ると、そこには秀吉がいた。
「父上、お早いお戻り、何がありましたか?」
「おお、大松にあさ。実は城に小一郎から使いが来てのう。それで、酒宴を抜け出してきたのじゃ」
「・・・何かあったの?」
大松の疑問に答えた秀吉に、あさが思いっきり嫌な顔で疑問をぶつけてきた。
「いや、大したことではない。が、大松に手伝ってもらいたいことができたのじゃ」
「なんでしょう?父上」
大松の疑問に、秀吉が真面目そうな顔つきで答えた。
「明後日、竹中半兵衛殿が岐阜城下に引っ越してくる。その手伝いをしてもらいたいんじゃ」
「手伝い、ですか?」
大松の言葉に秀吉がうなずく。
「ようやっと重い腰をあげてくださったのじゃ。とりあえず、明日は引っ越しの準備、明後日に荷物を岐阜の竹中屋敷に運び込むつもりじゃ。大松には屋敷で荷物の持ち運びをやってもらいたい」
そう言うと秀吉は真面目臭った顔をやめて目尻を下げて大松に笑いかけた。
「さて、真面目な話はここまでじゃ!大松、今日あったことを父に話せい!」
毎日ではないが、秀吉は大松が寝る酉の刻(午後8時頃)前に大松から今日あった出来事を必ず聞いていた。どんな些細なことでも喜んで聞いていた。また、秀吉も今日あった出来事を聞かせていた。大松が寝るまでの細やかな時間であったが、秀吉と大松にとっては大切な親子の時間であった。
この語らいは、この年まで続いていたものと思われる。永禄十一年九月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛。この際通り道であった南近江の六角氏を攻めているが、この時に六角方の城、近江箕作城を攻略した時に秀吉が活躍。この功績により京の奉行職に任じられている。
そのため、京に居た秀吉と、岐阜で留守番をしていた大松は語らいができなくなったものと思われる。しかし、文のやり取りはしていたようで、秀吉から大松への手紙が現存している。
注釈
この小説に出てくる『墨俣の砦』とは、豊臣秀吉の出世エピソードに欠かせない『墨俣一夜城』のことである。
しかし、最近の研究より『墨俣一夜城』のエピソードは後世の創造である可能性が高いこと、豊臣秀重とはあまり関係ないエピソードであることから、この小説では『墨俣一夜城』のエピソードを取り入れてはいない。
一方、墨俣には砦が築かれており、美濃攻略戦にて拠点であったことは間違いないようである。
そこで、この小説では「美濃攻略戦後に秀吉は功績により、信長から墨俣の砦およびその周辺を領地として貰った」という前提で書いている。