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第38話 蚕と牛

感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。


誤字脱字報告していただきありがとうございました。今後ともよろしくお願い致します。


GW期間中は投稿ペースをあげようと思います。

 色々仕事を割り当てられてしまった重秀。評定が終わった後に二の丸御殿へ戻った重秀は、早速、書院に石田正澄、福島正則、加藤清正、加藤孫六、大谷桂松を呼んで集めた。また、本丸御殿から一緒についてきた山内一豊と竹中重治も書院で一緒になっていた。


「色々仕事を授かってきた。忌憚なく意見を聞きたい」


 重秀がそう言うと、本丸御殿での話を皆に聞かせた。


「養蚕に牛に早合に水軍って・・・。兄貴請け負いすぎだろ・・・」


 正則が頭を抱えながら言うと、清正がげんなりした顔をしながら頷いていた。


「まあ、早合については小一郎殿と孫兵衛殿(木下家定のこと)が請け負ったから、これは考えなくてよいだろう。問題は、何を優先していくか、ということだが・・・」


 一豊の発言に対して、重秀が即答した。


「まずは養蚕。銭がなければ何も出来ないからな。何としても養蚕を成功させる。次に水軍。これは九鬼殿と話をつけて安宅船の作り方を教わらなければならないが、その前に菅浦衆をなんとしても取り込みたい。牛については南蛮人との交渉もあるから、これは後回しでいいと思う」


 そう言うと重秀は、「こんな感じで如何でしょうか」と言いながら重治を見た。重治は頷くと、口を開いた。


「それでよろしいと思います。では、まずは養蚕について話し合いましょうか」


 そう言うと、重治はまずは養蚕とは何か、というところから話し始めた。


 絹とはカイコガの繭から採った動物繊維である。繭の糸をそのまま紡いだのが生糸と言われ、灰の入ったアルカリ性の水を沸騰させた後に生糸を入れて精錬したものを練糸ねりいとと言う。ちなみに、生糸が取り出せないほどのクズ繭を綿状にして糸を出すこともできるが、この時できた糸を紬糸と言い、綿状そのものは真綿という。


「・・・え?絹って、虫の繭だったんですか?」


「知らなかったのですか!?若君なら知っているものとばっかり・・・」


 重秀と重治のこんなやり取りを間にはさみながら、重治の説明はまだ続く。


 近江国では朝廷に収める租庸調のうち、調として絹の布が納められていた。そのため、近江国では少なくとも平安時代後期までは養蚕の盛んな地域の一つであった。しかし、律令制度の崩壊によって絹を納めなくなると、少しずつ養蚕は衰退していった。そして、平清盛による日宋貿易、鎌倉時代に行われた日元貿易、足利義昭による日明貿易によってもたらされた中国産の絹により、品質の劣る国産絹は駆逐されていき、それと同時に養蚕もまた衰退が加速していった。


「・・・これは養蚕も難しそうだなぁ・・・」


 一豊がそう言うと、重秀も溜息をつきながら頷いた。しかし、正澄が「お待ち下さい」と言って話し始めた。


「確かに、この辺りで蚕を大規模に育てている所はありません。ですが、細々とですが、農家の屋根裏で蚕を飼って糸を作り、行商人に売って家計の足しにしている者もいると聞いたことがあります。そう言ったところから蚕の卵や桑の苗木を譲ってもらうなり売ってもらうことで、なんとかなるやも知れません」


「・・・そうですな。試してみなければ分かりません。とりあえず、桑と蚕を探してみましょう」


 重治の提案に同意した重秀は、明日から農家を回って蚕や桑の調査に乗り出すことを決めた。





 次の日、養蚕に関する情報を集めるべく、正澄と正則、清正と長浜城を出た重秀であったが、最初に訪れた長浜近くの村の名主(みょうしゅ)(村の指導者的な立場の人のこと)から衝撃的な事を聞かされた。


「はあ!?長浜周辺ではすでに蚕を飼っている!?」


 重秀から事の顛末を聞いた名主が言うには、ここら辺は昔から農家の副業として蚕を飼い、糸を作って自分たちの着る物に使ったり、たまに京からやってくる行商人に安く売ったりして小銭を稼いでいたらしい。また、残った蛹を乾燥させて保存食にしたり粉末にして水で練ったものを釣りの餌として利用していたらしい。


「ちょっと待て。ならば何故それが知られていないんだ?」


 重秀が名主から聞いた知られていない理由は二つ。一つは知られるほど生産される量が少なかったこと、もう一つは数少ない小銭稼ぎを領主に取られないよう秘密にしていたこと、が理由であった。


「秘密、つったって積極的に隠したわけじゃねぇ。ただ言わなかっただけだぁ。でも、京極の殿様も浅井の殿様も、お蚕さんのことについてはなぁんも言ってこなかったからなぁ。特に言うことでもねぇと思って、話してこなかっただけだぁ」


 その話を聞いた重秀は思った。長年北近江を支配した京極や、北近江に根を張っていた浅井は恐らく足元で養蚕がなされていたことは知っていたであろう。しかし、京に近く比較的中国産の絹を手に入れやすい立場であった京極とその被官であった浅井は、足元の国産絹には目もくれなかったのではないだろうか、と。

 しかし、近江の蚕は死滅していなかった。細々と農民の副業として、その天井裏で小さな火を灯し続けていたのだと。ならば、この火を大きくすれば、きっと長浜を豊かにできるだろう、と重秀は思った。


「・・・済まぬが、ここら辺の蚕の様子についてもっと詳しく聞きたいのだが」


「へぇ、我々でよろしければ」


 その後、重秀達はその村を始め、近隣の村々から蚕に関する情報をまとめると、長浜城に戻っていった。戻った重秀と残っていた一豊や重治が集まって情報の整理を行う。


「桑は各村の隅に生えているほど一般的でした。また、山にも数多く生えているそうです。この時期は葉が全て落ちていますが、春になればまた葉が茂るようです。前年に伸びた若い枝か、春に伸びた新しい枝を切って地面に植えれば簡単に増えるようです。ただ、肥を十分に与えないと駄目だそうです」


「蚕は今はいないそうだ。みんな冬になる前に死ぬんだと。ただ、卵は残しているので、冬の間はそれを屋根裏に置いといて、春になれば一斉に孵化するんだとさ」


「ただ、孵化した直後は病で死ぬ蚕が多いんで、数が少なくなるのが悩みだそうです」


「多数の百姓を回ったが、やはり育てるのが上手い者と下手な者がいるな。上手い者の話では、蚕は暑すぎず寒すぎず、乾きすぎず湿りすぎずが良いらしい。・・・つまり、手間暇かけなければならないということか」


 正澄、正則、清正、重秀の順で一豊や重治に調べてきたことを話した。また、重治が持っていた書物からも、蚕の死亡原因がもっとも多いのはかびだということも分かった。


「ということは、蚕を飼うに最適なところは、風通しが良くて程よい暖かさのところか・・・。ここいら辺だとどこらへんだろうか?」


 重秀が首を傾げながら言うと、一豊が言い出した。


「小谷城跡は?あそこは山の上だから、日には近いし風はいつも吹いているし、丁度いいと思うぞ」


「そうだな。あそこなら山に生えている桑を使えばいいし。よし、小谷城跡に蚕を飼える小屋を立てよう。そして山の周りに桑を植えよう」


 重秀達は知らなかったが、実は小谷城周辺より長浜城周辺のほうが養蚕には向いているのだ。琵琶湖や伊吹山系から常に風が吹いているので湿気が籠もりにくいし、琵琶湖のおかげで寒暖差が緩やかになるので安定した温度管理ができるのだ。重秀がそれに気づくのはもう少し後である。


「後は人手だな。聞いた話ではとても片手間でできるようなことではない。専属で養蚕できる人出を集めないといけないな」


 一豊の言うとおりであった。カイコガの先祖はクワコと呼ばれる蛾であった。そのクワコを5千年以上前に中国大陸で人の手によって品種改良されたのがカイコガである、と言われている。

 カイコガは絹を作るためだけに改良されているため、自然界においては著しく生存能力がなく、人間がつきっきりで管理しなければ生涯を全うすることができない生き物である。なので、農業で忙しい百姓の副業としての養蚕は、片手間で出来るようなものではなかった。

 時代が下り、千歯扱きや唐箕といった農作業を楽にする農具が発明され、百姓に時間的な余裕ができるようになった。そこで初めて百姓達は本格的に養蚕に時間を割くことが出来るようになったのだ。


 一豊の発言に、一同はまた首を傾げながら考え込んだ。正澄がおずおずと言った。


「・・・旧浅井の家臣団、特に下級の家臣は未だ殿に登用されていない者もおりまする。そう言った方々に声をかければよろしいのではないでしょうか?」


「・・・そうだな。弥三郎はそう言った者に心当たりはあるのか」


「・・・はい、いくつかの家はありまするが」


 正澄の発言に対して重秀が尋ねると、正澄は少し考えてから答えた。それを聞いた重秀が命じる。


「よし、そう言った人材集めは弥三郎に任せよう。良いな?」


「承りました。ですが、私めだけでは足りないかと存じまする。桂松も元は浅井家家臣の出ですし、母親が南殿の侍女を務めておりますれば、その伝手も使いとうございます」


 正澄の返事と要望を聞いた重秀。「分かった。後で桂松に言っておく」と言って正澄の要望を聞き入れたのだった。

 その後、養蚕についての話は夜遅くまで続いていった。





 次の日、重秀は正澄、正則、清正、そして加藤孫六を連れて馬で北近江の村々を訪れていた。今回の目的は牛の調査である。近江で牛がどの様に使われているか、そしてどこから手に入れているかを調査するためである。

 実は、昨日の時点で養蚕調査のついでに調べていたのだが、残念ながら調査した村では牛を使っておらず、その村の名主から牛のいる村々を聞いて、本日その村を訪れようとしていたのだ。


「で?孫六は本当に牛を扱ったことはないんだな?」


 移動中、馬上で重秀がそう言うと、脇で走っていた孫六が恐縮したように「はい」と返事した。


「オイラ・・・じゃない。私めが手伝っていた馬の行商人は東国出身っす。東国では馬は育てますが牛は育てないっす」


『関西は牛肉文化で関東は豚肉文化』という俗説がある。関西以西の西日本では、古来より牛の飼育が盛んであった。これは平安貴族の交通手段であった牛車を始め、田畑を耕す役牛の需要が高かったからと言われている。一方、関東を含めた東国では、元々は馬の飼育が盛んであった(馬の代わりに豚の飼育がなされたのはのちの時代のことである)。東国は武士が多いから馬の飼育が盛んだった、と言われているが、実際は飛鳥時代から馬の飼育が盛んだったようである。

 孫六は元々東国の三河国出身(父親の加藤教明は元は三河松平家の家臣である)であり、東国の馬の行商人と繋がりがあったので馬とは縁が深かったものの、牛とは縁のない生活を送っていた。


 そんな話をしているうちに、牛のいる村についた重秀一行。さっそく名主の家に行って話を聞いてきた。


「牛は我が家で飼っておりまする。これを村の百姓達に貸し出して田畑を耕してごぜぇます」


「実際に見てみたいのだが」


 名主から話を聞いた重秀がそう言うと、名主は「へえ、ご案内いたしやす」と言うと、家の裏にある牛舎へと重秀達を連れて行った。そこには1頭の牛が繋がれていた。


「この牛はどこから?」


「但馬国からでごぜぇます」


 重秀の質問に対して、名主が即答した。重秀は続けて質問する。


「この牛、いくらで買った?」


「五十貫でごぜぇます」


 名主の即答に重秀一行が一斉に「五十貫!?」と声を上げた。現代の価値に換算するなら、約600万円である。


「・・・孫六、馬っていくらだ?」


 正則が孫六に小声で聞いた。孫六も小声で返す。


「・・・安い馬だと十貫(約120万円)っすね。若君が乗っているのが二十貫(約240万円)っす」


「牛のほうが高いのか・・・」


 孫六の回答を聞いた清正が小声で呟いた。

 その後、他の村々を回った重秀一行。牛の調査を終わらすと、その日のうちに長浜城へ戻ると、二の丸御殿で一豊や重治、そして今回は浅野長吉も一緒になって本日の調査をまとめていた。


「牛高いな〜。しかし、それを近江で育てて他で売ることができれば、金になるということか」


「しかし、そう考えると牛を食べるのも馬鹿馬鹿しくなるな。もったいなさすぎる。南蛮人はどうしてそんな大金をはたいて食べようとするのか・・・」


「ひょっとしたら、南蛮人達は牛をたくさん産ませる方法を知っているのやも知れませぬ」


 長吉、一豊、重治の順番にそれぞれ感想を言うと、重治が重秀に顔を向けて話しかけてきた。


「若君、村々にいた牛は全て但馬から買ったと言われたのですか?」


「はい。いくつか村を回りましたが、そのうち牛がいた村は三つ。それぞれ一匹ずつしかおらず、牛は計三匹しかいませんでした。そして、三匹とも但馬の牛だそうです」


 重秀の答えを聞いた一豊が視線を上に向けながら呟いた。


「但馬か・・・。これは入手に手間がかかりそうだぞ・・・?」


「いえ、但馬でしたら簡単に手に入ると思いますよ」


 重治の言葉に長吉以外の皆が一斉に重治に視線を向けた。ちなみに長吉は重治の隣で黙って首を縦に振り続けていた。


「我が殿の伝手を頼ればよろしいのです」


 永禄一二年(1569年)五月、信長の命によって秀吉が軍勢2万人を引き連れて但馬へ出兵している。それ以来秀吉は但馬と通り道であった播磨の国衆との間に繋がりができていた。

 すなわち、このときできた繋がりで牛を手に入れろ、と重治は言いたかったのだ。


「確か播磨も牛の飼育が盛んだったと聞きますれば、その両国から牛は手に入ると思いますよ。金額はともかく」


「ならば、明日の評定で・・・、いや、今夜中に話そう。評定では他にも話すこともあるだろうし」


 重秀がそう言った後、一同は牛の入手やその購入費をどうするかを話し合うこととなった。





 その日の夜、重秀は大谷桂松を連れて本丸御殿へ行き、父である秀吉に会おうとした。しかし、秀吉の小姓である石田三成に止められてしまった。


「申し訳ありません、若君。事前に届けを出さないと殿に面談できぬという決まりがありまして・・・」


「ああ、そう。では、今夜中にお目通りを出来るよう取り計らってくれないか。もし出来ないのであれば、明日の早朝でも構わないのだが」


 そう言えば、岐阜のお城でもそんな決まりがあったな、と思いながらも重秀は三成に頼んだ。三成は頷くと、「承知しました」と言って御殿の奥に引っ込んでしまった。


「よし、では少し待つか」


 重秀がそう言うと、桂松が「恐れながら・・・」と本当に恐る恐る聞いてきた。


「よろしかったのですか?佐吉殿にあんな事言われたら、市殿(福島正則のこと)や虎殿(加藤清正のこと)は掴みかかっていくところなのに・・・」


「・・・まあ、あいつ等ならそうするな。だが、親子といえど君臣の分は弁えなければならぬ。佐吉はちゃんと自分の役目を理解して行っている、良い小姓だと思うぞ。それに、市や虎も昔ほど佐吉に突っかからなくなってきたし」


 三成が重秀を叩こうとして返り討ちにした一件以来、正則と清正は三成を敵視するような言動は言わなくなっていた。三成の気持ちを知ったことと、兄貴分の重秀が物理的にも精神的にも三成の増長を抑え込んだことに溜飲を下げたことが、二人をして三成への嫉妬を感じさせなくなっていたのだった。


 そんな話をしているうちに、当の三成が戻ってきた。三成は申し訳無さそうな顔をしながら重秀に言った。


「若君、申し訳ありませんが、殿はただいま風呂に入っておりまして・・・。明日の早朝に一緒に朝餉を取ろうと申しておりました」


「相分かった。では父上にはおやすみなさいませと伝えといてくれ」


 重秀がそう言うと三成は「承りました」と言って頭を下げた。重秀はそれを見ると、桂松と共に二の丸御殿へと戻っていった。


注釈

この小説では便宜上、金銭の価値を1貫=2石=12万円(1石=6万円)とレートを固定して計算している。1石は米の重さだが、米の収穫量によっては値段が変動することが当たり前なので、実際はレートは相当上下する。


注釈

現代では牛や馬の数は『頭』で数えるが、この数え方は明治以降の数え方である。なので、この小説では登場人物の台詞内で動物の数を数える場合、全て『匹』で数えている。なお、地文では『頭』と『匹』を両方使っている。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 半兵衛の知識量はどうなってるんだ。この時代の武士の知識量じゃないし、羽柴家に与力してくれるレベルじゃない。 羽柴の軍師にして至宝だよ本当に。
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