第34話 南殿(後編)
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「そんなことがあったのですか・・・」
大松はそう言うと、秀吉は「うむ」と頷いた。そして言葉を続けた。
「儂も長浜城やら越前やらとで、足元がおろそかになっていたからのう・・・。ここまでの事が起きたとは思うてもおらんかったわい」
そう言いながら腕を組む秀吉は、大松に尋ねてきた。
「ところで大松よ。せんや侍女達から何か嫌がらせとか、何か命に関わることとかされたか?」
「いいえ、全然。毒を盛られたということもありませんでした」
市松や夜叉丸、孫六だけではなく桂松までも、大松の食べるもの全てを毒味と言う名でつまみ食いしていた。しかし、皆元気でいるということは、食事に毒は入っていなかったのだろう。大松も食事に違和感を感じてはいなかった。
「ふむ・・・。もし大松に何かされていたならば、せんを罰することになったのだが・・・、そういうこともないのであれば是非もなし」
秀吉はそう言うと、視線を大松から南殿に変えた。
「せんよ。此度のことは、本来ならば許されざることではある。しかし、儂の子である石松を産んでいること、また、大松を今後は嫡男として立てると言っていることから、今回はお咎めなしとする」
秀吉の言葉に、南殿は「殿の御慈悲、生涯忘れません」と言って涙を流した。一方、大松は怪訝そうな顔をしながら秀吉に言った。
「父上、全くのお咎めなしというのはちょっと甘すぎではありませんか?」
「そうは言ってものう、石松は我が子だし、その母親をどうこうするのは気がひけるのじゃ。それに、罰ならもう受け取る」
秀吉はそう言うと、ポンッと自分の太ももを叩いた。そして話を続ける。
「そうじゃのう、大松にも話しておくか。先程、せんにも伝えたが、儂は継室にしたいと思っておる女性がいる。なので、せんには悪いが、側室のままでいてもらおうと思っているのじゃ」
「初めて聞きましたが・・・。父上、どなたですか?」
大松が首を横に傾けながら秀吉に聞いた。秀吉は「さあ、驚け」と言わんばかりに、顔をニヤつかせながら言った。
「御屋形様の妹君、お市の方様よ」
「はあ、そうですか」
秀吉の予想に反して、大松の反応はあまりにも薄かった。思わず秀吉が大声を上げる。
「・・・お前なぁ!少しは驚けよ!」
「いや・・・、御屋形様の妹君なんて興味ないですし・・・」
大松が困惑しながらそう言うと、秀吉は声を荒げた。
「お前が興味なくても儂が興味あるの!というか、お前の母上になられるお方だぞ!?それに、娘がいるんだから、妹も出来るんだぞ!?嬉しゅうないのか!?」
「・・・いえ、特には」
大松にしてみれば13歳にもなって今更母親が欲しいとは思っていなかった。前田の母上もいたし、おばであるともやあさには良くしてもらってたし、乳母として賢い千代さんだっている。秀吉は大名としての体裁があるので、継室はいるだろうが、大松にしてみれば母親がいるいないはあまり興味ある話ではないのだ。もっとも、大松の寝言を聞いている千代からすれば、大松のこの思いに異議を唱えるだろうが。
「・・・はぁ。お主も岐阜城でお市の方様を見ていれば、そんな事も言えないと思うのだがのう・・・」
秀吉が思わずため息をついてそう言った。しかし、大松の反応はまた冷たいものであった。
「父上、岐阜の御殿の奥は小姓でも入れぬ場所。私がお市の方様に会えるわけ無いでしょう」
岐阜城の本丸御殿にも『表』と『奥』があるが、さらにその間に『中奥』と呼ばれる区間がある。この区間が信長のプライベート空間となっており、小姓達がいたのもこの『中奥』である。その奥が正に『奥』であり、信長の妻子がいた区間であった。当然、『奥』に入れるのは信長だけであり、大松達小姓はもちろん、信忠等元服した信長の子達ですら入れなかった。
ただ、大松が全く岐阜城で女性に会わなかったのかと言うとそうでもないのだ。侍女達とは共に仕事をしたこともあるし、信忠の様子を見に来た、養母のお濃の方(信長の正室、帰蝶のこと)とは『中奥』で一度だけ目にしていた。
ちなみに、秀吉も大松も知らなかったが、お市の方と三人の娘は岐阜城にはいない。彼女たちは信長の叔父である織田信次の居城であった尾張守山城にいたのだった。
「お前な、少しは女子に興味を持て。来年は元服、そろそろお前の祝言も考えなければならんのだぞ・・・。まさか、女子ではなく、男子に興味があるのではないだろうな」
秀吉が心配そうな目で大松を見つめる。それに対して大松は渋い顔をしながら首を横に振った。
「いえ、衆道は岐阜城で学びましたが、どうしても馴染めませんでした。それに女子が気にならないわけではございません」
千代さんが気になるとは口が裂けても言えない大松。そんな大松の気持ちを知らない秀吉は喜びながら言った。
「ならば良し。もし侍女で気に入ったものがおれば、せんか千代に相談せよ。良きよう取り計らってくれようぞ」
「・・・はぁ」
女子のことを千代さんに相談するのかよ、と大松は困惑した顔をしながら返事をした。この返事をやる気のない返事と勘違いした秀吉は頭を抱えた。これでは、羽柴家の次代が生まれないのでは無いかと本気で心配した。
「・・・恐れながら殿、若君はまだまだお若いのです。いづれ、良き縁に恵まれましょう」
秀吉の困り顔に、南殿が思わず声を掛けてしまった。秀吉は南殿に視線を向けると、じっと考え込んだ。その後でゆっくりと口を開いた。
「・・・そうだな。まだ元服もしていないからな。慌てるほどのこともないか。それに、儂もまだまだ子は作れそうじゃ。せんともっと頑張らなければのう」
そう言うと秀吉はニヤニヤと笑いながら南殿を見た。南殿は顔を赤らめて平伏した。
「・・・父上、それよりも気になることが」
二人のアダルティなムードを無視して大松が話し始めた。
「辞めた侍女頭が気になりまする」
「ん?侍女頭?会ったことないだろうに、何故?」
話の流れから、秀吉は侍女頭を女として興味を持ったのかと勘違いした。秀吉が勘違いしていることに気がついた大松が話を続ける。
「父上の考えているような意味での『気になる』ではありません。彼女に対して何らかの罰をお与えにならなくてよいのでしょうか?」
大松の発言に、秀吉は「ああ・・・」と言って理解を示した。腕を組みながら、秀吉は大松に言った。
「確かに、羽柴の奥向を荒したあの侍女頭は許せぬ。しかし、今更追いかけたところで、もう小谷や長浜にはおらんじゃろう。あれは、どこの出身だったかのう」
「確か、越前と聞いておりまする。元々は朝倉家の家臣の家に奉公に上がっていたとか」
秀吉の問いかけに、南殿が答えた。
「越前か。雪があるゆえ、今は越前に行ってはおらぬかもしれんな。一応、小一郎等に命じて探し出してみるか」
そう言うと秀吉は立ち上がると声を上げて言い放った。
「伊右衛門!弥三郎!入ってこい!」
大書院と縁側を仕切る障子の向こう側から「ははっ!」という声がした。直後に障子が開き、山内一豊と石田正澄が入ってきて、下座に座って平伏した。
「弥三郎!小一郎に伝えい!せんと大松の事は解決したと!そして今やっている仕事が終わったら、こっちに来るように言え!」
「ははぁ!」
秀吉の命を受けた正澄が出ていくと、次に秀吉は一豊に命じた。
「伊右衛門!!大松とせんの事は解決した!お主が証人ぞ!しかと覚えておくように!」
「は、ははぁ!」
一豊の返事を聞いた秀吉がさらに命じる。
「伊右衛門!大松を二の丸御殿まで護衛せよ。その後に乳母殿を連れてこの大書院まで来るように。良いな」
「ははぁ!」
一豊の大きい返事に満足したのか、ニッコリと笑う秀吉。南殿と大松を相互に見ると、「二人共、大儀であった。戻って良いぞ」と笑顔のままで言った。
その日の夜。本丸御殿の大書院には、秀吉、小一郎、山内一豊、千代、そして竹中重治と前野長康が車座で座っていた。重治と長康は小一郎と一緒に仕事をしていたところで、正澄の言伝を小一郎と一緒に聞いており、興味本位でついてきたのだ。本来ならば呼んでないので秀吉は追い出せるのだが、重治はもちろん、長康も意外と知恵者なのでこの談合に参加することができた。
「皆を呼んだのは他でもない。大松のことよ」
秀吉がそう言うと、小一郎が首を傾げた。
「・・・南殿は大松が世継ぎであることを認めたのだろう?何か他に問題があるのか?」
「ある!大いにある!あやつは女子に興味がなさすぎる!」
小一郎の発言に対して大声で叫ぶ秀吉。思わず皆が驚いてしまった。秀吉は肩で息をすると、呼吸を整えて話を続けた。
「岐阜では衆道を教わったが、男子には興味ないらしい。それは良いとして、女子にも興味なければ、子が成せないではないか!」
「・・・大松はまだ十三だろ?しかもまだまだ学ぶべきことは多い。兄者は焦りすぎじゃあ・・・」
小一郎の言いように対して、秀吉は顔面を小一郎の顔面と衝突しそうなくらい近づけてきた。そして唾を飛ばしながら言った。
「阿呆!儂なら十三ですでに女遊びを覚えておるわ!お主だって、中村ですでに女子を抱いておったろ!」
「あ、兄者!そんな事を大声で言うなよ!千代殿だっているんだぞ!」
「やかましい!自分だけ清廉潔白なような顔をするんじゃない!」
秀吉と小一郎の言い争いに待ったをかけたのは重治であった。
「まあまあ、お二方の女性遍歴については置いといて、今は若君のことでございましょう。要は女子に興味をもたせればよいのですな」
「半兵衛の言うとおりじゃ!半兵衛、何かよい策はないか!?」
秀吉が小一郎から離れ、今度は重治に近づいた。顔面が衝突するほど接近していたが、秀吉は唾を飛ばさない程度の大声で重治に聞いた。
「はあ、若君は書物、特に漢籍を好んで読みまする。そこで、房中術に関する書物を読ませてはいかがでしょう」
「ぼ、房中術?」
秀吉の疑問に、重治はかいつまんで教えた。
房中術とは古代中国に伝わる養生術の一種である。陰陽思想やら五行思想などが含まれており、詳しいことはここでは省くが、要するに『正しいセックスをすれば、心は穏やかになり、長生きできるよ』という考えのもと、正しい性交渉の方法をまとめたものである。
日本には平安時代以前に伝わったらしく、平安時代に編纂されたという日本最古の医学書『医心方』に房中術の一部が記されている。
「なるほど、大松に房中術を習わせ、女子に興味をもたせるのか!さすがは半兵衛じゃ!『今孔明』の二つ名を持つだけある!」
「それで『今孔明』とだけは呼ばれたくはありませんな・・・」
秀吉の言葉に重治が苦笑いした。そんな二人に、今まで黙っていた長康が口を開いた。
「・・・いや、待て、半兵衛殿。そもそも、房中術を記した書物はこの日本にあるのか?それがしはそなたほど漢籍に詳しいわけではないが、そのような書物はとんと見たことはないぞ?」
自ら漢詩を詠んでいて、そこそこ漢籍には詳しい長康は、重治に対して疑問を呈した。それに対して重治は「ご心配なく」と言うと、話を続けた。
「京には、市井には出ない書物を扱う商人がおりましてな。噂では、公家衆相手にそういった漢籍を扱う者もいるそうです。京でしたら、殿の人脈でそういった商人を探し出すことは可能でございましょう」
「うむ、その程度のことなら造作もない。儂に任せい!」
重治に商人の探索を頼まれた秀吉は、胸をドンッと叩きながら言った。
「しかし・・・、一つ懸念事項がございまする」
重治の言葉に、皆が重治を見た。重治が言葉を続ける。
「大松殿、いや、若君は学んだことを実際にやってみないと気がすまぬ性格にございまする。もし、房中術に興味を示し、実際にヤッてみようと思った場合、身近にいる女子に手を出すやも知れませぬ」
「そ、それは困る!若君の身近な女子と言えば、千代ではないか!千代を手篭めにされては・・・!」
重治の懸念に対して大声を上げる一豊。秀吉が一豊をなだめるように言った。
「落ち着け、伊右衛門。あやつは人妻に手を出すような男ではない。千代殿を乳母にしようとした時、儂に釘を刺しおった。『もし千代に手を出したら、前田家に養子に行く』と言っておったわ。恐らく、他人の妻を寝取ることを嫌うのであろう」
秀吉がそう言うと、一豊は「そうですか・・・」と納得した。しかし、千代が懸念を伝えた。
「私に手を出さなくとも、他の侍女に手を出すやも知れませぬ。もし手を出して子を成した場合、将来揉める恐れがございます」
「何故じゃ。子が多ければ多いほど、羽柴の家が栄えるではないか」
秀吉の疑問に千代が答える。
「いえ、若君には正室がおりませぬ。正室がいない間に子ができた場合、由々しき事態が起きまする。御屋形様と兄上の大隅守様(織田信広のこと)に争いがあったことは殿もご承知かと思いまする」
原則として、後継ぎとして最優先されるのは正室との間に生まれた長男である。次に正室との間に生まれた次男、三男と続き、この三人が嫡男になる資格があるとして育てられる。そしてこの三人がいない場合に初めて、側室との子が嫡男になる資格があると認められるのである(ただし、家の事情により例外あり)。
正室がいない時に子ができた場合は、一応嫡男として育てられる。当然、傅役なり乳母なりがついて養育するのだが、その子の後ろには傅役や乳母の一門が後ろ盾につくことになる(当然、側室の実家も後ろ盾となる)。その後、正室を娶って子が生まれた場合は、嫡男はそっちに移ってしまう(ただし、病弱だったり当主としての能力に疑問が付く場合はその限りではない)。そして、正室の子にも傅役や乳母がつけられると、当然その一門(と正室の実家)が後ろ盾になるのである。そうなると、先に生まれた側室の子VS後から生まれた正室の子という対立軸が生まれ、争いの種となる。そして実際に争われることもある。
具体例が織田信長(継室の子)VS織田信広(側室の子で信長より先に生まれた)であろう。もっとも、信広との争いは信長の機転によって未然に防がれ、信広も許され、その後は裏切ることなく信長に忠誠を立てた生涯を送っているのであまり知られていないが。
「・・・なるほどのう。身近に具体的な例があれば、羽柴でもそれは起きないわけがないか・・・」
小一郎が腕を組みながら唸った。
「・・・結局、大松の正室をさっさと決めないと先には行けぬ、ということか」
秀吉がそう言うと、ため息をついた。
「来年は若君の元服にございまする。それが終われば、いよいよ祝言を考えなければなりませぬ。殿には、若君にふさわしい姫君に心当たりはございますでしょうか?」
重治の質問に、秀吉ではなく小一郎が答えた。
「前田又左衛門様が、次女の蕭姫様を推してきているが・・・」
「正直、儂としては織田家から姫をもらいたいと思っておる」
小一郎に続いて秀吉が答えた。そんな二人の話を聞いていた千代が口を開いた。
「・・・できますれば、若君の妻には、年上か妹や弟の面倒を見た経験のある姉のほうがよいかと存じまするが」
千代の言葉を聞いた瞬間、小一郎が驚きの声を上げた。皆が一斉に小一郎の方を見たので、小一郎が答える。
「あ、いや、すまぬ。前田の御方様が同じことを言っておったので、驚いてしもうた」
「ほう・・・。おまつ殿がのう。千代殿、何故そう思われる?」
秀吉の問いかけに、千代がよどみなく答えた。
「若君は年齢の割にはしっかりしておりまするが、しっかりしすぎておりまする。恐らく母親を早く亡くされているがゆえ、殿や小一郎殿に迷惑をかけないようにしているのでしょう。しかし、あれでは心安らぐ時がございませぬ。せめて、妻との間では心が安らぐように致しとうございまする。そのためには、包容力が強い女子がふさわしいかと存じまする。とするならば、年上、もしくは姉の経験のある者がよろしいかと」
「なるほど。しかし、大松より年上か・・・。空いているのがいるかなぁ・・・?」
千代の答えを聞いた秀吉が、上を見上げながら腕を組んで唸った。当時の女性が結婚する時の平均年齢が15歳前後。大松が来年14歳なので、年上の女性を狙うとなった場合、ほとんどの女性が結婚しているか婚約しているかのどちらかである。むろん、まだ独身の女性もいるだろうが、行かず後家な女性と大松を結びつけたくはない、と秀吉は思っていた。
「・・・大松は年下に対しては優しい。蕭姫様に対して良くしてくれていたと、前田様や御方様からも聞かされたことがある。年上にこだわる必要はないんじゃないか?」
小一郎の言葉に、秀吉が反応した。
「確かにな・・・。となると、大松と同じくらいか年下で、妹や弟がいる長女がいいのか・・・。そんな都合のいい姫君いるか?」
秀吉の疑問に対して、長康が口を開いた。
「御屋形様の妹君、お市の方様の長女、茶々姫様が当てはまるな。織田の姫君だし、確か妹が二人いたはず」
「・・・茶々姫様はまだ六歳だぞ・・・。大松に嫁がせるには幼すぎる」
長康の言葉に秀吉が思いっきり渋い顔で言った。だいたい、秀吉がお市の方狙いなのに、お市の方の娘の茶々が秀吉の息子の大松に嫁いできたら、親子関係の観点からとても面倒くさいことになるのだ。秀吉にしてみれば避けたい事である。
「・・・まあ、茶々姫様以外にも探せばおるだろう。もし、そういった姫君の噂があれば、儂に教えて欲しい」
秀吉がそう言って立ち上がると、その場にいた全ての人が平伏した。
注釈
この小説では、茶々の生まれた年を永禄十二年(1569年)としている。