第32話 長浜城へ
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天正二年(1574年)の十二月は、羽柴家を始め、北近江にいる織田家家臣は全て忙しかった。今までの中心地であった小谷城から、新しくできた長浜城下への引っ越しで人と物の流れが多かったからである。もちろん城下町も移すので、小谷城下に住む職人や商人などもこの流れに乗った。この流れに関係がなかったのは宮部城主の宮部継潤と山本山城の阿閉貞征など、自分たちの城を持っている国衆ぐらいなものである。もっとも、秀吉が長浜城に人を集めるために考えた政策、すなわち『長浜城下に引っ越してきた人は年貢無し!』という政策によって、領内の農民や職人、商人がこぞって抜け出して長浜に移住しており、まったくの影響を受けていたわけではない。
そんな忙しい中、人手が足りないという理由で石田佐吉が謹慎を解かれて出仕してきた。広間で大松や小一郎といった家臣達が見守る中、佐吉は秀吉に拝謁していた。
「それがしをお許しになられた殿に対し、また、ご無礼を働いた若君に対し、この佐吉、心を入れ替えて、より一層の忠勤を行うことをお誓い申し上げまする」
「うむ、しっかりと励めよ」
佐吉の謝罪に対して鷹揚に頷く秀吉。これで佐吉はまた秀吉麾下の武将として復帰することとなった。
「ところで佐吉よ。大松の問題、あれ解けたか?」
秀吉の問いかけに対して、佐吉は首を縦に振った。
「はい。何とか解くことが出来ました。いや、南蛮人というのは頭がよろしゅうございまするな。あの様な問題をよく作れるものだと感心致しました」
「うむ。儂も大松から教わって解いてみたが、中々骨の折れる問題ばかりであったわ」
秀吉は佐吉にそう言うと、たははと笑った。
大松の問題とは、大松が正澄を通して謹慎中の佐吉に出した複数の問題である。大松が岐阜城で織田信忠の小姓を務めていた時、信忠が伴天連から教えてもらっていた問題を、一緒に聞いていた大松がまとめたものである。ちなみに例の『李牧と馬』の問題も含まれている。また、信忠が問題として大松に出したものもあった。
元々、大松が個人的な嗜好でまとめた物であったのだが、折角なので秀吉にも渡して解いてもらおう、と思って大松が秀吉に献上したのだが、読んだ秀吉が自分で解きつつ、
「これを写して佐吉に渡すように」と正澄に命じたのだった。そして写された問題が、佐吉の手に渡ったのである。
本来、謹慎中の佐吉に時間を潰させるような物を渡してはいけないのだが、秀吉の「謹慎は他の家臣に対するけじめよ。本人は反省しておるし、もう許してもよかろう。ただ、許す前にあやつの頭を起こしてやろう」と言って、佐吉に問題を解くように命じたのだった。
佐吉は苦労しながらも、何とか全問解いて秀吉達の前にやってきたのだった。
「では、答え合わせといこうか。大松、佐吉の書いた答えを読め」
秀吉の命で大松が佐吉から数枚の紙を受け取る。ここには大松が出した問題の回答が書いてあった。
大松が回答を全て読み終わると、秀吉の方を向いて話した。
「父上、全て正解でございます」
大松がそう言うと、秀吉が喜んで言った。
「おお、さすがは佐吉よ。その頭の良さは羽柴の宝よ」
「過分なお言葉、恐悦至極にございます。より一層、勉学に励み、羽柴のために身を粉にして働きまする」
そう言うと佐吉は平伏した。そんな佐吉に今度は小一郎が語りかける。
「佐吉よ、もうすぐ長浜城への引っ越しじゃ。これから先、まだまだお主の力が必要じゃ。他の小姓達と力を合わせて、兄者と、若君を頼んだぞ」
小一郎の言葉に、佐吉は「承知致しました」と言いながら頭を下げた。
「・・・殿、佐吉の件はここまでにして、次の話し合いをいたしましょうぞ。年が迫っておりますれば、まだ決めなければならないことが多ございます」
竹中重治の言葉に、秀吉は膝を打ちながら言った。
「おお、そうであったな。佐吉、もう下がって良いぞ」
秀吉がそう言うと、佐吉は「ははっ」と言って広間から出ていった。その後、秀吉は真面目な顔で皆に話し始めた。
「今の所、長浜への移住はすべて滞りなく進んでいる。これも皆のおかげよ」
秀吉がそう言うと、下段の中で一番秀吉に近い場所に座っていた大松に声を掛けた。
「奥座敷の方の引っ越しはどうなっている」
「すでに荷造りは終わっておりまする。後は父上の一声でいつでもいけまする」
平伏しながら答える大松に、秀吉はさらに聞いた。
「何か問題は起きているか?」
「いいえ、まったく。南殿も率先して私めの指示に従っております。また、千代さん・・・いや、乳母殿ともよく話しているようです」
大松が小谷城下に入って十数日経ったが、表立って大松を排斥するような事は南殿周辺では全く起きなかった。また、乳母となった千代が積極的に侍女に話しかけることによって、侍女からの情報が千代経由で大松にも入ってくるようになったが、特に怪しい動きはなかった。少ないながらも、大松が来てくれたことを喜ぶ侍女が多かった。
南殿は石松の養育の傍ら、侍女らを良く統率していた。引越し準備を行い、分からないことは大松に聞いていた。
「・・・相分かった。大松、ぼちぼち始めるぞ。今回は岐阜城下への引っ越しとは人も物の数も全く違うぞ。数日はかかると心得よ」
「承知致しました。今日にも具体的な指示をし、明日から始めまする」
秀吉の指示に大松が答えると、秀吉は満足そうに頷いた。その後は内政に関することが話し合われた。
次の日、いよいよ小谷城下の羽柴屋敷から長浜城への引っ越しが行われた。羽柴屋敷はこの後解体されることが決まっていたので、長浜城で使う畳や建物の一部も持っていくことになっている。そのため、荷車と人夫は大松の想像以上の数になっていた。さらに護衛のため、仙石秀久と山内一豊の隊も一緒なのだが、ついでにということで両名の家族や引っ越し荷物も含まれており、その数はさらに想像を超えたものとなっていた。
「いや〜、兄貴。これは大変だよな〜」
市松がそんなに大変そうじゃないような声で大松に話しかけた。
「事前に小一郎の叔父上や浅野の叔父上(浅野長吉のこと)が準備を行っていたとはいえ、やっぱりこれだけ数が多いと、色々問題が起きそうだなぁ・・・」
大松がそう言うと、隣りにいた夜叉丸が黙って頷いた。
「おお、こんな所にいたのか、大松よ」
大松の後ろから声がしたので、大松が振り返ると、そこには秀吉と竹中重治が立っていた。
「これは父上、竹中様。このような所にお越しとは、何かありましたか?」
「いや、実は半兵衛がこの日に小谷の屋敷から長浜の屋敷に引っ越すことにしたらしい。そこで、我が羽柴の引っ越しと同行したい、と言うてきての」
「確か殿の引っ越しの護衛は山内殿と仙石殿でしたからな。ついでに護衛されようと思いまして」
重治の言葉に「ちゃっかりしとるのう」と呆れる秀吉。しかしすぐに大松の方を見ると、大松にこう言った。
「さて、大松よ。人夫たちにも挨拶しに行くぞ」
「い、今からですか!?」
驚いた大松が思わず声を出したが、秀吉が「声がデカい!」と怒られてしまった。続けて秀吉が大松に耳打ちをする。
「よいか、今日動員した人夫はすべて長浜城下の職人や商人の手代番頭達よ。何故彼らが人夫としてきているか分かるか?」
大松が首を横に振ると、秀吉が説明を始めた。
「長浜城下の町衆に年貢は免除しているのは知っているな?その代わり、長浜城の築城に労役を命じているのよ。そうすることで築城の人員を確保したというわけよ。そして、この引っ越しも築城の一部よ」
秀吉の説明に大松は「あ、なるほど」と納得した。秀吉は続けて言う。
「大松よ、この人夫達は我らを支えてくれる民よ。彼等がいなければ、我らは立ち行かなくなる。大事にせにゃならんぞ。というわけで、今のうちから顔を覚えてもらうんじゃ。そうすれば、町衆を味方につけることが容易になる。お主の支持基盤を固めて、長浜に安定をもたらすんじゃ」
そう言われた後、秀吉に連れられて人夫達の前に出た大松は、にこやかに手を振りながら人夫達の前で挨拶をした。
この様子を見ていた市松が夜叉丸に小声で囁いた。
「兄貴は、ああやって人当たりのいい顔するのが殿さん似だよな」
「しかも顔が良いからな。町衆にも人気が出そうだなぁ、長兄」
夜叉丸はそう言いながら、大松が人夫達に挨拶をしているところを見つめていた。
小谷城下から長浜城に向けて、荷駄車の列が長く続く。その先頭を仙石秀久の隊が固め、最後尾を山内一豊の隊が固める。荷駄車の列にはところどころに武者の小隊が配属されている。そして、列のど真ん中に大松、市松、夜叉丸、孫六、桂松、石田正澄そして竹中重治が馬に乗って長浜城へ向かっていた。
「竹中様」
「半兵衛でよろしいですよ、若君」
「しかし、師に対して呼び捨ては駄目でしょう」
「君臣の分は弁えるべきかと存じますが」
重治と大松が馬上でそんなやり取りをしていたが、結局二人は妥協して『半兵衛殿』と決まった。
「若君、この列の配置、何か思いませなんだか?」
「まるで小荷駄隊の行軍かと思いました」
重治の質問に大松が即座に答えると、重治は満足そうに頷いた。
「そのとおりです。若君、此度の引っ越しは若君の小荷駄隊指揮の鍛錬だとお思い下さい。いづれお役に立つことでしょう」
重治の突然の試練に、大松だけでなく周りの者達も一斉に「ええ・・・」と困惑したような声を出した。重治が続けて言う。
「なに、実際に敵は襲ってきませんが、どこで襲ってくるかはちゃんと教えまする。その時の動きを考えればよろしいのです。実際に人を動かすわけではありません」
「・・・いえ、半兵衛殿。仙石殿や山内殿はそのままにしても、市松達は実際に動かしましょう。弥三郎以外のこの者達はただの行軍だと絶対途中で飽きますから」
大松の言葉に、市松は「お、さすが兄貴。よく分かってる」と喜び、それ以外の者は市松に「お前と一緒にするな」という気持ちで冷ややかな視線を送っていた。
そんなこんなで小荷駄隊の行軍の仕方、護衛の仕方、伝令の仕方、休憩時の軍の配備の仕方、どこで襲われやすいか、襲われた場合の対処の仕方、事前に物見をするやり方などなど、およそ輜重に関する方法を大松は重治から教わりつつ、長浜城へと向かって行った。
「これが長浜城か・・・」
長浜城に入った大松がまず発したのが、この言葉であった。その城は、見慣れた岐阜城や小谷城(と言っても跡地といっても良いほどであったが)とは全く違った城であった。
岐阜城も小谷城も共に山城である。連なる山の頂きを平にして曲輪とし、曲輪の周りを土壁と空堀でぐるりと囲い、峰を利用した道で繋げることで防衛力を高めるのが山城の特徴である。ただ、防衛力が高い反面、居住性はとても悪く、特に行政機関としての建物としては不便であった(そのため、山の麓に居住区たる御殿を作るのが普通である)。
一方、長浜城は平城であった。平城とは山ではなく平らな土地の上に築かれた城のことである。山城の対義語なので、具体的な定義はない。しかし、琵琶湖畔の平らな土地上に築かれた長浜城は、誰がなんと言おうと平城であった。各曲輪は全て同じ高さとなっており、周りは石垣と水堀でぐるりと囲まれていた。しかもその水堀は琵琶湖の豊富な水を利用することで、大きく深く、そして水路のように張り巡らされていた。
城の一部の石垣は琵琶湖に張り出しており、更に一部は船着き場として機能していた。ただの船着き場ではない。長島で見た九鬼水軍の安宅船が4隻くらい余裕で係留できるくらいの港であった。
「すごい・・・。こんな城をよく作れたものだ・・・」
「近江には元々穴太衆(近江国坂本の穴太地区に住んでいた石工集団のこと。石垣作りが得意であった)がおりましたからな。石垣を利用することで、このような水城(湖岸や海岸にある城のこと)を作ることができました」
長浜城に圧倒されていた大松に、正澄がそう話しかけてきた。
―――これなら、羽柴も水軍を持っても良いかも知れない―――
大松は長浜城を見ながらそう思った。長浜城で籠城する場合、敵は水軍と陸軍の両方必要となる。羽柴の当面の敵は越前の一向一揆勢である。一向一揆勢が北国街道を南下して長浜城を囲んだことを想定した場合、越前の一揆勢が水軍を持っているとは思われないし、例え持っていたとしても海からわざわざ船を持ってきて琵琶湖に浮かべるような手間はとらないだろう。占領した北近江に残っている丸子船(琵琶湖で普及している和船の一種)をかき集めるのが一杯一杯だろう。ならば、それらを討ち破れるほどの水軍は持っといたほうが良いのではないだろうか?
―――丸子船の大きさを考えるならば、九鬼水軍の関船・・・いや、安宅船ぐらいの大きさは必要か。安宅船が浮かんでいれば、支援の城が長浜城の西にあるようなもの。西は敵の好きにはさせない。後は味方の水上補給線を守れば、少なくとも長浜城は落ちないな―――
後で父上と半兵衛殿に相談してみよう、と思いながら、大松は長浜城の城門へと馬を進めたのであった。
それから長浜城への引っ越しは3日ほどかかった。調度品などは新たに購入されたものについては、すでに長浜城に搬入されていたものの、小谷城下の羽柴屋敷にあったものが多く、持ち込んだ調度品の整理に時間をとられていた。
そんな中、大松はすでに長浜城で調度品持ち込みの指揮をしていた小一郎の手伝いや、小谷・長浜間の輸送を行うなど、引っ越しに積極的に関わっていた。そうした作業が全て終わった後、大松は自分の住処へ初めて入ることができた。
「・・・広いなぁ・・・」
大松に割り当てられた住処。それは二の丸にある御殿であった。本丸御殿よりは小さいが、それでも御殿である。独り身の大松にとっては広すぎる住処である。
「この御殿には若君一人で住むわけではありません。若君付きの小姓や侍女、奉公人が住むことになっております。また、特別に市松と夜叉丸、孫六と桂松も住むことになっております。それに、御屋形様がこのお城に宿泊しに来た場合、本丸御殿が御屋形様の御座所となりますゆえ、その間は殿が二の丸御殿へとお移りになります」
石田正澄がそう説明した。大松が前々から疑問に思っていることを正澄に聞いた。
「小一郎の叔父上はどこに住まわれるのか?私はてっきり二の丸御殿に住むのかと思っていたが」
「小一郎様は三の丸にある家臣たちに与えられる屋敷の一つに住むことになっております。まあ、本丸御殿には小一郎様用のお部屋が複数ありますゆえ、そちらにも寝泊まりされるかも知れませんが」
正澄の答えを聞いて大松は頷くと同時に申し訳ない気がした。思わず呟く。
「小一郎叔父上の父上に対する働きを考えれば、二の丸御殿に住むべきは叔父上なんだけどな・・・」
大松のつぶやきに対して、正澄が諭すように意見した。
「確かに小一郎様は殿をよくお支えされているお方。優遇すべきかと思われる若君のお気持ちはお察し致しまする。しかし、若君は嫡男。嫡男としてより優遇されるべきお方なのです」
正澄の話を聞いた大松は、「なるほどね」と言うとため息をついた。そんな大松に、正澄はさらに話しかけた。
「ささ、御殿の広間に皆様が揃っておられます。若君も急ぎましょうぞ」
正澄に促された重秀は、足を二の丸御殿の玄関へと向けたのだった。