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大坂の幻〜豊臣秀重伝〜  作者: ウツワ玉子
兵庫編

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第283話 本能寺の後(その14)

感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。


誤字脱字報告ありがとうございました。お手数をおかけしました。

 ―――もしかして、日向守(明智光秀のこと)は、何の謀もせずに謀反を起こしたのか?―――


 兵庫城本丸御殿の奥書院にて、一人考え込んでいた重秀。すでに織田信忠を悼む涙を流さなくなり、1人の軍略家としての顔を表に出していた。


 ―――娘を嫁がせて縁戚関係にあった長岡家と津田家。この二家が日向守に与していない、というのはあまりにもおかしい。調略謀略に長けている日向守が、事前にこの二家を味方に引き込まないわけがない。しかし長岡家は親子揃って髻を落とした。

 ・・・七兵衛様(津田信澄のこと)は神戸様(神戸信孝のこと)と惟住様(丹羽長秀のこと)に討たれたが、それまで何ら動きがなかったことがおかしい。もし事前に日向守の調略があれば、脱出するなりできたはずだ。

 いや、そもそも徳川様(徳川家康のこと)や穴山様(穴山信君のこと)の饗応で安土城に来ていたのだ。その時に日向守と合流して坂本城か亀山城に入ることもできたはず。上様(織田信長のこと)や殿様(織田信忠のこと)だって女婿が舅の城を訪れることに疑問は感じないはずだ。

 そして日向守が謀反を起こし、上様と殿様を亡き者にすれば、七兵衛様を織田家当主として大義名分を得ることができたはず。七兵衛様は上様の甥だから、一応織田家の当主になれるんだから。あの日向守ならそれくらいのことは考えそうなんだけど、それをしなかった。

 ・・・ではなぜそれをしなかったのか?―――


 重秀の思考が更に深まる。


 ―――もし、七兵衛様が断れば、日向守は謀反を起こさなかったはず。大義名分がないんだから。でもそれでも日向守は謀反を起こした。何故?

 ・・・七兵衛様には謀反の事を話さなかった。調略すらしなかったんだ。だから七兵衛様から事前に承諾も拒否もされていなかったんだ。恐らく、事後承認で行けると思ったんだろう。

 だとしたら、日向守は心得違いしていた。長年、殿様の傍に控えていた七兵衛様が、殿様を討たれて日向守につくわけがない。

 ・・・いや、待て。あの日向守がそこまで考えつかないわけがない。・・・そうか。事前に謀反のことを話せば、漏れると思ったのか。だから秘匿するためにあえて事前の調略をしなかったのか。それなら納得できる―――


 重秀は、この時にまでも明智光秀の有能さを高く評価していた。それ故、このような結論に至ったのであった。

 そして重秀は、更に思考を深める。


 ―――日向守の謀反には裏に毛利と公方様(足利義昭のこと)がいると思っていたけど、それはなさそうだ。もし、日向守の謀反を煽っていたら、父上と和議を結ぶわけがない。そもそも、父上が日向守の謀反を知って、すぐに毛利と和議を結べるわけがない。恐らく、父上は事前に和議の交渉を毛利と行っていたのだろう―――


 秀吉が毛利と和平交渉を行っていたことを重秀は知らなかった。しかし、秀吉を始め、黒田孝隆や竹中重治の交渉を間近に見てきた重秀である。和平交渉が、特に領土の割譲を含む重要な課題を解決しつつ和議を結ぶような交渉が、1日かそこらで終わることはないことぐらいは重秀にもよく分かっていた。


 ―――もし、毛利なり公方様が日向守を唆していたならば、毛利は和平交渉すら父上とはしなかっただろう。そのうち日向守が謀反を起こせば、我等は毛利との決戦を、とか言ってられなくなるからな。待てば我等が退くのだから、毛利が和議を結ぶ理由はない。

 にも関わらず、毛利は三カ国と銀山、そして清水長左衛門(清水宗治のこと)の首を差し出した。日向守の謀反を知らなければ、ここまで譲歩しないだろう。

 そして毛利が知らない、ということは、公方様も知らないはず。いくら公方様の力が衰えたとはいえ、毛利が公方様を無視できるはずがない―――


 実際のところ、この頃には毛利は足利義昭を無視していた。毛利が追い詰められている、という事実を無視して無理難題を言う義昭を、毛利は持て余していたのだ。

 その事を知らない重秀は、毛利と義昭が共に本能寺の変に関わっていない、と考えたのだった。


 ―――では他の大名家は?上杉が日向守と繋がっているとは聞いたことはないし、北条や伊達、大友や島津も同じだ。唯一取次をやっていた長宗我部だが・・・―――


 そう思った重秀は、傍にあった文箱を開いた。文箱には複数の手紙が入っており、その一番上の手紙を取り出した。そしてそれを開いて中の文章を読む。


「・・・長宗我部が日向守の謀反を知っていたならば、こんな文を送ってこないんだよなぁ・・・」


 重秀がそう呟きながら読んだ手紙。それは、ちょうど六月二日に兵庫城に届けられた、長宗我部信親からの手紙であった。

 そこには、土佐1国と阿波の南部を知行とする、という信長の決定を長宗我部が受け入れる、と書かれていた。そして、今後は羽柴とも誼を深め、船を介しての交易に力を入れたい、とも書かれていた。


 ―――事前に日向守の謀反を知っていたら、毛利と同じように上様の決定を無視すれば良い。いづれ上様と殿様はいなくなり、長宗我部は再び四国を我が物にできるのだから。

 しかし、それをせずに上様の決まりを受け入れることを報せてきた。やっぱり、長宗我部は日向守の謀反を知らされていなかったんだ。

 ただ・・・。これが謀略だとすると・・・―――


 事前に謀反を知っていた長宗我部が、日向守を支援するために羽柴、いや織田を油断させるための謀略として手紙を送ってきた、という可能性を重秀は考えていた。

 しかし、その考えについて自ら否定する。


 ―――いや、もし謀略ならば、日向守が謀反を起こす前に送るだろう。上様を油断させるためには、確実に上様に知られなければ意味がない。ならば、謀反が起きる前、少なくとも五月の下旬には知らせる必要がある。それに、羽柴を通じて報せるより、惟任を通じて報せたほうが確かだろう。長宗我部の取次は惟任日向守なんだから。

 ・・・やはり、長宗我部が日向守の謀反を事前に知っているとは考えづらいな・・・―――


 そう思った重秀は、ふと長宗我部への調略ができるのではないか?と考え始める。


 ―――長宗我部もいづれ日向守の謀反を知るやも知れない。そうなれば、四国から淡路を通って我等の背後をつく恐れがある。父上は毛利と和議を結んで背後を固めた。私も長宗我部を抑え込んで背後を固める必要がある。では、どうするか・・・―――


 そう思いながら、重秀は手に持っていた信親からの手紙を文箱にしまった。そして、文机の前に向き合うと、硯の上で墨をすり始めるのであった。





 本能寺の変の直後。羽柴重秀―――豊臣秀重が長宗我部信親に宛てて手紙を書いていることは分かっている。そしてその手紙は現存していないものの、同時期に書かれた秀吉への手紙の中にある程度の内容が記されている。これは、父秀吉に報告がてら書いたものと思われる。

 重秀が信親に送った手紙の内容は以下の通りだと思われる。


『惟任日向守が京にて謀反を起こしたものの、上様の首級を挙げることはできず、かえって家臣の裏切りに遭い討たれてしまった。上様は無事である』


『毛利は備中・美作・伯耆の三カ国を割譲することを条件に、織田に降伏した。毛利は織田への臣従の証として、長宗我部攻めに加わることを願い出ている』


『毛利は両川(吉川元春と小早川隆景のこと)を伊予へ出兵することを織田に報せた』


『惟任日向守が討たれたため、長宗我部との取次は今後は羽柴が行うことになった。羽柴としては長宗我部との友誼を考えている一方、毛利が伊予を有することに反対である』


『宮内少輔様(長宗我部元親のこと)の賢明なるご判断に期待する』


 重秀からの手紙が長宗我部に与えた影響については様々な説がある。

『実際には送られていなかった』という説もあるが、通説では『秀吉・秀重(重秀のこと)親子による手紙攻勢は他の武将にも行われたのであるから、長宗我部にも送られたと考えるべき』とされている。

 そして、本能寺の変の直後、長宗我部は四国中に散らばらせた軍勢を、必要最低限の人数だけ残して全軍土佐に戻している。この件について、『秀重の手紙を読んだ元親・信親親子が毛利の伊予侵攻に備えるために軍を退かせた』という説と、『秀重の手紙がそんなに早く信親の元に届くわけがない。長宗我部は長期間の軍事行動に疲弊したため、一旦土佐に戻して休養に入らせただけだ』という説がある。

 どちらにしろ、長宗我部は羽柴の背後をつくことはしなかった。結果、羽柴勢は背後を気にせずに明智との決戦に挑むことができたのであった。





 天正十年(1582年)六月六日以降、重秀は引き続き兵庫城で多忙な日々を過ごしていた。

 主な仕事は兵庫城下の治安維持、兵庫湊の警備、兵庫城本丸にある御座所での評定や軍議、各地から入ってくる情報の整理と分析、その結果を秀吉に伝えること、などを精力的に行っていた。

 特に、城下町の治安維持と湊の警備はしっかりとなされていた。その証拠に、本能寺の変後で織田領内で見られた暴動や一揆が、兵庫とその周辺で記録されていない。

 しかしその一方で、現代にも伝わる史料によれば、重秀は治安維持に強権を以て対応しており、兵庫の出入り口である湊口惣門や柳原惣門には多くの生首が晒され、兵庫を往来する者を恐れさせた、らしい。

 後世の歴史学者が「豊臣秀重は、父親以上の残忍な性格であった」という主張の根拠の一つとして、兵庫での治安維持の際の手腕を挙げることがある。しかし、ぶっちゃけて言えば、戦国の世でこの程度のことで残酷と批難するのは秀重にとって酷であろう。

 もっとも、豊臣秀重は後年にもっと酷いことをするので、「残酷な性格であった」と言われるのは仕方のないことなのだが。


 さて、重秀は上記以外のことについても色々やっていたことが分かっている。例えば、摂津の国衆を始め、周辺の織田方の武将へ手紙を送っているのである。

 この時期、父親である秀吉もまた、各地の織田方の武将へ手紙を送っている。それに加えて重秀も手紙を送っているのである。特に重秀の手紙には、『源四郎君(織田信吉のこと)、兵庫に在り』という文言があり、これが各地の諸将に多大なる影響を及ぼしたと考えられる。

 実際、摂津の中川清秀と高山重友は重秀に『明智にはつかない』旨の返事を出しており、この二人は明智光秀の勧誘を断っていた。もっとも、キリシタンである高山重友はアレッサンドロ・ヴァリアーノからも「明智につかないように」とアドバイスされていたので、それに従っただけなのだが。





 兵庫で多忙な日々を過ごしていた重秀。そんな重秀が望んでいた援軍がついにやってきたのは、天正十年(1582年)六月八日であった。

 秀吉本隊より先に兵庫に向かっていた堀秀政率いる軍勢五百名が、この日兵庫城に入城したのである。


「堀様。お待ちしておりました。堀様に来ていただき、轍鮒てっぷが水を得た心持ちにございます」


「『轍鮒の急』かい?相変わらず漢籍に詳しいね」


 兵庫城の城門前でそのような会話を笑顔で交わした重秀と秀政。2人は並んで歩きながら城内に入る。


「堀様は父上と共に来るものと思っておりましたが」


「私自身は藤吉殿の傍にいたが、三右衛門(堀直政のこと)と私の手勢は姫路にいたからね。私にその手勢を率いて先に兵庫に行ってほしい、と藤吉殿から言われてね。先に戻ったって訳さ」


 そんな話をしながら、2人は兵庫城本丸にある御座所に入っていった。そして、その広間にて織田信吉と面会した。


「堀久太郎秀政にございます。ご尊顔を拝し、恐悦至極」


 上座に座る信吉にそう挨拶する秀政。それに対し、信吉は安心したような顔で頷いた。そして、信吉に最も近い下座に座っている藤掛永勝が、同じく安心したような笑顔で秀政に話しかける。


「『名人久太郎』が加勢に来てくれたのは重畳至極。源四郎様(織田信吉のこと)も大いに喜んでおられる」


 永勝がそう言うと、秀政は「ははぁ!」と言って平伏した。


 その後、秀政は重秀から上方の情勢について説明を受けた。


「六月五日に惟任勢は安土城に入城、これを占拠いたしました。安土城にいた御方様(お濃の方のこと)を始め、上様のご家族や安土におられた重臣のご家族は、蒲生左兵衛大夫様(蒲生賢秀のこと)が日野城へお連れし、これを匿っている、との報せが入っております。そして、義兄あに上(蒲生賦秀のこと)からは、『蒲生は明智に靡かない』との文をいただいております」


 重秀の説明に、秀政と同席していた堀直政が安堵の溜息を漏らした。しかし、重秀が今度は沈痛な面持ちで話を続ける。


「しかしながら・・・、日向守が安土を占拠したことで、近江が日向守の手に落ちました。近江の京極と阿閉が日向守に与したそうで、その・・・、長浜城と佐和山城が陥落しました」


 重秀がおずおずとそう言うと、直政が「何だとっ!?」と大声を上げた。秀政も声は上げなかったが、顔を歪めて歯ぎしりをした。


「おのれ京極と阿閉め!上様の下でそれなりの扱いを受けてきた身でありながら、惟任日向守に加担するとは!」


 そう叫んで床を殴りつける直政。一方、秀政は溜息をつきながら口を開く。


「やれやれ。まさか京極と阿閉が日向守に流れるとはね。まあ、阿閉はともかく、京極は上様から『それなりの扱い』を受けていたとはいえ、名門京極にとっては『とてつもなく低い扱い』だったから、織田に刃向かうのは当然と言えば当然なんだけどね」


 鎌倉時代から江北を本拠地としていた京極家は、鎌倉幕府滅亡時の当主であった京極高氏(佐々木道誉のこと)が足利尊氏に従ったことから、室町時代には幕府の中枢を担うとともに、6カ国の守護をも務める名家となった。

 しかし、戦国時代となり本拠地である近江では、南の六角家と争い、また勃興した浅井家によって傀儡化した。そして永禄三年(1560年)、当時の京極家当主、京極高吉は六角家と結びついて浅井長政に対して挙兵するが、見事に失敗した。それ以降、高吉は近江の支配権を奪われてしまった。

 高吉はその後、足利義昭が織田信長の助力で上洛した際に義昭に仕えた。しかし、義昭追放後は隠居し、自身の息子を信長への人質としていた。この人質となっていた息子が、京極高次であった。

 高次はそのまま信長に仕え、近江の地にて5千石ほど与えられていた。そこそこの扱いであったが、6カ国の守護であった頃に比べたら、とてつもなく低い扱いであった。

 また、小身の近習として、天下のまつりごとに関わっていたか、と言われるとそうでもないため、室町幕府の要職を務めた京極家から見れば、やはりとてつもなく低い扱いであった。


「まあ、いづれは小法師(京極高次のこと)も上様の傍で天下の政に関わる役目を担ったかも知れないが、今となっては誰も分からないからねぇ・・・」


 秀政が肩を竦めてそう言った。そんな秀政に直政が口を尖らせながら言う。


「何を申されておられるのか。長浜城が敵の手に落ちたのですぞ!もしかしたら、御隠居様(堀秀重のこと。秀政の父)や御方様(あやのこと。秀政の妻)が・・・、その・・・」


 そう言って口を濁らせる直政。その顔は青くなっていた。おそらく最悪の事態を想像したのだろう。

 そんな直政に対し、秀政はのほほんと応える。


「三右衛門の考えているとおりにはならないさ。藤十から長浜城を引き継いだ際に、例の脱出先を教えてもらっているし、それは父上や綾にも伝えている。今頃は菅浦か広瀬に行っているだろう」


 秀政がそう言うと、直政は「なら良いのですが」と不安そうに言った。

 正直なところ、秀政も自分の家族の安否を心配していた。この乱世、万が一ということもある。しかし、兵庫にいる秀政が、長浜にいた家族のためにできることはほとんどなかった。

 秀政は遠くの家族のことより、近くの問題に集中することにした。とりあえず、秀政は現状を確認するべく重秀に尋ねる。


「近江については分かった。他のところはどうなんだい?他に日向守に与した家はあるのかい?」


「大和の筒井家の兵が惟任勢に加わっている、との報せが来ております。ただ、陽舜房様(筒井順慶のこと)の動向が掴めておりません。大和の辰市城にいるとか、筒井城にいるとか、郡山城にいるとか、安土城にて日向守に拝謁したとか、切腹したとか、とにかく噂が多く流れているため、未だ確かな報せを得ていないのです」


「なるほどね。陽舜房様は日向守を介して織田に下ったことがあったし、それ以降も連歌を通じて繋がりもあった。確か日向守の与力でもあったから、日向守に与するのをむべなるものかな、とは思うけどね」


 秀政がそう言うと、その場にいた池田照政が声を上げる。


「しかしながら、与している割には動きが鈍うございます。惟任につくならつく、つかないならつかない、と明らかにしていただきたいものでございます!」


 憤る照政を横目で見つつ、秀政が重秀に尋ねる。


「・・・他のところはどうなんだい?例えば、大坂の神戸様(神戸信孝のこと)と惟住様(丹羽長秀のこと)のご様子は?あそこは万の兵力がいただろう?」


 秀政の質問に重秀が答えようとした時、広間に寺沢広高が走って入ってきた。広高は片膝を着いて跪くと、声を上げて報告する。


「申し上げます!兵庫湊の沖に大船団が現れました!旗印は五三の桐紋!羽柴水軍の船団でございます!」


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