第278話 本能寺の後(その9)
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重秀は、なけなしの兵を率いて兵庫の北を流れる湊川の南岸へ向かった。たどり着いた先には北岸と南岸を結ぶ渡し場があり、西国街道の一部として機能していた。
重秀は南岸の渡し場に兵を配置すると、そのまま待機させた。そしてしばらくすると、騎馬や徒歩の兵が次第に現れ、やがて池田勢が北岸を占領した。
ただ、北岸の池田勢は南岸の羽柴勢を確認したのだろう。明らかに羽柴を意識した動きを見せていた。
「・・・連中、動揺してますな」
馬上の清正が、隣にいる馬上の重秀にそう話しかけた。重秀が頷く。
「うん。まさか渡しの向こう側に軍勢がいるとは、池田勢も思っていなかったのだろうな。・・・さて、池田勢はどう出る?」
北岸の渡し場にあった渡し船は、1隻のみ残して全ては南岸へと退避させていた。これは重秀の指示である。すなわち、池田勢が湊川を多くの渡し船で渡ってくることを防ぐ一方、池田勢が使者を渡しやすいよう、1隻だけ使者のために残していたのであった。
どうやら池田勢には重秀の意図が読めたらしい。残された1隻に数人の鎧武者が乗り込むと、こちらに向かって漕ぎ出してきた。そして南岸の渡し場に到着する前に船を止めると、船上の鎧武者が一人立ち上がり、大声を上げる。
「兵庫城の羽柴の方々とお見受けいたす!拙者、池田紀伊守(池田恒興のこと)が家臣、荒尾平左衛門(荒尾成房のこと)と申す!御大将はどなたか!」
船の上からそう言われた重秀は、隣にいる清正に対して頷いた。それを受けて清正が馬を進めて川岸へ出た。そして大声を上げる。
「羽柴家家臣、加藤虎之助でござる!我が方の大将は、羽柴筑前守(羽柴秀吉のこと)が嫡男、兵庫城城主、羽柴藤十郎様にござる!」
清正の大声を聞いた船上の鎧武者は、明らかに驚いた素振りを見せた。しかし、すぐに姿勢を正すと、そのまま大声を上げる。
「これはご無礼仕った!拙者、池田三左衛門様(池田照政のこと。のちの池田輝政)の使いとして罷り越した!願わくば、羽柴様にお目通りしたい!」
そう言われた清正は後ろを振り返って重秀を見た。重秀が黙って頷くと、顔を川の方に向き直して大声を上げる。
「承知仕った!ご案内いたす!」
清正がそう言うと、荒尾成房を乗せた船が再び動き出した。
それからしばらくした後、重秀の前に、船から降りた荒尾成房と2人の鎧武者がやってきた。3人は重秀の前で片膝をついて跪いた。
「お目通りいただきかたじけのうございます」
成房がそう言うと、重秀は「荒尾殿、大儀でござる」と返した。そしてそのまま重秀が成房に尋ねる。
「荒尾殿。池田勢の先陣が兵庫城に来るのは明日の夕刻と聞いていたが、随分と早いではないか?」
重秀がそう言うと、成房が「恐れながら」と返してきた。
「約束を違えて早く来たことについては申し訳なく存じまする。しかしながら、此度三左衛門様が手勢を率いて兵庫城に来たのは、備中攻めに馳せ参ずる池田勢の先陣にあらず。実は、去る六月二日、京にて驚天動地の出来事がございました」
「その出来事は、惟任日向守(明智光秀のこと)が謀反を起こし、本能寺と妙覚寺に滞在していた上様(織田信長のこと)と殿様(織田信忠のこと)を襲ったこと、かな?」
重秀がそう言うと、それまで顔を伏せていた成房と、成房の後ろで控えていた2人の鎧武者が顔を上げた。3人共驚きの表情を顔に貼り付けていた。
「・・・ご、ご存知でございましたか」
成房がそう言うと、重秀はそれには応えなかった。その代わり、重秀は成房に質問する。
「して、その事と此度の三左衛門殿のご出馬に何か関わりが?」
重秀がそう言うと、成房が「は、ははっ」と言って頭を下げた。
「我が主、紀伊守は備中に出陣中の羽柴様のご家族を守るべく、三左衛門様に命じて兵を兵庫城へ差し向けました。羽柴様の御方様は上様の養女にして上総介様(織田信包のこと)の大姫様。織田の姫君を逆徒惟任日向守の手に渡らぬよう、我等を遣わしたのでございます」
成房の話を聞いていた清正が、胡散臭そうな顔で成房達を見つめる。
―――そんなこと言って、真は兵庫城を乗っ取りたかったんじゃないのか?―――
そう思った清正が、成房に話しかける。
「・・・荒尾殿。兵庫城は我が主、羽柴藤十郎が守っておられる。池田の援軍は無用でござる」
清正がそう言うと、成房は顔を上げて「あいやしばらく!」と声を上げた。
「恐れながら言上仕る。羽柴の主力は遠く備中に出陣中とのこと。いくら兵庫城に羽柴様滞在とはいえ、その兵力は少なきものと考えまする。我等援軍として兵庫城に入り、共に兵庫を守りとう存じまする」
成房の提案に、清正は思わず目を見張った。そしてそのまま重秀の方を見た。重秀は口元に右拳を当てていた。それは、清正もよく知る重秀の考える姿であった。
重秀がそのまま黙っていたので、清正も成房も何も喋らずに重秀を見ていた。しばらくした後、重秀が口を開く。
「・・・荒尾殿。惟任日向守が謀反を起こした。有り体に申せば私は今でも信じられない気持ちである。そしてそれは、池田の方々も同じであろう」
重秀がそう言うと、成房は「御意」と応えた。重秀が話を続ける。
「実は私は今日の未明まで堺にいた。上様の命で羽柴水軍の軍船を三河守様(徳川家康のこと)と梅雪様(穴山信君のこと)にお見せするために。そのため、京での異変を早めに知ることができた。私が兵庫に戻ったのは、惟任日向守の謀反に備えるためである」
重秀はそう言って一旦言葉を止めた。成房が黙っていたので、重秀は再び話し始める。
「惟任日向守が謀反を起こした、と聞いた時、私は三河守様と梅雪様が日向守に寝返ることを恐れた。まあ、それはなかったのだが、それでも疑いの目を向けた。更に、ありえないと思いつつも、私は七兵衛様(津田信澄のこと)にも疑いの目を向けた。
一方、紀伊守様は上様の乳兄弟にして譜代の臣。日向守に与することはない、と考えていた」
重秀の言葉に、成房が「当然でござる」と頷いた。そんな成房に重秀が言う。
「翻って、紀伊守様はどう考えたのだろうか?外様でありながら上様の寵愛を受け、畿内で多くの知行を持った日向守が謀反を起こした。同じ外様でありながら上様の寵愛を受けた羽柴が日向守と同心しないだろうか?と考えなかっただろうか?」
重秀がそう言うと、成房だけでなく清正すらも息を呑んだ。そして重秀が成房に自分の考えを述べる。
「荒尾殿。ひょっとして、紀伊守様は兵庫城を守るのではなく、羽柴の家族を人質にするため来たのではないか?私が兵庫城にいるのにも関わらず、兵庫城に池田勢を入れようとするのは、羽柴唯一の嫡男たる私や、私の妻子を人質にすれば、筑前守と日向守に挟み撃ちになる恐れがより一層薄まる、と考えていないか?」
重秀の言葉に、成房は「それは・・・」と言って俯いてしまった。
「・・・否定できない、か」
重秀がそう言うと、清正をはじめ、羽柴の兵達が冷たい視線を成房たちに投げかけた。成房が脂汗をかきながら黙って俯いていると、頭上から重秀の優しい声が聞こえてきた。
「荒尾殿。面を上げられよ」
成房が強張った顔つきのまま顔を上げると、重秀が話しかける。
「荒尾殿。我等羽柴は決して日向守に与することはない。その証をこれよりお見せします」
「あ、証?」
成房がそう言うと、重秀は立ち上がって清正に命じる。
「虎。兵庫城に使いを出せ。源四郎君(織田信吉のこと)と吉助殿(山内康豊のこと)をこちらにお呼びせよ」
湊川の北岸、西国街道の一部を担う渡し場では、池田三左衛門照政が床几に腰を下ろして対岸を見つめていた。
池田三左衛門照政は池田恒興の次男である。一時期は恒興の妻の実家の養子となっており、荒尾古新と名乗っていた。
その後、荒尾家は照政の従兄弟である荒尾成房が跡を継ぎ、池田家に戻された。そして元服した後は父である恒興の下で戦や政について学び、今では兄である池田元助が淡路の洲本城へ移って空城になっていた伊丹城の城主となっていた。
「・・・平左衛門は一体何をしているのだ?羽柴勢の下に行ったきり、何ら動きがないではないか」
「船が南岸の渡し場に着き、平左衛門殿が船から降りたのを見ております。おそらく、面と向かって我等の事を伝えにいったのでございましょう」
傍らにいた家臣がそう言うと、照政は「だとしても」と口を尖らせながら言った。
「あまりにも帰りが遅いではないか」
照政がそう言った時であった。対岸で動きがあった。南岸の渡し場に停泊中の船が渡し場から離れ、こちらに向かってきたのであった。そしてその船の上には、荒尾成房が乗っていた。どうやら話し合いが終わり、こちらに戻ってくるようであった。
船が北岸の渡し場に到着すると、成房が慌てた様子で照政の前にやってきた。そして片膝をついて跪くと、慌てた口調で照政に言う。
「も、申し上げます!至急若君には対岸に来ていただきたく存じまする!」
「・・・平左衛門、どうした?何をそんなに慌てているんだ?」
従兄弟として幼い頃からの付き合いのある成房の様子に、照政が訝しげにそう尋ねた。成房が照政に言う。
「た、対岸の羽柴勢の大将は羽柴藤十郎様!し、しかも、源四郎君がおわしまする!」
「源四郎君・・・?・・・って、それは於次様ではないか!?上様の御子息ではないか!」
照政がそう声を上げると、成房が首を何度も縦に振る。
「は、はい!それに、傍には藤掛三蔵殿(藤掛永勝のこと)と山内吉助殿もおられました!」
「藤掛殿は於次様の付き人で、山内殿は殿様の臣ではないか!こうしてはおられぬ!すぐに対岸に行くぞ!」
照政がそう言って立ち上がった時だった。傍にいた家臣が照政に言う。
「お待ちくだされ、若君。その源四郎君、真の源四郎君でございましょうか?そもそも、何故源四郎君は兵庫にいるのでございましょうか?」
家臣の言葉に、照政はピタリと動きが止まった。そして「確かに」と呟く。
「・・・平左衛門、何か聞いているのか?」
照政が成房にそう尋ねると、成房は対岸で山内吉助から聞いた話をそのまま照政に話した。
「・・・なるほど。三河守様(徳川家康のこと)と共に堺にいたのか。それなら納得できる。では、源四郎君にご挨拶に参らねば・・・」
話を聞いた照政がそう言って動き出そうとした。しかし、件の家臣が再び「お待ち下さい」と照政に言った。
「先程も申し上げたとおり、その源四郎君は真の源四郎君でございましょうか?羽柴が用意した偽物ではございませぬか?」
そんな事を言う家臣に対し、照政が半目で睨みつける。
「・・・お前は何を言っているのだ?確かに父上(池田恒興のこと)は慎重に行動せよ、と私に命じた。しかし、羽柴をそこまで疑え、とまでは命じておらなかったぞ?」
「しかしながら、あの惟任日向守が謀反を起こしたのでございます。惟任・・・明智は織田の外様。羽柴も同じ外様にござれば、用心するに如くはないと考えます」
件の家臣がそう言うと、照政が反論しようと口を開きかけた。しかし、その前に成房が口を開く。
「・・・それと同じようなことを、羽柴様が申されておりました。それ故、源四郎君の存在を明かした、と申されておりました」
成房の言葉に、件の家臣の目が見開いた。唖然としているその家臣に、照政が鼻を鳴らしながら話しかける。
「さすがは藤十郎様よ。私が殿様の小姓だった頃に、殿様から藤十郎様の頭の良さは聞いていたが、やはり我等の懸念を見抜いておられていたか」
「しかし、その源四郎君が真の源四郎君だとは、荒尾殿も分からないのではございませぬか?」
件の家臣がそう言うと、成房が頷く。
「はい。それがしは源四郎君や山内殿の顔を知りませぬ故、若君の判断を仰ぎたく、戻ってまいりました」
成房の言葉を聞いた照政が、両腕を組んで唸る。
「う〜ん。そうなると、私が直接見に行くしかあるまいな。殿様の小姓だった頃に於次様とは何度も顔を合わせているし、山内殿とも一度だけ役目を共にしたことがある。顔を知っているのはこの場には他にいないしな」
「若君が直に乗り込むのは剣呑至極と存じますが・・・」
件の家臣が心配そうにそう言うと、照政は「案ずるな」と声を掛けた。
「用心として馬廻衆の中でも腕利きを連れて行く。そしてお主もついてこい。私と一緒なら、お主も安心だろう」
照政がそう言うと、件の家臣が「承知しました」と言って頭を下げた。照政は顔を成房に向ける。
「平左衛門はここに残って兵達の指揮を執れ」
そう言われた成房は、「御意」と言って頷くのであった。
照政は船で南岸の渡し場まで来た後、そこで本物の織田信吉と山内康豊と面会した。織田信忠の小姓を務めていた照政は、一目見て信吉と康豊が本物である、と見抜いた。
「於次様・・・、いや源四郎様!お懐かしゅうございます!古新でございます!」
片膝をついて跪く照政に、信吉が声を掛ける。
「おお、古新か!来てくれて嬉しいぞ!池田が羽柴と共に儂を守ってくれれば、これほど心強いことはない!」
「ははぁっ!」
信吉との挨拶を終えた照政は、傍にいた重秀に話しかける。
「藤十郎様。よくぞご無事で。それに源四郎様をお守りいたしたこと、まさに忠臣の振る舞い。世間は羽柴の忠節を称えるでしょう!」
「三左衛門殿、かたじけない。今後のことについて話し合いたいのだが、よろしいか?」
「もちろんでござる」
照政がそう快諾したので、重秀は今後のことについて話し合った。
結果、池田勢は信吉の指揮下に入った。もっとも、信吉は軍勢を率いた経験がないため、実質的には重秀が指揮を執ることになった。そして、池田勢が信吉がいる兵庫城内の御座所を中心に警固に回ることが決まった。その結果、羽柴勢の兵力に若干の余裕が生まれた。重秀はその余裕を海上封鎖にも回すことができた。
一方、照政は摂津尼崎城にいる池田恒興と、淡路洲本城にいる池田元助に信吉が兵庫にいることを伝えた。そして、洲本城への使者を送るため、重秀は船を用意することとなった。
信吉と康豊、そして照政が率いる池田勢と共に兵庫城に戻った重秀は、そこでも今後の対応について、城内で話し合いを行った。そして全てが終わったのは、六月三日の夜遅くであった。
疲れ切った身体を引きずるようにして本丸御殿の『奥』にある寝所に入った重秀は、そこで布団の傍で身重の身体に負担をかけないよう、胡座で座っている縁の姿を見た。
「・・・縁、どうした?こんなところで」
重秀がそう問いかけると、縁は慎重に平伏する。
「お戻りなさいませ、御前様。床の準備はもうできておりまする」
「それはいいんだけど、縁は起きていたのか?身重だというのに、早く寝なければ駄目ではないか」
「お言葉でございますが、夫がやつれておりますのに、案じるなというのが無理な話にございまする」
「やつれている?私が?」
そう言われた重秀が思わず右手を右頬に当てた。縁が更に言う。
「御前様は気づかれておられぬかも知れませぬが、私めの周囲の者達は皆、御前様がいつ倒れるやもしれぬと恐れておりましたよ」
縁がそういうと、重秀は「そうか・・・」と言いながら布団の上に座った。その座り方は、まるで糸の切れた操り人形のような座り方であった。
「・・・真のことを申せば、昨日の夕刻からあまり寝ていなかった。それに、あまり食べてもいなかったからな・・・。気を張り続けて何とかここまで来たようなものだ・・・」
「それだけでございますか?」
疲れ切った表情の重秀に、縁がそう尋ねた。重秀が縁の言っていることが理解できない、というように首を傾げていると、縁が優しくいたわるような声で話しかける。
「・・・恐れながら。御前様はまるで悲しみから逃れるような振る舞いをしておられるように見えました」
縁の言葉に、重秀は口を閉ざした。確かに信長や信忠のことを思い出さないようにしていたからだ。
何も喋らない重秀に、縁が話しかける。
「私は上様の養女として、一月以上、上様と御方様の傍で暮らしておりました。短い間ではございましたが、上様からも御方様からも良くしていただきました。
そんな私ですら、上様がお討死なされた、と聞いた時は、驚きと共に悲しみを覚えたものにございます。まして、一年ほど上様や殿様に小姓としてお仕えし、その後も上様や殿様に良くしていただいた御前様が、お二方が亡くなったと聞いて何も思わぬはずがございませぬ。
・・・御前様。その心中、お聞かせ願えませぬか?」
縁からそう言われた重秀は、両目を瞑って俯いた。脳裏には信長や信忠と過ごした日々が映像として映し出され、その時の会話も鮮明に思い出されていた。
しかし、そういった思い出を思い浮かべても、重秀は涙を流すどころか、悲しみが湧くことすらなかった。なぜならば、羽柴の嫡男として、兵庫城の城主として、そして一家の主としての責任が、悲しみの感情を上回っていたからであった。
ただ、縁の優しさも感じていた重秀。その優しさを無下にするほど冷徹でもなかったため、重秀は両目を開いて縁に話す。
「・・・縁。今はまだその時ではない。ただ、傍にいてほしい」
重秀はそう言うと、縁をそっと抱き寄せた。縁もまた、黙って重秀にもたれかかるのであった。




