第277話 本能寺の後(その8)
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重秀が兵庫城本丸御殿の『奥』(城主とその家族が住む私的な居住区)にある奥書院に入ると、そこでは正室の縁、側室のとら、愛妾の照、縁の乳母である夏と七、そして何故か山内一豊の妻である千代が座って待っていた。
「・・・千代さん。なんでここにいるの?」
奥書院に入って千代を見つけた重秀が思わず尋ねた。千代が落ち着いた様子で答える。
「はい。大姫様(藤のこと。重秀と縁の長女)の乳母である牧殿が多忙だと聞きました故、その手伝いをしておりまする」
「・・・千代さんも、与祢(一豊と千代の長女)の世話で忙しいのではないのか?」
「そうなんですが、牧殿は大姫様だけでなく実の息子も育てなければならないため、その負担がとても大きく、身体を壊しそうだと夏殿から伺いまして。
・・・それに、実は御方様(縁のこと)から与祢をお城で世話をしても良い、と許されました故、大姫様と二の姫様(桐のこと。重秀と照の長女。表向きには重秀と縁の次女となっている)と共に世話をしておりまする」
千代がそう言うと、重秀は「なるほどねぇ・・・」と納得した。が、すぐに縁の方を見る。
「・・・それで、藤と桐は?」
「別室にて牧が寝かせておりまする。藤左衛門殿(寺沢広政のこと)より、御前様が堺より戻られ、何やら話があると聞きました故、娘達はここへは連れてきておりませぬ」
「ああ、うん。その方が良いな」
重秀はそう言うと、奥書院の上座に座った。縁達が平伏する中、重秀が口を開く。
「・・・実は昨日、六月二日に京にて惟任日向守(明智光秀のこと)が謀反を起こした。そして、本能寺に滞在していた上様(織田信長のこと)と、妙覚寺に滞在していた殿様(織田信忠のこと)を襲撃した」
重秀がそう言うと、縁達はぽかんとした顔で重秀の顔を見た。そして、しばらく黙った後、まず信長の正室であるお濃の方の命令で、織田家から出向している七が大声を上げる。
「そ、それは、真のことにございまするか!?」
「惟任日向守が謀反を起こしたのは確実。だが、上様と殿様の安否については実はよく分かっていない。しかし、両者共に亡くなられたと考えざるを得ない状況だ」
重秀がそう答えると、七は身を乗り出して重秀に問う。
「そ、それで、お濃の方様は!?御方様はどうなったのですか!?」
「いや、御方様の安否に関してはよく分からない・・・。そもそも、上様と共に本能寺にいたのか、それとも殿様と共に妙覚寺にいたのか、それとも安土城に残っておられたのか、それすらも分からないのだ」
織田信長の正室であるお濃の方は、実は当時の史料が乏しく、実際どのような人物だったかは不明な点が多い。
本能寺の変の際、お濃の方がどのような動きをしていたかも実はよく分かっていないため、後世の軍記物や小説、映画やドラマでは本能寺で信長と共に戦って戦死した、という表現がなされているが、これは史実ではない。
数少ない当時の史料から、本能寺の変の際、お濃の方は安土城にいたとされている。そして、蒲生賢秀・賦秀親子の護衛の下、日野城へ避難したと考えられている。
そして彼女はその後、歴史の表舞台に出ることは二度となかった。
「そんな・・・」
重秀の話を聞いた七は、絶望したような顔でそう呟いた。その隣にいた夏が重秀に尋ねる。
「若殿様。安濃津の殿様(織田信包のこと)や御方様(長野夫人のこと)はご無事なのでございましょうか?」
「・・・安濃津城については全く分からぬ。が、日向守は伊勢とは関わり合いがなかったはず。伊勢で日向守に与する者はいないと思うから、安濃津城が日向守に寝返った者の軍勢に襲われるということはないと思う」
重秀がそう答えると、夏は安堵の表情を浮かべた。
「お兄様。父上(蒲生賢秀のこと)と兄上(蒲生賦秀のこと)はどうなったのでしょうか?日野のお城は無事なのでしょうか?」
夏に続いてとらも重秀に尋ねてきた。重秀は困惑しつつも答える。
「それは・・・。左兵衛大夫様(蒲生賢秀のこと)と義兄上(蒲生賦秀のこと)は安土城にいるからな・・・。日向守が安土を抑えることを考えると・・・、一戦交えるやも知れぬ」
「そ、それで、父上と兄上は日向守様に勝てるのでございましょうか?」
とらが顔を青ざめながらそう尋ねると、重秀は「案ずるな」と力強く応えた。
「左兵衛大夫様も義兄上も戦に強いお方。安土城の周辺には多少の兵もいるし、何と言っても安土のお城は難攻不落の名城だ。惟任勢が強いからといって、安土のお城が落とされることはない」
重秀がそう言うと、とらはホッとした顔つきになった。一方、重秀は口でいうほど楽観はしていなかった。
―――とはいえ、左衛門大夫様は安土城二の丸の留守居役。他の留守居役が戦うかどうかは分からないからな。それに、相手はあの惟任日向守。父上と同じく調略を得意とされるお方だ。これだけの謀反を起こすお方なら、絶対に織田家中で己に味方する者を作っているはずだ。下手したら、日向守の調略に応じた者が、安土城を乗っ取るかもしれない。なんたって、半兵衛様(竹中重治のこと)がたった十六人で岐阜城(当時の稲葉山城)を乗っ取ったんだからな・・・―――
重秀はこの時、明智光秀が周到な計画の下に謀反を起こした、と思っていた。信長の下で交渉や調略、謀略を行っていた光秀は、その才能を十全に活用して謀反を起こしたに決まっている、と信じ込んでいた。
「・・・それで、御前様は大事ないのでございますか?」
「私は見ての通りだ。どこも怪我をしていない」
心配そうに尋ねてきた縁に、重秀はそう答えた。重秀の答えに、縁は安心することなく不安げな表情のまま重秀を見ていた。
そんな縁の表情に気づかぬまま、重秀は話を進める。
「それよりも今後のことだ。実は私は殿様より密命を受けた。『源四郎君(織田信吉のこと。織田信長の五男)を守れ』とな。今、その源四郎君はこの城の御座所におられる。そのため、まずは城の守りを固め、源四郎君をお守りいたす」
重秀がそう言うと、千代が「恐れながら」と重秀に声を掛けた。
「籠城戦と相成りますれば、城下に住んでおられる家臣の家族や留守を守る者共を城に入れるべきです」
千代の言葉に、重秀は思わず「しまった」と呟いた。
「そのことを失念していた・・・。千代さんの言う通りだ。城下には備中に行って戦っている者共の家族がいるのだ。家臣の家族も護らねばならぬ。すぐにでも城に入ってもらおう」
「その役目、千代におまかせ頂けませぬか?実は城下に住む羽柴家中の女達とは懇意にさせていただいておりますれば、私めが声を掛けとうございます」
千代がそう言うと、重秀は「頼む」と頷いた。千代はそれを受けて頷くと、すぐに立ち上がって奥書院から出ていった。
「・・・千代殿はこのような状況でも、よく動けまするね・・・」
夏がそう呟くと、重秀がそれに応えるべく口を開く。
「・・・山内家は主家が滅ぼされ、一族が離散したという苦い経験をしているからな。どういう状況になるかを分かっているから動けるんだろうな」
重秀がそう言った直後、急に「あっ!」と大きな声を上げた。皆が驚いている中、重秀が何かを思い出したかのように呟く。
「・・・吉助殿(山内康豊のこと)が来ていることを伝えるのを忘れていた。伊右衛門(山内一豊のこと)の弟だから、千代さんから見れば義理の弟だ」
「それは後で伝えればよろしいかと。それよりも、私共は如何がなさいましょうか?」
夏が重秀にそう尋ねると、それを聞いた縁が右人差し指を右頬に当てながら首を傾げる。
「・・・夏?如何なさいましょう、とはどういうことですか?私達も籠城に備えるのではないのですか?」
「御姫様(縁のこと)、それも一つの手にございます。しかし、御姫様は身重でございます。籠城したところで皆様方のお役に立てませぬ。それどころか、足手まといにございます」
縁にはっきりとした口調でそう言う夏。重秀が「おい、それは言いすぎだぞ」と嗜めるが、夏が重秀を無視して話を続ける。
「身重の女子が籠城すべきではありませぬ。ここは、城外に逃れ、外で若殿様が勝つのをお祈りすることこそ、身重の女子が成すべきことにございます」
夏がそう言うと、重秀は「なるほど」と頷いた。
「では、縁達を城外に逃そう。どこに逃そうか・・・」
重秀がそう言って両腕を組んで考えようとしたときだった。縁から鋭い大声が飛んでくる。
「お待ち下さい!私は織田上総介の大姫にして前右府様(織田信長のこと)の養女!そして羽柴藤十郎様の妻にございます!夫が主君にして養父の仇と戦おうとしているのに、その妻が逃げるとはありえませぬ!」
「しかし御姫様。身重で籠城されては若殿様も御姫様を案じられましょう。そうなれば御姫様を気にして、戦に集中できぬやも知れませぬ」
「ならば、今すぐ腹の子を堕ろして身軽になりまする!」
縁がそう言うと、重秀が「待った待った!」と言いながら縁と夏の間に入る。
「子を堕ろす、なんて物騒なことを言うな。それが男児だったら羽柴の跡取りを堕ろした、として父上からお叱りを受けるぞ」
「子でしたらとら殿が立派に産んでくれまする!とら殿を逃せばよろしいでしょう!私はお城に残ります!」
縁がそう叫ぶと、とらが「ええ〜っ」と露骨に嫌そうな顔をした。
「せっかく幼少より鍛えた剣術や長刀を役立てられると思ったのに・・・」
「お前もお前で何を言っているのだ」
とらが発した愚痴に、重秀が思わずそう言った。その後、重秀が溜息をついて縁ととらに言う。
「・・・分かった。皆、城に残るがよい。城外に逃すのも良いと思ったが、城外に出したら出したで敵に見つかって囚われたり殺されたりするのではないかと考えると、かえって城内にいてもらった方が私としても気にせずに戦えるというものだ」
重秀がそう言うと、夏が渋い顔をしながら重秀に言う。
「しかし・・・、城下に住む家臣達の家族も城に受け入れるのでございましょう?兵糧は足りるのでしょうか?」
それに対し、重秀は「それは案ずることはない」と応えた。
「元々備中へ送る兵糧を溜め込んでいたし、上様が兵を率いて毛利と決戦を行う、との予想から、その兵力を支えるために更に兵糧を買い占めていたからな。半年以上は籠城できるだけの兵糧はあるぞ」
重秀がそう言うと、夏以外の者達は安堵したかのような顔つきになった。しかし、夏だけは何か考え込む様子を見せると、重秀に話しかける。
「・・・とはいえ、幼子は籠城戦では足手まといとなります。藤姫様と桐姫様だけでも城外に逃がすべきではありませぬか?」
夏がそう言うと、重秀は考え込んだ。夏の言うことにも一理ある、と思ったからだ。しかし、すぐに縁が夏の提案を拒否する。
「お待ちなさい!先程、千代殿が家臣達の家族を城内に引き入れると申したばかりではありませぬか!その中には、当然幼子も含まれております!家臣の幼子を城に入れておきながら、藤と桐を外に逃しては示しがつかないではないですか!」
そう言った縁の顔を見た重秀は、縁の顔に以前会った長野夫人の面影を見た。
―――縁はどうも武家の娘としての矜持を強く持っているな、と思っていたが、それは義母上の血筋なのかもしれないなぁ―――
そんな事を思っていた重秀の耳に、奥書院の障子の外からの声が聞こえた。それは、『奥』で仕える侍女の声であった。
「申し上げます、若殿様。寺沢藤左衛門様(寺沢広政のこと)が『表』に来ていただきたい、とのことにございます」
「分かった。すぐに行く」
重秀がそう言うと、顔を夏に向ける。
「夏。惟任日向守が謀反を起こしたとはいえ、惟任勢が今すぐこちらに攻めてくるわけではない。兵庫が戦場になることは当分はないだろう。藤と桐を城外に逃すことは今は考えなくてよい。それと、奥向のことは縁に任せるが、縁は身重故、夏が代わりに動いてくれ」
重秀からそう言われた夏は、決心したような声で「承知いたしました」と言った。それを見た重秀が、今度は縁ととらに顔を向ける。
「縁、そしてとら。羽柴の女子としての心意気は買うが、二人は身重なのだから、あまり無理をせず、まずは己と腹の子を大事に思え。そしてあまり軽挙に走るなよ。二人の、いや『奥』の女子供は必ずこの藤十郎が護ってみせる」
重秀がそう言うと、縁もとらも引き締まった表情で「承知いたしました」と言って頷くのであった。
本丸御殿の『奥』の書院から『表』の書院へと移った重秀は、そこで広政から驚くべき報告を受けた。
「兵庫城に向けて池田の軍勢が近づいている!?」
重秀がそう声を上げると、広政が「御意」と応えた。
「八部郡の境目に放った物見からの報せでは、池田勢およそ二百騎が西国街道を通りこちらに向かっているとのこと」
広政の報告に、重秀は口元に右拳を当てながら呻く。
「どういうことだ・・・?何故池田勢がこちらに向かってきているのだ・・・?」
そう言った重秀は、ある事を思い出す。
「・・・そう言えば、紀伊守様(池田恒興のこと)も備中への出陣を命じられていたな。それの先陣か・・・?」
そう呟いた重秀に広政が応える。
「池田様からの事前の報せによれば、先陣の兵庫到着は六月四日、明日の夕刻頃だと伺っております」
「予定よりも一日以上早いわけだ。となると、やはり日向守の謀反を受けての行動と見たほうが良いな」
重秀がそう言うと、広政だけではなくその場にいた加藤清正や加藤茂勝、山内康豊も頷いた。
「長兄。もしかしたら、池田は惟任についたのでは?」
清正がそう言うと、重秀は「ありえない」と言って首を横に振った。
「紀伊守様が日向守についた、との報せは受けていない。そもそも紀伊守様は上様の乳兄弟で織田家の譜代。日向守に与するとは思えない」
「しかし、誰も惟任日向守が謀反を起こすなんて考えていなかったんです。紀伊守様に『ありえない』という言葉は使えないんじゃないのでは?」
清正の言葉を聞いた重秀は、黙って考え込んだ。口元に右拳を当てて考え込む重秀。しばらく黙っていた後、口を開く。
「・・・いや、それでもありえないと思う。そもそも、紀伊守様は日向守の与力ですらないんだ。確かに、日向守は畿内の織田の諸将を与力にしてきたが、紀伊守様は上様から直接命じられる立場にあったんだ。だから上様は去年の淡路平定を紀伊守様のみに命じられたんだ。あの時は日向守は関わっていなかった、と聞いている。
それに、紀伊守様は日向守と姻戚関係になっていない。日向守に与する理由が私には思いつかないんだ」
「・・・なるほど。若殿は、日向守と繋がりのない池田様が、日向守の誘いに乗るはずがない、とお考えなのですな?」
広政がそう尋ねると、重秀は「ああ」と答えた。
「・・・若殿の考えは分かったっす。じゃあ、池田勢は何で兵庫城に兵を送り込んでくるんですかね?」
茂勝がそう尋ねると、重秀は自分の考えを述べる。
「・・・恐らく、兵庫城を接収し、背後の守りを固めようとしているのではないだろうか?そもそも、紀伊守様は私が兵庫城に戻っていることはまだ知らないはず。紀伊守様から見れば、兵庫城は空城みたいなものだからな」
「・・・それって、城を狙った乗っ取りみたいっすね」
茂勝がそう言うと、重秀が苦笑する。
「言い方が悪いが、まあ似たようなものだろう。さすがに城内の縁達は保護してくれるとは思うが・・・」
「それで長兄。池田勢はどうするんだ?」
清正がそう尋ねると、重秀は再び考え込んだ。そして広政に尋ねる。
「・・・池田勢は西国街道を通って兵庫に向かっているのだな?」
重秀が確認するように広政に尋ねた。広政が「はい」と応えた。
「とすると、池田勢は湊口惣門から兵庫に入ろうとするな?」
「そうなると思われます」
広政がそう言うと、重秀は意を決したような表情で皆に言う。
「それでは湊口惣門の北、湊川の渡しに軍勢を配置しよう。そして池田勢を出迎えようではないか。池田勢が我等を見て、どのような動きを見せるか、それによって池田の考えを探ろう」




