第267話 天正十年六月一日(前編)
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天正十年(1582年)六月一日。重秀は堺にいた。重秀は福島正則と寺沢広高、村上景親と村上通清、そして織田信吉(織田信長の五男。前の於次丸)とその家臣である藤掛永勝と共に五月二十日に堺に入り、その日のうちに小西隆佐の屋敷に入った。
堺に着いた次の日、織田信吉が体調を崩して寝込んでしまった。どうやら初めての旅で疲れが出たようであった。そのため、重秀は信吉の対応をする羽目になった。運良く宿泊先の小西隆佐は元々薬を生業としている商人である。薬は豊富にあるため、薬物療法によって三日後には体調を取り戻していた。しかし、大事を取って信吉は五月二十八日まで小西屋敷で療養することとなった。
信吉の看病を永勝に任せた重秀は、小西隆佐の屋敷に滞在しつつ、堺奉行の松井友閑や千宗易や今井宗久、そして堺に駐屯していた九鬼嘉隆を訪問していた。目的は堺見学に来る徳川家康と穴山信君とその一行を出迎えるための準備を話し合うためである。
もっとも、千宗易の屋敷では、話し合いもそこそこに茶の湯の稽古を行いながら播磨や但馬、それより西での商業について話し合っていた。毛利を降した後、そこに宗易が経済進出するためである。
また、堺湊に事前に入港していた『春雨丸』の加藤清正や『電丸』の田村保四郎と合流し、今後のことについても話し合った。
さらに、重秀は今井兼久(のちの今井宗薫)と共に住吉郡遠里小野に赴き、今年の菜種油の製造過程を見学したり、近くの五箇所で銅や鉄の鋳造を見学していた。その後、堺に戻った重秀は、今井宗久と菜種油と鋳造による青銅砲について改めて話し合った。
そして五月二十六日。備中児島より、加藤茂勝が指揮する追加の船団―――『村雨丸』『梅雨丸』『曙丸』『暁丸』『夕暮丸』の5隻が堺の湊に到着。重秀は茂勝や一緒についてきた三浦義知等を出迎え、その労をねぎらった。
ちなみに、『夕暮丸』とは小型のフスタ船『有明型』の2番船である。5月の初旬に兵庫で進水したばかりの船で、まだ訓練途中だったが、フスタ船の数を増やすために重秀が急遽呼び寄せたのである。
―――南蛮船造りの船が七隻もあれば、十分羽柴水軍や上様の面目が保てるだろう。・・・保てると良いなぁ・・・―――
そう思いつつも重秀は徳川家康と穴山信君が来るのを待ち続けたのであった。
そんなこんなで天正十年(1582年)五月二十九日。徳川家康と穴山信君とその家臣達が長谷川秀一と共に堺へとやってきた。一行は宿泊先の妙国寺にて旅装を解くと、その足で堺奉行所へと向かった。
堺奉行では松井友閑を始め、九鬼嘉隆や織田信吉、そして重秀等が家康達を迎えた。
「三河守様(徳川家康のこと)、梅雪様(穴山信君のこと)、ようこそお越しくださいました」
「松井殿、お世話になりますぞ」
そう言って挨拶を交わす友閑と家康。その様子を見ていた重秀は、家康家臣団の中に懐かしい顔を見つけた。
―――あれは弥八郎(本多正信のこと)ではないか。安土では見かけなかったのに、いつ三河守様と合流したんだ?―――
そんな事を思いながらも、重秀は友閑が家康や信君達に今後の予定を説明していくのを聞いていた。
「・・・明日の昼前には堺湊にて水軍をご覧いただけます。羽柴殿、ご説明を」
友閑から指名を受けた重秀が、思いを中断して説明し始める。
「湊には羽柴水軍、九鬼水軍、そして村上水軍の軍船が集結しております」
重秀がそう言った瞬間、徳川家臣が声を上げた。今まで敵対していた村上水軍の人質が来ていることは、家康を始め徳川家臣達は知っていたが、水軍の船まで堺に来ていたことは聞いていなかったため、大変な驚きようであった。
重秀が話を続ける。
「順序としては九鬼水軍、村上水軍、そして羽柴水軍の軍船を見物していただきます。そして、九鬼水軍の安宅船と羽柴水軍のフスタ船には内部を見学できるようにしております」
重秀がそう言うと、信君とその家臣、そして徳川家臣達の顔色が変わった。徳川家臣の一人、酒井忠次が重秀に尋ねる。
「ご無礼ながら、内部の見物はご遠慮願いたい。外部だけ見られれば十分故」
忠次の言葉に、重秀は「そうですか?」と返した。
「しかしそうなると、右馬允様(九鬼嘉隆のこと)や私が源四郎君(織田信吉のこと)を船の中に案内している間、三河守様や梅雪様をお待たせすることに相成りまするが・・・」
「そうなったら外で待たせてもらう。もしくは我等だけ先に宿に帰らせていただく」
忠次の言葉に、重秀は困惑の表情を顔に浮かべる。
「それは困りました。実は殿様(織田信忠のこと)より、源四郎君は常に三河守様や梅雪様の傍にいさせるように命じられておりましたので・・・。その方が三河守様も梅雪様もいろいろ案じられるかと仰られておりました」
重秀の発言を聞いた家康と、家臣団の隅にいた本多正信の目が一瞬見開いた。それに気が付かない忠次が「それは・・・」と言いかけた時、家康の口が開く。
「小五郎(酒井忠次のこと)、もうよせ。京で中将様(織田信忠のこと)より『堺では我が弟源四郎が儂に代わって堺を案内いたす。よろしく頼む』と申されておったではないか。源四郎君が共に船に乗られるのであれば、どうして儂等がそれを拒めよう。源四郎君を案内につけた中将様の面目を潰すものではない」
家康の言葉に、忠次は「・・・ははっ」と頭を下げた。
―――そうか。殿様は三河守様に源四郎君が徳川と穴山を護るための人質だと暗に匂わせたのか。そして、三河守様はそれに気がついたのか―――
信忠の気の遣い様に、重秀は深く感心するのであった。
重秀の説明が終わり、その後も細々とした話を友閑が行った後、一行は『大寺さん』として堺の人々に親しまれている開口神社へ移動した。ここは堺を牛耳る会合衆が集会を開く場所で、この場で家康と信君は会合衆の面々と会談を行う予定であった。
家康達は今井宗久、津田宗及、千宗易等会合衆の者達の出迎えを受けた後、開口神社の本殿で会合衆の者達と会談を行った。そこでは家康や信君に対し、会合衆から土産物が渡されたり、堺での商売についての説明がなされていた。
その後は開口神社の境内にある草庵茶室にて、今井宗久による茶事が催された。家康と信君はもちろん、嘉隆や友閑や信吉、そして重秀も参加していた。ちなみに徳川家臣団と穴山家臣団は参加していない。
茶事に参加していた重秀は、家康と信君の様子をつぶさに見ていた。完全に寛いだ様子で茶事を楽しむ家康に対して、信君は終始渋い顔をしていた。特に茶事の後半では、額に脂汗が出てくるほどであった。
―――梅雪様の様子がおかしい。あれは闇討ちを恐れているとかそういう態度ではないぞ?―――
重秀がそう思っていると、信君の様子に気がついた宗久が信君に尋ねる。
「・・・梅雪様。如何なさいましたか?具合が悪そうにお見受けいたしますが・・・?」
「い、いや、大事無い故、どうぞそのままお続けくだされ」
脂汗をかきながらそう言う信君。そんな信君に気を使いながら、茶事は進んだ。そして、皆で薄茶を飲むところまで進み、口が軽くなったのか家康が重秀に話しかける。
「・・・藤十郎殿は、京で流行りの百人一首カルタを作られた、と中将様より聞きましたが?」
自分に話しかけられるとは思っていなかった重秀は、内心驚きながらも表面上は冷静に対応する。
「は、はい。真のことを申せば、私だけでなく長岡与一郎殿(長岡忠興のこと)と共に作り上げたものにございます。私だけでは百人一首カルタを作ることは難しかったでしょう」
「謙虚な物言いですな。しかし、お二方の作られた百人一首カルタ。確かに素晴らしきものと存ずる。実は、前右府様(織田信長のこと)よりカルタをいただきましてな。絵と書の素晴らしさはもちろん、遊んで百人一首を覚えることができる、というのはなかなか面白き物にござるな」
家康がそう褒めると、重秀は頭を下げる。
「喜んでいただき恐悦至極に存じます。しかし、まさか上様が三河守様に贈呈されているとは思いもしませんでした」
重秀がそう言うと、家康は首を横に振る。
「儂だけでなく、こちらの梅雪殿にも与えられもうした。それに、聞けば東国の大名共にも贈呈の品として与えているだとか。珍しき物故、大変喜ばれているようでござる」
家康の言葉に、重秀は驚きを隠すことができなかった。まさか自分達の作った百人一首カルタが、信長によって東国に送られているとは思ってもいなかったからだ。
―――上様が他の大名に贈呈品として百人一首カルタを送っているということは、他の贈呈品・・・刀や茶道具や鷹と同じ価値だと上様がお認めになられたのだ。これで百人一首カルタは更に値が高くなるぞ―――
自分と忠興の懐が更に暖かくなることに、内心喜んだ重秀。そんな重秀に、今度は信吉が話しかける。
「百人一首カルタについてはそれがしも聞いている。なかなか手に入らぬのだが、それがしにもくれぬか?藤十郎」
信吉のおねだりに対し、重秀は苦笑しながら応える。
「承りました。堺で作られしカルタならすぐにでも差し上げることが可能かと」
「・・・堺でも作られているのか?」
家康がそう訪ねてきたので、重秀は軽く説明する。
「宗匠・・・千宗易様に頼んで作っていただいております。長谷川信春(のちの長谷川等伯)という絵師が絵を描き、堺周辺の書家が歌を書いているものにございます。京では狩野派が描くものが高値で売り買いされておりますが、堺で作らせたものはさほど有名な絵師や書家の手のものではないため、手頃に買える百人一首カルタが出回っております。
それに、堺のものは播磨の杉原紙を使用しており、頑丈と評判にございます。カルタの取り合いに耐えられるものとして、堺のものもよく売れています」
重秀の説明に、家康は「それは面白いな」と頷いた。
「真のことを申さば、前右府様より頂いたカルタは贅を尽くしたものにて、我が息の遊び道具としてはいささか華奢に思えた。堺のものならば乱暴に扱っても破れることはなかろう。
・・・藤十郎殿。銭は支払う故、堺で作られし百人一首カルタを儂にも都合してくれぬか?」
「三河守様から銭を取れば上様や殿様から叱られまする。羽柴よりの贈呈といたしたく存じまする」
重秀がそう言うと、家康は「いやいや」と笑いながら首を横に振る。
「そんなことをすれば、徳川は羽柴からカルタを巻き上げた、と堺の者共に言われる。そうなれば徳川は天下の笑いものになる。藤十郎殿。何卒、銭を受け取ってくれ」
家康からそう言われた重秀は、「分かりました」と言って頷いた。
「私も三河守様の面目を潰すことは本意ではありませぬ。では、私から宗匠へカルタを三河守様へお譲りするように申します故、銭は宗匠にお支払いくだされ。商人への支払いなら、普段の商いとなります」
「・・・それでは羽柴の益にならぬではないか?」
家康がそう言うと、重秀が微笑みながら応える。
「ご心配には及びませぬ。宗匠がその銭を高利貸しに回したり、今焼の創作に用いれば、その益は何倍にもなりまする。それを羽柴がいただいております故、三河守様から直に銭をいただくよりも益になっておりまする」
重秀の話を聞いた家康は、笑いながら「それは面白い」と言うのであった。
その日の予定は無事終了し、家康と信君の一行は宿泊先の妙国寺へと戻っていった。
「市(福島正則のこと)。徳川と穴山の家臣達に動きは?」
小西隆佐の屋敷に戻った重秀は、茶事の間徳川と穴山の家臣達と一緒に居た福島正則にそう尋ねた。
「いや、別におかしな動きは見せてねぇよ。三蔵殿(藤掛永勝のこと)も見ていたけど、三蔵殿から見ても別に怪しむようなことはしてなかったな」
正則の言葉に、重秀は安堵の表情を顔に浮かべる。
「そうか。では源四郎君をどうこうしようとする気はなさそうだな」
重秀がそう言うと、正則も同意するように頷く。
「ああ。あの弥八郎(本多正信のこと)ですら、怪しげな動きを見せなかったんだぜ。まあ、あいつは存在自体が怪しいんだけど」
正則がそう言ったので、重秀は「そう言ってやるなよ」を笑いながら嗜めるのであった。
次の日。天正十年(1582年)六月一日の昼前。徳川家康と穴山信君は自分達の家臣達と共に、長谷川秀一の案内で堺湊に来ていた。そこでは、重秀を始め、松井友閑や九鬼嘉隆、織田信吉、藤掛永勝、そして村上景親と村上通清、福島正則ら重秀の家臣達が待っていた。
「ようこそお越しくださいました。三河守様、梅雪様。まずは我が九鬼の安宅船をお見せいたしまする」
嘉隆はそう言って家康達を自らの安宅船を見せた。
「ほう。これはもしや、木津川にて毛利の水軍を破ったと言われる大安宅船でござるか?」
九鬼の安宅船を見て、家康が目を輝かせながらそう尋ねると、嘉隆は「いいえ」と答えた。
「あの時の大安宅船は全て解体し、その木材は小早の材料といたしました」
「何故、解体したのでござるか?」
家康の質問に、嘉隆が大安宅船の維持には多額の費用が必要などの説明をした。
「他にも整備に手間がかかりますれば、大安宅船は使い勝手が悪く、やむを得ず解体いたしました。それは滝川様(滝川一益のこと)も羽柴殿も同じようにされたと聞いております」
「・・・あの大安宅船。九鬼殿だけのものではなかったのでござるか?」
家康が驚いたように言うと、嘉隆は重秀に「で、あるな?」と話を振った。重秀が応える。
「右馬允様が仰られたように、一隻だけ羽柴が運用しておりました。元々は上総介様(織田信包のこと)が造られた大安宅船でございましたが、乗っていた将兵は羽柴の者共でございました」
「それはまた何故?」
「その頃、羽柴は上様(織田信長のこと)・・・ではなく、殿様(織田信忠のこと)より兵庫津がある八部郡と有馬郡の摂津二郡をいただきました。それは、父筑前が播磨平定を上様より命じられたことにより、毛利の水軍に対抗するべく羽柴も水軍を持つこととなりました。その一環として、大安宅船を羽柴で運用できるよう、上様が取り計らってくれたのでございます」
「なるほど。それで藤十郎殿の岳父たる上総介殿が造られし大安宅船を、羽柴が使っていたのでござるな」
家康の言葉に、重秀が「はい」と頷いた。が、同時に脳裏に疑問が湧く。
―――はて。縁の実父が上総介様だと三河守様は知っていたのか?なんでそんなことを知っているのだ?―――
実のところ、家康はすでに重秀を「織田家の次世代を担う有能な若者」と見ており、徳川家中で調査対象となっていた。もっとも、重秀自身はそのことを知る由もなかった。
その後、嘉隆の案内で家康と信君の一行は安宅船を見学した。だが、安宅船そのものは徳川や旧武田の水軍も少数ながら保有しており、特に珍しいものではなかった。
そのため、見学は早めに終わり、家康と信君の一行は安宅船から降りると、次の見学する船を見るために移動した。
次に見学した船は村上水軍の小早であった。元々は人質として出された能島村上家の村上景親と来島村上家の村上通清が連れてきた小早であり、堺まで来る予定ではなかったのだが、重秀の命令で堺にまで回されてきたのであった。
舳先に村上水軍の象徴である丸に上の字を描いた船旗を掲げた小早は、小早そのものは何の変哲もない小早であったものの、あの毛利傘下の村上水軍が織田に寝返ったことを堺の人々に知らしめる効果は十分にあった。
そして、家康達にもこの効果は十分にあった。
「・・・あの村上水軍の強さは儂の耳にも入っておるが、まさかこの目で村上の軍船を見ることができるとは思っても見なかった」
家康がそう呟くと、それを聞いていた嘉隆が「はい」と返した。
「四年前、木津川口で死闘を繰り広げたあの村上水軍と、まさか堺にて共に舳先を並べることができるとは、隔世の感を禁じえませぬ。
・・・それと同時に、村上水軍を寝返らせた羽柴も見事なものにございます」
嘉隆の言葉に、家康が「確かに」と言って頷いた。
「西国については羽柴殿にお任せすれば、前右府様(織田信長のこと)も中将様(織田信忠のこと)も安んじられるであろうな」
家康が重秀を見ながらそう言うと、重秀は「恐れ入りまする」と言って頭を下げた。家康が重秀から自分達の家臣に目を向ける。
「西国の羽柴殿のように、東国は徳川に任せられるよう、儂等もより一層、織田に対して励まねばならぬな」
家康がそう言うと、家臣達は「ははっ!」と声を揃えて頭を下げた。それを見ていた重秀は思う。
―――これだけ織田への忠節を明らかにしているのだから、あえて三河守様や梅雪様を討つことはないよな・・・。いや、そう思わせるために、あえて口に出しているのか―――
そう思っている重秀の目の前では、家康が景親と通清に村上水軍について質問攻めにしようとしているところであった。




