第266話 崖っぷち
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天正十年(1582年)五月下旬。織田の敵となっている上杉、長宗我部、毛利は崖っぷちに立たされていた。
越後の上杉は西から柴田勝家、南から森長可と滝川一益、そして北からは新発田重家によって攻められていた。特に、森長可は上杉の本拠地である春日山城の近くまで攻め上っていた。
そのため、勝家が包囲していた魚津城を救援すべく、越中国天神山城まで援軍に出ていた上杉景勝は春日山城まで戻らざるを得なくなっていた。実際、天正十年(1582年)五月二十七日には魚津城に降伏を認める使者を派遣した後、天神山城から撤退している。
この頃、景勝は上杉滅亡を覚悟していたようで、常陸国の大名である佐竹義重に対し「六十余州を相手に滅亡することは、死後の思い出である」という内容の手紙を出している。
一方、長宗我部元親もまた決断を迫られていた。すでに織田信長が四国に兵を送ることは知っていたし、その軍容も調べがついていた。
すなわち、神戸信孝を総大将に、丹羽長秀、津田信澄、蜂屋頼隆等が九鬼嘉隆率いる水軍の支援を受けて四国上陸を目指している、ということを正確に掴んでいた。
更に、真偽は定かではないが、神戸信孝を三好康慶(三好康長のこと)の養子とし、讃岐を信孝に、阿波を康慶に任せ、ゆくゆくは信孝が讃岐と阿波を治めることになる、という情報も入っていた。
なお、この頃には三好康慶が阿波国勝瑞城に入って阿波の国衆への調略を開始しており、阿波のみならず讃岐の国衆達が次々と織田方に寝返っていた。
元親は重臣達を阿波国白地城に集めると、対応を協議した。
「こうなれば是非もなし。織田と戦い、長宗我部の意地を見せるべし!」
重臣達のほとんどがそう言って織田との徹底抗戦を主張した。それを聞いた元親が頷く。
「おんし等の気持ち、よぉく分かった。後は儂が決める!皆、すぐに織田との戦に備えよ!」
元親の発言に、重臣達は「おおっ!」と気合の入った声を上げた。
協議が終わり、重臣達が去った後、広間に残っていたのは元親の他に弟の香宗我部親泰と嫡男の長宗我部信親であった。
「・・・兄上」
皆がいなくなったのを見計らって親泰が元親に声をかけると、元親は「なんだ」と応えた。
「兄上は誠に織田との戦を望んでおられるのでございますか?」
「いや。どう考えても織田には勝てぬ」
親泰の質問にそう答えた元親。親泰は「やはり」と言って溜息をついた。それを聞いていた信親が元親に尋ねる。
「ならば、何故父上はあのようなことを仰られたのでございますか?」
「ああ言わなければ儂から心が離れるじゃろう。そうなれば、家中が混乱する。ひょっとしたら抜け駆けで織田に寝返る奴がいるやもしれぬ。いや、あるいは毛利に寝返るやもしれぬ。
そうなれば、四国は織田と毛利の草刈り場となろう。いや、両者の争いが続けば、国衆同士が争う群雄割拠の地となる。せっかく長宗我部の下で四国に平穏が訪れようとしていたのに、それが無になるのは儂の望むところではない」
「では父上のお考えは・・・?」
「四国が長宗我部の下で平定され、そのまま天下人に認められるのが望みであった。そうなれば、四国では争いがなくなる、はずであったが・・・。どうやらそれは難しそうだ。ならば、儂が国衆の手綱を握っているうちに、織田に従ったほうが良かろう」
元親の言葉に、親泰と信親は頷いた。元親が信親の方を見ながら話を続ける。
「それに、弥三郎(長宗我部信親のこと)のおかげで、前右府様の考えが読めるようになった。あの時、塩飽に弥三郎を送って羽柴の倅と誼を通じさせたのは正しかったな」
信親は天正八年(1580年)十月に塩飽本島で重秀と会っており、それ以来手紙のやり取りをしていた。といっても頻繁にやっているわけではなく、重秀が百人一首カルタを信親に送り、信親が重秀にお礼の手紙を送った、というだけのことであった。
ただ、信親がその手紙に、信長の外交方針が変更になった経緯を尋ねる内容を追加していた。信親自身はこのことで重秀から回答が得られるとは思っていなかった。
しかし、重秀から来た手紙には、信長の瀬戸内に関する考え方が記されていた。信親は返事が書かれていることに驚いたが、とりあえず元親にそれを知らせた。
元親は信親から話を聞くと、重秀が信長の養女婿であることを思い出し、重秀の伝えてきた内容が本当に信長の意思なのでは?と考えた。そこで、彼は親泰や外交担当の谷忠澄を呼んで話し合った。
親泰や忠澄から織田家の情報を聞いた元親は、その優秀な頭で信長の四国に対する考えを想像することができた。
すなわち、九州を通じての南蛮貿易には、必ず瀬戸内の海が船の道として必要である。また、石山本願寺を信長が攻めたのは、大坂の地に新たな織田の拠点を作るため、ということは元親の耳にも入っていた。そう考えると、織田にとって讃岐国、阿波国そして伊予国の北部は絶対に長宗我部に渡したくない、と信長が思うのは必然であろう、と結論付けた。
「・・・前右府様の考えからすれば、大坂の対岸にある讃岐と阿波は織田領としたいだろう。わざわざ自分の息子を三好に養子に出すほどなのだからな。ただ、阿波の南部を長宗我部に残すことを伝えてきた。ということは、前右府様は難波の海と瀬戸内の海さえ確保できればよいとのお考えなのだろう」
「では兄上は、讃岐と阿波の北部を手放すのでございますか?阿波の南部は山ばかりの地にございますれば、田畑少なく知行はさほど増えませぬぞ?」
「その代わり伊予の南部をいただけるよう、交渉したのだが・・・。それも不調に終わってしまった。しかし、伊予の南部についてはまだどうにかなる。伊予については織田は何も言ってきていない。とりあえず讃岐と阿波北部を織田に譲り、織田のために毛利を討つ、と称して伊予に攻め入る。伊予全ては無理でも、南予は手に入れたい。
・・・それに、伊予国新居郡の金子備後守(金子元宅のこと)は儂等と盟を結んでいる。金子だけでも守らなければならない」
元親の発言に、親泰は「なるほど」と頷く。
「しかし、讃岐と阿波を失えば、それまで働いてきた家臣や国衆は不満を持ちましょうな」
「それについては弥三郎が面白き考えを持っている。弥三郎、弥七郎(香宗我部親泰のこと)にあの事を教えてやれ」
元親からそう言われた信親は、重秀から送られた手紙の中に書いてあった提案を話し始めた。
重秀が信親に送った手紙には、船を使った交易についての提案も書いてあった。すなわち、交易で商業を盛んにし、その担い手である商人から運上や冥加といった税金を取る、というものであった。
重秀の提案に、信親は衝撃を受けた。武士の収入は米、という考えしか持っていなかった信親に、銭収入という考え方はなかったからだ。
しかし、これは仕方のないことだった。日本の銭は明王朝が発行した銅銭が使われており、しかも日明貿易が行われなくなった戦国時代には、銅銭の輸入がストップしたため、銭の数が少なくなり、銭の代わりに米が通貨代わりとなってしまったからであった。
織田信長が支配した畿内とその周辺は、まだ銅銭の量が多かった。また、堺で私鋳銭と呼ばれる私的に鋳造された銭が出回っていたため、貨幣制度がかろうじて生きていた。そのため、信長は銅銭を恩賞に利用することができた。もっとも、銅銭だけでも足りないので、金子や銀子、さらに茶道具をも恩賞にせざるを得なかったが。
一方、貨幣制度が崩壊している土佐ではそれはできなかった。長宗我部の兵達への報酬は米であり、米が取れる土地であった。それ故、元親は長宗我部のために働いた家臣や国衆への恩賞を得るために土佐以外の国へ攻めたのであった。
「・・・藤十郎殿の文を見て、拙者はさっそく調べてみました。すると、土佐の西端、幡多郡に宿毛と呼ばれる湾がありまして、これが古よりの良き湊として使えることが分かりました。また、幡多郡の中村に本拠を有しておりました一条様も唐や琉球との交易で財を成したとか。これを長宗我部のものにすれば、我等も知行以外で恩賞を与えることができます!」
目を輝かせながらそういう信親。それに対して親泰が疑うように言う。
「・・・そう上手くいくものかな?そもそも、平地少なく山多き土佐に、売れるようなものはあるまい?」
親泰がそう言うと、元親が「そうとも限らない」と口を挟んできた。
「山には山にしかないものがある。例えば木だ。材木は最もよく売れる品であろう。それと紙だ。土佐の紙は古より作られている。あと、数は少ないが茶の木も生えていたようだぞ。こういった物を売れば、少しは足しになるだろう」
「しかしそれらを売ったところで、多くの家臣や国衆が納得するとは思えぬのだが・・・」
親泰がそう言うと、元親もまた「確かにな」と同意した。
「しかし、他に恩賞を増やせる方法はない。織田の下で乱世が静まれば、もはや領地を増やして家臣や国衆に分け与える事はできぬ。そうなる前に、代わりの恩賞を探さなければならぬ。そしてその代わりのものを長宗我部内の者共で見つけ出すのだ。そうすれば家臣や国衆達の不満をそらすことができよう」
元親が決意するような眼差しでそう言うと、親泰と信親は頷いた。元親が親泰に言う。
「弥七郎、早急に斎藤内蔵助殿(斎藤利三のこと)に、讃岐と阿波を手放す旨を伝えよ。ただし、阿波南部にある海部城と大西城は土佐を守る城故、この二つの城だけは長宗我部に与えてくださるよう、願い出でよ。もしそれすら認められなければ是非も無し。最後の最後まで戦い抜く所存である、とも伝えよ」
元親がそう言うと、親泰が「ははっ」と言って平伏した。元親が今度は信親に言う。
「弥三郎。羽柴筑前の嫡男との誼を更に繋げるように。もはや織田との取次が明智だけでは心もとない。これからは、羽柴とも繋がりを持たねばならぬ」
「承知いたしました。それがしも藤十郎殿から船を使っての交易の仕方を学び、土佐をより富ます方法を探りとうございまする。
・・・父上。織田も羽柴も湊を持つことで栄えてまいりました。織田や羽柴にできて長宗我部にできない、という道理はございませぬ!長宗我部はまだまだこれからにございます!この弥三郎、より一層骨を折って長宗我部のために働く所存でございまする!」
決意の眼差しを元親に向けながらそう言う信親。その眼差しに、元親は嫡男の成長振りを見た。そして今、長宗我部が困難の時であっても、信親がいる限り長宗我部の未来は明るいものであることを確信したのであった。
天正十年(1582年)五月二十一日、長宗我部元親は斎藤利三宛に織田信長の方針に従う旨の手紙を書いた。しかし、この内容が信長に伝わることはなかった。
同じ頃、備中高松城は水に沈んでいた。高松城の周辺は水はけが悪く、秀吉が築いた堤防と足守川によってできた自然堤防によって梅雨の雨と足守川から溢れた川の水が溜まり、湖のような状態となっていた。そして高松城の各曲輪は水によって分断され、少ない船で連絡を取り合わなければならない状態であった。
当然、兵糧を水面より上に持っていくことができず、水攻めによって高松城内は食糧不足となっていた。
そんな様子を、庚申山と日差山に陣を張っていた小早川隆景と吉川元春は各々の陣から見下ろしていた。早速元春が隆景の陣へと赴く。
「・・・まさかこんな城の攻め方があるとはな・・・」
陣へとやってきた元春に、隆景がそう言った。元春が隆景の前に座って話しかける。
「だからあの筑前(羽柴秀吉のこと)を甘く見るな、と言っただろう・・・。いや、まあそう言ったが、まさかあのような水攻めを仕掛けてくるとは儂も思っていなかった」
悔やむような表情でそう言う元春に、隆景は「それは仕方ない」と言った。
「高松城の守りの堅さは、周辺の田や沼地などの水はけの悪さによって成り立っていた。それを逆手に取られるとは誰も思いつかぬ」
「高松城のあの状況では、兵糧を運び入れることは困難だ。我等には船がない」
「周辺の百姓共から船をかき集めようとも、そもそもここいらで船を使うことがあまりない。一応、足守川で漁をするための船はあるらしいのだが、百姓共の話では数が少ない上に全て羽柴勢に持っていかれたとのことだった」
「物見の話では、羽柴勢が築いた堤はさほど頑丈なものではないらしい。梅雨ももうじき明ける故、じきに水位は下がると思うのだが・・・」
「梅雨の明ける時期については予想がつかん。いくら儂でも天候までは読めぬぞ。それに、水が引くのを待っている間に、織田の援軍が到着するやもしれぬ。そうなれば、儂等は織田との決戦を強いられることになる。現状で織田との決戦に勝つのは難しい」
「幸鶴(毛利輝元のこと)率いる本隊は未だ猿掛城。しかも、猿掛城でも兵糧物資が不足していると聞く。動くに動けぬと幸鶴が嘆いているらしいな。
・・・まったく。幸鶴の傍にいる者共は一体何をしているのか」
不満の声を漏らす元春に対し、隆景が諌めるように言う。
「致し方あるまい。善九郎(口羽通良のこと)は病で出陣できず、出羽守(福原貞俊のこと)だけでは幸鶴・・・御屋形様の補佐は難しい。そもそも兵糧物資の不足は御屋形様に仕えている近習共にどうこうできるようなものではない」
猿掛城にいる輝元の傍には、内藤元栄を始め、榎本元吉、佐世元嘉、二宮就辰といった者達がいた。こういった者達が病になった口羽通良や老いた福原貞俊の代わりに輝元を補佐していた。
とはいえ、兵糧物資の不足は彼等の力不足が原因ではない。そのことは隆景もよく知っていた。
―――結局のところ、毛利の力の衰えを察知した国衆や百姓が役目を拒んでいるだけ。これでは幸鶴の近習共もどうすることもできぬ。そして、儂や兄上にもどうすることもできぬ―――
そう思った隆景は、元春に提案する。
「御屋形様の軍勢が来たところで役には立たぬ。むしろこちらの兵糧物資が危うくなり、かえって足手まといよ。
・・・兄上。これ以上戦を長引かせては、毛利は滅亡だ。ここいらで織田と手打ちにせぬか?」
隆景は元春の反発を予想しながらそう言った。しかし、意外にも元春は即座に反発しなかった。
しばらく考え込んだ後、元春は口を開く。
「・・・言っておくが、儂は織田との和議には今でも反対よ。織田は石山本願寺と和議を結んではそれを破ってきた。毛利にとって不利な和議を結ばせ、後日再び戦を仕掛けられれば、もはや毛利は滅亡しかない。それを思えば、おいそれと和議を結ぶべきではない、と思っておる。
・・・しかし、筑前の水攻めという奇策を見せつけられた備中や備後の国衆に動揺が生じておることも承知している。あの者達を束ねるお主にも当然伝わっておろう」
元春の言葉に、隆景は苦虫を噛み潰したような表情で頷いた。元春が更に言う。
「それに・・・。実は先日、倅の次郎(吉川元長のこと)から早馬が来てな。八橋城に尼子の援軍が到着したそうだ。次郎は入城を阻止しようとしたらしいが、失敗したらしい」
伯耆国の中部の沿岸部にある八橋城は交通の要所として毛利が重視していた城であったが、天正十年四月に山中幸盛によって乗っ取られていた。それ以来、吉川元長は父から預かった軍勢を以て八橋城を包囲していたが、幸盛と南条元続率いる尼子・南条連合軍の抵抗によって上手く包囲できていなかった。
そして、鳥取城にいる尼子勝久から派遣された援軍と兵糧を、八橋城に入れられるという失態を犯していた。もっとも、これを以て元長を愚将と言うのは間違っている。山中幸盛がそれだけ優れていたのである。
「・・・山陰でもそのような状況では、これ以上織田と敵対することは難しいと思うが?」
隆景がそう言うと、元春は何も言わなかった。隆景は元春に話しかける。
「兄上。織田を信じられぬという気持はよく分かる。しかしながら、織田との手打ちをするには今しかない。今ならまだ兵力はある。しかしながら、羽柴に織田の援軍が現れて大兵力になれば、もはや我等は戦わざるを得ない。しかし、今の状況で我等に勝ち目はあるのか?」
隆景の言葉に、元春の顔は歪んだ。元春は分かっていた。今の状況で援軍を送ってきた織田と決戦を挑んだとしても勝てない、と。
「今ならまだ間に合う。儂等は父上(毛利元就のこと)から毛利を頼むと言われた。ここで毛利を滅亡に追いやれば、儂等はあの世で父上や常栄の兄上(毛利隆元のこと)に何をお詫びすればよいのか。お二方に詫びるとするならば、儂は毛利が生き延びるために領国を手放したことをお詫びしたいっ」
隆景の話を黙っていた元春は、ガクッと首を項垂れた。そして、小声で隆景に言う。
「・・・又四郎(小早川隆景のこと)。儂はお主にすべてを委ねる。あとは任せた」
「・・・かたじけない、兄上」
そう言うと隆景は元春に頭を深々と下げるのであった。
上杉、長宗我部、毛利は織田の力の前に屈服しようとしていた。そのような状況で、三者は六月を迎えるのであった。




