第265話 嵐の前
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天正十年(1582年)五月二十一日。安土での饗応が終わった徳川家康と穴山信君、そして両名の家臣達は織田信忠と長谷川秀一と共に京へと向かった。丹羽長秀と津田信澄は四国平定へ向かうために大坂に向かった。
さて、信長から備中方面の軍目付を仰せつかった堀秀政は、重臣で従兄弟の堀直政と共に長浜城へと戻った。
「御前様。お戻りなさいませ」
本丸御殿の奥座敷にある奥書院にて、堀秀政の妻である綾がそう言いながら平伏した。つられて隣に座っていた菊千代(のちの堀秀治)も「お戻りなさいませ、父上」と言って平伏した。
秀政は「ああ。今戻った」と言って彼女の前に座る。
「やれやれ。やっと自分の城に戻ってこれたよ。もう何年ぶりだろうか?」
「・・・今年の正月にはお戻りになりましたが?」
「そうだったっけ?・・・ああ、思い出した。正月に一度戻ってたな。その日のうちに安土に戻ったけど」
そう言いながら後頭部を指で掻く秀政。そんな秀政に、綾が笑いながら話しかける。
「して、此度は備中にお越しになられるとか?事前に早馬が来てそのように聞いておりますが?」
綾がそう言うと、秀政は「そうなんだよ」と眉を八の字にして言った。
「藤吉殿(羽柴秀吉のこと)が備中の高松城という城を水攻めにしてね。水に沈んだ高松城を助けるべく、毛利が全軍を挙げて高松城に向かっているらしい。それを聞いた上様が、自ら決戦を挑むと申してきた。おかげで、私は軍目付として備中に向かうことになった。
とりあえず、私が先に馬廻衆を率いて備中に向かう。その後に三右衛門(堀直政のこと)が堀勢の本隊を率いて出陣することになっている。三右衛門が備中に向かうのは・・・、早くて三日後かな?」
そう言って自嘲気味に笑う秀政に、綾が頭を下げる。
「・・・御前様がそのように骨を折ってくださいますが故、皆々長浜で平穏に暮らすことができまする」
「そうかい。・・・まあ、皆がそういう気持ちでいられるなら、私としては満足だよ。民百姓達も同じ気持ちでいてくれればよいのだが」
秀政の言葉に、綾は答える。
「その点につきましてはご案じ召されますな。長浜に残っている家臣の皆々様が例の高札に書かれていた事を一つずつ直しているご様子。そのためか、城下では御前様の評判も良くなりつつあるとのことにございまする」
『例の高札』とは、堀秀政が長浜城城主となった後に長浜城下に立てられた高札であった。ここには、秀政の政治についての批判が書かれていた。
堀秀政の前任者である羽柴秀吉は、長浜城下では善政を行っており、その支持率は高かった。秀政が長浜城主となった後、秀政は秀吉の政治ではなく、織田家直轄地の政治に切り替えた。その結果、政治の移行時によくある混乱が生じた。そんな時に誰かがその混乱をまとめて書いた高札を立てたのである。
これを知った秀政の家臣達は激怒し、犯人を探して罰すべし、と秀政に訴えた。しかし、秀政は自ら高札を検分すると、こう言ったとされる。
「いや、そんな事しなくていいよ。城主なんてもんになると、こんなふうに正直に苦言を呈してくれる人なんて、他にはそうそういないからね。これはもう天の声ってやつかな。ありがたい話だよ」
そう言うと秀政は高札に書かれた批判に応えるべく、家臣達に高札の内容を確認することを命じた。結果、政治の混乱による不具合が確かに見つかったのである。
秀政は家臣達にその不具合を是正するよう命じた。本当ならば自ら行いたいと思っていたのだが、当時も今も忙しかったため、家臣達に委ねる他なかった。しかし、家臣達は秀政の命令によく応え、一つずつ不具合を是正していった。
結果、政治の混乱は解消され、長浜城下に住む民百姓達も落ち着きを取り戻したのであった。
綾から話を聞いた秀政は、「それは良かった」と言って胸をなでおろした。
「忙しいということを理由に自らの領地の政を疎かにし、長浜城下で混乱が続けば、残してくれた藤吉殿や与えて下さった上様に対して申し訳が立たないからね」
そう言う秀政に対し、綾は溜息をつく。
「しかしながら・・・。御前様が忙しいのはいつ終わるのでございましょう。城を長く空けていては、民百姓の心が御前様に向きませぬ。城下の者は、未だに羽柴様を城主と勘違いしている者もおる、と聞いておりまする」
安土での政務や各地への出張により、秀政は長浜城にいることが少ない。一応、父親の堀秀重が城代として統制しているため、特に問題は起きていないのだが、やはり秀政を自分達の殿様だと認識している民は多くない。
特に、前任者の秀吉の場合、秀吉だけでなく重秀や小一郎が城外に出ては仕事をしていたため、民達の目に触れることが多く、よって自分達の殿様の顔が覚えられ、その弟と嫡男の顔も覚えられていたことに比べると、秀政の認知度は低いものであった。
ちなみに、秀吉達が城外でよく仕事していたのは、民達へのアピールもあったが、一番の理由は家臣が少なかったため、秀吉達も城外での仕事をせざるを得なかった、という事情もあった。
綾の言葉を聞いた秀政が、綾を慰めるように話す。
「すまぬな。しかし、この忙しさももうすぐ終わる。藤吉殿が毛利を降し、神戸様や惟住様が長宗我部を降し、柴田様が上杉を降せば、もう織田に敵対しようとする大名はいない。まあ、高野山とか紀伊の雑賀衆の一部がまだ反抗しているが、これらはどうにでもなる。そうなれば、私も少なくとも軍目付としてどこか遠くへ行かされることもなくなる。
それに、最近は忠三(蒲生賦秀のこと)を始め若い者達が織田の政を覚えてきている。いづれは彼等が織田の政を担っていくだろうし、そうなれば私も長浜城にいることが多くなろう。菊千代や吉千代(秀政の次男。のちの堀親良)と共に過ごすことができるだろう」
そう言うと秀政は、視線を綾から菊千代へと向ける。
「菊千代。父はまだ忙しいが、来年からは一緒に過ごせそうだ。それまで、お祖父様と母上の言う事をよく聞き、勉学に励めよ」
秀政がそう言うと、菊千代は「はいっ!」と大きな声で返事をした。そんな菊千代を見ながら、綾は秀政に言う。
「菊千代は私の言うことをよく聞いておりまする。最近は読み書きをよく覚え、湖にて泳ぎを学んでおりますれば、いづれ立派な武士となりましょう」
「うん。幼き頃はよく病を患っていた故、先を案じていたが、どうやら何とかなりそうだな」
安堵したように言う秀政に、綾が更に話しかける。
「長浜城は羽柴様の頃より城内に鶏を飼っておりまする。そのため、卵や肉を手に入れることができ、菊千代もよく食しております。それに、城内で養蚕をしているせいか、城内だけでなく長浜城下でも桑が多く、その分桑を使った薬が安く手に入りまする。
そのおかげで、菊千代は近ごろは病をあまり得ることはなくなりました」
綾がそう言うと、秀政は「うん」と頷いた。
「藤吉殿は長浜に多くの物を残してくれた。おかげで菊千代も丈夫に育ち、堀家も次第に栄えるようになった。藤吉殿とはこれからも仲良くしていかなければな。
・・・そして藤十も殿様(織田信忠のこと)の元で天下の政に加わってもらえれば、もう私の役目も終わりということだ。後は領地に引き籠もって絵を描こう!」
将来のスローライフを夢見つつ、そう声を上げた秀政。それに対して綾は思わず聞き返す。
「・・・絵、でございますか?御前様、今まで絵なんか描いておりましたか?」
「いや、ないよ。だが、藤十や忠三を始め、若い連中は役目の傍ら、茶の湯や和歌や連歌を嗜んでいる。私も酒以外に嗜むものを持とうと思ってたんだ」
秀政のカミングアウトに、綾は唖然とすると同時に安堵の気持ちも持った。秀政が多忙になるにつれて、酒の量が増えていく様を見ていた綾は、秀政の身体を案じていたからだ。
―――いくら酒が百薬の長と呼ばれているからといって、酒で茶を点てようとなされるのはやりすぎだと思っていました。絵を描くことで少しでも酒から離れてくれれば良いのですが―――
そう思う綾であった。
秀政はその後、次の日になるまで家族との団らんを楽しんだ。菊千代はもちろん、天正八年(1580年)に生まれた次男の吉千代とも過ごした。
そして次の日。秀政は長浜城を綾と父親である堀秀重に委ねると、少数の馬廻衆を率いて備中へと向かうのであった。
同じ頃。越前国北ノ庄城本丸御殿の奥座敷。ここでは柴田勝家の養女でお市の方の長女である茶々が一通の手紙を読んでいた。
「・・・お兄様からはなんと?」
傍で座っていた次女の初がそう尋ねると、茶々は静かに手紙を畳みながら答える。
「・・・魚津城攻めについては軽く触れるだけで、越中の天気や花、そして海の事が書かれておりました。それと、私や初、江の身体を慮ることが書かれておりました」
「・・・そうですか」
初がそう答えると、茶々は軽く溜息をつく。
「・・・城攻めのことを書かないのは私の事を慮ってのことだと思いますが、それにしても気を回し過ぎのような気がいたしますが・・・」
「しかし姉上。私共は一度落城を経験しております。兄上が気を使うのは至極当然のことと存じまする」
天正元年(1573年)九月一日、茶々と初、そして母のお市の方と妹の江が過ごしていた小谷城が落城した。その時茶々は5歳、初は4歳であった。初はあまり覚えていなかったものの、茶々はその時の事を断片的に覚えていた。そしてその事を知っている勝敏は、茶々や初に対し戦のことはあまり話さなかった。特に、攻城戦についてはまったく話さなかった。当然、妹達に対する気遣いである。
「それは分かっておりますが・・・」
茶々はそう言うと、視線を初から逸らした。そして開いている障子の外へと視線を向けた。視線の先には庭があり、その庭には梅雨らしく雨が降っていた。しとしとと降る雨を見ながら、茶々は呟く。
「・・・もうすぐ兄上とは夫婦になるのです。夫が戦場でどのように過ごしておられるのか、妻として知りたいと思うのです」
茶々はこの時、義理の兄でもある柴田勝敏(前の於国丸)と婚約していた。血がつながっていないとは言え、兄妹での結婚にお市の方は反対していたが、柴田勝家が押し通したものであった。
勝家とお市の方との間に子供はできなかった。勝家とお市の方の仲は悪くなかったことは、前田家に残されている当時の史料からも明らかである。よって、勝家の年齢の問題で子供ができなかったのか、それとも信長の妹であるお市の方に遠慮したのであろう、と歴史学者からは思われている。
一説では二人の間に作次郎、もしくは柴田勝春という息子ができた、という説もある。しかし、史料が少なく、また勝春は勝家の庶兄である、という史料もあるため、二人の子である、という説は疑わしい。
どちらにしろ、柴田家には織田の血を引く跡取りはいなかった。そこで勝家は跡取りである柴田勝敏とお市の方の娘である茶々を娶せ、二人の間に柴田と織田の血を引く男子が生まれることを望んだ。
また、勝家の脳裏には織田信長から永原城で言われた言葉が残っていた。それは、
「どうだ?夫婦にさせぬか?似合いの夫婦となるだろうよ」
という言葉であった。それ以来、勝家は勝敏と茶々を娶せるようにお市の方を説得していた。
一方、お市の方は茶々と勝敏の結婚には難色を示していた。血は繋がっていないとはいえ、一応兄妹関係である勝敏と茶々の結婚は道徳的に如何なものか?と思っていたからであった。
なので、お市の方は茶々を別の家に嫁がせようと考えていた。最初は前田利家の息子である前田利勝と娶せようと考えた。前田利家とその妻であるまつは柴田家と前田家の力関係上了承したものの、意外なところから横槍を入れられた。
すなわち、信長の正室であり、織田家の奥向を司るお濃の方が口を挟んできたのである。
「前田家の嫁は織田の姫と決められている。茶々を輿入れさせるのであれば、上様の養女として安土で織田の姫として育てられなければならない」
お濃の方の考えがお市の方に伝わると、お市の方は反発した。
「茶々は妾の娘。生まれながらの織田の姫じゃ!今更義姉上に育てられる謂れはない!」
それだけでなく、茶々の侍女が全て織田宗家からの派遣であると知らされた時には、お市の方は激怒した。
「義姉上は茶々を利用して前田に間者を入れるつもりなのか!?茶々を何だと思っておられるのか!」
そう言ってお市の方はお濃の方の提案を拒否した。その結果、利勝の妻は信長の四女である永姫となってしまった。
茶々を前田に嫁がせることに失敗したお市の方は、明智光秀の息子である明智光慶へ嫁がせる娘を初から茶々に変更した。茶々より初を先に嫁がせては、長女の茶々の面目が潰されるからである。
ところがこれも横槍が入った。夫である勝家が茶々を、というより娘を明智に嫁がせることに反対したのである。
「惟任家は織田家にとって外様。そのような家に娘達を嫁がせては、柴田の名が廃る」
勝家はお市の方にそう言って反対した。しかし、彼の内心は別のところにあった。
―――佐久間殿(佐久間信盛のこと)を追放する際に上様に策を話した時の日向(明智光秀のこと)めは、仮にも味方の将を楽しそうに追い落とそうとした。あの顔、今思い出しても腹立たしい顔よ。あのような外道に織田の姫を嫁がせるわけにはいかぬ―――
一方のお市の方は、必死になって明智との縁談を説得した。
「羽柴筑前にこれ以上大きな顔をさせてはなりませぬ。あの猿面冠者を抑えるには、明智殿と丹羽殿のお力が必要にございます。両家と血縁になれば、於国に有力な義兄弟ができまする。そうなれば、あの猿面冠者だけでなく、その倅とも十分対抗できまする」
お市の方の説得に対し、勝家は首を縦に振らなかった。確かに羽柴秀吉は嫌いだし、その息子である羽柴重秀は息子の勝敏よりも功を挙げており、将来において勝敏の脅威となるだろう。
しかし、だからといって丹羽はともかく、明智と縁を結ぶのは違うだろう、と勝家は思った。それに、武士の子として育ててきた勝敏を、あまり甘やかすのはどうだろうか?という疑問もあった。
―――権六(柴田勝敏のこと)は儂の跡取りとして厳しく育ててきた。元服も済ませ、もう一人前の武士となった。これからは武士らしく、己の才覚でのし上がって欲しい。羽柴の倅と才覚を競い合い、殿様(織田信忠のこと)から認められて欲しいものよ。娘達の婚姻で丹羽と明智と共に羽柴を追い落としたところで、権六自体に才が無ければ、かえって織田のためにならぬし、権六自身のためにもならぬわ―――
そう思っていた勝家であったが、そんな思いを勝家はお市の方には話さなかった。代わりに茶々と勝敏を娶せるように説得していた。
結局、茶々を勝敏に娶せる代わりに、初を丹羽長秀の嫡男である鍋丸(のちの丹羽長重)と娶せることで二人は妥協したのであった。
「とはいえ、私も初も、婚姻は上杉との戦が終わってからになるみたいだけど」
茶々がそう言うと、初も「はい」と言って頷いた。
天正十年(1582年)三月。柴田勝家は麾下の与力である前田利家と佐々成政、佐久間盛政等と共に越中国にある上杉方の魚津城を包囲していた。この包囲は、後方の富山城が上杉方に内応した者によって乗っ取られるというアクシデントがあったため、一旦中止となったが、富山城を奪い返した後に再び魚津城を包囲していた。
勝敏はこの戦いに初陣として参加していた。そして、この戦が終われば、晴れて茶々と夫婦になる予定であった。
もっとも、魚津城が陥落した後は、そのまま越後へ攻め入る予定であった。勝家は今年中にも上杉を攻め滅ぼすことを考えていた。実際、越後の南から森武蔵守(森長可のこと)と滝川伊予守(滝川一益のこと)が信濃と上野から越後を攻撃することになっており、しかも越後の北部では新発田重家が織田と手を組んで反乱を起こしており、上杉は風前の灯となっていた。
「お父上の越後平定が終われば、いよいよ初も丹羽・・・ではなく惟住家に嫁ぐことになるのですね・・・」
「とはいえ、まだ話はまとまっておりませぬが」
初の言う通り、初が嫁ぐ予定である丹羽家との交渉は未だ続いていた。そしてその交渉は未だまとまってはいなかった。
実は、丹羽長秀の元には鍋丸の婚儀の話が複数申し込まれており、その中には信長の娘も含まれていた。そのため、長秀は慎重に考えていたのだった。
「・・・早う戦が終わって欲しいものでございます。母上の話では、武田が滅んだ今、あと上杉を降せば東国で織田に歯向かう大名はもういないとか。そうなれば父上も兄上もごゆるりとお身体を休められましょう。西国も毛利と長宗我部を降せば、織田に歯向かう大名もいなくなるとか。これで、日本から戦がなくなるのかもしれませぬ」
初はそう言うと、茶々は頷く。
「・・・そうなれば、私達は離れ離れになってしまう。今は姉妹で同じ時を過ごせる事を神仏に感謝しましょう」
茶々はそう言うと、再び庭に視線を向けた。初も庭に視線を向けると、二人で雨の降る庭を見つめるのであった。
「・・・ところで初。江はどうしたのですか?」
「・・・どうやらいたずらをしたとかで、母上に叱られております。姉上」
「・・・」
堀秀治の幼名『菊千代』は、小説のオリジナルである。




