第261話 安土饗応(その3)
感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。
誤字脱字報告ありがとうございます。お手数をおかけしました。
天正十年(1582年)五月十六日の午前。重秀は織田信忠に呼び出され、安土城の二の丸御殿へと向かった。
その後、信忠付きの小姓に案内され、二の丸御殿内の表書院に入った重秀は、そこで違和感を覚えた。
上座に座る信忠と太刀持ちの小姓はいつもどおりであるが、下座の信忠に一番近い場所には、側近の斎藤利治がおらず、その代わりに僧衣の者が一人座っていたのだ。
重秀は利治がいないことに違和感を抱きつつ、信忠の前に座ると平伏する。
「殿様におかれましてはご機嫌麗しく」
「うん。藤十郎も息災で何よりだ。さあ、面を上げよ」
信忠にそう言われた重秀は顔を上げると、表書院に入った瞬間に気がついた違和感について質問する。
「・・・新五郎様(斎藤利治のこと)のお姿が見えないのですが・・・」
「ああ、新五は今は自分の領地である加治田にて所労(休養のこと)を命じておる」
「・・・どこかお身体の加減が悪いのでございますか?」
「うむ。今年に入って急に体調を崩したらしくてな。儂が大事を取って所労するように命じたのだ。そのため新五は武田攻めには参加できなかった」
「それは・・・」
重秀はそう言うと心配そうな顔をした。信忠が明るい声で重秀に言う。
「何、大したことはない。まあ、長年儂の傍から離れずに仕えてくれた忠臣。たまには己の知行で家族や加治田衆の者共と休むのも悪くはないだろう」
信忠の言葉に、重秀は「ごもっともにございます」と言って頷いた。しかし、利治がいない理由は分かったものの、傍に控えている僧侶については未だ知らされていなかった。重秀がチラチラと僧侶を見ていることに気がついた信忠が声を上げる。
「おおっ、そう言えばまだ紹介しておらなかったか。この者は前田玄以と言ってな、数年前より儂の傍で政の補佐をしてもらっておる」
信忠がそう言うと、玄以と言われた僧侶が重秀に平伏する。
「お初にお目にかかりまする。玄以と申しまする。以後お見知りおきを。羽柴藤十郎様のお噂はかねがね聞き及んでおりまする。また、此度は村上水軍を織田に寝返らせたる功績をお上げになったとか。さすがは羽柴筑前守様のご嫡男、と感服しておりまする」
玄以がそう言うと、信忠が「おお、そうであった!」と声を上げた。
「よもや木津川口で織田水軍を散々な目にあわせた村上水軍を毛利より寝返らせるとは!いや、宇喜多寝返りの件もそうであったが、羽柴は敵を寝返らせるのが上手い!儂も羽柴の働きに満足しておるぞ!」
嬉しそうに言う信忠に対し、重秀は「もったいないお言葉にございます」と言って頭を下げる。
「しかしながら、全ての村上水軍を寝返らせたわけではございませぬ。村上三家のうち、因島の村上家は未だに毛利に加担しております」
「それでも能島と来島の二家から人質を取り、安土城まで連れてきたのは見事な手腕よ。昨日の酒宴では、父上は大喜びで三河守殿(徳川家康のこと)と梅雪殿(穴山信君のこと)に村上から来た二人を紹介していたと聞いている」
「・・・殿様は昨晩の酒宴にご参加されなかったのでございますか?」
「うむ。儂は今宵と明日の酒宴に参加する事になっておる」
信忠がそう言った時だった。信忠が何かに気がついたような顔をすると、重秀に改めて話しかける。
「・・・そう言えば、藤十郎は昨晩の酒宴に呼ばれたのにも関わらず、直後に父上から勘気を蒙って酒宴への参列を止められたそうだな?」
信忠がそう尋ねると、重秀は「はい」と言って頷いた。信忠が同情するような眼差しで重秀を見る。
「すまぬな。父のためにわざわざ備中からフスタ船を回してくれたのに、そのような扱いになって」
「いえ、こちらも上様の心中をもっと察するべきでございました」
重秀が神妙な顔つきで言うと、信忠はもっと深刻そうな顔をする。
「武田攻めが上手くいき、東国にまで織田の支配が及ぶようになった。それは良いのだが、信濃や甲斐、そして上野の国衆共を取りまとめるのに骨を折っておる。北信濃の武蔵(森長可のこと)や甲斐の肥前(河尻秀隆のこと)、上野の伊予(滝川一益のこと)はその地を把握するのに随分と骨を折ったと聞いている。真のことを申さば、武田を滅ぼした後の事について手が回っておらぬ」
信忠の話した情報は少し古く、北信濃では森長可が反抗した国衆の一揆を徹底的に弾圧し、すでに北信濃の支配権を確保。そのまま軍を率いて越後に雪崩込んでいた。また、滝川一益も上野の国衆をまとめあげ、上野から越後へ進出すべく準備をしていた。
ただ、長可も一益も国衆をまとめ上げるのにだいぶ無理をしていた。
「それでいて今度は四国の長宗我部と中国の毛利、更には越後の上杉を討たんと軍を動かしている。これらを一気に併呑すれば、織田はより混乱するのではなかろうか?」
信忠がそう言うと、傍にいた前田玄以も同意するように頷いた。重秀も困ったような顔をしながら言う。
「実は毛利については、父上は決戦を強いるべく高松城を水攻めにしようとしております。上手く行けば、今頃は高松城は水没している頃にございます。当然、毛利は高松城を助けるべく、右馬頭(毛利輝元のこと)が自ら出陣して救援に向かうでしょう。そこで父上は上様か殿様のご出馬を仰ぎ、織田の大軍勢を以て毛利を討ち破ろうと考えておりました」
「・・・水攻めとは面白い策を考えるな。そう言えば、鳥取城攻めの際は事前に周囲の村々から兵糧を買い漁り、しかも攻める際には村々の百姓共を城に追いやり、城内の兵糧を早期に食い尽くさせたそうだな。しかも、尼子勢と南条勢、宇喜多勢を使って因幡ごと包囲したとか。筑前の策の多彩さには驚くばかりよ」
信忠が感嘆してそう言うと、重秀は「恐れ入りまする」と言って頭を下げた。しかし、重秀は頭を上げると、自分の懸念を信忠に話す。
「しかし仮に毛利を決戦にて破った場合、毛利方の国衆がどのように動くか分かりませぬ。すべてが毛利から織田に寝返るとは思えませぬが、それでもその数は膨大になると思います。何と言っても毛利は隠岐国を含めて十カ国を治める大大名。武田の比ではありませぬ」
重秀がそう言うと、信忠が両腕を組んで顔を顰めた。そして、その状態のままで信忠が話し出す。
「そう考えると、毛利を滅するのは難しそうだな・・・。毛利との決戦で勝利した後は、毛利を存続させ、国衆を委ねることも考えなければならぬな・・・」
「・・・殿様もそのようにお考えでございますか?武田を攻め滅ぼした勢いで、毛利も攻め滅ぼすとは考えませんか?」
重秀の質問に、信忠は「武田の場合とは違う」と首を横に振った。
「武田は国衆どころか民百姓ですら武田を見限った。それに、武蔵や平八郎(団忠正のこと)や河内(毛利長秀のこと)がそれまで武功を挙げられなかった分を取り戻そうと躍起になって攻め続けたからな。毛利も同じようになるとは思えぬ」
信忠の言葉に、重秀は内心舌を巻いていた。信忠が冷静に状況を判断しているところを直に見たのは初めてであった。摂津の荒木村重を攻めた際には、村重に何度も逃げられたことに怒りの表情を露わにしたり、そのことで信長の怒りを恐れている姿を重秀に見せていた。そんな姿を知っている重秀から見た信忠は、まさに天下人の後継者に相応しき器量を持つに至った、と思おうとした。
しかし、事前に聞いていた話を思い出してしまった重秀。思わず信忠にそのことを話す。
「そう言えば、昨日義兄・・・忠三郎殿(蒲生賦秀のこと)から聞きましたが、信濃の高遠城を攻めた折、自ら槍を振るって柵を破り、塀をよじ登って兵達を鼓舞されたとか。武勇を披露するのはよろしいと存じますが、上様のご嫡男であらせられる殿様にしてはいささか危なかったのではないか、と愚考いたします」
重秀がそう言うと、信忠ではなく玄以が答える。
「仰るとおりにございます。仮にも総大将が、雑兵の如き働きをするなど言語道断にございます。ましてや殿様は織田家当主にございますれば、軽はずみな行為はお控えいただきとうございます」
玄以の小言に対し、信忠は「致し方あるまい」と渋い顔をした。
「高遠城に松姫(武田信玄の四女。信忠の許婚)が居ると直前に知ったのだ。何でも高遠城主の仁科五郎(仁科信盛のこと)が松姫の実兄である故、徳栄軒(武田信玄のこと)亡き後は高遠城で庇護されていたようだ。
そんな高遠城じゃが、松姫が死なぬように降伏を促したのだが、五郎の奴は拒否しよってな。いや、拒否するくらいは別に構わぬのだが、あの野郎、降伏の使者の鼻と耳を削ぎ落としよった。あれで五郎等城兵の死の覚悟を感じ取った儂は、松姫も自死を強要されるか自ら望むかもしれぬと思ってな。何とか城に入って松姫を助けたかったんだが・・・」
そう言うと信忠は一旦言葉を切った。その様子を見た重秀は訝しむ。
「・・・如何なされました?まさか、城と運命を共に・・・?」
重秀がおずおずと尋ねた瞬間、信忠が怒声を発する。
「そんな訳あるかぁ!勝手に松姫を殺すな!腹切らせるぞ!
・・・いや、我等が高遠城を攻める数日前に、五郎の娘と共に甲斐の新府城へ逃されたらしい。虜囚にした武田の兵からそう聞かされた。
その後、松姫の捜索に全力を上げた結果、武蔵国の八王子城の近くに落ち延びていることが分かった。そこで儂が使者を送ったところ、儂のところに来てくれることになった」
「えっ?ということは、松姫を・・・?」
唖然としている顔つきで重秀が尋ねると、信忠は顔を上げて破顔して言い放つ。
「ああ、正室として迎え入れるぞ!父上からの許しは得ている!これで晴れて儂と松姫は夫婦じゃ!」
信忠の言葉に、重秀は「おおっ!」と嬉しそうに声を上げた。
「おめでとうございます、殿様!長年の想いが実りましたな!この藤十郎、我が身のことのように嬉しゅうございます!」
重秀がそう言って平伏すると、信忠は「うむ」と満足げに頷いた。
「藤十郎も喜んでくれるか。婚礼の際にはそなたも列席せよ」
笑いながらそう言うと、重秀は「もちろんでございます」と言って笑った。笑顔のまま信忠が重秀に言う。
「そうだ。三河守殿と梅雪殿の酒宴、三日目は儂が催すことになっておる。実際は日向(明智光秀のこと)が奉行として取り仕切るのだが、織田家当主として饗せとの父上からの命令でな。そこでは儂が誰を酒宴に呼ぶのか、ある程度の差配が認められておる。そこで藤十郎、そなたも出るが良い」
「・・・よろしいのでございますか?」
重秀がそう尋ねると、信忠が「構わぬ」と頷いた。
「儂は武田攻めの後、父上から『天下の事柄を任せてもよかろう』とのお言葉をもらっている。そなたを始め、忠三郎や孫四郎(前田利勝のこと)などを三河守殿や梅雪殿に披露し、織田の次代が揺るぎなきものであることを示そうと思う」
信忠のはっきりとした物言いと、まっすぐに見据えた目を見て、重秀は思わず平伏する。
「・・・殿様の思し召し、この羽柴藤十郎身に余る光栄。非力な若輩者ではございますが、必ずや父と共に毛利を降し、殿様のお役に立てるよう、身を粉にして働きとうございます」
重秀がそう言うと、信忠は急に不満げな顔をした。顔を上げて信忠を見た重秀は、「何か拙い事を言ったか?」と、心の中で焦った。
そんな中、信忠が低い声で重秀に言う。
「・・・藤十郎。もう自身を卑下するのはやめろ。そなたももはや城持ちの大名。しかも娘とはいえ子を持つ親ではないか。それに、水軍を率いて数多な勝利を得ている一廉の武将ではないか。もはや織田家中でそなたを無視することはできぬし、侮る者もおらぬ。謙遜するのも美徳だと思うが、かえって鼻につく」
そう言われた重秀は、ただ困惑した。父親である秀吉を始め、信長の重臣は皆優秀であった。また信忠の下にも森長可を始め、優秀な者達が集っていた。そんな者達に比べれば、自分はまだまだだと思っていた。
しかし、重秀の名もこの頃には織田家内外に広く知られるようになっていた。秀吉の息子で信長の養女婿というだけでも十分人目を引くのに、阿閇城の戦いを始めとする武功や兵庫城主としての内政手腕についての話が広がれば、俄然織田家の次世代を担う若者である、と知られるのは必然であった。
「藤十郎。儂は父上より天下の采配を任されるようになる。儂は父の跡を継ぐ以上、その覚悟を持って生きてきた。そして儂が天下を采配する時、そなたにも天下の采配を助けてもらわなければならぬ。もはや筑前の息子、ではなく羽柴藤十郎として織田家のために働いてもらうことになるのだ。そろそろ、そなたも覚悟を持って儂に仕えよっ」
信忠の力強い発言に、重秀は思わず平伏した。その顔には一人の将として見られているという緊張と、信忠が自分を高く評価しているという嬉しさが浮かんでいた。
そんな状態で重秀は信忠に言う。
「・・・殿様からの身に余るお言葉。この羽柴藤十郎生涯忘れませぬ。分かりました。これからは、私が今まで学び得てきた、そして実際に戦や政で培ってきたこと、全て殿様の御為に使うことを誓います」
重秀がそう言うと、信忠は「うむ。期待しているぞ」と言って笑った。
「申し上げます」
信忠と重秀のいる表書院の障子の外側から、信忠付きの家臣の声が聞こえた。
「惟任日向守様(明智光秀のこと)、お越しにございまする」
その報告に、信忠が「通せ」と返した。と同時に、重秀は立って表書院の左側に移動して座り直した。
直後、障子が開いて明智光秀が入ってきた。光秀は信忠の前に座ると、姿勢正しく平伏する。
「殿様におかれましてはご機嫌麗しく、お目通り叶いまして恐悦至極にございます」
「日向、大儀である。面を上げよ」
信忠が感情のこもっていない声でそう言うと、光秀は「ははっ」と言って顔を上げた。信忠は玄以の方を見て頷くと、玄以が光秀に問う。
「日向守殿、殿様に何か御用か?」
「はっ、今宵の酒宴についてのご説明に参りました」
光秀がそう言うと、玄以は信忠の方を見た。信忠が頷くと、玄以が光秀に「承る」と言った。
それからしばらくは光秀の説明が続いた。その様子を見ていた重秀は、信忠の様子に違和感を感じていた。
信忠は真面目に光秀の説明を聞いていた。しかしながら、その表情には重秀と話していた時と違い、感情の起伏がなかった。無表情で聞く信忠の姿に、重秀は信忠と光秀の間に何か見えない壁があることを感じていた。
光秀の説明が終わり、玄以が「殿様」と信忠に声を掛けた。信忠が頷く。
「・・・相分かった。万事よろしく頼む」
信忠がそう言うと、光秀は「ははっ」と言って平伏した。そんな光秀に玄以が声を掛ける。
「日向守殿、大儀であった。下がって良い」
玄以がそう言ったものの、光秀は黙ってそのまま座り続けた。玄以と重秀が怪訝そうな顔で光秀を見つめていると、光秀が頭を少し上げて声を出す。
「殿様。この日向、殿様にお願いしたき儀がございまする。何卒、我が息十五郎(明智光慶のこと)を殿様の傍に置いて頂きとうございまする」
光秀の言葉に、信忠は一瞬だけ目を見開いた。しかしすぐに普段通りの目に戻し、更に目を閉じた。しばらく両腕を組んで考え込んでいた信忠だったが、両目を開くと同時に口を開く。
「・・・藤十郎。そなたはどう思う?」
いきなり話を振られた重秀は、内心焦りながらも答える。
「殿様、私めのような・・・」
若輩者には分かりかねまする、と言おうとした重秀。しかし、すぐに考え直す。
―――いや、駄目だ。さっき自身を卑下するなと殿様から注意されたではないか。ここは自分の考えを言わないと・・・―――
そう言うと、重秀は前に友人である長岡忠興からもらった手紙の内容を思い出しながら自分の考えを言う。
「・・・いえ、えっと、与一郎殿(長岡忠興のこと)から頂いた文によれば、十五郎殿は武芸はもちろん和歌や連歌をよく学び、また京より公家や高僧を坂本城に招いて古典や漢籍をよく学んでいるとのことにございます。確か元服も今年の初めに行い、坂本城を守り、近江の惟任領を日向守様の代わりに良く治めているとか。そろそろ殿様の傍にて織田の政を学ばさせてもよろしいかと存じまする」
重秀はそう言って光慶を信忠の傍に置くことを薦めた。しかし、信忠がそれを聞いて発した言葉は、重秀の予想とは異なるものであった。
「・・・相分かった。しかし、日向の子息を儂の傍に置くのはよそう」