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第257話 和平交渉(前編)

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 天正十年(1582年)五月十一日。兵庫城で家族との一時ひとときを過ごした重秀は、縁達と別れて福島正則と寺沢広高、そして村上景親と村上通清と共に陸路で安土に向かった。当然、羽柴と村上双方の兵を連れて、である。

 一方、兵庫まで一緒であった加藤清正は、羽柴と宇喜多と村上の軍船を率いて堺を目指していた。この日も曇ってはいたがまだ雨が降っていなかったため、特に問題なくその日の日没直前に堺の湊に入ることができた。


 さて、重秀達が兵庫から出発した同じ頃、秀吉の本陣がある石井山の陣城に、毛利からの使者がやってきた。

 秀吉が小一郎と蜂須賀正勝、黒田孝隆と共に毛利からの使者に会うと、その僧形の使者は平伏しながら秀吉に挨拶をする。


「お懐かしゅうございますな、羽柴筑前守様」


 秀吉と対面している僧形の使者―――安国寺恵瓊がそう言うと、秀吉は懐かしそうに目を細める。


瑶甫恵瓊ようほえけい殿もお久しゅうござるな。堺以来ですな。あの時は公方(足利義昭のこと)の行方について話し合いましたな。結局は物別れに終わったがのう」


「懐かしいですな。あれは天正元年(1573年)でしたから、九年前の事のございます。あの頃の筑前様を見て、まさかここまで大きな人物になるとは思っておりませんでした」


「背の大きさは前とさほど変わってはおらぬがのう?」


 秀吉がわざとおどけた口ぶりで言うと、恵瓊は「これは参りました」と言って笑った。


「相変わらず、機知に富んだお方でございますなぁ」


 恵瓊はそう言うと、それまでの笑顔を止めて真面目そうな顔つきになる。


「此度はお目通りいただき恐悦至極。毛利右馬頭様(毛利輝元のこと)の命により罷り越しました」


 恵瓊の言葉に、秀吉は「ほう・・・」と言いながら細目で恵瓊を見る。


「儂ゃ、てっきり小早川左衛門佐殿(小早川隆景のこと)の使者として来たのかと思ったぞ。のう、官兵衛(黒田孝隆のこと)?」


 秀吉がそう言うと、孝隆は「全くでございます」と頷いた。恵瓊がそれを受けて話し出す。


「確かに、拙僧を筑前様の元に送り出したのは左衛門佐殿でございますが、右馬頭様の同意の上でここに来ておりまする。そして、拙僧がこちらに来る前に、右馬頭様より『羽柴様によろしくお伝えくだされ』と仰せでございました」


「なるほど。つまり、恵瓊殿の言葉は右馬頭殿の言葉と考えてよろしいのですかな?」


 秀吉が恵瓊の目を見ながらそう言うと、恵瓊も秀吉の目を見ながら「御意」と答えた。


「拙僧は右馬頭様の御心をお伝えに参りました」


「・・・して、右馬頭殿の心中こころうちをお聞かせくだされ」


 秀吉がそう言うと、恵瓊は一瞬だけ黙った。そして意を決したように秀吉に話す。


「右馬頭様の心中は和睦にございます。これ以上の戦は無意味でございます」


 恵瓊の言葉に、秀吉だけでなく小一郎や正勝、孝隆も動じる様子を見せなかった。彼らは毛利から使者が来ると聞いた時点で、和睦の交渉に違いないと察していたからだ。

 秀吉が孝隆に頷いてみせると、孝隆が恵瓊に話しかける。


「なるほど。どうやら、武田のようになりたくない、というのが右馬頭様のお考えですかな?」


 孝隆がそう言うと、恵瓊は「武田といっしょにしないでいただきたい」と嫌そうに言った。


「右馬頭様は左京大夫(武田勝頼のこと)と違って、配下の家臣や従う国衆は未だ多くおります。武田のように簡単に滅ぼせるとは思わないでいただきたい」


「なるほど。しかしながら、山陰の西伯耆では反毛利の一揆が起こり、瀬戸内では村上三家のうち来島と能島が織田に寝返っておる。そして、備中では惟徳惟馨殿(毛利元就のこと)の女婿むすめむこたる上原右衛門太夫(上原元将のこと)が寝返っております。そして、ここでは明かせませぬが、備後や長門の国衆からも寝返りを願い出る文が届いております。

 真の事を申さば、毛利を第二の武田にすることなぞ、造作もないことにござる」


 孝隆がそう言うと、恵瓊は「それは恐ろしい」と言って笑った。


「しかしながら、因島の村上家や乃美家は寝返りせず、尼子の本拠地であった出雲国の国衆共は山中鹿介(山中幸盛のこと)の調略に乗らずに駿河守様(吉川元春のこと)に従っております。これらは全て、毛利と運命を共にする覚悟にございます。

 ・・・筑前様。むしろこういった兵力を有する毛利を組み入れることこそ、前右府様(織田信長のこと)の意思に沿うものではござらぬか?」


「上様の意思ですか・・・。つまり、どういうことですかな?」


 孝隆がそう尋ねると、恵瓊は頭を下げながら言う。


「毛利家一丸となり、前右府様に仇なす敵をことごとく討ち果たす所存にて」


 恵瓊の言葉に、孝隆が小馬鹿にしたような笑みを顔に浮かべる。


「前右府様に仇なす敵、でござるか。そんな者が日本ひのもとにいるとお思いか?先の武田攻めでは織田だけでなく、三駿遠の徳川と関東の北条が加わっております。

 また、東北の蘆名、伊達、最上と常陸の佐竹が臣従を願い出ておりますし、長年織田を悩ませた紀伊の雑賀衆も織田に従っております。四国の長宗我部は盟友でございますし、九州の大友と島津も前右府様の指示に従っておりますれば、前右府様に仇なす敵は、毛利と越後の上杉のみでございます。

 まあ、上杉もすでに越中の大部分を失い、信濃や関東からも攻め込まれておりますれば、もはや滅亡は避けられぬものかと。後は毛利を攻め滅ぼせば、前右府様に仇なす敵はおりますまい」


 孝隆の話を恵瓊は無表情で聞いていた。毛利の大兵力を差し出すことを条件に和平を結ぼうとする考えがあっさりと否定されたからだ。

 もっとも恵瓊にとっても、通るはずのない願いであることは承知していた。


「毛利の力が必要ない、と仰られるのか。では仕方ありませぬな。精強で鳴らす毛利の力、とくと味わっていただきましょう。必ずや、和睦すれば良かった、と前右府様は思い知らされるでありましょう」


 恵瓊がそう言うと、孝隆は「左様ですか」と溜息をつきながら言った。そして同情するような目を恵瓊に向ける。


「致し方ありませぬ。交渉は打ち切りとなりましょう。いや、拙者と致しましては、右馬頭様が左京大夫と同じように、山の中で奥方と自害なされてしまうのかと思うと不憫としか言いようがありませぬなぁ」


 孝隆の言葉を聞いた恵瓊は、周囲の様子を探った。小一郎と正勝は特に何も言うことがないのか、恵瓊と目すら合わせなかった。一方、秀吉は何か言いたげな目で恵瓊を見つめていた。恵瓊は秀吉に声をかける。


「・・・筑前様は右馬頭様に何かお伝えしたきことありましょうや?」


 そう言われた秀吉は、目尻を下げながら恵瓊に言う。


「そうじゃのう。では右馬頭様にお伝え下され。今降伏すれば、上様に助命嘆願くらいは致しましょう、と。それと、儂はいつでも右馬頭様を迎えましょう、ともお伝えくだされ」


 秀吉の言葉を聞いた恵瓊は、何も言わずに立ち上がるとそのまま秀吉の前から立ち去ってしまった。


「・・・まあ、初日としてはこんなものかのう?」


 恵瓊が出ていった後、残された秀吉は孝隆に尋ねた。孝隆がそれに答える。


「はい。こんなものでございましょう。少なくとも、毛利は織田家への臣従は呑む覚悟だということは分かりました」


「うむ。毛利の兵力を織田のために使うということはそういうことじゃからのう。しかし、毛利の大兵力は要らぬな」


「と、いうことは毛利の力をどれだけ削れるか、ということかのう」


 小一郎がそう言うと、孝隆は「左様ですな」と頷いた。


「して、殿はどのくらい削るおつもりでございますか?」


 孝隆が秀吉にそう尋ねると、秀吉は顎を右手でさすりながら呟く。


「そうじゃのう・・・。毛利本家に安芸国、両川(吉川元春と小早川隆景のこと)に周防国と備後国を与えれば十分じゃと思うがのう」


 秀吉の言葉に、孝隆が首を傾げる。


「・・・安芸は分かりますが、備後と周防でございますか?周防と長門を両川に残すのではなくて?」


「藤十郎が言っておった。『上様のお望みは博多から堺に至る海の道の確保』じゃと。そう考えると、長門と豊前の間にある早鞆ノ瀬戸・・・壇ノ浦と言ったほうが早いか。その両岸は織田で抑えておきたいのじゃ」


 秀吉の説明に、孝隆が「なるほど。さすがは若君ですなぁ」と頷いた。


「早鞆ノ瀬戸はいにしえより船の道としての要所でございます。そこを羽柴で抑えることができれば、海運を握れます。では、恵瓊殿が次に来た時にはその様に伝えますか」





 恵瓊は秀吉の本陣から小早川隆景のいる幸山城に戻ると、すぐに交渉の内容を隆景に話した。


「降伏すれば生命だけは助ける、か。ありきたりだな。まあ、いつでも御屋形様(毛利輝元のこと)を迎える、ということは、交渉を閉ざす気はない、ということか。それだけ聞き出せただけでも良しとするか」


「しかしながら、織田はまったく譲歩する気は無さそうでございます」


 落ち着いた様子の隆景とは対照的に、恵瓊は不安そうな表情でそう言った。隆景が薄く笑う。


「まあ、武田をあっさりと滅ぼした故、強気でいけると思っているのだろう。筑前め。我等が羽柴勢と宇喜多勢の兵数を知らぬと思うてか」


 後世の軍記物では、この時の秀吉の兵数は3万人と書かれていることが多い。しかし、実際は2万を少し超える程度だったと言われている。


「しかしながら、お味方の兵数もさほど多くはございませぬが」


 毛利はこの頃は3万人以上の兵数を動員できた、とされている。しかし、多方面に敵を抱える毛利は、各地に兵力を分散させなければならず、備中方面に展開させた兵数は、毛利輝元が率いた援軍を含めても1万5千程度だったと言われている。


「敵の数は我等より優勢。然れども我等を討ち倒すほどの兵力はない、というのが現状だな」


 隆景が確認するように言うと、恵瓊が注意を促す。


「左衛門佐様。拙僧が言うまでもないことであるのは承知しておりますが、あえて言上仕る。羽柴には織田からの援軍が期待できまするが、我等には援軍は期待できませぬ。御屋形様(毛利輝元のこと)が引き連れてきた兵が唯一の援軍であることをお忘れなきよう」


 恵瓊の発言に、隆景が「分かっておる」と渋い顔で言った。


「それ故、織田の援軍が来る前に何としても和睦の条件をまとめて織田に呑ませなければならない」


「・・・織田は降伏という要求を引っ込めましょうか?」


 恵瓊が心配そうな顔つきでそう言うと、隆景は薄く笑いながら言う。


「何。織田は前に我等と和睦を願っていた。その時は宇喜多を見捨てるようなことを言っていたが、此度は宇喜多と南条を織田に押し付けてやろう。

 ・・・恵瓊殿。備中と美作、伯耆を織田に引き渡すことを提案していただけぬか?」


「・・・織田と毛利の間に宇喜多と南条という壁を作るのでございますな?」


 恵瓊の言葉に、隆景は黙って頷くのであった。





 天正十年(1582年)五月十三日。恵瓊は再び秀吉の元を訪れた。秀吉は小一郎と正勝、孝隆と共に恵瓊との面談に臨んだ。


「こんな雨の中わざわざご足労いただき、骨折りでしたな」


 小一郎がそう言って恵瓊を労った。恵瓊が頭を下げながら応える。


「いえいえ。毛利のためならば、たとえ雨が降ろうと槍が降ろうとどこへでも向かう所存にて」


「槍が降ろうとも、でござるか。いや、恵瓊殿は忠臣でございますな」


 小一郎がそう言うと、恵瓊と小一郎達は笑いあった。しかし、穏やかな雰囲気はここまでだった。恵瓊の話し相手が小一郎から孝隆に変わると、その場の話し合いは緊張感のあるものへと変わった。

 恵瓊が「備中、美作を宇喜多領として認め、また伯耆についても南条のものにすることを条件に和睦しよう」と言ったのに対し、孝隆が「毛利の所領は安芸一国。小早川と吉川は備後と周防をそれぞれに与える」と言った。当然折り合うわけがなく、丁々発止の口論が長い間行われた。

 そんな中、恵瓊が爆弾発言を行う。


「三年前の天正七年(1579年)に、織田方は惟任日向守殿(明智光秀のこと)を通じて毛利との和議を図られました。その際、織田は毛利に宇喜多を委ねることを提案してまいりました。此度は毛利が織田に宇喜多を、更に南条をも委ねまする。これを以て手打ちにしていただけぬでしょうか?」


 恵瓊の発言に、秀吉達が固まった。なぜならば、織田と毛利との間で和睦の交渉がなされていることを知らなかったからだ。


 天正七年といえば、羽柴が宇喜多に対して調略を仕掛けつつ、三木城の攻略に力を入れていたときである。秀吉達が苦心して三木城の攻略や宇喜多の寝返り工作をしている裏では、秀吉達に内緒で織田と毛利が交渉していたということに、小一郎や正勝、孝隆は衝撃を受けていた。しかも、毛利との交渉相手が明智光秀だということに、更に衝撃を受けていた。

 元々、毛利との取次は昔から秀吉が行っていた。秀吉が恵瓊と足利義昭の京への帰還を話し合ったのも、対毛利戦争での織田軍の指揮官になったのも、秀吉が毛利との交渉の窓口であり、毛利をよく知るからであった。

 ところが織田信長は毛利との和睦交渉に秀吉ではなく光秀を選んだのであった。小一郎達の認識では、光秀は秀吉にとって出世の競争相手であった。その競争相手に自分の領分を奪われたとあれば、秀吉の心中が穏やかであるはずもなかった。

 小一郎は面目を潰された秀吉の顔を恐る恐る見た。しかし、小一郎が見た秀吉の顔は、微笑みを浮かべた顔であった。そんな秀吉が恵瓊に話しかける。


「あっはっはっ。いや、申し訳ない。上様と右馬頭様が和睦の話をしとるのは聞いておったが、その時は三木城攻めで忙しくてのう。上様はそんな儂の骨折りを見て、儂にこれ以上の負担を掛けぬように日向殿に任せた、と聞いた。日向殿からも交渉については聞いておったが、儂ゃ見ての通り猿でのう。頭も猿並みで、昔のことはすぐに忘れるんじゃ。すまぬが、その時どんな話をしておったか、教えてくれぬかのう」


 秀吉が穏やかな声でそう言うと、恵瓊は「それならば」と言って当時の交渉内容を話し始めた。

 小一郎は話を聞きながら秀吉の顔を横目で見ていた。秀吉の顔には笑みが張り付いていたが、その目が全く笑っていないことを見逃さなかった。





 天正七年(1579年)、織田信長は毛利との和平を模索していた。これは、石山本願寺が関わっていた。


 天正六年(1578年)十二月に行われた第二次木津川口の戦いで毛利は石山本願寺への兵糧物資の補給に失敗。それを機に信長は近衛前久を介して和平交渉を開始した。

 現門主である顕如は和平交渉に乗り気だったのだが、息子の教如がこれに反対。その教如の主張が、


「今まで毛利から援助を受けていたのに、我等だけ織田との和議を結べば毛利への裏切りとなり、本願寺の面目が失われる」


 と、いうものだった。


 その話を前久から聞いた信長は、最初は丹羽長秀に、次に明智光秀を介して毛利と和平交渉を行った。この時の毛利側の交渉の窓口が安国寺の瑶甫恵瓊であった。


 交渉内容は宇喜多家の処遇や足利義昭の処遇、国境画定、吉川元春の息子と信長の娘との結婚について話し合われた。

 しかし、この交渉は早々に打ち切られた。原因は重秀にあった。


 当時、信長は佐久間信盛を追放しようとしていた。しかし佐久間信盛は当時、北陸方面軍の指揮官として強大な軍事力を有していた。信長は明智光秀を使って策略で信盛を失脚させようとしたが、それが失敗した場合、信盛が反乱を起こす可能性があった。その信盛の軍勢を抑え込むには、織田家最大の兵力を持つ織田信忠の軍勢が必要であった。

 信忠の軍勢が動かせない一方、毛利が和平交渉中でありながら播磨と備前の国境に兵力を集中させている状況の中、たまたまお濃の方に呼び出された重秀が宇喜多の調略を願い出てきたのであった。

 結果、信長は宇喜多の調略を認めることにした。佐久間の処分が終わるまで宇喜多と毛利が動かなければ良いのであって、毛利はすでに和平交渉を行っていた。後は宇喜多を寝返り交渉で動けないようにすれば良いのである。

 こうして、信長は宇喜多寝返りの交渉を行う事を重秀に許した。信長の誤算は秀吉・重秀親子がとっくに宇喜多との交渉を詰めていたことであった。

 結局、信長は毛利との和平交渉で宇喜多を見殺しにするつもりだったのができなくなり、秀吉・重秀親子による宇喜多の寝返りを認めざるを得なくなった。更にその後、石山本願寺で顕如が教如を追放したことにより、和睦交渉は一気に加速した。同時に毛利との和平交渉は意味を失い、信長はこれを打ち切ったのであった。


 さて、秀吉は毛利との交渉については知らなかった。元々毛利への取次役であった秀吉が知らなかった、というのは不自然であるが、少なくとも残された史料には秀吉が関わったという痕跡がない。これが、信長による秀吉排除の方針だったのか、それとも播磨平定で忙しい秀吉に遠慮したのか、はたまた秀吉と光秀と長秀を競い合わせて仕事をさせようとした信長の采配だったのかは、今となっては不明である。


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― 新着の感想 ―
まあこればっかりは秀吉が報告してなかったのが悪いからなw
時期的に秀吉の領土拡張を警戒して手を打つ以前の話だろうし 上司も、担当の部下もどっちも連絡せずに手を打ってた結果事故った感
刻一刻と近付いている・・・。
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