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大坂の幻〜豊臣秀重伝〜  作者: ウツワ玉子
兵庫編

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第255話 戦線離脱

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 天正十年(1582年)五月八日。常山城に秀吉の使者として石田三成がやって来た。再建途中の常山城の本丸にある仮屋敷の客間で重秀は尾藤知宣と加藤清正、大谷吉隆と寺沢広高と共に三成と面会した。


「佐吉。よく来たな」


 重秀がそう言うと、三成は「若殿にはご機嫌麗しく」と言って平伏した。


「で、今日は何用か?」


 重秀が尋ねると、三成は懐から1通の書状を取り出した。


「まずは兵庫よりの文をお持ちいたしました。姫路経由で大殿の本陣に届いたものにございます」


 三成はそう言うと、傍に座っていた吉隆に手渡した。吉隆が重秀に渡すと、重秀はすぐに書状を開いて読んだ。

 皆が見守る中、書状を読んでいた重秀は、「うわっ」と驚きの声を上げた。


「長兄。如何なされた?」


 清正がそう尋ねると、重秀は視線を書状から離して答える。


「・・・ゆかりが子を成したそうだ。腹が大きくなり、もう子が流れる虞も無くなったらしい」


 重秀がそう言うと、周囲から「おおっ!」と声が上がった。そして皆が一斉に「おめでとうございまする!」と言って平伏した。

 重秀が三成に尋ねる。


「父上はこのことご存知か?」


「はっ、若殿への文と同時に大殿の陣城に報せが届きました。大殿は大喜びにございました」


 三成がそう答えると、重秀は「父上らしいな」と苦笑した。しかし、すぐに真面目な顔つきになると、重秀は三成に尋ねる。


「しかし、文を届けるだけで佐吉(石田三成のこと)を常山城に送り込んでくるとは考えにくい。確か、仁右衛門(増田長盛のこと)と共に高松城を包囲する羽柴と宇喜多の軍勢の兵糧の管理をしていると聞いたぞ。有り体に申せば、こんなところまで足を伸ばしている暇はないはずだが?」


 重秀がそう言うと、三成は「恐れ入ります」と言って頭を下げた。


「実は、先日安土の上様(織田信長のこと)より大殿に使者が参られました。その中に、若殿へのご命令が含まれていた故、そのことをお伝えに参りました」


「上様から?・・・伺おう」


 重秀がそう言うと、三成はまずは外峯四郎左衛門(本名津田盛月)と外峯与左衛門(本名津田信任)の赦免が認められたことを伝えた。


「それと・・・。上様が若殿を安土にお召にございます。五月十五日までに安土に来るようにとのご命令が届いております」


「ええっ!?十五日!?今日は何日だ!?」


 重秀が驚いてそう言うと、吉隆が「五月八日でございます」と答えた。重秀は胸を撫で下ろす。


「あと七日か・・・。まあ、間に合うか」


 重秀がそう言ったのを聞いた三成は、更に話を続ける。


「それと、堺に南蛮船・・・フスタ船でしたか。それも回すようにとのご下知がございました」


「はあぁあ!?」


 重秀が更に驚きの声を上げた。周りにいた者達も驚きの表情を浮かべていた。そんな中、清正が三成に話しかける。


「おい、佐吉。長兄は今常山城を守り、児島や塩飽を守っているのだぞ。しかも、こちらに寝返った能島の村上家は毛利の水軍から攻められており、我等はその援軍を派遣しようとしているのだぞ。しかも先月の二十二日に行われた高梁川口での戦で、我が方の軍船にも多くの被害が出ているのに、更に船を堺に回せだと?どういうことだ!?」


 詰問する清正に対し、三成が口を開く。


「・・・俺にそう言われても困る。俺は上様じゃない。俺如きが上様のお考えが分かるわけ無いだろう」


 三成の言葉に、清正が「なんだと!?」と声を荒げた。そんな清正を重秀が嗜める。


「やめろ虎(加藤清正のこと)!佐吉を責めても詮無きことよ。それよりも、この件父上はなんと言っているのだ?」


 重秀がそう尋ねると、三成は淡々と答える。


「大殿は『上様の命ならば致し方無し。すぐに安土に向かうべし』との仰せにて」


 三成の言葉を聞いた重秀は、大きく溜息をつくと、諦めた口調で言う。


「・・・仕方ない。安土に行くか」


 そう言うと重秀は、視線を広高に向ける。


「すぐに皆を呼んでくれ。それと、下津井には弥九郎殿(小西行長のこと)がいるから、それも呼んでくれ」


 重秀の言葉に広高は「はっ」と短く返事をすると、すぐに客間から出た。そして、重秀は三成に話しかける。


「ところで、父上は今どうしておられる?高松城の包囲をしていると聞いているが・・・?」


 重秀の質問に対し、三成は驚きの回答を発する。


「大殿は、高松城を水に沈めるべく土を百姓から買うております」


 三成の言葉に、重秀達は一斉に「はぁ?」と声を上げるのであった。





 三成の説明によると、四月二十五日に秀吉は宇喜多忠家に命じて高松城を力攻めにした。しかし、低地で沼地の中にある高松城は、その立地のせいで攻めづらい城であった。そのため、宇喜多勢に多数の戦死者を出すことになってしまった。

 そこで、秀吉は鳥取城で使った戦法を応用することにした。高松城を兵糧攻めで追い込み、その苦境を利用して毛利の主力を誘い出し、決戦に持ち込む作戦である。

 ただし、毛利軍を正面から相手にするだけの兵力は秀吉にはない。そこで、織田信長か信忠に援軍を率いてもらい、どちらかに毛利へ最後の一撃を加えてもらおうと考えた。武田討伐が終わり、織田軍には余裕があるだろうと踏んだからだ。さらに、この策には二人へのご機嫌取りの意味もあった。

 秀吉は自分の考えた作戦を黒田孝隆に話した。ところが、孝隆は秀吉の作戦に疑問を呈した。


「筑前様。毛利の主力が高松城を見捨てるやもしれませぬ」


 孝隆の話では、毛利輝元が毛利の主力の軍勢を率いて小早川隆景と共に三原要害から備中国猿掛城に移動しており、猿掛城にいた穂井田元清とその軍勢と合流していた。更に隆景は小早川の軍勢を率いて幸山城に進出していた。しかし、そこから全く動かなくなってしまったのであった。

 孝隆はその理由が分からなかったが、実はこれらの毛利勢は瀬戸内海を使っての海上補給を考えていたものの、高梁川口の戦いで補給を担っていた因島村上水軍が重秀の羽柴水軍によって敗北し、補給に失敗したのが原因であった。

 どちらにしろ、毛利の主力に動く気配がない以上、秀吉の釣り出し作戦は上手くいかないのでは?と孝隆は思ったのであった。


「それでは毛利の討伐に時がかかりすぎる。毛利の本拠地である郡山城(吉田郡山城のこと)まで攻め上るのに、幾年もかかるのではないか?」


「まあ、武田の事を考えれば幾年もかかるとは思えませぬが・・・。それでもここで長期間兵糧攻めをしては我等の兵糧や軍資金が目減りすることは確か。筑前様がここで決戦を仕掛けたいと思うのはごもっともなことにござる。そこでこの官兵衛、敵が高松城に救援に来ざるを得ない策を考えました」


 孝隆の提案に秀吉の片眉が上がる。


「ほう・・・。聞かせてみよ」


「はっ。高松城はその周囲が水はけの悪い湿地帯でござる。そして、雨が降るたびに周囲は水がたまり、ますます攻めにくい城と相成ります」


「そうじゃな。そのせいで宇喜多勢は城攻めに失敗した」


「そこで、逆に考えるのでござる。『水に沈めちゃってもいいさ』と」


 そう言われた秀吉は、過去に重秀と話した事を思い出す。


「・・・水攻めか?確か、藤十郎から聞いたことがあったな。いにしえからの国で、川の水を引き込んで城内を水浸しにしたと」


「さすがは若君でございますなぁ。仰る通り、低地の城に川の水を引き込んで城内を水浸しにするという策は古より唐の国で行われた攻城策にございます。高松城は近くに足守川があり、しかもそろそろ梅雨の季節にございますれば、水攻めにはもってこいかと」


「・・・まあ、水攻めをするのは良いとして、それで毛利の主力を引っ張り出せるのか?」


「高松城が水に沈めば、毛利は慌てるかと。水攻めは兵糧攻めよりは見た目で城の危機が分かりやすくなります」


「そうなのか?確かに見た目は派手だと思うが・・・」


「それだけではございません。水攻めは、兵糧攻め以上に城内への影響が大きいのでござる」


 籠城戦で城内の軍勢にとって大切なのが3つ。兵糧の確保と飲料水の確保と排泄物(と死体)の処理である。特に飲料水としてのきれいな水の確保と排泄物の処理は城内の衛生環境をよく保つために必要なものであった。

 兵糧攻めは城内の敵兵に兵糧を確保させないことに主眼が置かれる攻め方である。もっとも、飲料水の確保や排泄物(そして城内の死体)の処理も妨害するが、これらは意外と城内で対策されていることが多い。

 ところが、水攻めの場合は飲料水の確保も排泄物(と死体)の処理もできなくさせることができるのだ。城内の井戸に川や雨水を流し込むことで、城内の飲料水の確保を困難とさせるのだ。

 また、当時の日本人は経験則で排泄物や死体が疫病の原因であることを知っていた。そのため、籠城戦の際はおまるでトイレの量を増やし、その中身を指定された場所から城外へと捨てられていた(だいたい外の堀であるが、水堀は飲料水の水源ともなるので、空堀に捨てられる)。死体も外に捨てたり城内の指定された場所に埋められていた。

 しかし、水攻めではそれらが全てできなくなるのである。できなくなるだけではない。排泄物は生きている以上必ず出るし、戦をしている以上死体も出るのである。これらを水攻めに使われて城内に溜まった水に捨てざるを得なくなるのだから、衛生環境はめちゃくちゃ悪化するのである。

 しかも、普段は人目につかないネズミが水から逃れるため、人のいる場所に現れる。病原菌の運び屋であるネズミと接触する機会が増えることになるため、さらに城内の衛生環境は悪くなるのだ。


「そういったことが城の外から見えるのでござるから、毛利、特に知将の誉れ高い小早川左衛門佐(小早川隆景のこと)が水に沈んだ高松城を見たら、城内がどれだけ悲惨な状況になるかはすぐに分かるでしょう。これで高松城を見捨てることはできますまい」


 孝隆の話を聞いた秀吉は、すぐに「よしっ」と声を上げた。


「それでは早速、高松城を水攻めにしようではないかっ!」


 こうして高松城を水攻めにするべく、秀吉は諸将を集めることにした。ところが、これに反対した者がいた。増田長盛と石田三成である。


「恐れながら大殿。此度の策では高松城を取り囲むつつみの長さは二十六町(約2.8km)、幅九間(約16.2m)、高さ四間(約7.2m)となっております。これを十日前後で築くのは、例え周辺の百姓をすべて駆り出し、羽柴や宇喜多の兵員をすべて動員しても無理でございます」


「しかも此度の策では百姓に土の俵を作らせてそれを銭百文と米一升で買い上げるとされてますが、仁右衛門殿が仰るような大規模な堤を築くのに必要な土の俵の数を買い上げる銭も米もございませぬ」


 長盛と三成の反対で、水攻めの策は頓挫しようとしていた。しかし、そこで蜂須賀正勝が意見を述べる。


「・・・足守川の東側には松山(備中松山のこと)に行ける道があるが、周囲の土地に比べて妙に高くなってやがる。これを利用して堤代わりにすれば良いんじゃねぇか?」


 足守川の東側には、備中松山へ向かう松山往来と呼ばれる街道がある。実はこの街道、長い年月を掛けて足守川が運んできた土砂が積み重なってできた自然堤防を利用した街道であった。そこで、正勝はこの街道を堤にしようと提案したのだった。

 正勝の提案を受けた秀吉は、早速その自然堤防を確認した。その結果、堤の代わりになることが分かった。更に周辺の村々への聞き込みをしたところ、高松城の南東側、蛙ヶ鼻と呼ばれる地域が高松城周辺の唯一の排水口であることが分かった。そこで、蛙ヶ鼻から松山往来の街道までの間、約300メートルを堤で閉鎖してしまえば、高松城を水攻めにできることが分かった。

 加えて、たった300メートルの堤を築くのであれば、人員も銭も米もさほど掛けずに十日前後で築くことが可能であると長盛と三成は結論付けた。


「よっしゃ!では早速堤を築けぃ!」


 こうして秀吉の号令の下、堤の建造が始まったのであった。





「堤の築造は五月八日、つまり今日から始まりまする。梅雨が来る六月前には終わらせる算段となっておりまする」


 三成から話を聞いた重秀達は感嘆の声を上げた。


「はぁ〜。さすがは父上と官兵衛殿。まさか日本ひのもとで水攻めをするとはねぇ」


 重秀がそう言うと、三成以外の者達は一斉に頷いた。そして愚痴るように言う。


「私も高松城が沈んでいるところを見たかったが・・・。安土にいかなければならないのが口惜しい」


「お嘆きはごもっともなれど、もはや時がございませぬ・・・」


 三成が残念そうにそう言うと、重秀は首を横に振る。


「何。上様の命ならば仕方がない。父上に承知した、と伝えておいてくれ」


 重秀の言葉に、三成は「承りました」と言って平伏するのであった。





 その日の夕刻。常山城には海に出ていたり塩飽に滞在している一部の者を除いて、重秀の家臣が集められていた。そしてそれだけでなく、宇喜多水軍を指揮するために下津井城にいた小西行長や、人質として常山城にいた村上景親と村上通清も集められていた。


 重秀から話を聞いた家臣達は、一斉に溜息をついた。


「毛利との戦の最中に若殿を安土に呼び出すとは、上様は一体何を考えておられるのか・・・」


 山内一豊がそう言ってぼやくと、福島正則も「まったくだ」と深く頷いた。


「しかもフスタ船を堺に回せ?動けるフスタ船はもうないだろうに」


 下津井の戦いと高梁川口の戦いで損害を受けた羽柴水軍。その中でも大型フスタ船『村雨型』は度重なる戦闘で損傷が激しかった。

『村雨丸』は未だ塩飽与島の船だて場で修理中。『春雨丸』は修復が終わって運用可能。『五月雨丸』『夕立丸』は船だて場が空くまで塩飽与島北にある入り江にて待機中。『時雨丸』は損傷が激しくて解体決定。『梅雨丸』は損傷はあるものの稼働できるため、現在は他の関船や小早隊と共に備中の沿岸を警固していた。

 また、フスタ船としては『(いかづち)型』と『有明型』があるのだが、共に小早隊の旗艦として備後灘やひうち灘を走り回っていたため、たまたま補給のために塩飽本島の笠島湊にいた『(いなづま)丸』以外を呼び戻すことは難しかった。


「・・・とはいえ、上様の命に逆らうわけにはいかないだろう。とりあえず、動かせる『春雨丸』と『電丸』、そして『電丸』が率いる小早二番隊から小早を数隻連れて行く。そして残った軍勢の指揮を伊右衛門(山内一豊のこと)に委ねる」


 重秀がそう言うと、『春雨丸』で指揮を執る清正と小早二番隊の指揮官である田村保次郎、そして指揮を委ねられた山内一豊が「承知いたしました」と言って頭を下げた。


「しかし大型のフスタ船が一隻のみでは物足りぬよう感じられまするが・・・」


 尾藤知宣がそう言うと、重秀は「それについては考えている」と言った。


「上様がフスタ船を堺に回すことについての理由は聞かされていない。が、佐吉が言うには、父上が『上様はフスタ船を誰かに見せたいのではないか?』と申していたそうだ。おそらく羽柴水軍、いや織田水軍の武威を見せたいのであろう。そこで・・・」


 重秀はそう言うと、視線を村上景親と村上通清に向ける。


「・・・村上から来た二人を安土に連れて行く。そして、村上から来ている小早も堺に回しておく」


 重秀の言葉に、景親や通清だけでなく他の者達も驚きの声を上げた。重秀が話を続ける。


「天下に名だたる村上三家のうち、能島と来島の者が来ているのだ。あの村上水軍の軍船を見せれば、上様も満足していただけるものと考えている。それに、源八郎殿(村上景親のこと)も彦右衛門殿(村上通清のこと)も安土のお城を見れば、上様へ寝返ったことが村上にとって良いことであったと思うはずだ」


 重秀の言葉に、景親と通清は互いに顔を見合わせた。安土城とはそんなにすごい城なのか?二人はそう言いたげな顔をしていた。


「それに、堺に村上水軍の小早がやってくる、というのは堺の者達からすればとんでもないことだからな。堺には九鬼の水軍が駐留しているが、その九鬼と村上が舳先を並べて堺にいるのだ。上様が日本に静謐をもたらさんとしていることを目で見て理解するだろう」


 重秀の言葉に、皆が感嘆の声を上げた。そんな中、小西行長が重秀に「恐れながら」と声を上げてきた。


「羽柴様。何卒宇喜多の船も連れて行ってくだされ。宇喜多の水軍が織田のために働いていることを堺の者共に見せとうございます」


 そう言う行長に、重秀が尋ねる。


「・・・宇喜多の軍船を堺に回して、宇喜多水軍の数は不足しないか?」


「そこまで多くの軍船は送りませぬ。関船一隻もしくは小早数隻を送りまする」


 行長の言葉に、重秀は「それなら良い」と答えた。


「では、船の数は弥九郎(小西行長のこと)に任せる。明日の朝には出るから、それまでに準備を怠りなくな。皆もそのつもりで」


 重秀がそう言うと、皆は一斉に「ははぁ!」と言って平伏するのであった。


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信長から軍船を率いて5月15日までに安土に参上せよとの命令か…。例の安土での家康饗応に重秀も関わる事になるのか。家康も元羽柴客将である正信を通じて是非とも誼を通じたい様であるから二人がどの様な会話をす…
佳境ですね。秀吉は6月4日には毛利と和睦し引き返しますが記録的大雨、しかし秀吉は船で火薬を事前に運んでいた為知っていた説が。つまり重秀は火薬を運んでいないといけない訳です。6月2日は四国征伐軍出発予定…
瀬戸内版観艦式が行われるのかな。
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