第254話 備中侵攻
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天正十年(1582年)四月十四日。羽柴秀吉率いる羽柴勢の主力と宇喜多家氏(のちの宇喜多秀家)率いる宇喜多勢は備中国高松城の近くにある龍王山と八幡山にそれぞれ陣を敷いた。
「調べた結果、高松城には多くの兵が収容されていることが分かりました。国境に築城された七つの城の内、高松城こそが国境の守りの要と言えるでしょう。そして、この要を落とすことで、毛利の守りを破ることができると思われます」
黒田孝隆の提案によって、秀吉は高松城への主攻を決定した。一方で、高松城以外の城へも助攻を行うことにもした。
「助攻と言っても力攻めだけするわけではない。調略で城内に籠もる備後や備中の連中を寝返らせることも行う。実は日幡城の上原右衛門大夫(上原元将のこと)がすでに内応しておる。備後の国衆とはいえ、毛利の先々代(毛利元就のこと)の女婿である右衛門大夫ですら儂等と通じておるのじゃ。早晩、備中や備後の国衆は儂等に従うじゃろう」
秀吉がそう説明した後、羽柴軍の一部は龍王山の本陣から出陣。高松城の北にある宮路山城、冠山城攻略へと向かっていったのだった。
ちょうど同じ頃、備後国の三原要害には、毛利輝元を総大将とした毛利の主力が到着していた。しかし、その陣容を見た叔父の小早川隆景は失望した。
「・・・兵が少なすぎる・・・」
そう呟いた隆景に、輝元は反発するように言う。
「そうおっしゃいますが小早川の叔父上(小早川隆景のこと)。長年の戦続きで兵も民も疲弊しております。それに、国衆共も限界に近づいており、兵や兵糧を出すことを拒否する者も多くおります。そして、吉川の叔父上(吉川元春のこと)が月山富田城から動けない状況では、これだけの兵を連れてくるので精一杯です」
そう言う輝元に、隆景は若干の違和感を感じながらも「分かっております」と言った。
吉川元春は、本来ならば四月までに出雲国の月山富田城から兵を率いて安芸国の吉田郡山城に移動し、そこで毛利輝元率いる毛利の主力と合流、その後に三原要害に向かう予定であった。しかし、去年から続く山中幸盛による謀略戦のために、元春は山陰から離れることができなくなっていた。
特に、伯耆国にある八橋城では大事件が起きており、その対応をする必要があった。というのも、八橋城は杉原盛重という毛利家の武将が城主をしていたが、天正九年(1581年)に病死し、その跡を嫡男である杉原元盛が継いでいた。
ところが今年四月に入ったところで弟である杉原景盛が元盛とその息子二人を謀殺するという事件が起きる。これだけなら兄弟間の家督争いかと思われるのだが、なんと数日後には景盛が死亡して、八橋城が山中幸盛率いる尼子勢と南条元続率いる南条勢の連合軍に城を奪われてしまった。
この事件については当時の史料があまりないため、詳細は分かっていない。後世の軍記物では山中鹿介が元盛と景盛の兄弟を謀略によって互いに争わせ、共倒れになったところで八橋城を乗っ取った、と書かれている。まあ、後世の軍記物は創作の話が多いため、信憑性は少ないのだが、鹿介が何らかの謀略を行った可能性は高い、と歴史学者達は考えている。
どちらにしろ、伯耆国の中央部の海岸沿いに築かれ、海上と陸上の交通の要所となっていた八橋城が織田方に取られたため、元春は奪還するべく出兵の準備を行っていた。
そのため、元春は山陽方面へ出撃することができなくなっていた。
「八橋城を落とすとは・・・。さすが山中鹿介、と言わざるを得ないな」
「感心している場合ではないでしょう」
隆景の幸盛に対する発言に対し、輝元が口を尖らせた。
「八橋城が落ちたことで、伯耆国全体が尼子・・・、いえ織田に寝返ろうとしているのです。なのに、吉川の叔父上は『円明寺のアレを殺すな』と何度も私に文を送ってきておりました。それどころか、円明寺に自らの家臣を送り込んで警固しておりました」
『円明寺のアレ』とは、尼子宗家の当主である尼子義久のことである。永禄九年(1566年)に尼子家の本拠地である月山富田城が毛利によって攻め滅ぼされた後、降伏した義久は生命だけは毛利元就に助けてもらい、安芸国にある円明寺に幽閉された状態であった。
「・・・アレは殺せませぬ。石見や出雲の国衆が兄上(吉川元春のこと)に未だ従っているのは、アレが尼子宗家の当主だからでござる。もしアレを害することあれば、石見と出雲の国衆は雪崩を打って因幡の尼子孫四郎(尼子勝久のこと)に寝返るでしょうな。新たな尼子宗家の当主として」
吉川元春の下には多くの旧尼子家臣や尼子系の国衆が従っていた。そして彼等は石見や尼子の拠点であった出雲に多くいた。幸盛は当然こういった者達に調略を仕掛けていたが、幸盛に同調する者はほぼいなかった。これは、尼子勝久があくまで尼子家の庶流であるためで、本流たる尼子義久が毛利家に保護(監禁?)されている以上、本流から離れることを良しとしなかったからである。
「しかしながら、安芸では『因幡の尼子勢によって円明寺のアレを奪還する兵が送られた』という噂が流れたため、警戒のための兵を割く必要がありました。ただでさえ兵が足りぬと言うのに、更に兵を割かれたのですぞ」
そう言う輝元の目には、不満と不信の火が灯っていた。その不満と不信は、元春だけに向けられたものではなかった。
「それに、小早川の叔父上も叔父上です。毛利の水軍衆の中核である村上三家のうち、来島と能島が織田方に寝返ったせいで、大友に当てるべき水軍を伊予に向かわせなければならなくなりました。大友と対峙する旧大内の家臣や国衆達からは不満の声が出ておりまするぞ」
輝元がそう不満を口にすると、隆景は何も言えなくなった。が、隆景も何もしていないわけではなかった。
「・・・村上家との取次をしている兵部(乃美宗勝のこと)の説得で因島村上家と笠岡城の弾正(村上景広のこと)は毛利方に残ることになっている」
隆景がそう言うと、輝元は不満そうな口調で隆景に言う。
「それは重畳。しかしながら、その村上水軍が裏切り者の来島、能島へ攻め込まぬのは解せませぬな。いや、同族を討ちたくないという気持ちは分からなくもないですが、それならば羽柴の水軍が巣食う塩飽へ攻め込むべきでしょう」
「・・・塩飽は潮の流れが複雑で激しい。村上の水夫達ですら近寄らないようにしている海の難所だ。そんなところを攻めれば、かえって羽柴水軍に返り討ちにあうだけだ。それに、残った村上水軍には、備中への兵糧物資の運搬という役目もある。少なくなった水軍を失いたくない」
隆景はそう言ったが、実はこれには裏があった。というのも、因島村上家では、もう毛利の軍務を請け負いたくない、という声が噴出していたのである。因島村上家の当主である村上吉充が何とか抑えているものの、吉充も隆景もその声を無視することはできなくなっていた。なので隆景と吉充との間では、因島村上水軍を戦に出さず、あくまで安芸―備後―備中の間の補給路の維持にしか使わない、という密約が交わされていたのである。
「・・・水軍を失いたくないというのは分かります。しかしながら、安芸から備中にかけての国衆や百姓は陸路での兵糧物資運搬すら拒否し始めているのですぞ。ここで水軍も使えなくなるのでは、備中へ軍を送り込むことは無理ですぞ」
輝元の言う通り、毛利領内では国衆や百姓に厭戦気分が広がっていた。天正四年(1576年)に足利義昭が亡命して以降、毛利は戦時動員を6年も行っていた。長期間の動員体制に、百姓も国衆も疲弊していた。
輝元も輝元で国衆に心配りの手紙を送っていたが、慰めだけの文言で納得する国衆は少なかった。そして、輝元の手紙を受け取った国衆のほとんどが秀吉方からの手紙を受け取っており、「所領安堵」のみならず「知行加増」や「一国授与」という夢のある話に惹かれていた。
「もはや領国内でやる気のあるのは公方様(足利義昭のこと)だけです。その公方様も『鞆の兵をもっと増やせ』と申されております」
輝元の言葉に、隆景は頭が痛くなってきた。隆景や元春から見れば、義昭は疫病神でしかなかった。
毛利に亡命してきた義昭を保護すること自体は隆景は反対しなかった(元春は反対していたが)。しかし、その義昭が妙な政治力を発揮して信長包囲網を築き上げるとは予想していなかったのだ。そして、甥の輝元が副将軍として持ち上げられて義昭に迎合することも予想していなかった。
「・・・鞆には粟屋四郎兵衛(粟屋景雄のこと)とその精兵を送り込んでいるから、公方様を十分護れるかと」
「公方様は羽柴の水軍によって鞆と京との海路が断たれることを恐れております。京からの織物や雅な物が鞆に入ってこなくなることを恐れておいでです」
輝元がそう言うと、隆景が激怒した。
「ふざけるな!誰のために織田と戦い、こうなったと思ってるんだ!」
隆景がそう叫ぶと、輝元はビクッと身体を震わせた。そして殴られると思って思わず目を瞑ってしまった。その様子を見ていた隆景が、輝元に言う。
「ああ、すまぬ。つい大声を上げてしまった・・・」
そう言って頭を下げた隆景に、輝元が言う。
「いえ。小早川の叔父上が毛利のために心を尽くしておられるのは分かっております。ですが、対応がいささか遅いのではございませぬか?羽柴と宇喜多を前に戦の準備でご多忙なのは理解しておりますが、もう少し他方面への気の配りをお願いしたい」
最初はオドオドと、しかし後半には強い口調で輝元からそう言われた隆景は、「分かっておる」と不満げに言った。しかし、内心では輝元の発言に違和感を抱いていた。
―――どうしたというのだ?さっきまで怯えていたのに、急に儂にはっきりと意見を言ってくるとは珍しいな―――
輝元は隆景の長兄である毛利隆元の嫡男である。つまり、輝元は隆景の甥なのだが、隆元が早くに亡くなったため、輝元は毛利家当主の座を11歳で継いでいる。この時は祖父の毛利元就がまだ生きていたため、元就が後見していたのだが、元就もこの時には60歳後半だったこともあり、輝元の補佐役として吉川元春、小早川隆景、福原貞俊、口羽通良の4人をつけていた。そして元就死後もこの4人の重臣が若い輝元を補佐していた。
輝元は若年ということもあり、だいたい4人の重臣の言うことを聞いていた。特に、隆景から教育という名の暴力を振るわれていたことから、輝元は隆景の意見には絶対的に従っていた。なので隆景に意見を言うことなど今までなかったのである。
―――幸鶴(毛利輝元のこと)も今年で齢三十。少しは当主の気概が出てきたのなら良いのだが・・・―――
そう思っている隆景に、輝元が話を続ける。
「ときに叔父上。一任斎(安国寺恵瓊のこと)を呼んだそうですね。あれに何の用ですか?」
輝元からそう聞かれた隆景は、少し躊躇した後、口を開く。
「・・・武田が織田によって攻め滅ぼされた。毛利がそうなる虞がある。それを防ぐために一任斎殿に賭けてみようと思う」
「・・・一任斎は確か、織田方と交渉をしておりましたな」
「そうだ。ついでに言うと羽柴筑前とは昔公方様の境遇について話し合うために会っている」
隆景がそう答えると、輝元はピクリと眉を動かす。
「・・・やはり、叔父上の考えは織田との和睦でございますか」
輝元の言葉に、隆景が「ああ」と答えた。
「我等がまだ戦えるうちに手打ちにするのが上策じゃと儂は考える。武田が滅び、織田が全力で毛利に戦を仕掛けてきたら、恐らく南からは長宗我部が、西からは大友も攻めてくるじゃろう。そうなれば武田と同じ運命をたどることになる。毛利家存続のためにはそれだけは避けねばならぬ。余力があるうちに織田と和睦を結ぶしかない」
「・・・織田が和睦の交渉に乗りましょうや?」
輝元がそう疑問を呈すると、隆景は「乗らなければやむを得まい」と眉をひそめながら言う。
「その時は毛利の名を汚さぬよう、最後まで戦い抜く。幸鶴・・・いや、御屋形様(毛利輝元のこと)に置かれましては、毛利家の当主として恥じぬ最後を遂げられますよう」
そう言って頭を下げる隆景であった。
輝元との会見を終わらせた隆景が、今度は安国寺恵瓊と面談を行った。
「・・・では、左衛門佐様のお望みは織田との和睦ですか?」
恵瓊がそう言うと、隆景は頷いた。
「うむ。もう毛利は戦い続けることはできぬ。よって、手打ちにしたいのじゃ」
「・・・それは難しいかと・・・」
恵瓊が首を傾げると、隆景は「分かっている」と頷いた。
「しかし、儂等の方から国を半分明け渡すとなれば、羽柴も織田も儂等の本気を汲み取ってもらえよう」
「半分、でございますか!?」
驚く恵瓊に、隆景が頷く。
「うむ。備前、備後、美作、伯耆、出雲の五カ国を織田に割譲するのじゃ。儂の足元たる備中と備後、宇喜多が欲しがっている美作、すでに東を奪われている伯耆、そして尼子家の出自たる出雲を織田に明け渡せば、和睦を検討してもらえるものと思われる」
「しかし・・・、よろしいのでございますか?備中と備後、美作の国衆はすべて左衛門佐様の与力でございました。それを織田に譲るとなれば、左衛門佐様の面目だけでなく、毛利家中での力も失う恐れがあるかと」
「それがどうした。そんなことは毛利家が残るということに比べたら些細なことだ」
隆景が力強くそう言うと、恵瓊は黙って頭を下げた。隆景が話を続ける。
「どうやら御屋形様は当主としての自覚が出てきたようじゃ。ならば儂や兄上はもう要らぬであろう。聞けば刑部(口羽通良のこと)は病で此度の出陣には加わってはおらず、内蔵人(福原貞俊のこと)もそろそろ隠居を考えているらしい。また、御屋形様の下には榎本藤五郎(榎本元吉のこと)や佐世与三左衛門(佐世元嘉のこと)、二宮与次(二宮就辰のこと)といった若手の近習が補佐をしておる。皆、優秀な者ばかり。儂がいなくてもなんとかなるじゃろう。ならば、毛利をなんとしても残すことが、儂の最後の役目じゃ。毛利が生き残ることに儂は生命を賭けようぞ」
並々ならぬ隆景の決意を聞かされた恵瓊は息を呑んだ。そんな恵瓊に隆景が言う。
「一任斎殿も、生命を賭けて羽柴と交渉してくだされ」
天正十年(1582年)四月下旬。秀吉は境目七城の北に位置する宮路山城と冠山城を攻撃。冠山城を数日で落とすと、そのまま宮路山城を包囲した。また、高松城の守将である清水宗治に調略を仕掛けるも失敗。秀吉は宇喜多勢と羽柴勢の主力をもって高松城を包囲した。
また、同じ頃に境目七城の一つである日幡城内で上原元将が織田方に寝返り、同僚であった日幡景親を討ち取った。この混乱の中、宇喜多勢が日幡城に入城し、日幡城を乗っ取ることに成功した。
上原元将の寝返りと日幡城の失陥の話を聞いた小早川隆景は激怒した。
「おのれ右衛門大夫(上原元将のこと)!儂の妹を妻に娶りながら、敵が来たからといって敵に寝返るとは!もはや彼奴は義弟ではない!」
そう言って隆景は家臣である楢崎忠正に兵を預けると、すぐに日幡城奪還へと動いた。忠正が日幡城へ猛攻を加え、元将を追い出して奪還に成功したものの、毛利元就の娘を妻にしていた元将の寝返りの情報は、毛利の諸将に動揺を与えた。
そんな中、日幡城の北、高松城の南にある加茂城にて、生石治家が織田方に寝返った。彼は宇喜多の軍勢を加茂城に引き入れ、東の丸を占拠した。しかし、本丸にいた守将の桂広繁と西の丸にいた上山元忠が反撃に出ると、治家と宇喜多勢は東の丸から叩き出されてしまった。
一方、毛利の目が日幡城や加茂城、高松城に向けられている間、宮路山城が降伏。守将の乃美元信は城を羽柴勢に引き渡すと備後へと戻っていった。
境目七城で毛利と羽柴・宇喜多連合軍が激闘を繰り広げる中、重秀率いる羽柴の水軍と高梁川河口で毛利方の因島村上水軍との間で大規模な戦闘が行われた。
天正十年(1582年)四月二十二日に行われた高梁川口の戦いでは、備中の毛利方への補給を行おうとした因島村上水軍と生口水軍を羽柴水軍と宇喜多水軍が迎撃。毛利方の輸送船を多く沈めた。
結果、因島村上水軍は多くの船と水夫を失ったため、その後は備中への輸送を諦め、本拠地である因島に逼塞することになった。
一方、羽柴水軍は勝利したものの、多くの船が損傷することになった。特に、羽柴水軍の象徴とも言うべき関船『村雨型』は稼働できる船が『春雨丸』のみとなってしまった。また、他の関船『吹雪型』や『綾波型』も修理する必要があったため、塩飽や児島、そして播磨の飾磨湊へ後退させなければならなくなった。結果、稼働率の低くなった羽柴水軍もまた、児島と塩飽に逼塞せざるを得なくなった。
そんな中、羽柴・宇喜多連合軍と毛利軍の両軍に、梅雨が訪れつつあった。




