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大坂の幻〜豊臣秀重伝〜  作者: ウツワ玉子
兵庫編

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第253話 常山城にて

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誤字脱字報告ありがとうございました。お手数をおかけしました。


 天正十年(1582年)四月十日。重秀は自らの軍勢を率いて塩飽から下津井を経由して児島にある常山城に入った。

 常山城は元々四月十日に重秀を総大将とし、羽柴・宇喜多連合軍で攻め取る予定であった。しかし、その前に常山城の守将である乃美宗勝は常山城に火を放った後、兵を率いて藤戸経由で備中の松島城へ引き上げていた。

 その後、城が燃えていることを知った富川正利(のちの戸川秀安)と宇喜多忠家が常山城を無血で手に入れたのであった。


 常山城に入った重秀とその家臣達は宇喜多忠家達が待つ本丸御殿へと向かった。もっとも、本丸御殿はすでに焼け落ち、その残骸はほとんど片付けられており、空き地となった本丸には宇喜多の陣幕が張られていた。重秀達はそこで宇喜多の諸将、そして今後の作戦について説明するために石山城から派遣された黒田孝隆と会うことになっていた。

 重秀が陣幕に入り、更に重秀の家臣や与力が入ると、重秀は孝隆と宇喜多の諸将に村上景親と村上通清を紹介すると、忠家達は驚愕の声を上げた。


「いや、話には聞いておりましたが、まさか能島と来島の村上が織田方につくとは・・・。さすが筑前様の御子息であらせられる。羽柴は安泰でござるな」


 忠家がそう言って重秀を褒めると、正利を始めとした宇喜多の諸将も頷いた。


「お言葉かたじけのうございます。それよりも官兵衛殿(黒田孝隆のこと)の話を聞きましょう」


 重秀が落ち着いた口調でそう言うと、さっそく軍議が開かれることとなった。





 軍議では、黒田孝隆がまず児島の戦いの経緯と能島村上家と来島村上家が織田方に寝返ったことについて、秀吉から織田信長に伝えられたことが知らされた。そしてそのついでに、外峯四郎左衛門こと津田盛月の赦免を願う嘆願書も出されたことが明らかにされた。


「・・・大殿(秀吉のこと)のご配慮はかたじけないが、果たして許してくれるのであろうか・・・?」


 四郎左衛門が首を傾げながらそう言うと、隣りにいた息子の外峯与左衛門(本名津田信任)が不安そうな顔で頷いた。それに対して孝隆はさほど心配してないような顔で答える。


「四郎左衛門殿が追放されてからもう幾年と経っており、しかも兄君(中川重政のこと)はすでに許されております。そろそろほとぼりも冷めた時期にござろう。また、長年の敵であった武田が滅び、上様は気分が優れているはず、というのが筑前様の見立てにござる。それに、先の下津井での戦いで四郎左衛門殿は乃美兵部(乃美宗勝のこと)の嫡男の首級を挙げておられる。そのような武功を挙げた四郎左衛門殿を上様は許さないことはない、との判断もござる。ここは筑前殿のお見立てを信じては如何かな?」


 孝隆がそう言うと、四郎左衛門は「相分かった」と頷いた。そんな四郎左衛門に重秀が話しかける。


「良かったな、四郎左衛門。もし、上様がお許しにならなければ、私が安土に行って上様に談判してくる。四郎左衛門や与左衛門にはそれだけの働きをしてもらったからな。その恩に報いなければ」


 重秀の言葉に、四郎左衛門だけでなく与左衛門も「かたじけのうござる」と言って頭を下げるのであった。


 結局、武田滅亡と富士山見物と徳川家康の接待でテンションが上がっている信長が、村上の寝返りの報告を聞いて更に爆上がりとなり、二つ返事で津田盛月を赦免したので、信長と談判するために重秀が安土に行く必要はなくなった。もっとも、後日に別の要件で安土に行く羽目になってしまい、あの大事件に巻き込まれてしまうのだが。





 そんな話をし終えた黒田孝隆が、次は今後の備中侵攻についての話をする。


「四月十五日を以て筑前様と八郎様(宇喜多家氏のこと。のちの宇喜多秀家)が石山城より出陣いたします。七郎兵衛様(宇喜多忠家のこと)は宇喜多勢を率いて児島から移動し、八郎様と合流の後、宇喜多勢を指揮なされますよう、お願いいたします」


 孝隆の発言に、忠家は「承った」と言って頷いた。その直後、前野長康が声を上げる。


「あいやしばらく。若殿は如何なされるのか?」


「それはこれからお話いたす」


 そう言うと孝隆は視線を重秀に向ける。


「若君にはここ常山城にて羽柴と宇喜多を始めとする水軍衆を指揮していただきます。そして、毛利の水軍を牽制していただきます」


「牽制、ですか?父上と合流しなくて良いと?」


 重秀が眉間にしわを寄せながらそう言うと、孝隆は「はい」と答えた。


「若君は羽柴の嫡男というだけでなく、上様の養女婿むすめむこという立場もお持ちでございます。船軍ふないくさの経験をお持ちの若君は、瀬戸内における織田方の水軍の総帥として相応しきお方なれば、むしろ児島にて水軍衆を束ね、毛利の水軍を牽制すべき、との結論となりました。若君にはこの常山城にて、瀬戸内を睨み、毛利の海上補給路を断っていただきたく存じます」


 孝隆の言葉に、重秀は複雑な心境となった。そのことを孝隆に訴える。


「・・・官兵衛殿。父上のお考えは理解した。しかしながら、これより毛利との重要な戦が始まると言うのに、父上のお傍で働けぬというのは口惜しい。それに、私の配下も同じ想いであろう」


 重秀がそう言うと、福島正則や加藤清正といった若い武将が大きく頷いた。それに対して、孝隆が重秀を宥める。


「お気持はよく分かります。しかしながら、真鍋、来島、能島を寝返らせたと言えど、毛利の水軍は未だ侮り難き存在。その毛利水軍が我等の海上補給路を断ってくることは目に見えておりますし、そうでなくとも備中に船を使って補給がなされれば、筑前様と対峙する毛利軍を利することになります。ここは、若君に海を抑えていただき、父上様をお助けいただきとうござる」


 そう言われた重秀は、溜息を一つつくと「相分かった」と頷いた。


「私だって父上や官兵衛殿の考えが分からないわけではない。しかし、父上と共に戦えぬ家臣達の想いは汲み取ってもらいたい」


 重秀がそう言うと、孝隆は「承知いたしました」と頷いた。


「此度の戦が終わりましたら、常山城に残った者にも恩賞を与えるよう、それがしからも筑前様に言上いたしましょう。それでよろしいですかな?」


 孝隆の言葉に、重秀は頷いた。孝隆の話はまだ続く。


「常山城には若君とその家臣達に滞在していただきます。それ以外の方、作内殿(加藤光泰のこと)と将右衛門殿(前野長康のこと)、弥兵衛殿(浅野長吉のこと)等は手勢を率いて筑前様と合流していただきます」


 その話を聞いた重秀は、思わず片眉を上げる。


「・・・つまり、児島と塩飽には私の直臣のみで守れと?」


 重秀の質問に、孝隆が「はい」と答えた。


「その代わり、高畠殿の小串水軍と高原殿の直島水軍を若君にお任せいたします。また、宇喜多の水軍も若君にお預けいたします」


 孝隆はそう言うと、視線を忠家に向ける。


「七郎兵衛様、よろしいですかな?」


「相分かった。弥九郎(小西行長のこと)を置いていく故、羽柴の若君には存分に使ってもらいたい」


 忠家がそう言って末席にいた小西行長に視線を送った。行長が「心得ました」と言って頭を下げた。それを見た孝隆が重秀に言う。


「若君。宇喜多水軍と共に毛利水軍への抑えをよろしくお頼み申します。それと、若君にはあくまで児島と塩飽の防備を最優先とし、毛利へ攻勢を仕掛けませぬように。特に、鞆へ攻め込んで公方(足利義昭のこと)をどうこうしようとは考えぬようにしていただきたい」


 孝隆の言葉に、重秀は渋い顔を見せる。


「・・・やはり、鞆へ攻めるのは駄目ですか」


 実は重秀はこの時、鞆攻めを考えていた。備後国の鞆は重要な湊というだけでなく、足利幕府15代将軍の足利義昭とその奉公衆が拠点としていた場所であった。ここを攻め落とせば、毛利の面目は失墜するだけでなく、将軍を排除することもできるのだ。そうなれば織田信長が唯一の天下人となる、と重秀は考えていた。


 しかし、孝隆は重秀に「駄目です」と無下に言い放った。


「上様が公方を弑逆せず、京からの追放のみに処した事について、若君は軽く考えすぎでござる。公方の兄君である光源院様(足利義輝のこと)を弑逆した三好や松永は諸国の大名から反発を食らい、結果上様の上洛とそれに伴う三好の失墜という結果を招きました。筑前様は当時の状況をよく知っておりますれば、若君が公方弑逆、もしくはそれと同等な行動を取れば、羽柴や織田が松永と三好と同じ目に遭う、と筑前様は危惧されておりました。

 ・・・それに、これから筑前様は境目七城を攻められます。城を七つ落とすのは至難の業。筑前様やそれがしは境目七城攻略に集中いたします故、それ以外の戦況に対応できませぬ。若君を信じていないわけではないのでございますが、万が一水軍で我が方不利となりましたら筑前様やそれがしでは対応ができぬやもしれませぬ。何卒、若君にはご自重していただきたく存じます」


 そう言われた重秀は、若干の不満を持った。水軍を任せてもらえる割に自分のできることが制限されているのだ。これでは水軍を任せてもらった意味がないのではないか、と。

 しかし、重秀はふと光触寺での軍議を思い出した。


 ―――あの時は役目が難しいとか簡単だとか言って父上を怒らせていたな。あの時は己に慢心があったが、此度の鞆攻めは・・・。未だ若輩者の私が好き勝手に水軍を動かしては、父上や官兵衛殿の懸念通りになるやもしれない。毛利には未だ因島の村上家がついているし、水軍では毛利(向こう)に一日の長がある。ここは父上に従うか―――


 重秀はそう思うと、孝隆に「分かった」と答えた。


「ここで水軍に落ち度があれば毛利攻めの今後に支障をきたす。ならば、父上の言う通り、私はここで守りを固めよう」


 重秀がそう言うと、孝隆は「かたじけのうござる」と言って深々と頭を下げるのであった。





 それから2日後。小西行長率いる宇喜多水軍を除く宇喜多勢と、重秀とその家臣を除く羽柴勢が黒田孝隆と共に児島から備前本土へと渡っていった。残された重秀達が今後について話し合った。


 結果、塩飽防備のために塩飽本島にある笠島城には、残っている石田正澄の援軍として別所友之が派遣され、また常山城に移動してきた尾藤知宣の代わりに淡河定範が与島城に派遣されることになった。また、広島には山内一豊の代わりに外峯親子が派遣され、広島で築城中の砦の建設を進めることになった。

 また、下津井には宇喜多水軍の指揮官である小西行長が配属された。そして燃えてしまった常山城の再建には、山内一豊と加藤清正が任され、それ以外の者達は児島防衛と周辺海域の警固を行うこととなった。


 次の日。常山城の再建のため、近隣の村々から人夫を集めることにした。そこで各村々の庄屋が呼び出されることとなった。


「・・・というわけで、村々より男衆を何人か借りたい。無論、働いている間の報酬は約束しよう。ついでに怪我をしたり死んだ場合は本人とその家族に当座の収入を約束しよう」


 重秀が出席している中、山内一豊からそう言われた庄屋達は、要求を受け入れて男衆を差し出すこととなった。しかし、一人の庄屋が意見を言う。


「迫川村の権助と申します。羽柴様にお願いがござんす」


 庄屋から意見を言われるとは思っていなかった一豊は、思わず重秀の方を見た。重秀が首を一度だけ縦に振ると、一豊は顔を再び権助の方に向ける。


「許す。申せ」


「お城の御方様と妹様を弔ってやりてぇんだが」


 率直にそう答えた権助。それに対し、重秀と一豊は面食らったような表情をし、周りの他の庄屋達は顔を見合わせた。そして一人の庄屋が権助に言う。


「権助ェ。まだ鶴様と妹様を想っとるんか。もう昔の話でねぇか」


「昔じゃねぇ。七年前じゃ。それに、御方様も妹様も迫川の海女達に良うしてくれたんじゃ。迫川の連中は今でも上野の御方様や妹様を慕ってるんじゃ」


 権助がそう言うと、庄屋達が黙り込んだ。その様子を見ていた重秀が口を開く。


「・・・権助とやら。その、御方様と妹様とは一体何か?詳しく話してくれないか?」


 重秀がそう尋ねると、傍に座っていた一豊が「若殿」と声を掛けてきた。


「そんな事に時をかけている場合ではございませぬ。この後も若殿には色々とやっていただかなければなりませぬ故」


 一豊がそう言うと、重秀は「ちょっと」と言って一豊を手招きした。一豊が顔を近づけると、重秀は耳打ちをする。


「そうは言うけどな、伊右衛門(山内一豊のこと)。弔いと言われたら無下にはできないぞ?お城の御方様と妹様ということは、常山城に連なる方々となる。民に親しまれていた城の者を無下にしたら、常山城の再建に力を貸してくれなくなるやもしれぬではないか」


 重秀の小声に、一豊はハッとした顔をしつつ「それもそうでございますな」と言って頷いた。重秀が顔を権助に向ける。


「では、その御方様と妹様について話してもらおうか」


 興味津々にそう尋ねる重秀。そんな重秀に、権助は7年前に常山城で起きた悲劇を話し始めるのであった。





 常山城は備中国の戦国大名、三村家に従属する上野家の居城であった。三村家は元々備中国成羽と呼ばれる地域の国衆であったが、三村宗親の代の時に勢力を伸ばし、その子の三村家親の時代には毛利の傘下に入って備中国をほぼ統一することに成功した。

 その後、家親は備前国、美作国へと勢力を伸ばしたものの、当時備前と美作に勢力を伸ばそうとしていた宇喜多直家によって、日本史上初の鉄砲による狙撃で暗殺される、という事件が起きる。

 家親の跡を継いだ三村元親は親の仇である宇喜多と抗争を続けた。しかし天正二年(1574年)、なんと宇喜多と毛利が結びついてしまった。そこで元親は毛利から離反し、織田につくことにした。

 天正三年(1575年)、毛利の小早川隆景は備中が毛利から離反したことに危機感を覚え、宇喜多直家と共に元親を討伐することに決定。ここに備中兵乱と呼ばれる三村討伐の火蓋が切って落とされることとなった。

 天正三年(1575年)五月。三村家の本拠地である備中松山城が陥落。三村元親は自害し、戦国大名としての三村家は滅亡してしまった。

 その後も毛利・宇喜多連合軍は三村の諸城を陥落させ、最後に残ったのが常山城であった。この時の城主は上野隆徳であり、その妻は三村家親の娘の鶴という女性であった。

 天正三年(1575年)六月。毛利・宇喜多連合軍が常山城を攻撃開始。200騎しかいなかった常山城は1日で陥落することになった。

 この時、隆徳の妻である鶴は、自ら太刀を腰に帯び、長刀なぎなたを両手に握りしめ、武装した家臣の妻や娘37人と共に敵中に飛び出していった。この時の敵は乃美宗勝率いる乃美勢であったが、女だけの軍勢の奇襲を食らって混乱した。その混乱を鎮めていた宗勝に、鶴はなんと一騎打ちを申し込んだのであった。


「いくら強いからと言って、女相手に一騎打ちなど忍びない」


 そう言って断った宗勝に、鶴は太刀を宗勝に手渡し、自分の死後の供養を託した。その後、城内に戻ると夫の隆徳の目の前で自害。隆徳や付き従った37人の女達も自害して果てたのであった。


 さて、自害した女性は鶴と37人の女軍の者達だけではなかった。隆徳の継母と妹もまた自害して果てた。57歳の継母は刀を柱に固定させて、その刀に突進して自害した。16歳の妹もまた、継母が自害に使った刀を自らの胸に刺して自害したと言われている。





「・・・実は、儂の娘を始め、村の女子共は海女としてお城に魚や貝を納めておった。その時に御方様や妹様に声を掛けられててのう。親しくさせてもろうてたんじゃ。じゃが、毛利が攻めてきた際に城から『村の者は武家ではないので城に入ってはならぬ』と言われてのう・・・。儂等は黙って見ていることしかできなかったんじゃ。儂等は御方様や妹様を救えなかった。せめて弔ってやりたいんじゃ」


 権助の話を聞き終えた重秀と一豊、そして他の庄屋はしばらく黙っていた。重秀と一豊は両目を瞑り、庄屋達は互いに顔を見合わせていた。そんな中、重秀が両目を開いて権助に言う。


「・・・相分かった。城での弔いを認めよう。僧を呼んで読経させる。また、城の何処かに供養塔も建ててやろう」


 そう言うと権助だけでなく他の庄屋も「おおっ」と声を上げた。一方、一豊が小声で重秀に話しかける。


「・・・よろしいのでございますか?いつ毛利が常山城を奪い返しに来るやもしれませぬのに、そのような悠長なことをしても」


「奪い返す気なら元から城を放棄しないだろう。それに、この城でそういった悲惨な事があったとなれば、百姓共は怨念を恐れて再建の普請をしなくなるぞ。彼等に案ずることなく普請をさせるには、城で亡くなった者達の供養をした方が良い」


 城などの建築中に事故があった場合、それはきっと亡くなった者達の祟りではないか?と信じる者が多い時代である。少しでもそういった不安を取り除くのも為政者の仕事であった。





 それから2日後。重秀の主催で常山城で死んだ上野隆徳と妻の鶴、二人の息子、継母と妹、さらに女軍の37人やその他の兵達の慰霊祭が行われた。重秀を始め、家臣、迫川村の庄屋である権助とその妻子、迫川の百姓や海女、そして近隣の村からも庄屋が参加した慰霊祭となった。そして、城の一角には、亡くなった者達を弔う五輪塔も建てられた。


 こういった事がなされたせいか、常山城の再建工事では一人の死者も重傷者も出ずに無事工事が終了したのであった。


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― 新着の感想 ―
水軍を使っての大返し短縮だと思ってたら、なんかとんでもない情報が 義兄蒲生さんがいても手勢もそこまで連れてないだろうし、まったく予想がつかん
今回の話が吹っ飛んでしまう爆弾情報が!
いよいよ、本能寺の変が現実に迫る。しかし、何故光秀は謀反を起こしたのだろうか。 我々読者視点では本能寺の変があると知っているが重秀からすれば驚天動地の極みだろうな。場所にもよるが洛中周辺や近江方面だと…
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