第250話 村上調略(前編)
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天正十年(1582年)三月下旬。小早二番隊を指揮する田村保四郎は、フスタ船『電丸』に乗り、児島の西側の海を進んでいた。周囲には彼の指揮下にある小早が十数隻従っていた。
「前方の敵船団まで、一町(約109m)切りました」
「承知」
見張りの兵からの報告を聞いた保四郎がそう答えている間にも、『電丸』は波しぶきを上げて前方にいる毛利方の船団に近づいていく。もっとも、船団といっても、弁財船数隻と小早数隻の小規模なものだった。
いきなりの敵襲に慌てたのか、敵の船団の水夫達が艪を一生懸命漕いでいるのが見えた。しかしその動きはあまりにも遅かった。どうも艪をタイミングよく漕いでいないらしい。
「・・・奴ら、さては素人か?」
そう呟いた後、保四郎は『電丸』に乗っている兵達に大声を上げる。
「攻撃を開始する!小早にも指示を出せ!」
そう叫ぶと、船尾から太鼓と鐘の音がリズミカルに鳴らされた。また、旗を持った兵が大きく振った。直後、『電丸』や周囲の小早から大量の鉄砲音が鳴り響いた。
当然、敵の小早からも反撃がなされているが、羽柴水軍の圧倒的な鉄砲の数に押され、有効な反撃ができていなかった。
「必要以上に近寄るな。敵に焙烙玉や焙烙火矢を放たれてはこっちがやられるからな」
保四郎がそう指示を出すと、『電丸』は船団と並走しながら鉄砲を撃ちかけた。積んでいる鉄砲がいわゆる小筒(弾の重さが1〜3匁、口径が8〜13mmの火縄銃)だったため、船体自体への損害は軽微だった。しかし、数の多さと紙早合を使用した速射で甲板上の敵兵を撃ち倒し、敵船の戦闘能力を無力化していった。
「・・・敵さんも、こちらが想定以上の鉄砲を持ち込んでいるとは思っていないだろうな」
実はこの時、小早二番隊の『電丸』と麾下の小早には、櫂や艪を漕ぐ水夫が乗っていなかった。そして漕ぎ手の代わりに鉄砲足軽を乗せていたのであった。
元々フスタ船と小早は、三角帆を使用して風上にも進めるような船体構造をしていた。そのため、実は漕ぎ手がいなくても船を自在に進めることができる。
しかし、細々とした島が多くある瀬戸内海では、風だけの力での航行では潮の流れで進路が妨げられてしまい、島へ座礁する恐れがあった。そのため、どうしても人力による航行が必要だったのである。
しかし、児島や塩飽諸島の西側には、備後灘と燧灘が広がっていた。島が少なく、また海底も平坦なこの海は、潮の流れが比較的緩やかな海であった。そのため、風力だけで航行可能な海域でもあった。
そのことを知った重秀は、試しに小早一番隊から五番隊のフスタ船と小早から漕ぎ手を減らし、その代わり鉄砲足軽を乗せて西の海の警備に当たらせることにした。ちなみに増員した鉄砲足軽は、下津井の戦いで損傷し、下津井の湊や塩飽の島々で修復中の関船から抽出された足軽である。
重秀の試みは成功し、瀬戸内海の中では比較的広い備後灘や燧灘では、風の力のみで航行可能なフスタ船や小早が縦横無尽に走り回っては警戒活動を行っていた。
そして、備中国や備後国に近い備後灘では、羽柴の小早隊と小早川の輸送船団が小競り合いを行うことが多くなった。因島村上家や生口家率いる小早川水軍が児島や備中への輸送を行っているところを、羽柴水軍が襲撃を掛けていくのである。
「大将っ!敵船からの反撃が弱まりました!そろそろ行きますか!?」
傍にいた数少ない家臣からそう言われた保四郎は、大声を上げて指示を出す。
「よし!敵の弁財船を焼き討ちにする!小早には目もくれるな!弁財船に火を放ったら、さっさとずらかるぞ!」
保四郎がそう叫ぶと、船尾から再び太鼓と鐘がリズミカルに鳴らされ、先ほどとは違う旗が大きく振られた。そして『電丸』と小早は、それまで敵船団と並走していたのを止めて、中心部の弁財船群に舳先を向けたのであった。
同じ頃、伊予国に近い燧灘の海では、羽柴水軍のフスタ船『有明丸』が複数の小早を率いて海の上を進んでいた。
『有明丸』は『雷型』フスタ船の改良型である『有明型』の1番船である。『雷型』が小早の指揮能力を高めた船なのに対し、『有明型』はより戦闘力を高めた船である。具体的には船幅を広げ、兵士を乗せるスペースを広くしたのである。
「頭ァ!前に船でっせ!」
見張りの兵からそう報告を受けた増本喜兵衛は、見張りの兵が指差す方へ視線を向けた。確かにそこには弁財船が1隻、東へ向かって走っているのが見えた。
「・・・あれは商船か?」
「はい。しかし、船首に『丸に上の字』の旗があります。あれは村上の過所旗ですな」
喜兵衛の呟きに、傍にいた塩飽の水先案内人がそう応えた。
過所旗とは『過所船旗』とも言われるもので、村上水軍が支配する芸予海峡の島々の間を通る際、通行料を支払った船に掲げられる旗である。この旗を掲げている限り、村上水軍に襲われることはないだけでなく、難破した際には救助されるし、また無事に芸予海峡を抜けられるように水先案内人を付けてもらえるのである。
その過所旗を掲げた船は、『有明丸』の方へ近づいていった。一方の『有明丸』も商船の方へ近づいていく。そして隣り合うまで近づくと、商船の甲板から大声が聞こえてきた。
「そちらは塩飽の船かぁ!?」
「ああ!儂ぁ塩飽の広島、佐々木与右衛門の船に乗っている勘太郎だぁ!」
喜兵衛の傍にいた水先案内人がそう叫ぶと、船の縁から顔が出てきた。
「おお、広島の与右衛門のところの者かぁ!儂ぁ来島の米助じゃぁ!これからこの船は佐柳島まで行って、さらに堺まで行くけんのう!」
「分かったぁ!航海の無事を祈っとる!」
そう大声を交わした後、『有明丸』とその商船は何事もなくすれ違った。
傍から見れば実に奇妙な光景である。しかし、こんな奇妙な光景が燧灘ではよく見られていた。これは、村上水軍と塩飽の船方衆との間にある関係性が影響していた。
瀬戸内海を席巻した海賊、それが村上水軍というイメージが現代ではあるが、実際のところ村上水軍はそこまで瀬戸内海を支配していたわけではない。彼等のテリトリーはあくまで芸予海峡であり、その影響力は芸予海峡の東側である燧灘西部と、芸予海峡の西側である斎灘だけであった。そしてそれ以外の海を航行する場合は、その海域に詳しい舟手衆から水先案内人や護衛を借り入れて航行していたのである。
例えば過所旗を掲げた船が芸予海峡から塩飽諸島へ至ると、そこで水先案内人が村上水軍の者から塩飽の船方衆の者に変わるのである。そのため、塩飽の西端にある佐柳島では、村上の水先案内人と塩飽の水先案内人が引き継ぎを行うほどであった。
また、村上と塩飽は備後灘・燧灘を挟んでお隣同士ということもあり、その結びつきは強かった。例えば、大内義興が瀬戸内海で覇権を握っていた頃には、能島村上家から塩飽諸島へ代官が派遣されたこともあったが、これは塩飽を支配するため、と言うよりも大内家が塩飽の船方衆の力を借りる際の仲介者として能島村上家が指定されていたことから、交渉役として代官を派遣していた、と言われている。
また、能島村上家当主の村上武吉が元亀二年(1571年)に、備前の浦上宗景に呼応するように反毛利の態度を取った結果、小早川隆景に攻められてしまうのだが、この時塩飽の船方衆は能島村上家を支援している。
こういった関係性から、塩飽が羽柴方についても村上との関係は切れることなく続いていた。
そんな関係性について、重秀は規制したりはしなかった。というより、そもそもできなかった。南蛮貿易で力をつけている織田政権にとって、瀬戸内海を通ってやって来る南蛮や唐朝鮮の品物は無くてはならないものである。その品物を運んでくる船を通す村上水軍や、船を操る塩飽の船方衆の機嫌を損ねることはできなかったのである。そんな事をすれば信長から怒りを買うことは、重秀なら容易に想像がついた。
また、毛利も村上水軍を動かして上方に向かう船を通行止めにすることはなかった。一応、この時代にも『荷留』と呼ばれる経済制裁があったのだが、毛利は織田に対して荷留を行ったという史料は今のところ見つかっていない。恐らく通行料で利益を得る村上水軍の反発を恐れたのではないか、と思われる。
何はともあれ、村上水軍と塩飽の船方衆の結びつきの強さを利用して、重秀は能島の村上家に調略を仕掛けるのであった。
芸予諸島の一つである能島は、伯方島と大島の間にある宮窪瀬戸と呼ばれる海域に浮かぶ小さな島である。近くに鵜島と呼ばれる大きな島と、鯛崎島と呼ばれる能島より小さな島があり、これらと能島によって生み出される潮の流れは複雑かつ激しいものであった。そのため、宮窪瀬戸は古来より交通の難所として知られていた。
そんな宮窪瀬戸に浮かぶ能島は、島全体が能島村上家の居城となっている能島城となっていた。本丸、二の丸、三の丸、東南出丸、そして鯛崎島そのものを出丸とした鯛崎出丸や島に複数ある船溜まりからなる能島城は、まさに水軍の城であった。
そんな能島に塩飽の船方衆の一人、佐々木新右衛門がやってきたのは、天正十年(1582年)三月の末であった。
「爺さん、まだ生きとったんか」
「おかげさまでな。地獄も極楽も儂の腕を必要としとらんらしい」
能島城の本丸御殿の広間で、村上武吉から挨拶を受けた新右衛門が、そう応えて笑った。それを見た武吉も笑う。
「あっはっはっ、相変わらずな爺さんだぜ」
武吉はそう言うと、上座で並んで座っている若者の背中を叩きつつ、その若者を新右衛門に紹介した。
「ほれ!爺さんは覚えてないかもしれねぇが、俺の息子の少輔太郎(村上元吉のこと)だ!実は今年の正月に、こいつに家督を譲っとってな。今後はこいつが能島の連中を率いることになる」
武吉がそう言った後、隣りに座っていた若者が若干背中の痛みに耐えつつ、新右衛門に挨拶をした。
「お懐かしゅうござる、新右衛門殿。少輔太郎にござる。その節はお世話になり申した」
「おお、あん時の若造か!いや、立派になったなぁ!」
莞爾と笑いながらそう言う新右衛門。そんな新右衛門と元吉の間に入るように声を掛けてきた若者がいた。元吉の弟の村上景親である。
「あの、父上、兄上。この方とお知り合いなのですか?」
景親がそう言った瞬間、武吉から「馬鹿野郎っ!」と怒声が浴びせられた。
「この方はなっ!儂が若い頃から世話になっとる『笠島の佐々木一家』の頭目なんじゃぞ!儂にとっては大恩人なのに、何言いよるんじゃ!」
「・・・元亀二年(1572年)の二月に左衛門佐様(小早川隆景のこと)によって来島と因島に攻められた際に、嵐の海を突いて塩飽から兵糧を運んできてくださった御仁だぞ?覚えておらぬのか?」
元吉の言葉に、景親は頭を掻きながら答える。
「あん時は初陣だったけん、覚えてないんじゃ」
「はぁ〜。全く。ええか、このお方はなぁ。塩飽、いや塩飽だけじゃねぇ。瀬戸内に名を轟かした船乗りなんじゃ。瀬戸内中の潮の流れを知っていらっしゃるお方なんじゃぞ。それに、少輔太郎が言う通り、元亀二年の戦いの時には大友や三好、浦上が助けに来てくれん中、塩飽中の船かき集めて助けてくれたお方なんじゃ。まあ、あの後儂等は左衛門佐殿と和議結んだけんど、ほいでも助けに来てくれなんだら、どうなっとったことやら。それ以外にも色々と助けてくれた大恩人なんじゃ」
武吉がそう解説すると、新右衛門は右頬を右人差し指で掻きながら応える。
「昔の話じゃ。今は孫娘にすべてを任せて隠居の身じゃ」
「ああ、くまちゃんか。元気にやっとるか?」
「ああ。相変わらず船に乗って塩飽やら兵庫やら堺やらに行っとるよ。兵庫では店も持たせてもらっとる」
新右衛門の言葉に、武吉が「へぇ・・・」と口角を上げた。
「どうやら、新しい雇い主とは上手くいっとるようじゃな」
「ああ。儂も長く生きてきたが、今回ほどの雇い主ほど気前の良いものはないね」
新右衛門が即座にそう応えたため、武吉だけでなく元吉も「ほぅ・・・」と声を出した。
「新たな雇い主・・・羽柴筑前はそれほど気前が良いのか?」
武吉が眼光鋭く新右衛門に尋ねた。しかし、新右衛門はそれに臆すること無く答える。
「いや、儂等の雇い主はそっちじゃなくて倅の方だ」
「倅・・・。確か羽柴藤十郎とかいうやつだな」
「ああ、あれはいいぞ。儂達から年貢を取らねぇからな。塩を勝手に売りさばいても文句を言ってこねぇ。香川の代官とは大違いだ。・・・まあ、塩を売る相手は兵庫の商人なんだけどな」
重秀との約束で塩飽の船方衆は塩飽で採れる塩を誰に売っても良いことになった。しかし、そもそも瀬戸内海ではどこもかしこも塩を作っているため、近場に売っても売れはしない。
一方、香川が塩飽を取り戻す前は重秀との約束で塩を兵庫の商人に売ることになっていた。最初の頃は安く買い叩かれていたものの、時が経つにつれてそこそこ高値で買ってくれるようになっていた。
というのも、兵庫、というか須磨に公家が遊びに来た際にお土産で持たせた塩が何故か宮中で『須磨の塩』としてもてはやされていた。恐らく源氏物語の『須磨』の話の中で、光源氏が裏山で柴を燃やしている煙を塩を焼いている煙と勘違いしているシーンがあるため、それに思いを寄せているのかもしれなかった。
一応、須磨でも塩は作られているが、その量は著しく少なかった。一方、宮中からは須磨の塩を求める注文が殺到した。そこで兵庫の商人達は手に入りやすい塩飽の塩を須磨の塩として宮中に収めていた。ぶっちゃけ、産地偽造である。しかし、公家に配られたせいで京の人々では『須磨の塩』という名の塩飽の塩が評判となっていた。
足利義昭が京から追放されて以降、京では人口増加で塩の消費量が増えていた。そのため、各地から塩が集められていたが、『須磨の塩』は宮中でも扱われる塩として高値で取引されていた。そのため、兵庫の商人達は『須磨の塩』の中身である塩飽の塩を高値で買い付けることができるようになったのである。
というわけで、塩飽が再び羽柴の影響下に置かれることになり、塩飽の船方衆は誰に対しても塩を自由に売れるようになったものの、やはり得意先で高値で買ってくれる兵庫の商人に塩を売るのは変わらなかったのである。
「それに、羽柴の若様は儂等に養蚕や製油をもたらしてくれたしのう。これから塩飽は更に豊かになっていくぞ」
そう言うと新右衛門は、脇に置いてあった平包(風呂敷のこと)に包まれている物を自分の前に置いた。そして、自らその平包を開くと、中から反物が出てきた。
「これは羽柴の若君からの挨拶の品じゃ」
「ほう・・・。こいつは珍しい。縮緬じゃねぇか」
武吉がそう言うと、自ら手にとって反物を見つめた。
「・・・うん、糸は良いじゃねぇか。布地もしっかりしていて肌触りも良いな。博多から堺に向かう船から通行料として唐の絹織物をもらうが、それとも遜色のない出来だ」
「そいつは羽柴の旧領、北近江で採れた生糸を播磨の藍で染めたもの。ほんでその糸を堺で縮緬として織ったものじゃ。最近の堺じゃ唐人(中国人のこと)から唐の織物の仕方を教わる職人が多うなった。まあ、流石に宮中とかの畏き所に納める唐物に比べたらまだまだじゃが、日本でもその程度の絹織物ができるようになった、ということじゃ。ほんで、塩飽でもその生糸を作ろう思うとる」
新右衛門の話に、武吉は「そうかそうか」と笑いながら頷いた。しかし、すぐにその笑顔はなくなり、鋭い眼光を新右衛門に投げかける。
「・・・で?まさか自慢話をしに能島までやってきたわけじゃないんじゃろうな?」
武吉の鋭い眼光を真に受けた新右衛門は、特に気にすることもなく話を続ける。
「いや?ただ単に自慢話をしに来ただけじゃ。ついでに、おんしの最後の顔を見に来ただけじゃ」
新右衛門の予想外の発言に、武吉だけでなく元吉や景親までもが唖然とした顔つきになった。武吉が頬を引きつらせながら尋ねる。
「・・・なんで儂の顔を見るのが最後なんじゃ?まさか、羽柴の水軍が村上水軍に勝てると思っているのか?」
「十一年前、能島村上は小早川や因島、来島の村上と争うたじゃろう。あん時は儂始め、塩飽の船方衆の一部が能島助けに海渡ったけど、此度はそりゃないぞ?それどころか、塩飽から官軍が攻めてくるんだけんな。さすがのおんしでも、勝てるとは思えんのや」
新右衛門の言葉に、武吉が反論しようとした。しかし、その前に元吉が声を上げる。
「お待ちくだされ!官軍が攻めてくるとは一体どういうことか!?」
元吉がそう言うと、新右衛門は後頭部を右の指で掻きながら元吉に言う。
「そう大声上げるな。これから詳しゅう話したるけんよ」
そう言って新右衛門は元吉だけでなく、武吉や景親に説明をし始めるのであった。




