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第247話 児島の戦い(完結編)

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 見張りの兵の報告に、重秀は全てを理解した。味方の船が鐘や太鼓を全て鳴らし、かつ通信用の旗を多く振っている場合、それは敵の大将を討ち取ったか、その乗船を沈めたか、あるいは拿捕したか、のいづれかである。そして、この戦闘海域で唯一の敵の安宅船が燃えている、ということは、敵の大将の乗っていた船を沈めた、ということだ。

 このことで敵は艦隊としての統制を失い、さらに唯一の安宅船の喪失によって士気も大きく低下した。特に、戦場に駆り出されている武士ではない水夫達は、浮足立って逃げようとしていた。こうなるといくら脅したり宥めたりしても船をコントロールすることは不可能であった。

 実際、毛利方の船は統制を失い、戦闘海域より脱出しようという動きが多かった。しかし、それを見逃す重秀ではなかった。


「敵は逃げ始めたぞ!追撃するように伝えよ!」


 重秀がそう命じると、『村雨丸』から追撃の指示となる太鼓の音色が聞こえた。それを聞いた羽柴の軍船が一斉に追撃に移った。

 ある船は体当たりで沈め、ある船は鉄砲や大鉄砲で敵船の兵や水夫を撃ち倒そうとした。また、桐油が入った大徳利を毛利の軍船に投げつけ、油をぶち撒けた上で火矢を放つという事もやってのけた。

 結果、毛利方の船団は西の海へと逃走した。そんな中、護衛の乃美水軍は大将である乃美盛勝が戦死した後も戦闘海域に踏みとどまり、逃げる輸送用の弁財船を援護し続けていた。そのため、乃美水軍は羽柴水軍の猛攻を受け、大ダメージを負ってしまったのだった。





 羽柴水軍による追撃戦が行われている最中、羽柴水軍に属する一隻の小早が静かに戦闘海域より離脱した。『雪風丸』と名付けられたこの小早は、戦闘には加わらず、下津井の南側に浮かぶ塩飽諸島の一つ、櫃石島の側を航行していた。『雪風丸』は戦闘海域の周辺の監視を主な任務としていたが、もう一つの任務も担っていた。

 そのもう一つの任務とは、戦闘の結果を櫃石島の南側で待機している塩飽の船団に伝えることであった。


 櫃石島の南側で待機していた塩飽の船団を指揮する尾藤知宣は、『雪風丸』の船長から毛利の水軍が羽柴水軍によって敗北したことを聞くと、即座に出撃を命じた。目的は下津井にある湊の一つ、田之浦であった。

 そして出撃してから半刻後には、尾藤勢を乗せた船団は田之浦に到着。知宣に率いられた尾藤勢を上陸させた。尾藤勢が上陸し、田之浦を占領すると更に進撃を行った。目標は下津井城である。


 下津井城(後年別の場所に造られる下津井城とは異なるため、下津井古城とも呼ばれる)は、南北朝時代に九州から畿内に進撃する足利尊氏軍が駐屯したと言われるほど古い城であった。しかし、その後はあまり使われることもなかったため、防御力も劣化していた。

 そんな下津井城に、尾藤知宣率いる尾藤勢が攻め寄せた。しかし、すでに下津井にいた毛利水軍が羽柴水軍によって壊滅させられたのを目の前で見せられていた城番とその兵達は、すでに城から脱出して常山城へと落ち延びていた。そのため、下津井城はあっさりと尾藤勢によって占領されてしまった。


 下津井城が占領されたことで、下津井の戦いは終わった。この戦いで羽柴は児島における毛利の補給基地を占領することに成功した。これによって常山城が孤立することはないが、穂井田元清率いる毛利勢への補給が難しくなったことは間違いなかった。

 また、小早川隆景の下で小早川水軍の中核を担っていた乃美水軍を敗北させ、乃美宗勝の嫡男を戦死させたことで、羽柴と宇喜多は八浜合戦で戦死した宇喜多基家の仇を討つことに成功し、士気を取り戻すことに成功したのだった。





 下津井の戦いが終わってから5日後の天正十年(1582年)三月一日。下津井に小西行長率いる宇喜多水軍と、前野長康率いる前野勢を乗せた多くの弁財船がやってきた。

 そして行長と長康が下津井に上陸して下津井城に入ると、そこにいた重秀達と面会した。


「若殿。見事でございました。大殿(秀吉のこと)も若殿のご活躍に大変喜んでおられまする」


「藤十郎様。真にかたじけのうございました。与太郎様(宇喜多基家のこと)も仇討ちを藤十郎様が行ってくれたため、成仏されたことでしょう。宇喜多家の者として御礼申し上げまする」


 長康と行長がそう言って重秀に頭を下げた。重秀が頷く。


「うん。しかしながら、将右衛門(前野長康のこと)が下津井に来てくれるとは思っていなかった。父の兵力は足りているのか?」


 重秀の与力である長康が下津井に来ることは特に不思議なことではない。しかし、今回の出兵では長康率いる前野勢は秀吉の本軍と共に行動することになっていたため、長康が下津井に来たことで秀吉の兵力が減ってしまい、今後の毛利との戦いに支障をきたすのでは?と重秀は思ったのであった。


「先日、小一郎殿(羽柴小一郎長秀のこと)から使者が参りました。『今年の雪解けは意外に早くなりそうなので、但馬勢を引き連れての出陣は三月一日を予定』とのことでしたので、三月十日ごろには姫路に着陣されるとのこと。これで兵力も整いましょう」


 長康がそう説明すると、重秀は安堵の表情を浮かべる。


「そうか。小一郎の叔父上が来るのか。それなら案ずることもないな」


「はい。それに下津井は児島のみならず瀬戸内を抑える要所。ここをないがしろにするわけにはいかない、と大殿が申されておりました」


 下津井の南の海には塩飽諸島がある。つまり、下津井を抑えることで塩飽と共に瀬戸内の海を封鎖することができるのである。これで毛利水軍が塩飽より東に向かうことが事実上できなくなるので、塩飽以東の瀬戸内海の制海権は完全に羽柴の手に移ることになった。


「それに、それがしは若殿の手伝いを命じられました。この後、瀬戸内の水軍衆を調略なされるのでござろう?」


 長康がそう尋ねると、重秀は渋い顔をしながら答える。


「ああ。すでに塩飽の船方衆が隣の真鍋水軍を説得している。ただ、問題は村上水軍の調略なんだよなぁ・・・。新右衛門(塩飽船方衆の一人、佐々木新右衛門のこと)の話だと、あそこは結構複雑なんだよなぁ・・・」


 戦国時代、その名を轟かせた村上水軍。芸予諸島を拠点とした村上水軍は大きく3つに分かれているのは有名である。すなわち、芸予諸島の北東部にある因島を拠点とする因島村上家、芸予諸島の中央部にある能島そのものを居城とし、周辺の島々を拠点とした能島村上家、そして芸予諸島で一番四国に近い来島群島を拠点にした来島村上家である。


「因島の村上家は古くから毛利・・・というか小早川家と誼を通じていたし、来島の村上家は伊予の河野家との結び付きが強い。しかし、最大勢力の能島の村上家は大内だったり大友だったり毛利だったり浦上だったりと目まぐるしく結びついている。まあ、そんだけ色んな勢力の間を渡り歩いているならば、織田に寝返らせるのも難しくはないと思うんだけど」


 重秀がそう言うと、長康は「確かに」と頷いた。


「しかしながら若殿。大殿や官兵衛殿(黒田孝隆のこと)のお話では、むしろ来島の村上家の調略を優先させよと申されておりました。あそこが一番織田に寝返りやすいそうでござる」


 そう言うと長康は来島村上家について説明をし始めた。


 来島村上家の現当主は村上通総(みちふさ)である。彼は伊予河野家に仕える国衆の一人であったが、実は河野家を継ぐ事ができる人間と見られていた。

 というのも、彼の母親が河野弾正少弼通直の娘であり、一応河野家の血を受け継いでいるからである。

 そして、伊予河野家の第38代当主であった河野通宣には嗣子がおらず、その跡継ぎには継室である永寿(のちの天遊永寿)の連れ子である牛福丸(のちの河野伊予守通直)とされた。この牛福丸の実父は村上通康、すなわち通総の実父であった。つまり、牛福丸と通総は異母兄弟となる。

 そして、牛福丸の母親である永寿は宍戸隆家と五龍局(毛利元就の次女)の長女であった。つまり、牛福丸は毛利元就のひ孫に当たる。

 当時、伊予河野家は毛利の軍事力の助けがなければ立ち行かないほど衰退していた。なので通宣が毛利との結びつきを強めるために跡継ぎを牛福丸にしたと言われている。しかし、この決定に不満を持ったのが通総であった。

 衰退した伊予河野家を支えた村上通康の息子であり、河野家の血を引いている通総が河野家の当主になれなかったのは毛利のせいである、と思った通総は、毛利に対して必ずしも良い感情を抱いていなかったのである。


「・・・という事情があって、村上助兵衛(村上通総のこと)がこちら側に寝返るやもしれない、と大殿や官兵衛殿が申されておった」


 長康の説明を聞いた重秀は、「なるほど」と頷いた。そして自分の考えを長康に言う。


「それならば、上様の中国と四国の平定がなった暁には、助兵衛を河野家の当主とすることを約束すれば、我等に寝返るやも知れないな。しかし・・・」


 重秀がそう言うと、長康が「如何なされたか?」と尋ねてきた。重秀が答える。


「・・・来島村上家がこちらに寝返るとすると、能島村上家はこちらに寝返らぬかもしれない。能島村上家の当主である掃部頭(村上武吉のこと)と来島村上家の当主たる助兵衛は仲が悪いらしいから」


 佐々木新右衛門の話によれば、村上水軍が河野の援軍として大友と戦った際、その作戦内容について村上武吉と村上通総は義兄弟(武吉の妻が通総の姉妹)でありながらも対立し、それ以来不仲になっていた。


 重秀からそんな話を聞いた長康は、少し考えた後に口を開く。


「・・・それならば、いっそ我等で能島と来島との和議を斡旋しては如何でしょうか?毛利の代わりに上様の名において調停すると言えば、共に織田方に寝返るやもしれませぬ」


 長康の提案を重秀は受け入れた。その後、下津井城と城下の湊は長康と行長にひきわたされ、重秀は尾藤勢と水軍を率いて塩飽へと戻っていったのだった。





 備後国沼田川の河口には、三原要害と呼ばれる施設があった。小早川隆景が築いたこの要害は、小早川水軍の拠点として整備され、瀬戸内海における毛利水軍の重要な基地であった(改築され、三原城となるのは後年である)。

 そんな三原要害に、小早川隆景が安芸国吉田郡山城からやってきたのは、天正十年(1582年)三月十一日であった。


「・・・兵部(乃美宗勝のこと)。おもてを上げよ」


 三原要害の中にある屋敷の広間の上座に座している隆景が、穏やかな声で下座で平伏している乃美宗勝にそう声を掛けた。しかし、宗勝は頭を上げようとしなかった。


「・・・兵部殿。殿の御命でござるぞっ。面を上げられよっ」


 隆景が毛利家から小早川家に養子として送り込まれて以降、ずっと傍らに侍っていた家老の桂景信が強めの口調でそう言うと、隆景が景信を嗜める。


「そう申すな。兵部は嫡男を失ったのじゃ。その事を想えば強くは申せぬ」


 隆景がそう言うと、景信は「ははっ」と言って頭を下げた。直後、下座に座っていた宗勝が平伏したまま声を上げる。


「恐れながら申し上げます!此度の敗戦の責は拙者にございまする!願わくば、死を持って償いとうございますれば、この場で腹を切ることお許しくださいませ!御免!」


 そう言うや否や、宗勝は肩衣を脱ぎ捨て、更に小袖を脱ごうとした。当然、周囲にいた小早川家の家臣達が止めようと動き出したが、その前に隆景の大声が広間中に鳴り響く。


「止めよ兵部!死ぬこと儂が許さぬ!」


 この大声で家臣達はもちろん、宗勝すらも動きを止めた。隆景は今度は穏やかな声で宗勝を諭す。


「兵部よ。下津井の戦で我が方が敗けたことについては、少輔四郎(乃美盛勝のこと)の責である。しかし、少輔四郎は立派に戦い果てた。それに、少輔四郎を始め乃美水軍が奮戦してくれたお陰で、我が方の船の多くは備中や備後に逃げおおせることができた。どうしてこれ以上乃美を責めることがあろうか。

 ・・・兵部よ。羽柴、いや織田との戦いはまだまだ続く。いづれ少輔四郎の仇討ちができる時も来るであろう。それまでは恥辱に耐え、儂を支えて欲しい。良いな?」


 隆景がそう言うと、宗勝だけでなく周囲の家臣達からも嗚咽の声が聞こえた。そんな中、宗勝が涙を流しながら隆景に言う。


「もったいなき御言葉。この兵部、より一層殿のおんために働きまする。そして、少輔四郎の仇である羽柴藤十郎を必ずや討ち取り、その首級を殿に捧げまする!」


 宗勝の言葉に、隆景が力強く頷くのであった。


 その後、隆景達は今後の方針について話し合った。


「下津井が羽柴に奪われた以上、児島からは撤退したほうが良いかもしれぬ。少輔四郎・・・弟の方の少輔四郎(穂井田元清のこと)のことだが、あやつを常山城より退かせて備中と備前の国境にある境部七城のいづれかに移したほうが良いのではなかろうか?」


 隆景の提案に、家臣達は同意の声を上げたが、唯一反対したのが宗勝であった。


「児島の常山城を羽柴に明け渡せば、児島の北の海が完全に羽柴のものとなりまする。さすれば、児島の北の海に流れ込む河辺川(高梁川のこと)を使って境部七城の背後を突くことが可能になりまする。それを防ぐためにも、常山城を手放すわけには参りませぬ。かと言って毛利一門の穂井田様を常山城に置いて、万が一のことあれば毛利の面目が失われまする。そこで・・・」


 そこまで言うと宗勝は一息ついた。そして再び話し始める。


「・・・何卒、それがしを常山城へお遣わしくだされ。あの城は、かつて拙者が攻め落とした勝手知ったる城にございます。必ずや、守り抜いてご覧に入れまする」


 備前国児島にある常山城は、元々備中国の戦国大名である三村家と縁戚関係を結んでいた備中上野家の城であった。

 三村家は毛利家の支援の下、備中国のみならず備前国や美作国にまで勢力を伸ばしたものの、当主である三村家親が宇喜多直家によって狙撃されて死んだことから衰退し始めた。そして毛利と宇喜多が同盟を結んだことで、家親の跡を継いだ元親が織田信長に接近し、毛利と宇喜多と戦うことになった(備中兵乱)。

 その後、三村は毛利との戦に敗れて滅亡(宇喜多は少ししか戦っていなかった)。三村と共に毛利と戦った上野家もまた、常山城落城と同時に当主の上野隆徳が息子と共に自害したために滅亡してしまった。

 そして、この時常山城を攻撃した毛利勢の中に、乃美宗勝が含まれていたのであった。


「・・・しかし、兵部が常山城に入るとなると、乃美水軍の再建を誰がするのだ・・・?」


 隆景がそう言うと、宗勝は自信ありげに答える。


「我が次男新十郎(のちの乃美景継)は今年二十一歳の若造なれど、すでに船軍ふないくさを経験しております。新十郎めに任せておけば大事ないと考えまする」


「しかしなぁ・・・」


 隆景がそう言って渋ると、宗勝ははっきりとした物言いで隆景に言う。


「殿。我が息子の仇である羽柴藤十郎は塩飽の笠島城に居ると聞いておりまする。羽柴が常山城を攻めることあれば、必ずや羽柴藤十郎めは常山城攻めに加わるものと考えまする。何卒、それがしに息子の仇を討つ機会をお与えくだされ」


 そう言って宗勝は平伏した。その様子を見ていた隆景は、しばらく悩んだ後に「相分かった」と言った。


「そこまで言うなら、常山城に行ってもらおう。常山城に着いたら、少輔四郎・・・穂井田に幸山城に移るよう申し渡すように。御屋形様(毛利輝元のこと)には儂からお伝えしておく」


 隆景の言葉に、宗勝は元気よく「ははぁっ!」と返事を返しながら平伏したのだった。





 宗勝が元気よく広間から退出した後、残った隆景に側近の鵜飼元辰(もととき)が笑いながら隆景に話しかける。


「・・・殿が帰ってくる前は塞ぎ込んでいたのに、今ではあのように生き生きとなされておられる。いやはや、良かったと言うべきでござるな」


 そう言うと、隆景だけでなく周囲の者達から笑い声が上がった。しかし一人だけ笑わずに怒りの声を上げた者がいた。桂信景である。


「しかし、まさか塩飽が再び羽柴のものになっているとは。香川が羽柴から塩飽を取り返したと聞いていたが、まさか香川は羽柴と手を結んだのか?」


 景信が忌々しげにそう言うと、周囲の者達からも同意の声が上がった。そんな中、隆景が口を開く。


「・・・元々香川中務丞(香川信景のこと)は織田とも通じていたし、織田の同盟相手である長宗我部から養子をもらっていた。恐らく織田の力が強くなったので、再び織田に鞍替えしたのであろう。中務丞の考えそうなことよ」


 織田と長宗我部の関係が急速に冷え切ったことを知らない隆景は、そう考えて家臣達に言った。隆景が更に話す。


「塩飽に羽柴水軍が居るのは拙いが、かといって塩飽を攻めるのは無理だ。あそこは潮の流れが複雑で、塩飽の舟手衆以外の水夫が船を動かしても座礁するだけ、と掃部頭(村上武吉のこと)が申していたことがあった。

 ・・・ここは口惜しいが、守りに徹するしかない」


 そう言うと隆景とその家臣達は今後の備中防衛について話し合うのであった。


 隆景はこの時まだ知らなかった。この日、すなわち三月十一日。天目山の山麓にて武田勝頼・信勝父子が織田軍に追い詰められて自害してしまい、甲斐武田家が滅亡してしまったことを。そしてそれが毛利にさらなる危機を与えることを。


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