第244話 児島の戦い(前編)
感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。
重秀の塩飽における羽柴勢の今後の方針は、その後塩飽の島々に散っている重秀の家臣達に共有された。と同時に、重秀は決まった方針を秀吉に伝えた。伝えられた秀吉は、そのまま黒田孝隆に伝える。
「なるほど、若君は水軍を率いて塩飽周辺の毛利の拠点・・・、北の下津井と西の真鍋島を攻めると・・・」
そう言うと孝隆は少し考え、そして秀吉に修正を求めた。
「若君が塩飽から下津井へ攻めるのは反対いたしませぬが、真鍋島の真鍋水軍へは攻め込まず、調略で寝返らせるべきです」
真鍋島の真鍋水軍とは、備中国笠岡諸島(塩飽諸島の西隣にある群島)の一つである真鍋島を拠点に持つ水軍の事である。この水軍を率いているのが備中真鍋氏である。
藤原姓を持つ真鍋氏の発祥については諸説あるものの、平安時代末期から鎌倉時代初期にはすでに水軍を率いる一族として真鍋島とその周辺の島々を支配していた、と言われている。そして室町時代には備中国守護の細川氏に被官しており、その縁で伊予国や讃岐国、和泉国の細川家に一族を派遣していた。例えば木津川口の戦いで織田方に与して戦った和泉真鍋水軍の真鍋貞友・貞成親子はその時に和泉に移ってきた真鍋一族の末裔だと考えられている。
さて、室町時代には瀬戸内海に勢力を誇った真鍋水軍であったが、細川家の分裂と内紛によって真鍋家も弱体化。この頃には西の村上水軍と東の塩飽の船方衆の生存競争に敗北し、毛利水軍の一部となっていた。
「真鍋水軍が我等につけば、毛利水軍の一角を崩すことができまする」
孝隆の提案に対し、秀吉は更に修正を提案する。
「真鍋水軍だけでのうて、いっそ毛利水軍を構成する者全てを調略してはどうじゃ?」
秀吉の提案を聞いた孝隆は、確認のために秀吉に尋ねる。
「・・・それは乃美水軍や村上水軍も、でございますか?」
「ああ。まあ、乃美や村上の連中が真に我等に寝返るということはないやもしれぬ。しかし、毛利を動揺させることぐらいはできるじゃろう。要は毛利水軍が出張って来ぬようにすれば十分じゃ」
「承知しました。では毛利水軍への調略は若君にお任せいたしますか?」
孝隆がそう尋ねると、秀吉は右手で顎を擦りながら考え込んだ。そして孝隆に言う。
「・・・そうだな。官兵衛にはすでに小六(蜂須賀正勝のこと)と共に備後や備中、美作の調略を任せておる。それに毛利水軍も、となると官兵衛も辛かろう。ここは藤十郎にやらせてみるか。
・・・ただ、乃美水軍は官兵衛に任せる。乃美兵部(乃美宗勝のこと)は小早川の重臣。藤十郎ではきつかろう」
「承知しました。ではその旨、若君にお伝えいたしまする」
こういった事もあり、秀吉から重秀へ修正された方針が伝えられるのに日数がかかってしまった。そのため、羽柴・宇喜多連合軍は手痛い敗北を喫することになる。
秀吉から方針の変更を聞かされた重秀が、その変更された方針に従って準備をし終えた天正十年(1582年)二月二十二日。備前国児島の北岸にある大崎村にて、宇喜多忠家を総大将とした宇喜多勢と穂井田元清を総大将とした毛利勢との間で大規模な戦闘が行われた。いわゆる八浜合戦である。
それ以前から宇喜多勢と毛利勢との間では、宇喜多勢の拠点である八浜城と毛利勢の拠点である常山城の間にある麦飯山の砦を巡って小競り合いが続いていた。
当初、麦飯山には砦がなく、宇喜多勢が常山城を攻める際の拠点として麦飯山を占拠しようとしていたのだが、常山城の毛利勢が先に麦飯山を占拠。そこに砦を2つ作ることになった。
一方、麦飯山を取られた宇喜多勢は、八浜城の守りを固めることしかできなかった。そんな宇喜多勢に二月十九日、秀吉からの援軍として仙石秀久と赤松広英の軍勢がやってきた。
兵力は合わせて四百ほどではあったが、それでも宇喜多にとっては貴重な援軍であった。そこで総大将の宇喜多忠家は麦飯山の砦への総攻撃を考える。
「八浜城の守りを筑前様(秀吉のこと)の援軍を率いてこられた仙石殿と赤松殿にお任せし、我等は全軍を以て麦飯山を奪取する!」
忠家の並々ならぬ決意を込めた発言に、宇喜多基家や富川正利(のちの戸川秀安)などの宇喜多勢の武将だけでなく、仙石秀久も賛同を示した。そんな中、唯一反対したのが赤松広政(のちの斎村広英)であった。
「筑前守様より『守りに徹せよ』との下知をいただいておりますれば、ここは守りを固めて敵を抑えることが肝要かと」
しかし忠家は広政の言う事を聞かず、あくまで麦飯山の砦への総攻撃にこだわった。そこでその場にいた岡家利が別の提案をする。
「麦飯山の砦を直接攻めず、敵を誘い出すべし。すなわち、麦飯山周辺の草を馬の餌として刈り、挑発とするのでござる。そうすれば、挑発に乗った敵兵が砦からでてきます故、それを叩くべきと存ずる」
要するに砦を直接攻めるのではなく、その前に砦から出てくる兵を叩いて毛利勢の力を削ごう、という策であった。
「平内(岡家利のこと)の言う事もっともなり。しからば与太郎を大将として、まずは敵を挑発しようぞ」
こうしてまずは基家と正利の軍勢を主軸とした挑発部隊を先発させることにした。ただ、この提案に、秀久が意見を言う。
「恐れながら。仙石勢も先陣に加わりとう存じまする。援軍として、宇喜多の方々と共に戦いとうござる」
武功を横取りする気であった秀久が、そんな気配を見せずに言うと、忠家は一部だけ了承した。すなわち、先陣ではなく、宇喜多勢の控えとして最後尾に配属されることになった。
こうして、基家と正利が率いる挑発部隊を先頭に、忠家と家利が率いる主力部隊、仙石勢という順番で八浜城を出陣した。そして、赤松勢は八浜城の守備にあたることとなった。
麦飯山の麓にやってきた挑発部隊は、予定通り周辺の草を刈るという挑発行為を行った。そして麦飯山の毛利兵はまんまと挑発に乗った。砦から出撃し、草を刈っている宇喜多兵に襲いかかったのであった。
宇喜多兵は予定通り、当時北の海に面していた大崎村まで撤退すると、そこで待機していた挑発部隊の主力と合流。宇喜多基家の指揮の下、追ってきた毛利の兵と戦闘を開始した。
毛利の兵も負けじと反撃すると同時に麦飯山の砦から増援を呼び寄せると同時に、常山城の穂井田元清に援軍を求めた。このようにして八浜合戦の火蓋が切って落とされたのであった。
最初は有利に戦いを進めていた宇喜多勢であったが、有利に戦いを進めすぎて、麦飯山の砦に撤退しようとする毛利勢の追撃にかかった。しかし、大将である基家はその追撃を止めさせようとした。
「兵達に追撃するなと命じろ!麦飯山の砦へは主力と共に攻める!敵に釣られては却って砦からの反撃を食らうぞ!」
養父である宇喜多直家と共に戦場に出ていた基家は、その経験則から毛利勢の撤退が敗走ではないことに気がついていた。しかし、勝っている戦で頭に血が上っている宇喜多の兵達に基家の命令は伝わらなかった。
「与太郎様!このままでは兵達を止めることはできませぬ!」
基家と共に兵達を抑えようとしていた富川正利がそう大声を上げると、基家もまた大声を上げる。
「平右衛門(富川正利のこと)!お主はここで退路を確保しろ!俺は追撃した兵を連れ戻してくる!」
そう言うと基家は、正利の「なりませぬ!」と言って止める声を振り切って馬を西へと走らせた。
追撃した宇喜多の兵達に追いついた基家は、馬上から兵達の掌握にかかった。そして兵達をまとめると撤退しようとした。大声を張り上げつつも冷静に指揮を執り、部隊をまとめて引き上げようとする基家は、まさに宇喜多家を支える次世代の武将としての姿を見せていた。将来は宇喜多家氏(のちの宇喜多秀家)の第一の将として天下に名を馳せていたかもしれない。
しかし、そんな基家の未来への道は唐突に断ち切られた。彼の頭を鉄砲弾が撃ち抜いたのである。
毛利方からの狙撃か、それとも味方からの流れ弾か諸説あるのだが、基家を襲った鉄砲弾は彼の兜をやすやすと撃ち抜き、彼の頭に当たった。彼は落馬し、そのまま動かなくなった。享年二十一。
もし重秀の下津井攻撃が数日早ければ、毛利は兵を分散せざるを得ず、八浜に全力を注ぐことはできなかった。基家が命を落とすこともなかったかもしれない。
さて、基家が討ち死にする直前、毛利勢に常山城からの援軍が加わっていた。しかしその援軍は、宇喜多勢が予想もしていないところからやってきた。
村上八郎右衛門という武将に率いられた三百名ほどの援軍は、常山城近くの浜から多くの船に乗って海路で進出。大崎村の海岸に逆上陸を行い、宇喜多の挑発部隊の側面を突いたのだった。
毛利勢の援軍の到着と、大将の基家の討ち死にという報せは瞬く間に戦場に広がった。結果、毛利勢の士気は上がり、宇喜多の士気はどん底にまで落ちた。そんな宇喜多の挑発部隊は、雪崩をうって敗走した。
後方から来ていた忠家率いる主力部隊は作戦の失敗を悟った。そして挑発部隊を見捨てて八浜城へ撤退した。一方、挑発部隊は正利の指揮の下、壮絶な撤退戦を行っていた。
この時、正利は自ら槍を振るって殿軍を務め、一人でも多くの兵を逃すべく奮戦していた。そして彼の周りでは、馬場職家を始め7人の宇喜多の武将が戦っていた。
戦いながらも正利達は何とか大崎村の東の出入り口にあたる場所を抜けた。そこは、高旗山と呼ばれる山の裾と海岸線がもっとも近い場所であり、山と海に挟まれた狭い通り道となっていた。
正利達を追って毛利勢がそんな狭い道を抜けた時であった。山側から多くの鉄砲の音が鳴り響いた。そして山から兵が毛利勢へと襲いかかってきた。それは、仙石秀久の率いる仙石勢であった。
秀久は宇喜多の主力部隊が撤退するのを見て、毛利勢の追撃があることを察知。迂回して高旗山に登ると大崎村の東の出入り口に当たる場所の山側に自らの軍勢を潜ませた。いわゆる伏兵である。そして敗走する宇喜多勢を追撃する毛利勢が粗方通り過ぎたのを見計らって、秀久は攻撃を命じた。
仙石勢の奇襲によって毛利勢は大混乱に陥った。そしてそれを見逃す正利ではなかった。
「見よ!敵は味方の奇襲で混乱している!今こそ反撃の刻ぞ!」
正利の声に応じ、馬場職家ら7人の武将が槍を振るって毛利勢に突撃した。7人の武将の槍さばきはとても凄まじく、次々と毛利方の将兵を討ち取っていった。また、その状況が宇喜多勢に伝わると、散り散りに逃げていた兵達が再び集結し、気がつけば主力部隊からも兵が参加するほどになっていた。
膨れ上がった挑発部隊は仙石勢と共に毛利勢を包囲し、そのまま殲滅戦へと移っていった。それまでの追撃戦で浮かれていた毛利の将兵は恐怖のどん底に叩き落された。それから一刻後、毛利勢は一部の者達が仙石勢の包囲を死に物狂いで突破し、脱出に成功したものの、それ以外の者達は尽く討ち取られてしまった。
八浜合戦は、宇喜多の戦略目標である麦飯山の2つの砦を奪取できなかったこと、宇喜多一門の基家を戦死させてしまったことから、宇喜多の負けとされている。宇喜多は自分達の敗北を隠すべく、富川正利と共に戦った馬場職家等7人の武将を『八浜の七本槍』として顕彰し、広く知らしめることで面目を保とうとした。
一方、勝利した毛利勢は宇喜多基家を討ち取ったことで面目を施すことができたものの、戦の後半での殲滅戦で多くの将兵を失ったため、児島東部を宇喜多から奪取するための戦力を失ってしまった。と同時にそれは、宇喜多の本拠地である石山城を海から包囲するという戦略が取れなくなった、という意味もあった。そのため、毛利は戦術的勝利を収めたものの、戦略的には敗北してしまったと言えるだろう。
兵力を減らした毛利勢の大将である穂井田元清は、備後にいた小早川隆景に援軍を要請した。しかし、その援軍は来ることはなかった。何故ならば、二月二十五日に行われた下津井の戦いで敗北したからである。
児島の南、塩飽諸島の一つである櫃石島の北側には下津井と呼ばれる湊があった。正確には下津井湊の他に、付近には吹上湊、田之浦湊そして大畠湊という湊があるのだが、これら全てをひっくるめて下津井と呼ばれていた。
下津井は古来より『風待ち・潮待ちの湊』と呼ばれており、瀬戸内海の重要な湊として栄えていた。特に、児島の北部の海が本州の川から流れる土砂によって埋まり、船の航行が難しくなって以降は児島の南部が重要な航路となっており、そこに面している下津井はより重要な湊となっていった。
さて、この頃の下津井は常山城を始め児島の西部を支配する毛利方にとって重要な補給基地となっていた。本当は児島の北側と本州の間にある藤戸海峡を使った方が距離的には近いのだが、さっきも言った通り土砂で海底が浅くなり、大型の船が通れなくなっていたため、大量の物資を運ぶのが難しくなっていた。そこで、大型の船が停泊できる下津井を経由した補給ルートができていた。
下津井が重要な補給基地であるため、毛利は下津井城(下津井古城のこと)に兵を配置し、また水軍も常駐させていた。
天正十年(1582年)二月二十五日。この日は前日に来ていた毛利の補給船団と、それを護衛してきた乃美水軍の軍船が下津井にて停泊していた。
「乃美様、お早うございますな。まだ日の出前ですぞ」
乃美水軍の指揮官として下津井城にいた乃美盛勝は、下津井城の城番からそう挨拶された。
「そう言う城番殿もお早うござるな」
「北で戦が続いておりますからな。敵から離れているとは言え、油断はできませぬ」
乃美家の嫡男であり、乃美水軍の若き武将である盛勝から挨拶をされた城番は、そう言って笑った。
「先日の大崎村での戦では我が方は宇喜多の大将を討ち取り、麦飯山に攻めてきた軍勢を退けました。このまま宇喜多に勝ち続けていきたいものですな」
その後の毛利勢の敗北を知らない城番は、のほほんと自軍の勝利を口にした。それを聞いた盛勝も気楽に「そうだな」と合意した。
「時に乃美様。日の出と同時に出帆されて備後に戻られるようでございますが、ちと早いのではございませぬか?南に塩飽があるため、潮の流れも複雑で付近には岩礁もありまする。もう少し明るくなってから出帆されたほうがよろしいのでは?」
城番がそう言うと、盛勝は首を横に振る。
「いや、早めに三原へ戻らなければならぬ。それに昨日、下津井に入る際に南の櫃石島より狼煙が上がっているのを見た。あそこは香川が治めている地なれど、香川はどうも信用できぬ」
盛勝は塩飽が羽柴から香川へ引き渡された、という情報を知っていた。しかし、香川は毛利と織田の両方と誼を通じており、しかも今は織田の同盟相手であり毛利の潜在的な敵である長宗我部から養子をもらっている家である。いつ毛利に戦を仕掛けるか分からない家として、毛利は警戒していた。
「なるほど。香川が狼煙を上げたことで、下津井に毛利の船団が入ったことを香川は誰かに報せたわけでございますな」
城番が渋い顔をしながらそう言うと、盛勝が「そうなるな」と頷いた。
「そして、誰にそれを報せたのか。讃岐の香川か?それとも長宗我部か?香川も長宗我部も児島には興味を持っていない。児島に興味を持っているのは、毛利以外ならば二家しかあるまい」
「・・・宇喜多と羽柴でございますな」
「そうだ。恐らく香川は長宗我部を通じて織田と結びついている。あの狼煙は織田方の宇喜多と羽柴に知らせたに違いない」
真剣そうな顔つきでそう言う盛勝。そんな盛勝に、城番は笑いながら言う。
「しかしながら、宇喜多水軍は高畠水軍と共に児島の北東の海を守るのに手一杯。羽柴水軍は飾磨に集結しているとの話は聞いておりますが、昨日の狼煙の報せを受けてこちらに来たところで、下津井に到着するのは明日でございましょう」
「懸念すべきは直島の高原水軍だが、小早だけの水軍ならば安宅船や関船を有する今の我が水軍でも十分勝てるからな。
・・・まあ、兵糧を運んできた備後や備中の船を無傷で帰さなければならぬ故、此度は戦わずに引き上げるけどな」
そう言って笑う盛勝と、それにつられて笑う城番。その後、盛勝は安宅船に乗るべく、城番と別れて他の家臣達と下津井城を出ていった。
盛勝が乗る安宅船『黒滝丸』は乃美水軍が持つ安宅船の一つで、瀬戸内海では標準的な安宅船である。今回は盛勝の旗艦であり、船団の中では唯一の安宅船として参加していた。
そんな安宅船に乗った盛勝の耳に、微かながら半鐘を打ち鳴らす音が聞こえた。盛勝が思わず口にする。
「・・・この鐘の音はどこからだ?」
盛勝の質問に、傍にいた家臣達は誰も答えることはできなかった。その代わり、盛勝の傍に『黒滝丸』に乗っていた兵が駆け込んできた。
「申し上げます!南より、大船団がこちらに向かってきております!」
「何だと!?」
兵の報告にそう返した盛勝は、すぐに『黒滝丸』の甲板に出た。そして南の方へ目を向けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
黎明の空の下、下津井の南に浮かぶ六口島と櫃石島の間の比較的広い海域に、関船と思われる大型の船が十数隻、数多くの小早を従えてこちらに向かっているのがはっきりと見えた。
そして盛勝はその関船の群れの中に、忘れたくても忘れられない、木津川口の戦いで自身を海に叩き落してくれた南蛮船もどきと同じ船を見つけた。
「あ、あれは羽柴水軍だ!敵襲だっ!」
盛勝がそう大声を上げた時だった。南の方からヒューっという音が聞こえた。
注釈
八浜合戦の舞台となった大崎村では、以下のような伝承が残っている。
八浜合戦で足を負傷した宇喜多与太郎基家は、大崎村の側にある竹藪に隠れていたが、大崎村の村人によって毛利方に通報されてしまい、基家は毛利方に討たれてしまった。
そんな基家を哀れに思った大崎村の村人たちは、基家を弔うために小さな祠を建てて祀った。この祠が今にも伝わる与太郎神社である。また、その由来から与太郎は足腰の病に対して霊験あらたかである、と言われて地元では足腰の病を治す神様として親しまれている。