第242話 塩飽回復(中編)
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天正十年(1582年)二月十四日。重秀率いる軍勢は海路飾磨湊に入った。そして、重秀を始めとする武将達はそのまま姫路城に入ると、秀吉に着陣の挨拶を行った。
「おお、藤十郎。よく来た!皆もよう来たのう!」
姫路城二の丸御殿の広間の上座に座っている秀吉が、下座に居並ぶ重秀達を見ながら機嫌の良い声を張り上げた。
「藤十郎。色々話す前にお主に紹介したい者がおる。木下治兵衛改め羽柴孫七郎秀継じゃ」
そう言って秀吉は広間の右側に座っていた若者を指差した。指を差された若者―――羽柴秀継が重秀に向かって平伏する。
「お懐かしゅうございます、従兄・・・いえ若殿様。この度元服いたしました羽柴孫七郎秀継でございます。大殿様より羽柴の姓を賜り、また烏帽子親である宮部善祥坊様(宮部継潤のこと)より名を頂きました。今後は羽柴一門の端くれとして、大殿様と若殿様をお支え致しまする」
そう言った秀継を見た重秀は、内心で驚いていた。それまでの秀継は重秀の前ではおどおどとしており、自信なさげに話していたからだった。しかし、今の秀継は堂々としており、口調もはっきりとしていた。
「・・・孫七郎、真に見事な若武者ぶり。共に父上をお支えし、羽柴の家をより盛り立てていこうではないか」
重秀もはっきりとした声でそう言うと、秀継は「ははぁ!」と言って再び平伏した。その様子を見ていた秀吉が重秀に話しかける。
「孫七郎は梅庵・・・いや、今は還俗して大村由己と名乗っておったな。その由己の元で勉学に励み、また彦右衛門(蜂須賀家政のこと)から武術を教わっておった。おかげで何とか文武に優れた若者になってくれたわ。なので羽柴の姓を名乗らせることにした。ついでに弥助(秀継の父。ともの夫)にも羽柴を名乗ることを許してやったわ」
そう言うと秀吉は、視線を重秀から外し、目の前にいる重秀とその家臣や与力達相手に声を上げる。
「羽柴に、新たに孫七郎という新たな仲間ができた!これからは共に歩み、そして毛利を討ち果たす!皆も孫七郎のこと、頼んだぞ!」
秀吉の声に、重秀達全てが「ははぁっ!」と言って平伏するのであった。
「さて。孫七郎の事はこのくらいでいいだろう。次に、明日来る予定の香川の使者・・・観音寺又五郎(香川景全のこと)との面談について話し合うか」
秀吉がそう言うと、傍らに座っている黒田孝隆に目配せした。孝隆が口を開く。
「では、拙者が説明いたしまする。香川への塩飽返還についてでございますが、香川は渋っております」
まあ、そうなるな、と重秀は思った。せっかく取り戻した領地を「はいそうですか」と言って引き渡す者はいないからだ。羽柴だって前の香川・長宗我部による塩飽の返還請求を最初は断ろうとしたものだった。もし、鳥取城が毛利方に乗っ取られたということがなければ、羽柴は香川と長宗我部との間で戦端を開いていただろう。
「・・・では、塩飽に兵を繰り出して一戦仕掛けるのでございますか?」
前の塩飽返還の時に反対論を唱えていた山内一豊が、何かを期待するような目を孝隆に向けながら言った。それに対し、孝隆は言う。
「そのことなのですが、戦になることはないと考えます。というのも、讃岐に送り込んだ間者の話では、香川の軍勢は東讃(讃岐国の東部)からの侵攻に備えているそうです。恐らく塩飽にまで兵を出す余裕はないでしょう。それに、昨日塩飽から使者がやってきて、『こちらは万事滞りなく』との言伝をもらいましたが・・・」
孝隆がそう言うと、視線を重秀に向けて尋ねる。
「・・・若君。塩飽の船方衆との繋がりがある若君のこと。何か仕掛けられましたか?」
「・・・塩飽の船方衆の一人、佐々木新右衛門の孫娘で兵庫津にいたくまを向かわせました。羽柴への寝返りを頼みました」
重秀がそう言うと、周囲から「おおっ」と感嘆の声が上がった。孝隆が納得した顔で言う。
「ということは、塩飽はすでに羽柴方でございますな」
孝隆の言葉に、重秀は「はい」と返事した。そんな重秀に、秀吉が話しかける。
「藤十郎。塩飽を羽柴に引き入れたことは見事であった。しかし、香川が塩飽の船方衆を根切り(皆殺し)にすることは考えなかったか?」
「無論考えました。しかしながら、塩飽の船方衆とその下にいる水夫達は熟練の操船術を持つ者ばかり。そして、瀬戸内の海運を担う者達です。そんな者達を根切りにすれば、瀬戸内の水運を頼みとする諸国の武家や商人に恨まれます。特に、塩飽を厚遇した上様のお怒りを買うようなことをするほど、香川も馬鹿ではありますまい」
重秀が自信ありげにそう言うと、秀吉は溜息をつきつつ首を横に振る。
「・・・お主の言っていることは間違ってはおらぬ。おらぬが・・・。藤十郎よ、人はお主のように理を持って動くほど賢くはない。己の心の赴くままにやらかして身を滅ぼす者は多くいるのだ。儂は史には詳しくないが、古にはそうやって滅んだ者が一人か二人はいたはずじゃ」
「・・・確かに、一人二人ではすまない数の者達が感情に従って判断した結果、身を滅ぼした例がございます。
・・・この藤十郎。浅はかでございました。香川が塩飽の水夫を根切りにすることはない、と思っておりましたが、そうではないということに思いを馳せなかったのは過ちにございました」
重秀がそう言って深々と頭を下げた。それを見た秀吉が「分かれば良い」と言って頷く。
「まあ、官兵衛が言っていた塩飽の使者の話からは、どうやら香川は根切りをしてはいないらしい。もっとも、塩飽にいる香川の兵は少なく、仮に根切りをしようとしても返り討ちにあうのだけじゃろうて」
秀吉の発言に、重秀は心の中で同意した。古来より船乗りというのは気性の激しい者ばかりである。そして、船乗りを生業としている者がほとんどの塩飽の住人を根切りにしようものなら、反撃を食らうことは必至である。下手したら返り討ちになる可能性が高いのだ。
「そう言うわけで、香川は渋っているとはいえ、塩飽の維持は難しくなっているでしょう。むしろ、筑前様が事前に報せた『塩飽を手放せば香川の所領安堵を認める』という話に乗る可能性が高いと考えます。故に、香川との一戦はないものと考えまする」
孝隆がそう言うと、重秀は安堵の表情を顔に浮かべた。香川との戦は望むところであったが、狭い塩飽の島々で戦をすれば、塩飽の住人を巻き込む虞があったからだ。ここで多くの塩飽の住人が死ねば、今後の塩飽の船方衆の協力は得られなくなるし、塩飽の操船技術を利用できなくなる。つまり、重秀が瀬戸内の水運を頼みとする諸国の武家や商人に恨まれるのだ。そして信長からの信頼も地に落ちるであろう。
「・・・香川と我等との間で戦がないであろう、という理由は分かりました。ならば、我等はもう塩飽に向かってよろしいのですか?」
重秀がそう尋ねると、孝隆が「まだ早うございます」と笑った。
「明日来る香川の使者と誓紙の交換をしなければなりませぬ。また、香川が最後の最後で文句や不満を言ってくるやもしれませぬ。そうなった場合に備え、若君と皆さんには明日の会見に参加していただきます」
孝隆がそう言った後に、今度は秀吉が口を開く。
「ああ。参加する際には、皆には甲冑姿で出てもらうぞ」
秀吉の言葉に、重秀が応える。
「・・・脅しですか?」
「事前の備えじゃ。まあ、又五郎がどう受け取るかは勝手じゃがな」
秀吉がニヤリと笑った。それを見て秀吉の意図を汲んだ重秀が口を開く。
「それならば、一部の者を飾磨湊に遣わし、いつでも出帆できるように致しまする。香川の使者の船から良く見えるように」
重秀の言葉に、秀吉は「頼んだぞ」と嬉しそうに言った。
塩飽についての話し合いが終わり、秀吉は次の話題を持ち出す。
「次は備前の情勢じゃ。官兵衛、説明を」
秀吉からそう言われた孝隆が、「承知しました」と言った。そして重秀の前に大きな絵図を広げる。
「これは備前の絵図にございます。後ろの方々も、どうぞご覧あれ」
孝隆がそう言うと、重秀の後ろに座っていた者達が前に集まってきた。そして、重秀を中心に半円形の形になって絵図を覗き込んだ。孝隆が話を始める。
「宇喜多の居城である石山城の北には、去年毛利に寝返った虎倉城があります。そして、その南にある忍山城も陥落させました。虎倉城と忍山城を毛利が落としたことで、備前備中の国境が完全に毛利方のものとなりました。
毛利は更に備前と備中の国境を固めるべく、宮路山城、冠山城、高松城、加茂城、日幡城、庭瀬城、松島城に兵と兵糧を集めております。毛利方はこの七つの城を『境目七城』と呼んでいるようでございます。その境目七城で毛利は我等織田勢と決戦を挑むものと思われます。
一方、石山城の南の海に浮かぶ児島の常山城には、毛利右馬頭(毛利輝元のこと)の叔父に当たる穂井田少輔(穂井田少輔四郎元清のこと)を総大将とする毛利の軍勢が入っております。これらの軍勢の目的は、児島全島を占領することで、備前と播磨の海路を切断することにあると思われます」
「・・・児島の東端にある小串城は高畠水軍の拠点。早くから羽柴に従っている高畠水軍は、毛利から見たら潰しておきたい裏切り者ですね」
重秀がそう言うと、孝隆は「おっしゃるとおりです」と頷いた。
「毛利の児島攻めに対し、宇喜多は七郎兵衛殿(宇喜多忠家のこと)と与太郎殿(宇喜多基家のこと)、富川正利(のちの戸川秀安)、岡家利(岡利勝とも)を中心とした軍勢を遣わしております。彼等は常山城の北東、児島の北岸沿いにある八浜城に軍勢を置いている他、南の駿河山城や見能城にも兵を置いて守りを固めております。
更に、児島の南には直島がございますれば、直島の高原久右衛門殿(高原次利のこと)に命じて、水軍による児島南部の警固を行っております」
孝隆の話を聞きつつ、重秀は備前の絵図を見つめていた。小さく描かれた児島の南西には塩飽の一部が描かれていた。ただし、しっかりと『塩飽』と文字が書かれていた。
重秀が孝隆に話しかける。
「・・・塩飽で児島の西部を囲めますね」
「おっしゃるとおりです」
孝隆がまるで正解を見つけた生徒を褒める教師のような声で重秀に言った。続けて孝隆が話を続ける。
「塩飽を抑えることができれば、児島の毛利勢を孤立化させることができます。昔は藤戸を経由して運び込めたのですが」
「藤戸?あれ?どっかで聞いたことあるな?そんな能の演目があったような・・・」
重秀がそう言いながら首を傾げると、孝隆が「よくご存知ですな」と感心したような声を上げた。
「佐々木左兵衛尉(佐々木盛綱のこと)が武功を挙げた藤戸合戦は、児島の藤戸で行われたものにございます」
「へー」
重秀がそう声を上げるのを見つつ、孝隆は話を元に戻す。
「まあ、それはともかく、藤戸を経由しての運搬は実際には難しいですな。とするならば、船を使って西から運び込む方を毛利は選ぶでしょう」
藤戸は元々児島と本州の間に横たわる海のことを指した。藤戸海峡とも呼ばれるこの場所は、東西を繋ぐ航路として重要視されていた。そこで、児島側には『藤戸の泊』と呼ばれる港があった。
しかし、本州側にある高梁川を始めとする本州を流れる川が運ぶ土砂によって藤戸海峡は埋められ、佐々木盛綱が活躍した平安末期にはだいぶ浅くなっていたと言われる。実際、佐々木盛綱が藤戸合戦(児島の戦いとも言う)の際には、馬に乗って藤戸海峡を渡ったとされていることから、馬の脚で渡れるほど浅くなっていたのであろう(もちろん、干潮時に渡ったと思われるが)。
そして、重秀がいた時代には、満潮時ですら船が航行できないほど浅くなっていたらしく、一方で海水に浸かる地面なので歩くにも一苦労する土地となっていた。そのため、補給ルートとしては使えない地となっていたのである。
「・・・とすると、私の役目は塩飽を取り戻すだけでなく、児島へ向かう毛利水軍と防ぐことにあるのですか?」
「さすがは若君。そのとおりでございます」
孝隆がそう言って破顔した。続いて秀吉が口を挟む。
「藤十郎。此度の役目はきつい役目ぞ。気性の荒い塩飽の船方衆をまとめつつ、児島に向かう毛利の水軍を防がなければならぬ。そして毛利の水軍の中には、あの村上水軍も含まれる。やれるか?」
秀吉がいつになく真面目な目つきでそう言うと、重秀もまた真剣な眼差しで秀吉を見ながら答える。
「父上。父上は長浜にいた頃より私に船をお与えになり、琵琶湖を船で行き来することを咎めずにいておられました。また、琵琶湖にて安宅船やフスタ船を作って頂き、その操船を舟手衆と共に学ばせて頂きました。そして、播磨にて水軍の指揮を委ねて頂き、木津川口や英賀城攻め、淡路平定にて船軍を任せて頂きました。水軍を持ちたいという私の我儘を聞いて頂いた父上の期待をどうして裏切れましょうや。この羽柴藤十郎、これまで得た知識と経験を以て、必ずや毛利の水軍に勝利してみせまする!」
凛とした発言に、秀吉は「良う言うた!」と声を上げた。
「それでこそ羽柴筑前守の息子よ!皆の衆!陸ではすでに羽柴の武名は西国に鳴り響いておる!次は海じゃ!瀬戸内の諸国に羽柴水軍の武名を鳴り響かせるのじゃ!そして、『織田に羽柴水軍あり』と天下に知らしめるのじゃ!」
秀吉の激に、重秀だけでなく広間にいた者全てが「応っ!」と大声を上げた。そして秀吉が再び重秀に話しかける。
「藤十郎。実は官兵衛が飾磨を中心とした水軍を作っておる。数は少ないが、赤松や小寺の水軍で活躍した者が少なからず加わっている。そいつ等もお主に付ける故、存分に使ってくれ」
「承知いたしました。しかし、播磨の水軍まで塩飽に連れていくとなると、備前と播磨の間の海路は守れなくなるのではございませぬか?」
重秀がそう尋ねると、秀吉は「案ずるな」と言って笑う。
「高畠水軍は残っておるし、小西弥九郎殿(小西行長のこと)の宇喜多水軍が残っておる。それに、紀伊守殿(池田恒興のこと)を介して勝九郎殿(池田元助のこと)から淡路水軍を借りることが決まっておる。これだけあれば備前と播磨の間の海路は守れるじゃろうて」
秀吉の言葉に、重秀は安堵の表情を浮かべた。そしてすぐに、塩飽での戦いに思いを馳せると、顔の表情を引き締めるのであった。
塩飽での戦いに思いを馳せた重秀。しかし、その頭の中には一つの疑問が湧いていた。重秀はその疑問を秀吉に尋ねるべく、口を開く。
「・・・父上。児島への援軍は派遣しないのですか?」
重秀の質問に対し、秀吉は「しない」と無下に答えた。
「実は和泉守(宇喜多直家のこと)の死が宇喜多内外に流れている虞があるんじゃ。和泉守の死は一年は秘匿せよというのが奴の遺言じゃったのだが」
「ああ、それで上様にも秘匿にしていたのですね」
重秀がそう言うと、秀吉は頷いた。そして話を続ける。
「しかし、和泉守の死は意外に早く漏れてしまったようじゃ。まあ、あの徳栄軒(武田信玄のこと)の死も秘匿されていたが、結構早く知られてしまってたからのう。中々死を隠すというのは難しいのやもしれぬ。
まあ、それはともかく、和泉守の死が漏れ出たせいで、宇喜多領内で動揺が広がってのう。噂では、また毛利に寝返るという話があるのじゃ」
「・・・それ、毛利は受け入れますか?あんだけ散々裏切られてきたのに。それでまた宇喜多の寝返りを受け入れるって、毛利の当主は馬鹿なのですか?」
「馬鹿かどうかは知らぬが、小早川左衛門佐(小早川隆景のこと)は受け入れるじゃろうな。そこまで追い詰められているからのう」
秀吉の発言に、毛利に何か思惑があるのか?と思った重秀。その疑問に答えたのは秀吉ではなく孝隆であった。
「実は鳥取城攻めが終わった後、それがしと小六殿(蜂須賀正勝のこと)と共に備中や備後の国衆に調略を仕掛けてましてな。まあ、小早川の与力共に動揺を誘えればいいかな、程度で仕掛けたのですが、意外にも内通を望む者達が多くてですな。左衛門佐としては、何とか国衆を引き留めようとしている訳です。その引き留めをしている間の壁が欲しいと」
「なるほど。宇喜多を羽柴の壁にしてその間に小早川内の引き締めを図ると。しかし、宇喜多は真に寝返るのでございますか?」
重秀がそう尋ねると、今度は秀吉が答える。
「・・・その虞は低いと思っちょる。七郎兵衛(宇喜多忠家のこと)は人望はないが阿呆ではない。今の毛利と織田を比べて毛利に寝返るということはないじゃろう。とは言え、万が一ということもある。用心するに越したことはない」
秀吉がそう言うと、重秀は少し考え込んだ。そしてその考えを秀吉に言う。
「・・・ここで宇喜多に助力し、羽柴は宇喜多を見捨てない、という意思を示しても良かったのでは?」
重秀の言葉に、今度は秀吉が考え込んだ。そして秀吉が再び話し出す。
「やはり、藤十郎もそう思うか。実は、官兵衛や小六からも『児島に援軍を送るべき』と言われておったのじゃ・・・」
そう言うと秀吉は右手で顎を擦りながら考え出した。しばらく考えた後、秀吉が孝隆に顔を向ける。
「・・・官兵衛。やはり児島に援軍を送ろう。権兵衛(仙石秀久のこと)と赤松孫次郎(赤松広英のこと)に行ってもらうかのう」
こうして、急遽児島へ援軍を送ることになるのであった。