第241話 塩飽回復(前編)
感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。
天正十年(1582年)二月二日。重秀は兵庫城本丸天守内にある広間に家臣と与力を集めていた。おなじみの顔ぶれの中に、新たな顔ぶれも混じっていた。
増本喜兵衛は元々摂津の国衆で、荒木村重の下で水軍衆を率いていた者であった。花隈城の戦いで村重が逃亡して以降、彼は淡路に逃げて菅達長に仕えてきた。しかし、去年の淡路平定の際に羽柴軍の捕虜となり、その後水軍の才能を買われて重秀に仕えるようになった。
高坂松次郎は元々伊勢安濃津城城主で重秀の岳父である織田信包に仕える船奉行であったが、急激な羽柴水軍の拡張に伴う武将不足のため、重秀が信包に頼んで移ってきてもらった武将であった。
梶原永宗は元高砂城城主で、梶原家の前当主である。高砂城降伏の際に弟の梶原左兵衛に家督を譲り、自らは出家していたものの、羽柴水軍の拡張のために重秀が左兵衛を介して家臣にと招聘した人物であった。彼は播磨中に散った梶原家臣とその兵達を集め、秀吉から飾磨湊で建造された関船四隻をもらった後、重秀のいる兵庫に移った武将であった。
「・・・さて。評定を始める前に、先の淡路平定での論功行賞を行う。上様より小豆島を拝領した故、小豆島は我が知行となった。しかも小豆島の水軍衆も我等のものとなった。そこで、小豆島を甚内(脇坂安治のこと)に任せようと思う」
重秀の言葉に、広間中がざわついた。そのざわめきを静めるべく、重秀が話を続ける。
「その代わり、甚内のそれまでの知行は召し上げ、淡路平定に参加した者全てに知行として加増する」
「・・・そうなると兄貴、いや若殿。甚内殿の知行は増えねぇ・・・いや、増えないのでござるか?」
福島正則がそう疑問を口に出すと、重秀は「いや」と首を横に振った。
「三好山城守様(三好康慶のこと)によれば、小豆島の貫高は約六千貫。石高にするとだいたい三千石ぐらいだな。今までの甚内の石高は二千石だったから、一千石の加増になる」
重秀の話に、広間が再びざわめいた。与力を除いた重秀の家臣のうち、最大の石高を有していたのは山内一豊の三千石であった。安治はその一豊に並んだことになる。つまり、安治は一豊と肩を並べる重秀の重臣となったのである。
しかし、安治本人はあまりこの加増を喜んではいなかった。その理由を安治は口にする。
「・・・一千石の加増は嬉しき事なれど、その代わりそれがしは小豆島へ渡らなければならぬ。そして、現地の水軍衆を束ねなければならぬのだ。喜んでばかりもいられぬ」
「なんでだよ。加増は加増だろ?」
正則がそう言うと、安治は正則を見つめながら応える。
「事前に若殿から伺ったところ、小豆島はだいぶ以前から、安富や十河といった讃岐の国衆の支配下にはなかったようだ。今までは讃岐の国衆の支配下にあるものと思っていたが、どうもそうではなかったらしい。かと言って、小豆島が一人の水軍衆の頭目に率いられているというわけでもない。最大勢力は島田という頭目らしいが、他にも複数の頭目がいる。これらを束ねなければならぬのだ。
しかも、若殿から小豆島の隣にある豊島の平定も命じられてしまった。豊島にも小規模ながら水軍衆がいるらしい。こいつ等も懐柔せねばならぬのだ」
そう言って困惑気味な顔の安治。そんな安治の顔を見て、正則は「それは骨折りなことで」と同情するように言った。それを見ていた重秀が口を開く。
「まあ、甚内は波多野や赤井といった丹波の国衆と交渉した経験があるからな。日向守様(明智光秀のこと)から認められた交渉術で小豆島と豊島の水軍衆を掌握してくれ」
重秀からそう言われた安治は「承りました」と言って平伏した。そして顔を上げて重秀に尋ねる。
「ときに、小豆島や豊島に養蚕や油桐の栽培、牛と鶏の飼育を伝えてよろしいのでございますか?」
「うん。小豆島や豊島にも塩飽の事が伝わっているかもしれないからな。小豆島や豊島の水軍衆を組み込む以上、連中にも利益をもたらさないといけないし、かといって年貢となり得る塩の徴収を止めると甚内の扶持が無くなるからな。
ただし、油桐の栽培ではなく、油菜の栽培を伝えて欲しい。そして菜種油の製造を勧めて欲しい」
重秀の言葉に、安治が思わず「油菜ぁ?」と声を上げた。重秀が話を続ける。
「油菜の種が摂津住吉郡の遠里小野から届けられているから、それを見せて米の裏作として栽培させるんだ。そして油菜の種を採って絞れば菜種油ができる」
「はぁ。承知しました」
安治はそう頭を下げつつも、内心では油菜と菜種油を勧める重秀を疑問視していた。油桐とそれから採れる桐油については実績があるので良かったが、実績のない菜種油の製造で小豆島や豊島が豊かになるのだろうか?という思いがあった。ここで小豆島と豊島が豊かにならなければ、安治の懐が温かくならないからだ。
そんな事を思っている安治に、重秀が話しかける。
「油菜は米の裏作となり得る作物だし、菜種油は灯明の油としても優秀だ。荏胡麻油の代わりに食用の油としても使える。小豆島や豊島で菜種油が取れるようになれば、島の水軍衆も甚内も利益を得ることができるはずだ。そして、菜種油が多く取れるようになって皆が使うようになれば、羽柴の銭も増えるというものだ。是非とも油菜の栽培を勧めてもらいたい。このとおりだ」
そう言って重秀は首だけ動かして頭を下げた。安治が慌てたように重秀に言う。
「主君が家臣に頭を下げるもんじゃありませんよ。ご覧なされ。市兵衛(福島正則のこと)だけでなく虎之助(加藤清正のこと)や伊右衛門殿(山内一豊のこと)が拙者を睨んでいるではありませぬか・・・。
・・・承知いたしました。油菜の栽培と菜種油の製造についても小豆島や豊島で行えるよう致しまする」
そう言って安治は平伏した。それを見た重秀が「よしっ」と声を上げた。
「後は甚内の旧領を配分するが、それについては弥三郎(石田正澄のこと)から伝える。弥三郎、頼む」
重秀がそう言うと、正澄は「承りました」と言って論功行賞の結果を発表するのであった。
論功行賞も終わり、改めて評定が始まった。評定の内容について、重秀が話し出す。
「さて、皆に集まってもらったのは他でもない。二月十五日までに姫路に出陣しなければならなくなった」
重秀の言葉に、広間がざわついた。尾藤知宣が重秀に言う。
「それはまた何故でございますか?」
「詳しい話は将右衛門(前野長康のこと)が話す」
重秀がそう言うと、言われた前野長康が話をし始める。
「毛利が宇喜多への攻撃を本格化してきた。どうも和泉守(宇喜多直家のこと)の死が毛利に漏れているようで、備前に攻撃を仕掛けているようだ。しかも、石山城を海から圧迫するべく、穂井田少輔四郎(穂井田元清のこと)という毛利右馬頭(毛利輝元のこと)の叔父を総大将とした毛利の軍勢が、児島の常山城に入ったという報せが姫路に入ってきた。
そこで大殿(秀吉のこと)は羽柴の全軍を持って姫路に集結した後、三月より備前に入って毛利と戦うことをお決めになられた」
長康がそう説明すると、知宣が「あいやしばらく」と口を挟んだ。
「何故三月なのでござるか?二月十五日に姫路に我等を呼んで、その後半月も姫路にて待たされるのはちと解せませぬな」
「その点については私から説明しよう。理由は二つある」
そう言って重秀が声を上げた。重秀が知宣に説明をする。
「まず一つ。姫路で小一郎の叔父上率いる但馬の軍勢を待たなければならない。二月だと但馬はまだ雪が多いからな。三月の雪解けまで待つということだ。
そして二つ目。実は、二月十五日前後に讃岐の香川から使者として観音寺又五郎殿(香川景全のこと)が姫路に来ることになっているのだ。上様から塩飽の引き渡しを命じられたことについて、話し合いをしたいと言ってきてな。父上は塩飽奪還のため、我等に出陣を命じてきたというわけだ」
重秀がそう言うと、広間のあちこちから「おおっ!」という声が聞こえた。一豊が重秀に尋ねる。
「ということは、塩飽に攻め入るということでございまするか?」
「香川が上様の命令を素直に聞いてくれれば、その必要はないんだけど。ただ、香川の後ろ盾だった長宗我部が織田との戦の危機に迫られている状態では、長宗我部の力を借りて羽柴に強気にはなれないだろうな。それに、それに、以前は鳥取城が乗っ取られるという事態があったため、香川に譲歩せざるを得なかったのだ。今回はそのようなことはない。堂々と塩飽に兵を向けて、笠島城と与島城、そして塩飽の島々から香川の兵共を叩き出してやる」
そう言うと重秀の口元が緩んだ。天正八年(1580年)九月から十月にかけて、せっかく手に入れた塩飽諸島を香川に引き渡すという屈辱を、重秀は忘れていなかった。そんな屈辱を味あわせてくれた香川と長宗我部に仕返しができるということに、重秀は嬉しさを感じていた。
そんな重秀に、加藤茂勝が話しかける。
「恐れながら若殿。塩飽が羽柴に戻るのであれば、兵庫にいるくま殿や船大工達を塩飽に戻してやるんですか?」
「それについては虎(加藤清正のこと)と紀之介(大谷吉隆のこと)を介して昨日伝えてある。ついでに、頼み事もしてもらってる」
重秀がそう言って加藤清正と大谷吉隆の方を見た。清正が茂勝に言う。
「くま殿には秘密裏に塩飽の本島に渡ってもらい、彼女の祖父である新右衛門殿に取り次いでもらうことになっている。そして、新右衛門殿が他の船方衆と共に、羽柴に寝返ってくれることを説得してもらう。それが終わるまでは金村も小坂も兵庫に残る」
清正の解説に、吉隆が同意するように頷いた。それを聞いた知宣が首を傾げる。
「・・・塩飽の船方衆を疑うわけではないのですが、我等に再び靡きますかね?」
知宣の疑問に対し、重秀が口を開く。
「その点だが、くまの話では、塩飽の船方衆と香川の代官との間で諍いが起きているらしい。元々塩飽は香川の支配下だったとはいえ、年貢の塩を一定量納める以外は船方衆が勝手にしていたらしい。それを福田又次郎という代官が支配を強めたから船方衆が反発し、又次郎は不幸な事故にあったのだ。今度来た代官も塩飽の支配を強めようとしたらしいな。
・・・まあ、その前に私が塩飽の惣を認めて年貢を免除したから、羽柴の方が香川より良かったと思っているのだろう。それならば、塩飽は羽柴に靡くだろうな」
重秀の言葉に、皆が同意するかのように頷いた。
「さて。我等が二月十五日までに姫路に向かわなければならないことは分かったであろう。では、これより陣立てを伝える。伊右衛門、頼んだ」
重秀からそう言われた一豊が「はっ」と言って頭を下げた。そして今回の陣立てを発表する。
「今回の陣立てについてだが、兵庫城の留守居役には寺沢藤左衛門(寺沢広政のこと)に任せる。また、脇坂甚内は小豆島と豊島への国替えがあるため、此度の陣立てには加わらない。一方、将右衛門殿、弥兵衛殿(浅野長吉のこと)、孫兵衛殿(木下定家のこと)、孫平次殿(中村一氏のこと)、茂助殿(堀尾吉晴のこと)も此度ご出馬していただく」
一豊に呼ばれた面々は「承知した」と言って頷いた。一豊の話はまだ続く。
「また、先程呼ばれた与力の方々以外の者・・・若殿の家臣は全て船での移動となる。船は兵庫津にある船だけでなく、紀伊守様(池田恒興のこと)が治める摂津からも借り上げることになっている。我等山内勢だけでなく、尾藤勢、石田勢も船に乗っていただく」
一豊の発言に、知宣が「あいやしばらく」と口を挟んだ。
「我等尾藤勢は船軍をしたことがないのだが・・・」
そう言った知宣に、一豊ではなく重秀が答える。
「此度は塩飽に山内勢と尾藤勢、石田勢を上陸させるつもりだ。とりあえず、飾磨湊までの船旅で船に慣れてもらおうと思っている。何、船の上で戦わせるつもりはないから案ずるな」
重秀の言葉に、知宣が「承知いたしました」と言って頭を下げた。
「ああ、兄貴。俺・・・拙者からも尋ねたき儀がござるのだが・・・」
福島正則が声を上げると、一豊が「なんだ」と言い放った。正則が話を続ける。
「拙者が乗っていた『驟雨丸』は先の淡路平定の際に損壊激しく、兵庫津についた後は解体されることになっている。拙者が乗るべき船がないのでござるが・・・」
正則の言葉に対し、これも一豊ではなく重秀が答える。
「市(福島正則のこと)とその兵は『時雨丸』に乗ってもらう。『時雨丸』は淡路平定の際に敵船に乗り込んだ兵の損失が激しく、兵力不足になっていたからな。しかも、指揮をしていた者は重傷を負った上、兵庫に帰還後に亡くなったので指揮をする者がいない。そこで『時雨丸』を市に預けるから、『時雨丸』の指揮を頼む」
重秀がそう説明すると、正則は「承知!」と言って頭を下げた。すかさず、今度は加藤清正が重秀に質問する。
「長兄、そうなると関船一番隊と関船二番隊はどのようになるのでしょうか?」
「関船一番隊は『村雨丸』『春雨丸』『時雨丸』とし、指揮は私が『村雨丸』に乗って執る。関船二番隊は『夕立丸』『五月雨丸』『梅雨丸』とし、指揮は四郎左衛門(外峯四郎左衛門のこと。本名津田盛月)が執るように」
重秀の回答に、清正だけでなく四郎左衛門も「承知いたしました」と言って頭を下げた。
一豊による陣立てはその後も続いた。そしてその発表が終わった後、重秀が思い出したかのように口を開く。
「ああ、そうだ。吉兵衛(黒田長政のこと)のことなのだが」
重秀が急にそう言うと、評定の末席にいた黒田長政が「は、ははっ」と言って身体を重秀の方に向けて平伏した。
重秀が皆に聞こえるように言う。
「吉兵衛には私の傍から離れてもらう。此度も黒田家の嫡男として、官兵衛殿(黒田孝隆のこと)の元で戦に加わってもらう。このことは父上も了承済みである。吉兵衛は速やかに姫路に帰還せよ」
そう言われた長政が「承知仕りました!」と言って頭を下げた。こうして評定は終わったのだった。
評定が終わり、皆が広間から出ていく最中、重秀と正則、清正は座ったままであった。それに気がついた一豊が声を掛ける。
「・・・若殿。如何なさいましたか?もう評定は終わっておりますが?」
「いや、実はこの後、天守の最上階で一人考え事をしようと思ってな・・・」
どことなく落ち着きのない状態でそう答える重秀。そんな重秀を不思議に思っていた一豊に、今度は清正が声を掛ける。
「伊右衛門殿。若殿はこれからの戦について色々考え事があるようでござる。姫路についたら大殿ともご相談したいこともありますれば、今のうちに静かな場所で考えをまとめたいとお考えでござる」
そう言われた一豊は「なるほど」と言うと、納得したような顔で重秀に頭を下げる。
「そう言うことであれば、若殿の熟慮を妨げることは致しますまい。拙者はこれにて」
そう言って一豊も広間を出ていった。そして、残された重秀と正則、清正はすぐに集まると額を寄せ合うように話し合う。
「市、虎、すまぬが一刻(約2時間)ほど天守に誰も近づけるな。いいな?」
「長兄、ご懸念無用。この虎之助が市と共に天守をお守りいたす」
「兄貴、一刻で足りるか?二刻ぐらいあったほうが良いんじゃねぇのか?」
「・・・あまり長すぎると縁や夏、七そして照に勘付かれる。一刻で良い。二人共、頼んだぞ」
重秀がそう言うと、正則と清正は頭を下げて広間から出ていった。そして残された重秀は、小走りに天守の登る階段に向かっていった。
そんな重秀の後ろ姿を見ながら、正則が清正に言う。
「・・・しかし、よく考えつくもんだよなぁ。日野殿(とらのこと)と目合うのに天守の最上階を使うとは」
「長兄は義姉上(縁のこと)に気を使っているのさ。本丸御殿が狭いから、日野殿とヤッている気配を義姉上に聞かれたくはないのさ」
「それはまあ、分かるんだけどね・・・。しかし、日野殿は義姉上が認めた側室。しかも蒲生家の姫君だ。蒲生の姫君を城外に連れ出して庄屋の納屋でヤッたり、天守の最上階でヤるっていうのはどうなんだろうね・・・。ってか、前は二の丸にある櫓の二階とか、馬小屋の側の馬具を置く小屋でもヤッてたじゃねーか」
「・・・長兄もさっき言ってただろう。義姉上だけでなく、その乳母や照殿に勘付かれたくないと。本丸御殿だと気付かれるからな」
それだけだろうか?と正則は思った。というのも、御殿の外でヤることについて、重秀もとらもやたらと積極的なのが正則から見れば異様であった。
―――まさかとは思うが、兄貴も日野殿も床の上での目合いではなく、御殿の外での目合いが好きだからヤッてるんじゃないだろうな?―――
そう思っている正則に、清正が話しかける。
「何にせよ、長兄は大殿(秀吉のこと)から『子をたくさん成せ』と命じられているんだ。どうやって子を成すかは長兄に任せるしかないだろう。それに、長兄が子をたくさん成せば、羽柴はそれだけ安泰するんだ。我等はそれを叶えるべく、見守るしかあるまい」
清正の言葉に、正則はただ肩を竦めて返すだけだった。