第240話 安土城にて
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安土城で信長に拝謁した宇喜多家氏(のちの宇喜多秀家)と宇喜多基家は、次の日には宿泊場所である羽柴屋敷から重秀の案内で岐阜城に向かう予定であった。織田家の現当主である織田信忠と面会するためである。
ところが、その日の夜に重秀から「岐阜城へは向かわない」と聞かされた。
「実は、先程城より報せがありまして、急遽、殿様(織田信忠のこと)が登城されたそうです。そこで、殿様と安土城で謁見できますよう、これより交渉してきます」
そう言って重秀は家氏と基家に一礼すると、その足で信忠が滞在している屋敷へと向かった。
重秀の交渉が良かったのか、家氏、基家の信忠への謁見は次の日の夕刻となった。約束の時間になる前に安土城の信忠屋敷に入った家氏と基家は、重秀と共に控えの間にて待機していた。
「・・・先程から屋敷の中が慌ただしく感じまするが、何かあったのでございましょうか?」
「・・・屋敷だけでなく、安土城全体が慌ただしく感じまするな。まるで、戦が始まるかのようでございます」
家氏に続いて基家がそう言うと、対面に座っている重秀が落ち着いた口調で二人に話しかける。
「昨日、殿様の側に仕える斎藤新五郎様(斎藤利治のこと)から聞いた話では、武田の重臣である木曽左馬頭(木曽義昌のこと)が調略によって織田に寝返ることを申し出てきたそうです。しかも弟(上松義豊のこと)を人質に差し出してきたようです。その事を殿様自ら上様にお報せに来たようですね」
「ほう・・・。武田の重臣が寝返りでございますか」
基家が感心したように言った。重秀が話を続ける。
「去年の三月に遠江国にある高天神城という城が徳川三河守様(徳川家康のこと)の軍勢によって落城しましたが、その際武田は援軍を送らなかったそうです。そのため、武田領内において武田左京大夫(武田勝頼のこと)の信頼が損なわれたようです。その機会を見逃さずに、殿様は武田の国衆や家臣の多数に調略を仕掛けたそうです」
「なるほど、それで木曽が釣れたと」
「木曽左馬頭の妻は徳栄軒(武田信玄のこと)の娘だそうで。つまり左馬頭は武田一門の端くれです。その左馬頭が武田を見限ったのです。しかも、木曽の領地は美濃と信濃の国境です。そこに中山道が通ってますから、いうなれば武田の領地の玄関になります。そこを寝返らせたのですから、殿様も自ら上様に報せたくなるというものです」
重秀がそう言うと、基家は「なるほど」と頷いた。その横で家氏が口を開く。
「・・・ということは、これから武田攻めということになりますが・・・。もし毛利が宇喜多を攻め続けた場合、宇喜多の後詰めとして三位中将様(織田信忠のこと)の軍勢が備前まで来られない、ということになりませぬか?」
家氏が心配そうにそう言うと、重秀が「案じられますな」と言った。
「宇喜多の背後には羽柴がおります。また、その背後には上様がおります。上様は鳥取城攻めの際に毛利の主力が鳥取城に来た場合、上様自ら軍勢を率いて毛利との決戦を望まれておりました。その場合、東の抑えとして殿様の軍勢を動かさなかったはずです。つまり、殿様の軍勢がなくても、毛利との戦に勝てる自信があったのです。もし毛利の主力が備前に来たとしても、上様の軍勢が後詰で来てくださいますよ」
重秀がそう言うと、家氏だけでなく基家も安堵の表情を見せた。そんな時だった。控えの間の障子が開いた。重秀達が障子の方へ顔を向けると、そこには小姓が一人座っていた。その小姓が平伏しながら口を開く。
「お待たせいたしました。殿様がお会いになられまする」
信忠屋敷の広間で、重秀と家氏、基家は信忠と面会した。まず重秀が羽柴家の代表として新年の挨拶を行い、また新年の贈り物を記した目録を渡した。
次に家氏と基家が信忠に拝謁した。信忠は家氏の新年の挨拶の素晴らしさを褒め称え、また基家から渡された新年の贈り物を記した目録に目を通して丁寧な礼を述べた。
そして家氏と基家が退出し、重秀も退出しようとしたが、信忠に止められる。
「藤十郎、久しく会っていなかったのだ。すぐに帰ることはなかろう」
そう言われた重秀は、退出するのを止めて信忠と向き合った。信忠が重秀に話しかける。
「藤十郎、お主の活躍は儂の耳にも入っておる。鳥取城攻めや淡路平定では随分と武功を挙げたな」
「もったいなきお言葉にございます。しかしながら、まだ毛利は屈せず、長宗我部も我等に挑まんとしている中、まだまだ力不足を痛感している次第にて」
「何を言う。お主ほどの者が力不足などと言っては、織田家中の者共全てが力不足だと言われるわ。お主はよく働いておる。その働き、儂も父上も満足しているぞ」
信忠の言葉に、重秀は「有難きお言葉にございます」と言って平伏した。信忠が話を続ける。
「それよりも木曽のことは聞いておるな?」
「はい。それによって武田と戦になることも」
「まあ、今は冬なので木曽路は雪に閉ざされており、即座に武田と戦になるわけではない。しかし、すでに父上は武田との戦に備えられておられる。先程、三河守殿に駿河攻めを命じる使者を送っていた。父の話によれば、駿河国の穴山梅雪斎(穴山信君のこと。穴山梅雪で有名)という徳栄軒の女婿が徳川と内通しているらしい。これを寝返らせれば、もはや武田は崩壊するだろうな」
「信濃の木曽だけではなく、駿河の穴山も武田を見限っているのですか・・・。武田の内部はそこまで分裂しておりましたか」
「うむ。儂も明日には岐阜に戻って戦支度をするつもりじゃ。ここのところ羽柴や柴田、惟任(明智のこと)だけが武功を挙げていたからな。その話を聞くたび儂や儂につけられた家臣や与力が歯がゆい思いをしていた。特に武蔵(森長可のこと)は去年の淡路平定の報を聞いて以降、儂に早く武田を攻めよと噛みついてきていたからな。どうやら勝九郎(池田元助のこと)が淡路一国を得られるほど武功を挙げたことで、武蔵の血が騒いでいるらしい」
笑いながら信忠がそう言うと、重秀は「武蔵様らしいですね」と笑った。そんな重秀に、笑っていた信忠が急に真面目な顔つきになった。そして重秀に言う。
「どうだ、藤十郎。儂と共に武田を攻めぬか?『今孔明』と呼ばれた竹中半兵衛の弟子として兵法を学び、数多くの戦場を経験したお主だ。儂の下で武田攻めの策を立ててみぬか?」
信忠の誘いに対し、重秀は言葉を詰まらせた。正直言って信忠の提案は魅力的であった。織田家の当主の下で軍師のような働きができるのだ。
しかし、重秀には羽柴水軍を率いて毛利と戦うという役目があった。毛利は宇喜多領である備前への圧力を強めており、羽柴もこれに対応する必要があった。しかも、四国の長宗我部と織田との関係が悪化しているため、四国にも目を向ける必要があった。父秀吉を放っておいて信濃や甲斐へ向かうことはできそうになかった。
なので重秀は申し訳無なさそうに信忠の提案を断った。この事で信忠の不興を買うのでは、と重秀は内心ビクついていたが、信忠は穏やかな声で「で、あるか」と言った。
「まあ、藤十郎は中国平定に必要な武将。毛利という大敵を前に抜けることは難しいか」
「申し訳ございませぬ。殿様の頼みを断ること、不忠の極みにございますれば、いかなるお叱りも甘受いたしまする」
「よい。儂も戯れ言を申した。忘れてくれ。まあ、儂も幼き頃より兵法を学び、父に連れられて戦場を見てきた。儂も一廉の将として、武田攻めでは策を立ててみせるわ」
そう言って笑う信忠。その顔には嬉しさが溢れていた。重秀がその様子を見て思わず信忠に言う。
「嬉しそうですね、殿様」
「分かるか?藤十郎。儂はいよいよ大望を叶えることができるのよ。これほど嬉しいことはあるまい」
「武田を攻めることができることでございますか?確かに長年の大敵である武田を討つのは大望ではございますが・・・」
重秀がそう言うと、信忠は「違う違う」と言った。
「儂の大望は、松姫を娶ることよ」
「・・・は?」
「なんだ、覚えておらぬのか?松姫は儂の許嫁だぞ?」
「いえ、それは覚えておりますが・・・」
まだ諦めていなかったのか、と思いつつ重秀は言葉を濁した。そんな重秀に、信忠は熱く語る。
「武田領に攻め入り、松姫を救い出す。確かに我等織田と武田は敵対した。しかし、儂の松姫に対する想いは変わらぬ!例え我が兵が幾人死すとも、必ずや松姫を我が手元に連れてくるのだ!そして我が大望叶った暁には、海の見える小さな丘の上の南蛮寺(キリスト教会のこと)で祝言を上げるのだ!」
熱を込めてそう言う信忠を重秀は内心「うわぁ・・・」と言いながら目を泳がせた。その目が信忠の傍らに侍っている斎藤利治の目とあった。能面のような顔の利治の目には、諦めの想いが溢れていた。
―――斎藤様も苦労したんだな・・・―――
そう思いながら重秀は、熱弁していた信忠のセリフの中にあった気になる発言について、信忠に尋ねる。
「・・・殿様。海の見える小さな丘の上の南蛮寺で祝言を、と仰られておりましたが、殿様は伴天連の教えに帰依されたのでございますか?」
そう聞かれた信忠は、それまでの興奮状態から一転、冷静な状態となって重秀に答える。
「・・・いや。いわゆるキリシタンにはなっておらぬ。キリシタンになると側室を抱えられなくなるからな。前に伴天連共に『衆道と側室を抱えることを認めれば、日本の民はすべからく神を奉り、伴天連の教えに帰依するであろう』と言ったのだが、伴天連共はうんともすんとも言わなかったな」
「・・・でしょうね」
伴天連の教えをある程度理解している重秀は、それしか言いようがなかった。信忠の話は続く。
「まあ、松姫と祝言が挙げられるならどこでも良い。それよりも松姫だ。今のところ武田家臣や国衆の調略ついでに松姫の居場所を探っていたが、とんと見つからぬ。もしや、儂の許嫁故、左京大夫(武田勝頼のこと)めに幽閉されているのではないだろうか?だとしたら許せぬ。左京大夫の首をねじ切り、必ずや松姫を助け出さん」
実際のところ、松姫の兄である武田勝頼は松姫を大切に扱い、自分の異母弟で松姫の同母兄に当たる高遠城城主の仁科盛信の庇護下においていた。そして信忠はそのことを知らずに高遠城を攻めることになる。
それからも信忠と話をした重秀。そろそろお暇しようかと思った時だった。信忠が重秀に言う。
「藤十郎、話はまだ尽きぬ。今宵は泊まっていけ。酒を片手に夜まで語り合おうぞ」
機嫌良く言う信忠に、重秀は申し訳なさそうに言う。
「殿様。控えの間にて八郎殿(宇喜多家氏のこと)と与太郎殿(宇喜多基家のこと)が待っております。お二方を羽柴屋敷に案内しなければなりませんが・・・」
重秀の言葉に、信忠は「で、あるか」と残念そうに言った。しかし、すぐに何かを思いついたかのような顔になると、重秀に言う。
「ではさっさと二人を送って行け。その後我が屋敷に戻ってこい。それなら良いであろう?」
---いや、羽柴屋敷に戻って於次様(織田信長の五男)の元服準備をしないといけないんだけど・・・---
そう思った重秀だったが、一方で信忠から東国方面の状況も聞きたいと思っていた。重秀は信忠の言うとおり、家氏と基家を羽柴屋敷に送った後に改めて信忠屋敷に来ることを約束するのであった。
重秀が信忠と酒を飲みながら歓談している最中、安土城内にある惟任屋敷の書院では、明智光秀が一通の手紙を読んでいた。
まるで苦痛に耐えるかのような表情で手紙を読んでいる光秀に、傍らにいた明智秀満(前の三宅左馬助)が恐る恐る尋ねる。
「・・・殿。柴田様(柴田勝家のこと)はなんと?」
そう言われた光秀は、手紙を丁寧に手紙を畳んで何度か深呼吸して表情を整えると
、視線を秀満に向けて口を開く。
「・・・修理亮殿(柴田勝家のこと)ではなく、お市の方様に仕える大野の方殿からの文よ。・・・どうやら、修理亮殿の説得に失敗したらしい。故に此度の話は無かったことにして欲しいと・・・」
「なんと・・・!それでは、若君(明智光慶のこと)と大姫(茶々のこと)との婚姻は!?」
秀満の言葉に、光秀はゆっくりと首を横に振った。秀満が怒りに任せて言う。
「なんということを!元々若君と柴田の姫君との婚姻は柴田《向こう》が先に言ってきたものを!それも始めは二の姫(初のこと)だったのに、急に大姫に変わったと思ったら、今度は婚姻を無かったものにしろとは!」
「・・・此度の縁組、元々はお市の方様が進めていたものだったらしいが、どうも修理亮殿は乗る気ではなかったようだ。恐らく、説得が叶わなかったのであろう」
諦め顔でそう言う光秀に対し、秀満は怒りの表情で光秀に言う。
「しかしながら!これでは明智・・・いや、惟任家の面目は丸つぶれにござる!このこと、上様に訴えて柴田を罰していただきましょうぞ!」
そんな事を言う秀満に、光秀は首を横に振る。
「そんな事をすれば、柴田はお主の妹婿の一件を持ち出すかもしれぬ。せっかく儂と修理亮殿との間で手打ちになったことが蒸し返されることになるのだぞ」
妹婿の一件とは、秀満の妹婿にあたる柴田勝定の事である。柴田の名字を持つこの者は、元々柴田勝家の家臣であった(血の繋がりについては不明)。そして勝家の下で奉行を務め、内政で活躍していたのだが、天正七年(1579年)か天正八年(1580年)頃に勝家の下から出奔し、妻の兄である三宅左馬助(のちの明智秀満)の縁を頼って光秀の配下になっていた。
「何を仰られるか!そもそも、源左衛門(柴田勝定のこと)が修理亮様の元から出奔したのは、源左衛門と修理亮様との間に諍いがあったからのこと!拙者はその件について預かり知らぬことにございます!その事は修理亮様にもご理解いただけたではありませぬか!」
勝定の出奔と明智に仕えたことについて、柴田サイドは「三宅左馬助が妹を介して勝定を引き抜いたのではないか?」という疑念を抱いていた。そのため、柴田勝家が光秀に勝定の返還を求めていた。
これに対し、光秀は当時の左馬助と勝定の両人から話を聞き、左馬助が勝定を柴田から引き抜いたわけではない事を勝家に説明。その後、勝家は何も言ってこなかったのであった。
ちなみに、明智サイドが積極的に引き抜いたという史料は見つかっていないため、勝定の出奔騒動に明智が関わっている可能性は低いと言える。
「・・・左馬助の言う通り、あれ以来修理亮殿は何も言ってこなくなった。しかし、それは惟任家との諍いを避けたかったからかもしれない。あの時は佐久間様(佐久間信盛のこと)の改易、追放という難事があったからな。修理亮殿も越前への異動があったから、それ以外の事で揉め事を起こしたくなかったのやもしれない。
・・・それに、その頃はお市の方様によって十五郎(明智光慶のこと)と二の姫様との婚姻の話も出されていた。お市の方様が修理亮殿を宥めておられたのやもしれぬ」
光秀の言葉に、秀満は黙り込んでしまった。しかし、その顔には悔しい思いが表情として現れていた。
そんな秀満に、光秀が溜息をつきながら話しかける。
「・・・まあ、此度は縁がなかったとして諦めよう。いづれ、十五郎にも良き縁談があるだろう」
「・・・しかし殿。柴田の仕打ちはあまりにも非道な所業。それがしは・・・」
口惜しゅうございます、と言いかけた秀満であったが、光秀の顔を見てそれを言うのを止めた。光秀の顔には、悲しさと諦めの表情の他に、悔しさの表情も含まれていたからだ。
―――この一件で一番悔しく思っているのは我が殿だ。それを我慢なされている―――
秀満がそう思っていると、光秀が重い口を開く。
「・・・それよりも、四国の方がより深刻な状況だ。内蔵助(斎藤利三のこと)の報せでは、兵部(石谷頼辰のこと)は宮内少輔様(長宗我部元親のこと)の説得に失敗したそうだ。長宗我部は土佐と阿波南部以外の地より兵を引くことを拒否したそうだ」
長宗我部と三好の戦を止めさせるべく、信長から長宗我部への取次を命じられている光秀であったが、そう簡単に事は運んでいなかった。光秀自身も予想していたが、長宗我部元親が信長からの提案―――土佐と阿波南部以外からの撤兵に猛反発していたのだ。
「『四国切取次第』だったのが急に方針転換したのだ。これで宮内少輔様が反発しないわけがないのだ・・・」
力なくそう言う光秀に、秀満は思わず「殿・・・」と声を掛けた。そして秀満は光秀の顔を見てハッとする。
―――殿のお顔はこのようなお顔であったか?急に老け込んだ・・・いや、まるで、死人のようではないか・・・?―――
そう思った秀満は、思わず光秀に話しかける。
「殿。お身体が優れぬのでございましたら、早急にお休みくだされ。身体を崩されては、元も子もありませぬ」
秀満の言葉に、光秀は首を横に振る。
「・・・いや、ここで休んではおられぬ。なんとしても四国の一件を片付け、少しでも十五郎やお主達家臣が苦労せぬようにしなければならぬからな」
そう言って儚く笑う光秀に、秀満は胸の奥に痛みを覚えるのであった。