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第239話 天正十年の正月

感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。


誤字脱字報告ありがとうございました。お手数をおかけしました。

 天正十年(1582年)一月中旬。元服したての宇喜多八郎家氏(のちの宇喜多秀家)は、秀吉と重秀、義兄の宇喜多基家に連れられて安土城に来ていた。


「・・・これは大きい。そして見たことのない天主です・・・」


 家氏がのけぞるように見上げた先には、五層の天主がそびえていた。新年の空にしては雲が広がっていたが、それでも天主に貼られた金箔が光を薄く放っていた。


「・・・それがしも見るのは二度目だが、いつ見ても素晴らしい天主だ」


 家氏の隣で同じように見上げながら基家が呟いた。そんな2人に秀吉が話しかける。


「さぁさ!お二方!そこで天主を見上げるのはそろそろ切り上げましょうぞ!早ういかないと、上様に叱られまするぞ!」


 秀吉の言葉に、2人は「あ、はい」と言って歩き出した。


「・・・しかし父上。我等に自ら百文の銭を持って登城せよ、とは一体どういうことなのでしょうか?」


 重秀が秀吉に話しかけたように、秀吉と重秀、そして家氏と基家は銭100文を包んだ布を持って安土城の天主に来ていた。これは、前日に織田信長の小姓である森長隆(前の森坊丸)から聞いた信長からの命令によるものだった。


「さあな。ただ、今年の正月の安土登城では多くの者共がやってきたそうだ。普段来ないような者共まで来たから、多くの人が乗った石垣が崩れて死人も出たという話じゃ。そいつ等も銭百文持参しておったらしいから、それと何か関係があるのやもしれぬのう」


 秀吉がそう話し、重秀達がそんな話を聞きながら歩いた。そして4人は安土城の天主へと入っていったのだった。





 安土城天主。その1階にある広間では、左右に信長の側近達が座り、下段の真ん中あたりには秀吉と重秀、家氏と基家が並んで座っていた。

 一方、上段の間には信長とその背後に太刀持ちが座っていたのだが、この時は信長の隣に元服前の少年が並んで座っていた。


 ―――上様の隣に座っている若人は何者じゃ?並んで座っているということは、上様の御子息なのかもしれぬが・・・―――


 そう思っていた秀吉に、信長が話しかける。


「猿!ようやっと安土に戻ってこれたな!」


「ははっ!この猿、上様より鳥取城を奪還するまで安土の地に足を踏み入れるな、と命じられておりましたが、この度、鳥取城を奪還いたしました!その旨、直に上様に申し上げたく、不肖羽柴筑前、恥ずかしながら安土に帰って参りました!何卒お許しを!」


 機嫌の良い信長に、同じく機嫌の良い秀吉がそう言うと、信長は「で、あるか!」と笑いながら応えた。


うぬの働き殊勝である!また、因幡国を自ら奪還したのに、その地を尼子式部少輔(尼子勝久のこと)に委ねたことも殊勝なり!更に去年十二月に多くの歳暮を寄越したことも余は満足よ!よって褒美を取らす!茶道具の名物八種をくれてやる!持っていけ!」


 信長の言葉に、秀吉は「有難き幸せ!」と言って平伏した。信長が更に言う。


「それと猿、いや筑前。汝にはやってもらいたいことがある。まあ、これも褒美だと思ってやってくれい!」


「ははっ!この猿。上様のためならば何でもやってみせまする!」


 秀吉が嬉しそうにそう言うと、信長も嬉しそうに返す。


「よくぞ申した!ではここにいる於次(於次丸のこと。信長の五男)の烏帽子親となってくれい!」


 そう言って信長は隣に並んで座っていた少年の肩を叩きながら言った。信長の言葉に、秀吉だけでなく周囲の者達も最初理解ができなかった。しかし、だんだんと理解が広がるうちに、秀吉は驚きと喜びの表情を顔に浮かべた。そして勢いよく畳に額を叩きつけながら言う。


「しょ、承知仕りました!この猿、於次様の烏帽子親となり、於次様の親として終生お支えすることを誓いまする!」


 元服の際に烏帽子親となった者は、対象となる烏帽子子と疑似的な親子関係が構築される。すなわち、親として烏帽子子のその後の人生においても長期的に助言や支援を行う役割が求められるのだ。

 そのため、烏帽子親を頼まれるということは、頼まれた側から信頼されている、という証になるのだ。つまり、秀吉は信長から息子を託されるほど信頼されている、ということを内外に示されたということになる。


「ときに筑前。於次の名・・・諱は汝に任せたい。何か良い名はないか?」


 信長の言葉に、秀吉が恐る恐る尋ねる。


「・・・秀勝では駄目でございますか?」


「駄目に決まっておろうが。通字の”信”がないではないか。余の息子には全て”信”の字があるのだぞ」


「・・・確か、源三郎様(信長の四男。前の御坊丸)は”信”の字は無かったのでは?」


「ああ、あやつは勝長だったが、今では信房になっておる」


「で、ございますか」


 自分の意見が通らなかった秀吉はがっかりした。が、すぐに気を取り直すと信長に提案する。


「それでは、信勝としては如何でございましょうか?」


 そう提案した秀吉に対し、信長は「信勝か・・・」と言って渋りだす。


「信勝は我が弟勘十郎(織田信行のこと)が一時使っていた名だ。余に二度も謀反を起こした者の名を余の息子に付けるのか」


 そう言われた秀吉は、「どないせいっちゅうんじゃ」と心の中で毒づいた。そんな秀吉を無視して信長が話し出す。


「”信”に汝の”秀”・・・では信秀となり父と同じになるな・・・。では”吉”の字を取り、信吉とすればよいだろう」


「・・・さすが上様!拙者の”吉”の字を使うていただき恐悦至極!そして信吉とは良き名でございまするな!・・・して通称は如何なさいましょうや?」


 秀吉がごまをするようにそう尋ねると、信長は少し考えて口を開く。


「四男は源三郎じゃ。その次だから源四郎でよかろう」


「源四郎とは強そうな御名でございまするなぁ。於次様、おめでとうございまする」


 秀吉がそう言って平伏すると、重秀や周囲にいた者達からも一斉に「おめでとうございまする」という声が上がった。その声を聞いて機嫌が良くなった信長が、視線を秀吉から重秀に移す。


「藤十郎!於次はこれによって汝の弟も同然よ!良くしてやってくれ!」


 信長からそう言われた重秀は、「しょ、承知いたしました!」と言って頭を下げた。そんな重秀に、信長はさらに声を掛ける。


「藤十郎。鳥取城攻めでは支城を多く落としたと聞いた。更に、紀伊(池田恒興のこと)から淡路で毛利水軍を殲滅したと聞いた。その働き見事なり!よって小豆島をくれてやる!しかと治めよ!」


 信長からそう言われた重秀は驚いてしまった。そのため、礼を言いそびれてしまった。秀吉が横から重秀の頭を引っ叩く。


「阿呆!上様から新しい知行を頂いたのに、何をボーッとしとるのじゃ!早う礼を言わぬか!」


「は、ははぁっ!有難き幸せ!」


 秀吉に叱られた重秀が慌てて平伏した。秀吉も「愚息が申し訳ございませぬ!」と言って平伏した。そんな2人を見ても、信長は機嫌が良かった。


「良い良い!藤十郎、小豆島は淡路よりは小さいが、それでも淡路と同じく堺や大坂を守る重要な島じゃ。心して治めよ」


 重秀は後で知らされるのだが、讃岐の国衆の代表格である十河存保の緩やかな支配下にあった小豆島は、三好康慶の交渉力で織田へ割譲されていた。なので、信長が重秀に与えることができたのであった。

 ちなみに、肝心の淡路島は池田元助の知行となった。そして淡路国の守護ともなった。父親である恒興が摂津国の守護であるため、池田家は織田家中では初めて親子で2カ国を治める家となった。

 もっとも、摂津国内には羽柴重秀が摂津二郡を有し、また中川清秀や高山右近といった国衆が知行を持っているため、恒興の知行はさほど多くはなかったし、元助の知行となった淡路国は一国とはいえその石高は低かったため、池田家は柴田家や惟任家(明智家のこと)、そして羽柴家よりは知行が少ない家であった。


 信長の話はまだ続く。


「ああ、それとな。今、長宗我部と四国について交渉しているが、日向(明智光秀のこと)も先関白殿下(近衛前久のこと)も長宗我部への説得に難儀しておる。よって西讃(讃岐西部のこと)の香川にまで手が回っておらぬ。そこで、羽柴には香川への取次を命じる故、塩飽を取り返してこい。香川が塩飽を始めとした瀬戸内の島々を織田に引き渡せば、香川へ所領安堵の朱印状を出してやる、と伝えてこい」


 信長からそう言われた秀吉と重秀は、「承りました」と言って平伏するのであった。





 秀吉と重秀への褒賞と命令が終わり、次に家氏と基家の挨拶が始まった。この時、家氏は十一歳とは思えぬほど堂々とした口上で新年の挨拶を信長に行った。また、新年の挨拶も教養の高さを思わせる内容となっており、宇喜多家次期当主としてふさわしい才を見せていた。

 広間の左右に座っていた側近達は一斉に感心したような声を上げる一方、信長は先程までの高い声から、低い声になって家氏に話しかける。


「宇喜多八郎、大儀。余は宇喜多の働きに満足している。羽柴と共に毛利を討ち果たすよう、汝の父に伝えよ」


 宇喜多直家が死んだことを知らない信長がそう言うと、家氏は「ははぁ!」と言って平伏し、つられて基家も平伏した。

 そんな2人の横から、秀吉が口を出す。


「恐れながら上様。お願いしたき儀がございまする」


「で、あるか。申してみよ」


 信長がそう言うと、秀吉は重秀の娘と家氏の婚約の許しを願い出た。


「何?羽柴と宇喜多が縁戚になることを認めよと申すのか?」


 信長の言葉に、秀吉が「御意にございまする」と応えた。それを聞いた信長は「で、あるか」と言ったが、その後黙ってしまった。秀吉達が固唾を呑んで見守っていると、信長が口を開く。


「・・・藤十郎の娘はまだ赤子。いくら何でも早すぎる。何故そんなに急ぐ必要がある?」


 信長の問いかけに、秀吉が即答する。


「申し上げます。毛利が備前への侵攻を行い、宇喜多討伐を本格化させております。官兵衛の話によれば、毛利は山陽方面に兵力を集結し、我が方と決戦を挑まんとしているのではないか、とのこと。ここで宇喜多を見捨てれば、宇喜多は再び毛利へ寝返るものと考えまする。よって、我が孫娘を嫁がせることによって、羽柴は、いや織田は宇喜多を見捨てない、という意思表示を示すべきである、と猿めは愚考いたしました」


 秀吉の答えに対し、信長は「で、あるか」と簡潔に応えた。そして秀吉に言う。


「宇喜多については汝の思う存分でよい。すべて任せる」


 信長がそう言うと、秀吉は「ははぁ!有難き幸せ!」と言って頭を下げた。そして、重秀と家氏、基家も頭を下げた。

 その様子を見て満足気に頷いた信長は、何かを思い出したかのような表情をすると、秀吉に声を掛ける。


「猿、汝を始め藤十郎や八郎、与太郎(宇喜多基家のこと)は銭百文持ってきたのであろうな?」


「は、ははっ。皆上様からの言いつけどおり、自ら銭百文を持ってまいりましたが・・・」


 秀吉がそう答えると、信長は「ならば良しっ!」と声を上げた。そして勢いよく立ち上がると、秀吉に声を掛ける。


「これより余が自ら本丸御殿を案内してやる。やっと本丸御殿が完成したのじゃ。ついて参れ」


 そう言って信長は上段の間から降りて下段の間を歩き出した。そして秀吉達の後ろの障子を両手で思いっきり開いた。皆が唖然としている中、信長が振り返りつつ声を上げる。


「猿!何を呆けておる!行くぞ!」


 信長の声に弾かれるように、秀吉達は立ち上がり、広間から出た信長を追いかけるように小走りを始めるのであった。





 天正九年(1581年)の十二月に終わった安土城本丸御殿の造営。実はそれ以前よりお濃の方を始め信長の妻子は住んでいたのだが、本丸御殿の中でもっとも重要な部分が完成しておらず、紆余曲折があって去年の十二月に完成したのであった。

 その重要な部分とは、本丸御殿と天主の間に造営されたと言われている『御幸(みゆき)の間』であった。


「・・・なんと。まるで極楽浄土もかくやと言わんばかりの豪華絢爛さでございますな・・・。姫路城に上様をお迎えするための御座所を拵えましたが、ここに比べたら姫路城の御座所など、とても足元に及びませぬ・・・」


 信長の案内で『御幸の間』に入った秀吉達。秀吉がそう言っている傍では、重秀を始め家氏や基家が驚きのあまり言葉を失っていた。

 そんな様子を見ていた信長が、勝ち誇ったような顔で秀吉に言う。


「汝のことよ。余の御座所を贅沢に造ったのであろう。しかし、この『御幸の間』はそれ以上なのは当然であろう。なんといっても、ここに帝をお迎えするのであるからな」


 ―――ああ、だから『御幸の間』なのか。しかしすごいな。あの襖絵、全て狩野派じゃないか。帝を迎える以上、ただの狩野派絵師の作じゃないな。きっと永徳様(狩野永徳のこと)自ら描かれたに違いない―――


 重秀がそう思っていると、信長が秀吉達に語り出す。


「帝をここにお迎えできれば、余の天下一統はほぼ成し遂げられることになる。帝が京より安土に行幸することで、畿内とその周辺は帝が出掛けられるほど平穏になった、と言えるからのう。

 ・・・そしてこれからは、朝廷の権威を以て余が公方(足利義昭のこと)に成り代わって天下の差配を行うことになろう」


「天下の、差配でございまするか・・・?」


 秀吉がそう呟くと、信長が「そうだ」と頷いた。


「実は去年、余は九州の大友と島津の和議を斡旋した。どうやら双方余の和議を受け入れるようじゃ。つまり、余が各地の大名の争いを裁くだけの力があるということじゃ」


 信長はそう言うと、真剣な眼差しで秀吉達を見つめた。秀吉達が息を呑む中、信長の話は続く。


「余はこれより日本ひのもとの争いを裁く。そもそも、足利公方の力が衰えた故、各地の争いが流血の惨事となったのだ。そしてそのとばっちりを食うのが力無き百姓よ。もうそのような状況は終わらせるべきであろう」


「さすがは上様!上様のお言葉で民百姓の心も安んじることができましょうぞ!百姓出の猿めにとって、そのお言葉が聞けただけで上様にお仕えして良かったと思えまする!・・・しかしながら、上様一人で日本全ての争いを裁くのはちと難しいのでは・・・?」


 秀吉がそう言うと、信長は「で、あるな」と鼻を鳴らしながら言った。


「さすがに百姓共の細々とした争いまで余一人で裁けぬわ。まあ、そういうのは知行を認めた家臣や国衆、大名共に余の代わりを任せる。ただ、国衆や大名の争いはそうはいかぬ。よって余が裁かなければならぬ」


 信長がそう言うと、視線を秀吉から重秀に移した。そして重秀に尋ねる。


「・・・藤十郎。争いを裁くのに必要なものは何か?」


「裁きの基準となる式目や法度、裁きを吟味する者、裁きに従わぬ者を誅する力でございます」


 岐阜城で小姓見習いとして学問の修練を行って以降、重秀は法律や訴訟についても学んできた。特に、菅浦での惣による自検断(裁判のこと)を知って以来、過去の法律や訴訟、判例を多く学んでいた。そして、摂津二郡の統治にて試行錯誤しながら実践していた。


 重秀の即答に、信長は満足げに頷く。


「見事。余はこれより天下一統の仕上げとして大名共の争いを鎮めていく。が、そのためには余に逆らう者共を討伐せねばならぬ。武田、上杉、毛利じゃな。まあ、そこに長宗我部が加わるが、それ以外の大名は余に従うことを報せてきておる。つまり、余が下す裁きを受け入れる、と言ってきているわけだ」


 実際、天正八年(1580年)頃より東北の蘆名や最上、伊達や南部が信長に使者や贈り物を贈っており、また関東の佐竹や北条も織田との誼を重視していた。


「汝等は国持大名。故にその力は今後、余に逆らいし者や余の裁きに従わぬ者共を誅する力となろう。相手は強大である故、苦しい戦いが続くであろうが、その先には天下の静謐へと繋がるであろう。汝等の働きに期待する」


 信長の言葉に、秀吉達は片膝をついて跪いた。そして秀吉が声を上げる。


「お任せくだされ!この猿、愚息と宇喜多の方々共に毛利を討ち果たし、上様の目指す天下静謐に力を尽くしまする!」


 秀吉がそう言って頭を下げた。重秀たちも頭を下げると、信長は「で、あるか!」と嬉しそうに高い声を上げた。





 その後、案内が終わった信長自ら、秀吉達が持っていた銭100文を徴収した。


「余が自ら帝の御座所を案内したのだ。見物料と案内料としては安かろう?」


 そう言って信長は両手で銭の入った複数の袋を軽々とぶら下げながら、唖然として立っている秀吉達の前から立ち去ったのであった。


注釈

第60話の注釈でも書いたが、御坊丸(のちの織田信房。織田勝長とも)については、今までは五男とされていた。しかし、最近の研究では四男とする説が有力である。これは、今まで四男とされていた於次丸が五男であると明示している資料が残っていること、また天正十年(1582年)時点では於次丸が15歳だったのに対し、信房には源三郎勝良という子がいたことから、生年は不明ながらも於次丸よりは歳上なのでは、と思われているからである。

従って、この小説では御坊丸を四男とし、於次丸は五男としている。

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― 新着の感想 ―
小豆島に前進基地を造れれば毛利、長曾我部、香川に相当な圧力をかけられそうですね
いや、本当に天下統一目前なんですよね。このままいけば譜代大名としての地位は安泰。中村の百姓が大出世だと万々歳です
ここで於次丸が来たかぁ 重秀がいるから、大きな影響はない気もするが… はてさて
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