第233話 馬ノ山の対陣
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天正九年(1581年)十月二十六日の朝。重秀は前田利勝と中川光重と対面していた。
「これから伯耆へ向かうのか。骨折りだな」
利勝の言葉に、重秀が「ああ」と頷いた。
「羽衣石城を攻撃しようとしている吉川勢を駆逐しないといけないからな。南条殿を救わなければ」
「しかし、さすがは筑前様。昨日鳥取城を開城させたと思ったら、今日には全軍を率いて羽衣石城に向かうとは、軍勢の動かし方が早いな」
光重がそう言うと、重秀は頷きながら言う。
「羽衣石城は前から毛利方に攻められている。今年の八月にも吉川駿河(吉川元春のこと)の長子(吉川元長のこと)に率いられた吉川勢五千に攻められているからな。まあ、この時は撃退に成功したが、それでも羽衣石城方の将兵が多数戦死している。もう一押されれば南条は負けるだろう。
それに、九月の下旬に吉川駿河自身が東伯耆に入ったとの報せが入っているし、噂では月山富田城に毛利右馬頭(毛利輝元のこと)と小早川左衛門佐(小早川隆景のこと)が入ったとのこと。鳥取城での敗北を羽衣石城陥落で埋め合わせをするのかも知れないからな。羽衣石城救援は喫緊の課題だよ」
肩を竦めて言う重秀に、利勝と光重は頷いた。それからしばらく三人は黙っていたが、利勝がおもむろに口を開く。
「・・・鳥取城の兵糧攻め、あれは想像を絶するものだった。後で知ったけど、まさか城内で食人がなされていたとはな。慶次郎殿(前田利益のこと)はなんとなく分かっていたようだけど、自身でも信じられない気持ちだったようだ」
利勝の言葉に光重も渋い顔で頷く。
「・・・我等も城内で生き残っていた者を救ったが、真に餓鬼というものがいるのだな、と思わされた。気の毒なのはやっと生き延びて飯にありつけたのに、その飯を食った途端に苦しんで死んだんだからな」
二人の話を聞いていた重秀が渋い顔をして話し出す。
「その話は俺も聞いたよ。諸将から『粥に毒が混じっていたのでは!?』という問い合わせが父や官兵衛殿(黒田孝隆のこと)に押し寄せてきたって聞いた。毒を入れていないことを証明するのに苦労した、とも聞いている」
実は重秀は鳥取城開城後の悲劇について、その現場を目撃してはいない。というのも、鳥取城開城時には重秀は宮部継潤と共に丸山城の引き渡しの手続きを行っていたのだ。
丸山城は鳥取城への補給ルート上にある城(規模としては砦であるが)なので、実は鳥取城よりも兵糧の備蓄の状況は悪くなかった。雁金山城が陥落した際に雁金山城とその周辺の陣所や支城から逃れた兵達が丸山城に入るという想定外の事態は発生したものの、鳥取城のように兵糧が尽きて人肉を食らいあうほどの惨劇は発生していなかった。
しかも、丸山城開城後に振る舞われた粥は、鳥取城の民百姓に振る舞われた量よりも少なかった。これは特に重秀やその家臣がリフィーディング症候群の事を知っていたわけではない。ただ単に鍋や燃料となる薪が不足していたため、大量に粥が作れなかっただけである。
しかし、その偶然のお陰で丸山城の兵達は鳥取城と同じ惨劇には見舞われずに済んだのである。
「・・・丸山城でも粥は振る舞ったが、粥を食べて死んだ者はいなかった。一体、鳥取城と丸山城では何が違ったんだろう・・・?」
首を傾げる重秀であったが、そんな重秀に利勝が声を掛ける。
「おい。そんなことよりもそろそろ出陣だろ?もう行かなくて良いのか?」
利勝の言葉に、重秀が「ああ、そうだった」と声を出した。
「ここで遅れたら、せっかく徹夜で出陣の準備をした意味が無くなる。それに、遅れると父上に叱られそうだ」
重秀がそう言うと、利勝と光重はそれぞれ重秀に激励と別れの言葉を掛けた。そして、重秀の傍から立ち去った。重秀もまた、自らの軍勢の元に戻るのであった。
織田信長の一代記によれば、天正九年(1581年)十月二十七日、秀吉率いる羽柴勢は伯耆に侵入し、馬ノ山と呼ばれる丘陵地帯に陣を構えている吉川元春の軍勢と対峙した、と書かれている。
十月二十五日には鳥取城にて吉川経家の首実検を行い、経家の首級を見て男泣きしていた秀吉が、その二日後には伯耆にて吉川元春の軍勢と対峙しているのである。この機動力の高さこそ、秀吉が後世にまで語り継がれる名将たる由縁である。
もっとも、実際のところは十月二十五日の鳥取城開城の前から、秀吉が軍勢を少しづつ伯耆方面へ動かしていただけなのだが、それを元春に悟らせなかったこともまた、秀吉が名将だと証明することになるだろう。
さて、吉川勢の本陣がある馬ノ山の南東にある御冠山に、突如秀吉の馬印である金の瓢箪が掲げられていることを知った吉川勢は混乱した。鳥取城が開城し、経家が腹を切ったのはすでに知られていたが、まさか鳥取城を包囲していた羽柴勢がこれほど早く近場に陣を張っているとは思わなかったからである。
しかし、吉川勢を率いているのは、一代で安芸の弱小国衆から中国地方の覇者にまで上り詰めた毛利元就の次男で歴戦の猛将たる吉川元春である。慌てふためく自分の息子の吉川元長を一喝して黙らせると、すぐに諸将を集めた。そして緊急の軍議で元春は異例の命を下す。
「馬ノ山の西側を流れている橋津川に架かる橋を全て焼き払え!渡しの船もだ!」
「ち、父上!?それでは我等は退路を失いまするぞ!」
西へ逃げるために必要な橋と船を焼き払うという命令に、元長は思わず声を上げた。周囲にいた吉川の家臣達も驚きの表情を顔に浮かべていたが、元春は「それがどうした!」と大声を上げた。
「鳥取城が落ち、式部少輔(吉川経家のこと)が切腹したことはお主等も知っておろう!仇を目の前にして何故退かねばならぬのだ!吉川は退かぬ!吉川に逃走はないのだっ!」
鬼気迫る表情で叫ぶ元春の様子に、元長や家臣達は何も言えなかった。結局、元長や家臣達は橋津川に架かる橋を焼き払い、渡し船は地元の漁師から借り上げた船を除いてすべて燃やしてしまったのだった。
一方、御冠山の羽柴勢は馬ノ山方面から黒煙が複数上がっているのを目撃した。秀吉は孝隆と鹿野城から尼子勢を引き連れてきた幸盛に馬ノ山方面の偵察を命じた。その結果、馬ノ山より西を流れる橋津川に架かる橋と渡し船が燃やされていることを知った。
「・・・自ら退路を断ったちゅう訳か・・・」
羽柴勢の本陣内で偵察の結果を聞いた秀吉がそう呻くと、傍らにいた重秀が唖然としながら発言する。
「川を背に陣を敷く・・・。まるで井陘の戦いの韓信ですね」
『史記』の『淮陰侯伝』にある逸話を思い出しながらそう言う重秀。そんな重秀の言葉に続けるように、今度は孝隆が口を開く。
「若君の言うとおり、これはいわゆる背水の陣でござる。吉川勢は自ら退路を断つことで、我等を戦う覚悟を見せつけました」
「敵は死兵となって我等と戦うか・・・。官兵衛、敵の数は?」
秀吉がそう尋ねると、孝隆は「およそ六千」と即答した。秀吉が両腕を組みながら唸る。
「う〜む、我が方は一万二千。敵の倍する兵力を持っているが、かと言って馬ノ山を攻めるにはちと心もとないのう・・・」
「兄者。昨日今日で強行軍を行った我等に山の陣城を攻めるというのはどうかと思うぞ」
「それに父上。空をご覧くだされ。黒い雲が空を覆っております。時期的に雪が降るやもしれませぬ・・・」
小一郎と重秀がそう言うと、秀吉は更に「う〜ん」と唸った。しばらく唸っていた秀吉であったが、溜息を一つつくと、孝隆に言う。
「・・・ここは、駿河(吉川元春のこと)との決戦はしない方が良いかのう?」
「その方がよろしいかと存じまする。ここは、羽衣石城に兵糧と武器弾薬の補給を行うだけでよろしいかと」
孝隆がそう言ったときであった。「あいやしばらく」という声が聞こえた。その声の主に軍議に参加していた諸将の視線が集まった。視線の先には、山中幸盛がいた。
「鹿介。まさか、駿河の軍勢と戦うべし、と言うのではあるまいな」
秀吉の言葉に対し、幸盛は「まさか」と言いつつ苦笑する。
「いくら拙者と駿河とは浅からぬ因縁があるからといって、死兵が籠もる陣城群に突撃するほど無謀ではござらぬ。現状を鑑みて、羽衣石城への兵糧と武器弾薬を運び入れること自体は同心仕る。しかしながら、羽衣石城の守りを固め、再び吉川が羽衣石城を脅かさぬよう対策を取るべきと存じまする」
幸盛の発言に、秀吉が興味を示す。
「ほう・・・。さすれば如何する?」
「まずはこれをご覧あれ」
そう言うと幸盛は手に持っていた一枚の紙を大盾で組んだ机の上に広げた。それは絵図であった。軍議に参加していた諸将がその絵図を覗き込む中、幸盛は絵図について解説する。
「この絵図は羽衣石城周辺を描いた絵図にござる。拙者が事前に尼子の間者を羽衣石城周辺に放ち、その報せを受けて描かせました。そしてこの部分をご覧くだされ」
幸盛がそう言って絵図の一点を指さした。そこは、羽衣石城の南側、谷を一つ隔てた山の頂であった。
「我が間者の話では、この山にはその昔、十万寺と呼ばれる寺があったそうでござる。今は寺の建物すらありませぬが、この頂きには曲輪になっているようでござる。そして、この山について調べた間者によれば、この頂きを中心に、複数の曲輪に適した場所がこの山にはあるようでござる」
幸盛がそう言うと、孝隆が顎を擦りながら尋ねる。
「・・・鹿介殿の目的は十万寺跡に陣城を築くことか?」
孝隆の言葉に幸盛が「はい」と答えた。続けて幸盛が言う。
「羽衣石城は曲輪が階段状になっているだけの単純な構造にて、防御力はさほど高くはございませぬ。それよりも、十万寺跡に筑前様が鳥取城攻めの際に築き上げたような陣城を築くことで、羽衣石城の後詰めの城としての役目を負わせ、羽衣石城をより堅固な守りの城にするべきと存じまする」
幸盛の話に、孝隆だけでなく秀吉も「なるほど」と言って納得した。しかし、そこに小一郎が声を上げる。
「で?その十万寺跡の陣城には誰が詰めるんだ?」
「当然、この山中鹿介が尼子勢と共に詰めるつもりでござる」
小一郎の疑問に即答する幸盛。秀吉が眉を顰めながら聞く。
「・・・お主は式部少輔殿(尼子勝久のこと)の傍で支えるべきではないのか?」
「殿の傍には亀井新十郎殿(亀井茲矩のこと)が控えておりますれば、殿についてはご心配いりませぬ。それより拙者がここに残り、西伯耆の国衆に対して調略を仕掛けたいと存じます。
・・・実は、拙者の配下には日野衆の者がおりますれば、西伯耆の調略は日野衆の者共に任せようかと思っております」
日野衆とは、伯耆国日野郡に割拠していた国衆のことである。日野山名氏、日野氏、進氏、原氏、蜂塚氏から成っていた。
伯耆国日野郡は古来より鉄の産地として有名であり、また、出雲国、備中国、備後国、美作国と接する交通の要所であった。そのため、伯耆守護である山名氏の力が衰えた戦国時代には、尼子氏や毛利氏に狙われる地となった。
日野衆は尼子氏に隷属したものの、毛利氏の侵攻を受けるなどして瓦解。この混乱の中で蜂塚氏は滅亡し、その他の氏族は離散してしまった(一部は留まって毛利に仕えた者もいる)。そんな中、離散した者の中には尼子勝久を主君とした尼子再興軍に参加した者達もいた。例えば日野氏の日野五郎、進氏の進幸義などである。
「なるほど。西伯耆の国衆の一族が加わっておられるならば、調略は難しくはないですな」
孝隆が感心したように言うと、秀吉が膝を叩く。
「ぃよしっ!十万寺跡に陣城を築こうではないか!鹿介には骨折りじゃが、陣城を任せる!羽衣石城の南条勘兵衛(南条元続のこと)には儂から話しておこう!
・・・小六(蜂須賀正勝のこと)、作内(加藤光泰のこと)、鹿介を手伝って陣城を作ってやれ!」
秀吉の決定に、幸盛だけでなく正勝や光泰も「ははっ!」と言って頭を下げた。秀吉の命令はまだ続く。
「残りの者達はここに残る者と羽衣石城や十万寺への物資補給を行うように。良いか!吉川駿河の目を羽衣石城と十万寺に向けさせるな!全軍がここにいるかのように吉川勢を騙すのじゃ!」
こうして羽柴勢による十万寺跡に陣城(のちの十万寺城)の築城が始まった。とはいえ、もうすぐ雪が降りそうな時期である。早急に築城しなければ羽柴勢は雪で播磨に帰れなくなる。なので蜂須賀勢や加藤勢、尼子勢だけでなく前野長康や藤堂高虎、山内一豊の軍勢も投入されることになった。
当然、吉川勢と対峙する兵数が減るのだが、秀吉は巧みな陣地構築で大軍が御冠山にいるように偽装した。結果、吉川元春は秀吉の兵数を最後まで見誤っていた。
一方、羽衣石城への兵糧物資の搬入は孝隆を始め小一郎や重秀の軍勢が行なっていた。これには元春も気付き、妨害すべく兵を送り込んできた。
東郷池の東岸にある松崎という地で、羽衣石城への補給を妨害するべく進出してきた吉川勢とそれを防ごうとした羽柴勢とで衝突が起きた。
後世の軍記物では吉川元長と羽柴重秀が一騎打ちをしたとされるが、当時の史料にはそのような記録がない。恐らく後世の創造であろう。
そんなこんなで十日程経ち、十万寺城の築城が粗方終わった。後は尼子勢だけでも作業は続けられることを知った秀吉は、羽衣石城と十万寺城への補給も完了していることを確認して御冠山の陣を引き払い、一路姫路城へと撤退を開始した。
「・・・そうか。羽柴勢は撤退したか」
チラチラと雪が降る馬ノ山で、物見からそう報された元春は、溜息を一つついた。傍らで床几に座っている元長が元春に尋ねる。
「父上。追撃をしなくてよろしいのですか?」
元長の質問に対し、元春は首を横に振る。
「いや・・・、良い・・・。我等も長い期間馬ノ山にて在陣しており、兵達も疲れている。それに、そろそろ兵糧も心もとない。式部少輔(吉川経家のこと)の仇を討てぬのは口惜しいが、無理に追撃することもない」
元春はそう言ったものの、ではこちらも引き上げよう、とは言わなかった。ひょっとしたら羽柴勢が引き返して来るかもしれなかったからだ。
「あと二、三日はここに残って様子を見る。その様に皆に伝えておけ」
そう命じられた元長が「ははっ」と言って頭を下げた。元長が陣から出ていった後、元春もまた陣から出ると、南の方へ顔を向けた。それは羽衣石城がある方角であった。
雪が降る中、元春は羽衣石城を見つめていた。雪が降る先に見えた羽衣石城は、晴れた時よりも見えにくくなっていた。しかし、一月近く羽衣石城を見ていた元春は、羽衣石城とその周辺に若干の違和感を覚えた。
―――あんな所に城があったか?―――
それは元春から見て羽衣石城の左手前側、すなわち羽衣石城から見て北北東に築かれた城であった。
実は十万寺城を築いている間、南条元続は秀吉の支援を受けて羽衣石城の支城を作っていた。番城と名付けられたこの城は、山の頂に主郭を、その周りに段曲輪を築き、それらを土塁や空堀で守るようにしていた。しかも、出入り口には虎口を作っており、羽柴勢が鳥取城などで造った附城とほぼ同じ造りをしていた。
すなわち、秀吉は十日間で羽衣石城の南北に二つの支城を造ったのであった。そして、元春はそのうちの一つに気がついたのであった。
「・・・誰かある!」
元春が若干慌てながらもそう声を上げると、すぐに家臣の一人が飛んできた。
「殿、お呼びでございますか?」
「すぐに羽衣石城とその周辺を物見せよ!」
それから1日かけた偵察により、羽衣石城の他に十万寺城と番城の存在が元春に知られた。
緊急の軍議が開かれ、元春から十万寺城と番城の存在を知らされた吉川の諸将達の意見は分かれた。
「今すぐにでも羽衣石城と二つの支城を攻めましょうぞ!」
「もう兵達に帰国を伝えているんだぞ!帰り支度も始まっているし、ここで再び戦をすると言ってみろ!皆戦うのを拒否するぞ!」
そう言い合う家臣の中で、元春は両腕を組んで両目を瞑っていた。そんな元春に、元長が話しかける。
「父上。如何なさいましょう?」
そう問いかけられた元春だったが、そのまま何も喋らなかった。それまで言い合いを行なっていた家臣達も、次第に元春の方へ視線を向けて黙ってしまった。陣内が静かになった後、元春が両目を開きつつ口も開く。
「・・・ここは撤退する」
元春の言葉に家臣達はざわついたが、元春が構わずに話し始める。
「・・・さすがは羽柴筑前よ。我等が御冠山に気を取られているうちに羽衣石城に陣城を二つも築城するとは。敵ながらあっぱれと言わざるを得ない。しかも、羽衣石城の南側の陣城には尼子の旗指物が掲げてあると言う。尼子の孫四郎(尼子勝久のこと)がいるとは思えぬから、恐らくはあの山中鹿介が居残っているのだろう」
元春が鹿介の名を出すと、元長や家臣達が一斉に苦虫を噛み潰した様な顔つきになった。鹿介の卓越した戦術眼に、吉川の諸将は苦汁を嘗めさせられてきたからだった。
元春が話を続ける。
「皆がそういう顔をするということは、鹿介がいる陣城を攻めればどういうことになるかは考えれば分かることだ。しかもこれから雪の季節。冬の雪山を攻めるほど無謀なことはないぞ」
そう言うと元春は床几から立ち上がった。元長と家臣達もつられて立ち上がる中、元春は声を上げる。
「明朝、月山富田城に引き上げる!」
次の日、吉川勢は月山富田城に引き上げていった。こうして、天正九年の山陰での戦いは、幕を下ろしたのであった。