表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
233/263

第232話 鳥取城の戦い(その8)

感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。


誤字脱字報告ありがとうございました。お手数をおかけしました。

感想が600件となりました。感想を書いていただき、改めて御礼申し上げます。


第223話を修正しました。詳しい修正内容は活動報告に記しております。

 後に『鳥取城の飢え殺し』と呼ばれる鳥取城の戦いでは、いわゆる食人が行われた事が記録されている。比較的近い時代に書かれた織田信長の一代記、そして竹中重門が記した豊臣秀吉の一代記にはその詳細が書かれている。

 天正九年(1581年)の八月には兵糧米は尽きており、それ以降は城内の草木や家畜や城内にいた野生の小動物を食していたが、それも尽きると次々と餓死者が続出した。

 羽柴勢は城内の兵達にプレッシャーを与えるため、附城から鉄砲を撃ちかけた。空腹と昼夜問わない鉄砲の射撃音で精神的に追い詰められた城内の人々は、とうとう餓死した者の死体を口にするようになった。そして、それは餓死した者だけでなく、城外に出ようとして鉄砲に撃たれた死体や怪我人すらも城内でバラバラにして食したと言われている。

 食人の対象が親子兄弟にまで及んでいることを知った鳥取城督の吉川経家は、冬までの籠城という当初の計画を諦めて秀吉に降伏することを決意した。

 天正九年(1581年)九月下旬。前田利勝や中川光重等の援軍が来る直前、吉川経家が秀吉に降伏を申し出た。条件は自らの切腹と鳥取城を引き渡すことであった。

 ところが秀吉はこの申し出を拒否する。


「元々逆臣である森下道誉と中村対馬(中村春続のこと)が山名中務大輔殿(山名豊国のこと)の留守を狙って鳥取城を乗っ取ったのが此度の戦の原因。その両名を許すなど言語道断!」


 そう言って使者を追い返した秀吉であったが、秀吉には別の意図があった。


 ―――毛利の主力を鳥取城に引き寄せ、上様率いる織田の主力と共に決戦を挑む!―――


 ところが、そんな秀吉の戦略に狂いが生じるようになる。


 まず、毛利の主力の動きが秀吉の予想に反していた。秀吉が予想していた毛利の主力の動きは、小早川隆景率いる毛利の主力が美作国を突破し、因幡に至ると考えていた。実際、毛利の主力は美作岩屋城を始め、宇喜多側の城を複数陥落させている。その結果、因幡国への道は開け、尚且つ伯耆国の羽衣石城を南から攻める事もできるようになっていた。

 しかし、その後毛利軍は北上を止め、なんと備前国へ侵攻を始めたのであった。事前に石山城(今の岡山城)の北にある虎倉城主の伊賀家久を寝返らせ、すぐ南にある忍山城を攻め落とした。また、石山城の南にある常山城の兵力を増強させると、宇喜多直家の本拠地である石山城を攻める様子を見せた。

 一方、吉川元春率いる山陰方面の毛利軍が南条元続が籠城している羽衣石城を再び総攻撃しようとしていた。


 秀吉は毛利の動きに混乱した。さっそく黒田孝隆に尋ねる。


「官兵衛。毛利の動きはどういう意図じゃ?連中は鳥取城を救援しないのか?吉川駿河(吉川元春のこと)だけで我等に勝てると考えているのか?」


「恐らく鳥取城を見捨てるのでございましょう。ひょっとしたら、毛利右馬頭(毛利輝元のこと)と小早川左衛門佐(小早川隆景のこと)は元々鳥取城を救う気がなかったのかもしれませぬ」


 孝隆が渋い顔をしながら言うと、秀吉は首を傾げながら反論する。


「しかし、それはおかしいではないか。元から鳥取城を見捨てるのであれば、何故吉川一門の者を鳥取城に送り込むんじゃ?もったいなかろう?それに、駿河の動きがあまりにも活発すぎるではないか?」


「考えられるのは二つ。一つは吉川一門を送り込むことで、他の国衆に『毛利は毛利方の国衆を見捨てない』という意思を伝えること、でござる」


 孝隆の回答に秀吉は「なるほど」と頷いた。


「もう一つは?」


「吉川駿河が鳥取城を見捨てることができず、独断で一門を派遣したのかもしれませぬ」


 孝隆のもう一つの回答を聞いた秀吉が、「ふむ・・・」と言って右手で顎を撫でた。しばらくそうした後、おもむろに口を開く。


「・・・だとしたら、吉川駿河と毛利右馬頭との間には亀裂が生じているのやもしれぬな」


「毛利右馬頭はまだ若年。両川(吉川元春と小早川隆景のこと)と呼ばれる二人の叔父と対立するようなことはしないでしょう。右馬頭には傍に左衛門佐がおりますれば、左衛門佐と駿河が対立しているのやもしれませぬ。すなわち、山陽を主戦場とするか、山陰を主戦場とするか、という対立です」


「左衛門佐と右馬頭は山陽派、駿河が山陰派と言ったところか。それを確かめたいのう・・・」


 秀吉がそう言うと、孝隆が「確かめる術がありますぞ」と言った。秀吉が思わず尋ねる。


「何?あるのか?」


「はい。鹿野城の尼子勢を使うのです。特に、鹿介殿(山中幸盛のこと)は調略謀略を得手としておりますれば」


 孝隆の言葉に、秀吉が膝を打つ。


「なるほど!鹿介に山陰の調略を仕掛けさせ、駿河の動きを見定めようっちゅう訳じゃな!」


「はい。山陰を治める駿河の足元で、尼子が復活するのをどう抑えるのか。それを見定めることで両川の考えがどこにあるのかが分かりまする。駿河が独自に対応するのか、それとも毛利が一門を挙げて対応するか」


「まあ、毛利がどっちに転んでも、我等に有利になることは間違いないのう」


 秀吉が笑いながら言うと、孝隆も笑顔で頷く。


「はい。山陰に敵の全てか一部かは分かりませぬが、貼り付けることが可能となります。しかしながら、山陰に敵を貼り付けるには、もう少し尼子勢を後押しせねばなりませぬ」


「分かっておるわ。尼子勢には調略や謀略がしやすいよう、もっと知行を増やしてやらねばならぬ。まあ、尼子式部少輔殿(尼子勝久のこと)を因幡の守護にするよう、上様には願い出ておるからのう。これは受け入れられるとは思う」


「それと、羽衣石城の南条勘兵衛殿(南条元続のこと)を守らねばなりませぬ。せっかく東伯耆は我等の下に入ったのに、羽衣石城を攻め落とされたら伯耆以西への調略が難しくなりまする」


 孝隆の提案に、秀吉が眉間に皺を寄せつつ「うむ」と言った。


「ここで羽衣石城を見捨てれば、せっかく織田側に寝返った宇喜多を始め、備前、美作の国衆共が再び毛利に靡く虞がある。儂等も毛利と同じく、国衆共を守るという意思を示さねばならぬ」


 秀吉の言葉に、孝隆が「御意」と言って頭を下げた。秀吉が孝隆に尋ねる。


「・・・鳥取城を包囲したまま、羽衣石城へ援軍を送るは難しいか?」


「鳥取城を飢餓で追い詰めていられるのは、羽柴勢全軍による包囲が隙間なく行われているがためにございます。少しでも包囲を緩めれば、さる七月二十二日の如く毛利の補給隊に突破されますぞ」


 孝隆からきつく言われた秀吉は、「むむむ」と言って渋い顔をした。両腕を組んでしばらく悩んでいたが、溜息を一つつくと孝隆に言う。


「・・・鳥取城を降伏させてから羽衣石城に向かうかのう・・・」


「逆に考えましょう。毛利の両翼の一つである吉川駿河を撃破し、山陰にて尼子を復活させれば、もはや毛利の名は地に落ちたも当然。片翼しかない鷲は兎よりも狩りやすうございます」


「真のことを言えば、毛利の頭と両翼をこの鳥取城で上様にもぎ取ってもらいたかったが・・・。致し方無し、か」


 秀吉はそう言うと、孝隆に命じる。


「官兵衛。吉川式部少輔(吉川経家のこと)と交渉せよ。森下道誉と中村対馬、それに丸山城の奈佐日本之介の三名の切腹と鳥取城の明け渡しを条件に降伏を認める、と」


「・・・奈佐日本之介も、でございますか?」


 孝隆がそう尋ねると、秀吉は頷く。


「うむ。隠岐水軍の頭目たる奈佐日本之介は分かりやすく目障りじゃ。北の海で暴れてもらっては、因幡から若狭までの海上交通が脅かされるからのう」


 秀吉の説明を聞いた孝隆が「承りました」と言って頭を下げた。そんな孝隆に、秀吉が更に命じる。


「ああ、官兵衛。すまぬが藤十郎を呼んでくれぬか?」


「若君をでございますか?それは構いませぬが・・・。何か御用でございますか?」


 孝隆の疑問に、秀吉がニヤリと笑いながら答える。


「うむ。藤十郎には丸山城を守る奈佐日本之介の心をへし折ってもらいたいのよ」





 天正九年(1581年)の十月に入ると、羽柴と鳥取城の吉川との間での降伏交渉は盛んになっていった。が、その条件は折り合わなかった。


「・・・何故、式部少輔(吉川経家のこと)は自らの切腹を条件に入れようとするのだ?儂は別に式部少輔の首級などいらぬのだが」


 秀吉がそう言いながら首を傾げると、交渉を行っていた孝隆が答える。


「式部少輔曰く、『森下道誉と中村対馬は山名から見れば逆臣なれど、毛利から見れば忠臣なり。それを死なすのは忍びない。拙者の首一つで許してくれないかと』とのことでございます」


 孝隆がそう言うと、秀吉が溜息をつく。


「・・・道誉と対馬の助命は認めぬ。山名中務大輔殿(山名豊国のこと)の面目にも関わるし、儂の面目にも関わることじゃ。絶対に道誉と対馬、そして奈佐日本之介の首級は譲ることはできぬ」


「しかしこれ以上交渉を引き延ばせば、羽衣石城が危なくなりまする。吉川駿河の軍勢はすでに羽衣石城の北にある馬ノ山に陣を構え、羽衣石城を攻撃する構えを見せております。いつ総攻撃が始まってもおかしくはありませぬぞ。

 それに、これは噂なので確証はないのでござるが、毛利右馬頭と小早川左衛門佐が軍勢を引き連れて月山富田城に入ったとの報せがございます」


 孝隆がそう言うと、秀吉は驚いたような顔をする。


「なんじゃと!?それでは、毛利は今頃になって決戦を挑んできたというのか!?」


 慌てる秀吉に対して、孝隆は落ち着いた声で宥める。


「筑前様、落ち着いてくだされ。美作と備前に主力を貼り付けている毛利に出雲まで出張る余力はありませぬ。右馬頭と左衛門佐が月山富田城に移動したのが真としても、大軍を引き連れる事は不可能にございます」


「お、おお。そう言われればそうじゃな」


 落ち着いてそう言う秀吉に、孝隆が更に話を続ける。


「とは言え、毛利は裏切り者の南条勘兵衛(南条元続のこと)を血祭りにあげたいと思っているでしょう。毛利に与する国衆への引き締めになりますから」


「となると、やはり早急に羽衣石城へ援軍に向かわねばならぬのう・・・」


 そう言うと秀吉は両目を瞑り、両腕を組んで考え込んだ。一言も発さずに考え込む秀吉を孝隆はただ見ていた。長い時間考え込んでいた秀吉の両目が開き、口も開く。


「・・・官兵衛。鳥取城に伝えよ。道誉、対馬、日本之介の切腹は譲れぬ。但し、式部少輔の切腹については認める用意がある、と」


 秀吉の言葉を聞いた孝隆は、「ははっ」と言って頭を下げるのであった。





 それから数日後。羽柴から来た使者から降伏の条件を聞いた吉川経家は、森下道誉と中村春続を呼ぶと、羽柴から提示された条件を二人に話した。


「・・・殿の切腹を認める、ですか・・・」


 道誉がそう言うと、経家が頷く。


「うむ。儂と貴殿等、そして丸山城の奈佐日本之介の四人の切腹で鳥取城内の兵と民百姓を救うと言ってきたのだ。

 ・・・儂はこの条件を飲もうと思うが、存念や如何に?」


 経家からそう言われた道誉と春続は、互いに顔を見合わせた。そして道誉が経家に顔を向けて話し出す。


「・・・山名の殿様を追放して以来、このような仕儀になることは覚悟しておりました。それはここにいる対馬守殿(中村春続のこと)も同じ想いにて。我等二人が腹を切るのはやむを得ぬ事にございますが・・・」


「・・・殿まで腹を切るのは如何なものでござろうか?筑前めは殿の助命と旧領への帰還を認めておられたはずですが・・・」


 道誉に続いて春続がそう言うと、経家は首を横に振る。


「いや。儂は死なねばならぬ。鳥取城に逃げ込んだ民百姓は自らの親子兄弟を食せねばならぬほどの飢餓に追い込まれた。その責を負わねばならぬ。また、鳥取城を失うことで、伯耆以西の国衆が吉川一門を信じられなくなるやもしれぬ。ここで儂が死ねば、国衆は『吉川駿河様は自らの一門の命を懸けてでも国衆を守る』と思ってくれるであろう」


 経家の言葉に、道誉と春続は息を呑んだ。初めて経家が鳥取城に来た時に首桶を持ってきたのは、単なるパフォーマンスだ、と二人は思っていた。しかし、その時からすでに死ぬことを覚悟していたのだと、改めて認識したのだった。

 経家が言葉を続ける。


「・・・人というものはこの世に生まれた以上必ず死ぬ。それは逃れられぬ運命さだめ故、文句の言いようはない。しかし、どうせ死ぬなら、無駄に死にたくはない。我が死によって後に生きる者へ繋がるようにしたいのだ。

 ・・・儂が死ねば、鳥取城内にいる民百姓は生き残る。多くの者を助けることになるのであれば、儂の死は無駄にはなるまい。それに、吉川一門の儂が死ぬことで、吉川は見捨てない、という評判が国衆に伝われば、それこそ我が本懐というものだ」


 経家の覚悟を聞いた道誉と春続は黙って涙を流しつつも頭を下げた。春続が涙声で経家に言う。


「・・・殿のお覚悟、この対馬感服仕った。山名から城を奪った不忠者なれど、せめて毛利、いや吉川への忠節の証として、殿と共に腹を切らせていただきとうござる」


 春続の言葉に続いて、道誉も涙を流しながら頷いた。経家はただ「かたじけない」と言って頭を下げるのであった。





 天正九年(1581年)十月二十四日。鳥取城降伏。黒田孝隆と蜂須賀正勝の両名が鳥取城内に入ると、やせ細った吉川経家と面談し、降伏に関する取り決めが交わされた。

 その直後、重秀の使者として石田正澄が丸山城に入城。鳥取城開城と経家、道誉、春続、そして丸山城の守将である奈佐日本之介の切腹が言い渡された。


「・・・相分かった」


 空腹と寝不足から判断能力と生きる気力を失っていた日本之介は力なく頷いた。


 実は十月中旬より、丸山城には重秀による攻撃が再開されていた。と言っても丸山城を落城させるための攻撃ではない。ぶっちゃけ嫌がらせである。

 秀吉からの命令で鳥取城の開城が決まるまでの間、丸山城に籠もる日本之介と城兵を追い詰めるべく、重秀は石火矢(フランキ砲のこと)と大鉄砲を使った攻撃を行なっていた。

 昼夜構わず行われた砲撃は、その轟音と鉄の弾による城の構造物の破壊によって、ただでさえ飢えで苦しんでいた丸山城内の兵を更に追い詰めていった。そんな城の状況を見た日本之介が経家達と同じく開城に同意するのは仕方のないことであった。

 その後、奈佐日本之介の切腹が行われた。首級が重秀を介して秀吉に送られた。こうして丸山城は落城した。


 次の日の朝、鳥取城内にて吉川経家、森下道誉、中村春続の三人が切腹した。その直前、吉川経家は遺書を五通書いている。その中の一通は子供達に宛てたものであった。その中で経家は、200日に渡る籠城戦の後、自分が死ぬことで城内の者を助け、一門の名を挙げられることが幸せであり、この物語が子供達に伝わって欲しい、と記している。

 そして経家は辞世の句を詠んだ後、その生涯を自らの手で閉じた。享年35。


「武士の 取り伝えたる梓弓 かえるやもとの すみかなるらん」


 家宝である梓弓が次世代に受け継がれていくことを願う歌であるが、経家の生き様もまた、現代にまで語り継がれていくのであった。





 吉川経家の想いは、残念ながら一部は叶わなかった。開城直後、解放された鳥取城内の兵や民百姓は、秀吉の命によって用意された粥が振る舞われた。

 ところが、粥を食した者のうち、大量に食した者達が次々に死んでいくという異常な事態が発生したのである。

 最初は羽柴勢による毒殺が怪しまれた。しかし、同じ粥を食べていながら、少量しか口にしなかった者が助かっているので毒殺ではない、とされた。ちなみに、後の世で書かれた軍記物では、秀吉が自ら粥を食して毒が入っていないことを証明しているが、これは創造である。

 当時は食べ過ぎによる胃痙攣によって死んだと言われていたが、現代ではリフィーディング症候群による死亡であったと考えられている。


 なにはともあれ、鳥取城開城後も死者を出してしまったことで、鳥取城の戦いは後味の悪い結末を迎えてしまった。

 しかし、秀吉を始めとした羽柴勢にとって、戦は終わっていなかった。その日の夜、経家達の首級をさっさと安土の織田信長の下に送った秀吉は、高山に築かれた陣城内にて軍議を開くと、集まってきた諸将に対し、今後の事について話した。


「鳥取城については善祥坊(宮部継潤のこと)の手勢を城番として置いていく。上様の命で援軍に来ていただいた諸将にはお帰りいただく。なお、姫路城に立ち寄っていただければ、今回消費した皆々様の兵糧の補填させていただく。

 丹後水軍もお帰りいただく。消費した金銭や兵糧は後日、長岡兵部大輔殿(長岡藤孝のこと)を介して補填させていただく。

 そして、残りの諸将には鹿屋城を経由し、羽衣石城へ援軍として向かってもらう。明日には出立する故、準備を滞りなく行うように」


 秀吉自らの説明に、諸将は「ははっ!」と言いながら頭を下げるのであった。


注釈

リフィーディング症候群とは、慢性的な栄養障害がある状態に対して、急激な栄養補給を行うことで発症する一連の代謝合併症のことである。

具体的には心不全、不整脈、呼吸不全、意識障害が発生するだけではなく、運動失調や錯乱、逆行性健忘症なども併発すると言われている。

飢餓に陥ると、エネルギー代謝の主体が糖からタンパク質、更に脂肪へと変化していく。その過程で糖代謝に必要な電解質(リン、マグネシウム、カリウムなど)やビタミンが不足し、これらを使わない脂肪代謝へと移行して飢餓状態に耐えられる身体へと変化していく。

ところがこの身体の状態で糖を含む栄養素が過剰摂取されると、糖代謝を急激に始めるようになるが、この時に大量のインスリンが分泌され、糖から分解されたブドウ糖が細胞内に取り込まれる。この際に血液中に少なく残っていた電解質が細胞内に取り込まれ、血液中から電解質が無くなってしまう。特に、血液からリンが無くなると赤血球の酸素運搬能力が低下し、酸素不足を引き起こすことになる。そのため、様々な症状が発症する。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
もしかして、毛利と決戦になってたら本能寺の変発生ルートに入っていたのかな?
「信長に出陣してもらって毛利家本隊との決着をつける」という秀吉の計画は予定通りには進まず、結局は史実とほぼ同じ決着(つまり鳥取城がヒドいことになる結末)になったということですね。 ただ、ここで毛利家と…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ