第228話 鳥取城の戦い(その4)
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天正九年(1581年)八月二日。高山の山頂に築かれた本陣の陣城内には、秀吉を始め今回の鳥取城攻めに参加している諸将がそれぞれ家臣を伴っていた。その中には、鳥取砂丘近くの海で待機をしている長岡藤孝(のちの細川幽斎)の家臣(与力という説もある)で、丹後水軍を率いてやってきた松井康之の姿もあった。
「皆の衆骨折りである!」
明るい声でそう声を上げた秀吉。まずは吉岡城攻略の失敗を自らの声で発表すると、秀吉は頭を下げる。
「此度の敗戦は儂の不徳のいたすところじゃ。このことで毛利方が勢いに乗るやもしれぬ。しかしながら、ここで弱気になっては敵の思う壺じゃ。それに、元々鳥取城での決戦を上様は望んでおられる。ここは初心に立ち返り、改めて鳥取城での決戦に備えるのじゃ!」
秀吉の言葉に、皆が「応っ!」と応えた。その中には重秀も含まれていたが、秀吉の統率力に内心驚いていた。
―――さすがは父上。素直に負けを認め、次の策を続けて出すことで諸将を再びまとめ上げた―――
重秀がそう思っている中、秀吉から名指しされた黒田孝隆が今後の作戦を諸将に伝えた。基本的には附城の強化であったが、ここに更に積極策が加わる。
「吉岡城の敗戦で味方の士気が下がる虞がある。下がらなくても敵の士気が上がることは確実。敵の士気を挫き、味方の士気を上げるため、我等は攻勢に出ます。
まず、小一郎殿は丹後水軍の松井殿と共に賀露浦(今の鳥取港)を攻め落としていただきたい。ここを抑えることで、毛利からの補給を断つだけでなく、但馬や丹後、若狭から来る我等の兵糧物資を揚げるための湊として使えることになるでしょう。また、丹後水軍の拠点としても使えるでしょう」
孝隆からそう言われた小一郎と康之は、「承知した」と言って応えた。続けて孝隆が策を言う。
「次に、若君にはここ、雁金山城とその周辺の支城を攻めていただきたい」
そう言うと孝隆は、諸将の前に広げられた絵図の一点を指さした。そこは、鳥取城の北西、久松山から伸びる尾根沿いの場所にある支城の1つであった。
「雁金山城とその周辺の支城を攻め落とせば、丸山城と鳥取城の連絡路を断つだけでなく、丸山城から来る兵糧物資を断つことができます。特に、雁金山城の北西にある錐山城は、湊川(今の袋川)のすぐ側にあるため、川からの補給も断つことが可能となります」
孝隆の説明を聞いた重秀は頷いた。そんな重秀に秀吉が声を掛ける。
「藤十郎。雁金山城とその周辺の支城を我等のものとすれば、石火矢(フランキ砲のこと)を置くことができる。そうすれば、鳥取城に丸山城、それに湊川へ向けて放つことができるじゃろう。藤十郎、雁金山城を落とせば、我等はより有利な戦いができるし、鳥取城を追い詰めることができる。
それに、毛利の兵糧搬入を許したお主の失態を挽回する機会を与える。戦場での失態は戦場にて挽回せよ。よいか、励めよ!」
秀吉の激に重秀は「ははぁっ!」と気合の入った返事を上げるのであった。
「と、言うわけで我等は雁金山城とその周辺の支城を攻め落とすことになった」
高山の本陣の陣城内にある重秀の陣で、自分の家臣を集めた重秀がそう宣言すると、集まった家臣達―――山内一豊、尾藤知宣、脇坂安治、石田正澄、福島正則、加藤清正、加藤茂勝、大谷吉隆、外峯四郎左衛門(本名津田盛月)、外峯与左衛門(本名津田信任)、梶原佐兵衛、三浦義高、三浦義知、別所友之、淡河定範、河北算三郎、そして小姓の木下大蔵(のちの木下勝俊)と寺沢広高は一斉に「おおっ」と声を上げた。
なお、重秀の与力である前野長康、浅野長吉、木下家定、堀尾吉晴、中村一氏はそれぞれ秀吉の指揮下に入り、附城を作って鳥取城の監視を行なっていた。
「なお、今回は宮部善祥坊殿(宮部継潤のこと)が支援することになっている」
重秀がそう言うと、山内一豊や福島正則といった長浜からの家臣達は「おおっ!」と喜びの声を上げたが、継潤のことをよく知らない播磨や摂津からの家臣は戸惑いの表情を見せた。
「・・・その、善祥坊とはどのような方なのでござるか?名を聞いた限りでは、僧侶のように聞こえまするが・・・」
梶原佐兵衛がそう尋ねると、重秀は軽く宮部継潤のことを説明した。
宮部継潤は元々比叡山の修行僧であったが、生まれ故郷である近江国浅井郡宮部村にある湯次神社の僧侶の養子となった。そこまでは良かったのだが、僧侶として故郷宮部村に戻った継潤は何故か宮部村に城を築き、宮部城主として故郷を支配してしまった。そして、武将として北近江の浅井家に仕え、その後は浅井家家臣として戦場に出ることとなった。
その後は秀吉の調略を受けて織田家に寝返り、その後は秀吉の与力として数々の戦に参加することとなった。
この頃には鹿野城に移った尼子勝久の後任として有子山城の城主となっており、但馬国出石郡周辺と近江国伊香郡の一部を知行としていた。
「・・・とまあ、見た目は僧侶だけど、実際は歴戦の勇者だ。あの人が共に戦ってくれるのであれば、これほど力強いことはない」
「あの坊さん、負け知らずなんだよなぁ。長浜城にいた頃は毎朝朝飯をたかりに来る生臭坊主なのに、戦になると人が変わったように勇ましくなるんだからなぁ」
重秀と福島正則がそう言うと、佐兵衛は「はぁ・・・」と納得したのかしてないのか分からないような声を上げた。そんな佐兵衛を横目に見つつ、尾藤知宣が発言する。
「そんな善祥坊殿が共に戦ってくれるのであれば、我等としては万の援軍を得るよりも心強きもの。だが、我等が善祥坊殿の足を引っ張る虞がある」
知宣の発言に、正則と清正が「何だとぉ!?」と声を上げた。しかし、重秀がそれを押し止める。
「止めよ、市、虎。・・・確かに私は山での戦はあまりしたことがない。その事を考えると、甚右衛門(尾藤知宣のこと)の懸念はもっともなことだ」
重秀は山での戦いの経験は少ない。天正三年(1575年)に行われた美濃岩村城の戦いと、翌天正四年(1576年)の伊勢霧山城の戦いには参加している。しかし、実際に干戈を交えたかと言われれば否定せざるを得なかった。
「しかし、我等には山の戦に強い御仁がいる。『東播の河内判官(楠木正成のこと)』こと、弾正がいるではないか」
そう言って重秀が淡河定範の方を見ると、皆も一斉に定範の方を見た。重秀が更に言う。
「それに、こちらには彦進もいるのだ。三木城で我等を苦しめた別所の力、此度は我等のために使ってもらおうではないか」
そう言って重秀は視線を定範から別所友之に移した。定範と友之が共に頭を下げると、定範が発言する。
「お任せくだされ、若殿。我等東播の山々で駆け抜けた別所の兵、必ずや雁金山城を落としてご覧に入れまする」
「この彦進。必ずや若殿のお役に立ってご覧に入れまする」
定範と友之の発言を聞いた重秀が頷く。
「うん。頼んだぞ。・・・さて、この後我等は善祥坊殿の陣に移動し、そこで策を詳細に練るが、何か今のうちに聞きたいこと、話たいことがあるか?」
重秀がそう言うと、大谷吉隆が声を上げる。
「恐れながら。何故攻める対象が雁金山城なのでしょうか?丸山城でもよろしいのではないのでしょうか?」
「ああ、その疑問は父上の軍議でも上がったな。結論から言うと、丸山城より雁金山城の方が攻めやすいんだ」
重秀の話に対し、吉隆ではなく清正が疑問を呈する。
「・・・そうですか?雁金山城の周辺には多くの支城がありますが、丸山城にはないような気がしますが・・・」
「だが、雁金山城は鳥取城から連なる山の中。一方、丸山城は切り離された山に築かれている。これが雁金山城を攻める理由となった」
重秀の言葉に清正は首を傾げたが、吉隆はピンときたような顔つきになる。
「・・・丸山城は周囲を見渡しやすい?」
「紀之介の言う通りだ。丸山城を攻めると、我等の姿が丸山城から見えやすいんだ。あそこは周辺の木々が全部切り倒されているからな。一方、雁金山城も周辺の木々は切り倒されてはいるが、全ての木々は切り倒されていない。少なくない木々がこの時期青々と葉を茂らせているんだ。多少は我等の軍勢を隠せることになる。この多少が山城を攻める際の成功の確率を引き上げるんだ」
重秀の説明に、吉隆や清正だけでなく、他の者達からも感嘆の声が上がった。
「さすがは大殿でございます。この紀之介、感服仕りました」
吉隆がそう言って頭を下げた。重秀はそれを見ながら話を続ける。
「以上が雁金山城を攻める理由だ。他に聞いておきたいことはないか?なければ善祥坊殿の陣に移動する故、準備するように」
重秀がそう言ったが、誰も口を開かなかった。なので重秀達は移動の準備をするべく解散した。
それから約一刻後、重秀は家臣と手勢を連れて宮部継潤の附城にやってきた。継潤とその家臣、与力が附城の虎口まで出迎えに来ていた。なお、家臣は近江時代からの家臣で、与力は主に但馬の小さな国衆や地侍であった。
「善祥坊殿、出迎えかたじけのうございます」
「いえいえ、若君を出迎えるのは当然でござる」
重秀と継潤がそう言い合った後、附城内の広間で重秀勢と宮部勢がどの様に雁金山城とその支城を落とすかを話し合った。
「我が宮部の附城から雁金山城へ攻め入るのは、附城から一旦下山し、雁金山城と鳥取城との間にある峠を通るからでござる。この峠は恐らく兵糧や兵の移動を我等から悟らせぬよう、木の伐採を行なっておりませぬ。それを逆手に取ることで我等の勝機に繋がると考えまする」
継潤の作戦を聞いた重秀とその家臣達は、その合理的な判断に頷いた。普段慎重論を唱える尾藤知宣もまた、首肯することで継潤の考えに同意していた。
「さて、具体的な策でございますが・・・」
継潤はそう言うと、目の前にある大盾を組んで作った机の上に広げられている絵図を指さしながら話し始める。
「これは、雁金山城とその周辺の支城を表した絵図でございます。まず、この道祖神乢を通り、道すがらにある陣所(サイノタワノ陣所)を攻めまする。ここまでは我等宮部勢が行い、以降は若君に尾根伝いに雁金山城を攻めて頂きます。ただ、その間に別の砦があります故、ここを攻め落とす必要があります」
継潤の作戦を聞いていた重秀が頷いた。そして、重秀が先程本陣で話したことを継潤に伝える。
「おお、江間弾正殿と浦上彦進殿が先陣でござるか。それは重畳至極」
江間弾正と浦上彦進が淡河定範と別所友之だと知っている継潤が顔をほころばせながら言った。
ちなみに、淡河定範は元々備前の江間家から播磨の淡河家に養子に出された者であった。そのため、一応三木城で切腹しているはずの定範は偽名として出身家の江間を名乗っていた。一方の別所友之は、父の別所安治の正室の出身家である浦上を名乗っていた。
重秀が更に作戦を話す。
「弾正と彦進を先鋒に、次鋒には市(福島正則のこと)と虎(加藤清正のこと)、そして私が孫六(加藤茂勝のこと)と紀之介(大谷吉隆のこと)、梶原佐兵衛と荒次郎(三浦義高のこと)、荒右衛門(三浦義知のこと)親子を率いてまずは雁金山城前の砦を落とす。そこを落とせは後は尾根沿いに雁金山城やその先の支城を落とすつもりだ。その際には伊右衛門(山内一豊のとこ)や甚右衛門(尾藤知宣のこと)、外峯親子の手勢も繰り出すつもりである。
・・・で、実はその際に善祥坊殿に頼みがある」
急にそう言われた継潤は、驚きつつも重秀に尋ねる。
「何でしょうか?」
「わが手勢のうち、脇坂甚内(脇坂安治のこと)を道祖神乢にある陣所に置いてほしいのです」
「・・・脇坂殿、でござるか?それは構いませぬが・・・。何故?」
そう尋ねてきた継潤に、重秀が答える。
「今回、甚内の手勢には石火矢(フランキ砲のこと)を持たせている。道祖神乢の陣所からだと、雁金山城は指呼の間。いくら石火矢であっても十分弾は届くだろう、と思ってな」
前にも言った通り、石火矢には多くの欠点が見られた。子砲(弾倉のこと)の少なさもその一つであったが、これについては三木の鍛冶師達に頼み込むことで、鉄の鍛造製の子砲を多く造ることで数を増やすことで解決しつつあった。
しかし、欠点はそれだけではない。石火矢は子砲と呼ばれる弾倉を母砲と呼ばれる砲身の後方にある穴にはめ込み、楔で固定してから発射するという当時としては珍しい後装砲であった。しかし、当時の技術では子砲と母砲をしっかりと組み合わせることができず、どうしても隙間ができていた。その隙間から発射ガスが漏れ、結果、爆発エネルギーを全て発射に向けることができなかった。そのため、同時代の同じ口径の前装砲よりも射程距離が短かった。
また、当時の冶金技術から、フランキ砲はその威力の低さの割には多くの金属が使われており、結果重かった。船に乗せている時はさほど欠点とは看做されていなかったが、陸戦で使う場合はその重量で手軽に運搬することが難しかった。
そこで重秀は、今回の雁金山城攻めに際して石火矢を使う場合を考えた。結果、近場の陣所か支城に持ち込み、そこから敵の陣所か支城に撃ち込むことを思いついたのだった。
「なるほど。そう言うことでしたら道祖神乢の陣所をどうぞお使いくだされ。拙僧も石火矢をひと目見とうございます故」
重秀の話を聞いた継潤は、二つ返事で了承した。そして、その後も重秀と継潤との間で雁金山城攻めの軍議は続いたのであった。
八月四日未明。重秀と継潤による雁金山城攻撃が始まった。まずは宮部勢による道祖神乢の道すがらにある陣所へ攻撃が開始された。
この陣所は名前とは違い、しっかりと砦化されており、しかも入口には虎口が作られていた。そのため、そう安々と攻め込めるような砦ではなかった。
しかし、そこは歴戦の勇者宮部継潤である。自ら先頭に立って指揮を執ると、巧みな用兵術で兵を動かしては陣所を攻め立てた。
また、織田軍の特徴である鉄砲隊による集中攻撃は、それを想定していない砦の防御をあっさりと打ち破った。結果、陣所は短時間で落城した。
「よし!敵の砦は落ちた!すぐに石火矢を運び込め!」
脇坂安治の号令の下、多くの人夫が石火矢を担いで道祖神乢を登った。その重量に人夫達は四苦八苦したが、何とか陣所に石火矢を持ち込むことができた。しかし、その門数はたった2門であった。
重秀は鳥取城攻めに5門の石火矢を持ち込んでいた。しかし、今回は敵が雁金山城の守りを固める前に攻め込む必要があった。攻撃にスピード感が必要な今回の戦いでは、石火矢を5門もちんたらと運んでいる暇はなかったのである。
そこで、2門だけ道祖神乢の陣所に持ち込み、石火矢2門で雁金山城を攻撃しようと考えたのである。
道祖神乢近くの陣所に運び込まれた石火矢は、まずは木の砲台に備え付けられた。次に石火矢を備える場所を踏み固め、周りに土のうを積み上げた。これは石火矢を備え付けた砲台に俯角を与えたり、反動を抑えるためにストッパーとして後方に積み上げるためである。
そして土のうによって砲台を固定すると、砲先を雁金山城に向けた。朝の光によって明らかになった雁金山城は、道祖神乢の陣所からおよそ300メートルの所にあった。そこなら射程距離の短い石火矢でも十分届く距離であった。
「石火矢の設置完了いたしました!」
兵からそのような報告を受けた脇坂安治は、石火矢が設置された場所から雁金山城の方を見た。
遠くに見える雁金山城。そのやや左手前側に、小さな砦があった。木々に遮られてよくは見えないが、それでも土塁や柵が見え隠れしていた。そんな砦の方から、鉄砲の発射音や鬨の声が聞こえてきた。
そんな音を注意深く聞いていた安治の後ろから、兵の大声が聞こえた。
「申し上げます!我が方の江間勢、浦上勢、この先に砦を攻めております!」
兵の報告に対して、安治が「承知した!」と声を荒げた。そして、更に大きな声で命じる。
「石火矢準備!すぐに子砲を母砲に入れろ!」
安治がそう言うと、石火矢の周辺にいた兵達が一斉に動き出した。近くに置かれていた子砲を母砲にはめ込み、楔を打ち込んで固定した。その後、子砲の後ろ側に空いた小さな穴に導火線を差し込んだ。2門共その作業が終わると、兵が安治に報告する。
「石火矢準備できました!」
「よし、放てぇ!」
安治がそう言うと、安治は両耳を両手で塞いだ。周囲の安治の兵も同じ様に両耳を両手で押さえる中、二人の兵が2門の石火矢の導火線にそれぞれ松明で火をつけた。
火をつけた兵が松明を持ちつつ両耳を両手で塞ぐ中、導火線が火を吹きながら短くなっていく。そして、その火が小さな穴に吸い込まれてしばらく経った後、2門の石火矢は轟音を響かせながら砲口と、子砲と母砲の隙間から火と煙を噴き上げた。その轟音を知らない宮部勢の兵達は全員驚き、腰を抜かす者が数多く出るほどであった。その腰を抜かせた者の中には、幾多の戦場を経験した歴戦の勇者である宮部継潤も含まれていた。
そして、砲口から飛び出した2個の鉄球は、そのまま雁金山城の方角へと向かっていったのだった。