第227話 鳥取城の戦い(その3)
感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。
活動報告へのコメントありがとうございました。個別の返事は控えさせていただいておりますが、ちゃんと読んでおります。
天正九年(1581年)七月。羽柴秀吉による鳥取城攻めは、序盤は意外にも羽柴勢が苦戦していた。
というのも、鳥取城の西側、千代川を超えた先にある湖山池の西側にある半島に、吉岡城(今の防己尾城跡)という城があった。この城の城主である吉岡定勝は、当初から毛利方の国衆として活動しており、鳥取城周辺で附城築城に励んでいた羽柴勢の後方を度々襲っていた。
被害は軽微だとは言え、目障りな吉岡勢を何とかするべく、秀吉は吉岡城攻めを考えた。
「あの喉に刺さった魚の骨の如き吉岡城を何とかせんといかん。そこで、儂と官兵衛が西進するついでに、吉岡城を踏み潰してくれるわ」
七月十七日に行われた軍議でそう発言した秀吉。それに対して小一郎が質問する。
「兄者。西進って一体何のことじゃ?」
「ああ、そう言えば小一郎達には話しておらなんだったのう。実は儂と官兵衛は手勢を率いて羽衣石城へ向かおうと思っておる」
秀吉がそう言うと、諸将達が驚きの声を上げた。秀吉が右手を上げて諸将を抑える。
「皆の者、静まれ。この件について官兵衛より説明させる」
秀吉がそう言うと、孝隆が立ち上がり、目の前の大盾を利用した大机に広げられた絵図を指さしながら説明をし始めた。
「・・・兄者の言いたいことは分かった。確かに兄者と式部少輔殿(尼子勝久のこと)が伯耆の羽衣石城に入れば、毛利も右馬頭(毛利輝元のこと)と両川(吉川元春と小早川隆景のこと)も伯耆へ出陣するやも知れぬ。そうなれば、堂々と上様のご出馬を請うことができるな」
孝隆の説明を聞いた小一郎が、いかにも納得したようにそう言うと、同じく説明を聞いていた諸将が頷いた。続けて小一郎が尋ねる。
「しかし、兄者よ。兄者がいない間は鳥取城の包囲を誰に任せるのじゃ?」
「当然、藤十郎じゃ。儂の息子で上様の女婿。儂の代わりの総大将として相応しいじゃろ」
秀吉の言葉に、その場にいた諸将は一部を除いて頷いた。しかし、その頷かなかった一部の将から疑問の声が上がる。
「恐れながら・・・。藤十郎殿は鳥取城包囲に参陣している大軍をまとめるにはいささか若すぎるのではないか?」
元因幡守護の山名豊国がそう言うと、同じく軍議に参加していた垣屋恒総が「一理あり」と声を上げた。それに対して秀吉が声を上げる。
「お二方のご懸念もっとも。儂も藤十郎がいきなり大軍の指揮を執れるとは思っておらぬ。そこで、儂は我が弟の小一郎を補佐につけようと思うが、如何かな?」
秀吉がそう言うと、豊国と恒総は納得したような顔になった。秀吉が小一郎に言う。
「と、言うわけじゃ。小一郎、すまぬがお主は藤十郎の補佐をしてくれ」
そう言われた小一郎は、「承った」と言って頷くのであった。
軍議が終わった後、秀吉と重秀、小一郎と孝隆の4人が話し合っていた。
「・・・兄者の予想通り、藤十郎が総大将の代わりにすると言ったら、垣屋殿と山名殿は懸念を出してきましたな」
小一郎がそう言うと、秀吉はふっと笑いながら頷いた。
「うむ。藤十郎は若いから、総大将にはふさわしくない、とあの二人が思うのは当然じゃ。それ故、すでに知っておった小一郎にはあえて一芝居打ってもらった。小一郎のおかげで、藤十郎が総大将になることが滞りなく決まったのう」
「ああ。昨夜、『軍議ではあえて初耳のふりをせよ。お主が補佐につくと知れば、連中も折れる』と言った時は驚いたが・・・。まあ兄者の予想通りに事が運んで良かったわ」
小一郎が肩をすくめるように言うと、孝隆が不満そうに口を挟む。
「しかし・・・、若君は事実上の天下人たる前右府様(織田信長のこと)の養女婿ですぞ。それに、阿閇城の戦いにて見事に武勲を挙げておられたではありませぬか。若いからといって総大将になれないとこはないと思うのですが」
「いや、確かに藤十郎の阿閇城での戦いぶりは播磨では知られているが、但馬や因幡までその話はいっておらんのじゃ」
但馬の守護に任じられている小一郎がそう言うと、秀吉は頷きながら言う。
「小一郎の言う通りじゃ。それに、山名殿は藤十郎と会っているが、あの時は確か兵庫城で開かれた連歌会の席だったよな?山名殿は藤十郎の戦場での姿を見ておらぬ。それ故若い藤十郎に不安を抱いたのであろう。そして、初めて会った垣屋にいたっては言わずもがな、であろう」
秀吉がそう言うと、孝隆が小馬鹿にしたように応える。
「人を見た目で判断するな、と言いたいところですな」
「しかし官兵衛殿。私は今まで大軍を率いる総大将を務めたことはありませぬ。私自身が不安に思っているのに、他人が不安に思うのは当然ではございませぬか?」
重秀が孝隆にそう言った。更に秀吉が孝隆に言う。
「いくら藤十郎が優れているとは言え、さすがに此度のような大戦の総大将の代わりは難しいじゃろう。その点、小一郎の補佐が付くのであれば藤十郎でも十分こなせるじゃろう」
「いや、儂もそこまでの経験はないのじゃがのう・・・」
小一郎がそう言って呟いた。しかし秀吉が首を傾げる。
「そうか?但馬平定では見事に総大将を務めたではないか」
「あれは善祥坊殿(宮部継潤のこと)や式部少輔殿(尼子勝久のこと)が儂の補佐をしてくれたからじゃ。儂だけでやった訳ではねぇ」
「ではそれを今度は藤十郎に教えてやれば良い。それに、善祥坊はこっちに残していくんじゃ。善祥坊にも手伝ってもらえば良い」
秀吉が小一郎にそう言うと、小一郎はキョトンとした顔になった。秀吉が更に話を続ける。
「お主が学んだことを藤十郎に教えていけば良い。お主は頭が良いし、人に教えるのも上手いんじゃ。藤十郎には良い師となるだろうて」
秀吉にそう言われた小一郎は、少し黙った後、秀吉に頷く。
「・・・本来ならばは兄者が教えるべきことなんじゃろうが・・・。分かった、引き受けよう」
「お主ならそう言ってくれると思っとったぞ」
笑いながらそう言った秀吉は、顔を小一郎から重秀に向ける。
「と、言うわけじゃ。小一郎から色々教えてもらえ」
「承知いたしました。叔父上、よろしくお願い致します」
重秀はそう言うと、秀吉から小一郎に身体を向けて頭を下げた。小一郎が頷くと、秀吉はすかさず声を上げる。
「よしっ、総大将の件はこれで良いじゃろう。では今後のことについて話し合うかのう」
そう言うと秀吉は孝隆の方を見た。孝隆が口を開く。
「今後、というか明日には筑前様とそれがし、それに亀井新十郎殿(亀井茲矩のこと)率いる尼子勢は西に移動し、次の日には吉岡城を攻めまする。吉岡城を落城させた後は鹿野城へ入り、数日休んだ後に羽衣石城へと向かいまする。そこで伯耆、出雲への調査と調略を進め、毛利主力が出てくるのを待ちまする。毛利主力が現れたら、筑前様から若君へ報せまする故、上様へ出陣の要請をお願いいたしまする」
孝隆の説明に重秀と小一郎は頷いた。
その後も秀吉は重秀と小一郎に自分がいなくなった後の策について、孝隆と共に説明し続けるのであった。
鳥取城は大きく分けて二つの郭に分かれていた。山上の丸と呼ばれる郭は久松山の山頂にあり、そこには山名豊国が布勢天神山城から移築したと言われている3層の天守がそびえ立ち、他にも井戸や複数の櫓が建っていたと言われている。
ただ、この山上の丸は普段の政庁や居住区としては使われておらず、それらの機能はもっぱら久松山の麓にあった山下の丸にあった。ここには城主の御殿をはじめ、城の中枢機能が置かれていた。
そんな鳥取城のある久松山は、他の山々と連なる山で、その尾根沿いには複数の砦が昔から築かれていた。しかし、天正九年(1581年)三月に着任した吉川経家は、更に強固な支城を2つ築城した。鳥取城から北西に伸びる尾根沿いに築かれた雁金山城とその先の独立した小山に築かれた丸山城である。この2つの支城は賀露浦(今の鳥取港)から湊川を通る補給路を守る役目も担っていた。
ちなみに丸山城には奈佐日本之介が、雁金山城には塩谷高清が入って守備に入っていた。特に奈佐日本之介は隠岐水軍の頭領であったため、賀露浦からの船による補給の指揮にはちょうど良い将であった。
秀吉の代わりに総大将になった重秀は、秀吉や孝隆の事前の指示に従って附城を造っていった。もっとも、実際の指揮を執っていたのは総奉行の加藤光泰であったため、重秀の役割は表向きのものだった。しかし、七月二十二日にそうも言ってられない事態が起きる。
この日、賀露浦沖から多くの船が湧いて出てきた。毛利水軍による補給船団であった。当然これを阻止すべく羽柴勢は動いたが、同時に鳥取城側から攻撃がなされ、外側と内側からの攻撃に対応しなければならなかった。
結果、少なくない量の兵糧が湊川から丸山城に運び込まれ、更に雁金山城を経由して鳥取城に運び込まれてしまったのだった。
翌日の七月二十三日、高山の羽柴本陣。陣城内では、重秀を中心に再び軍議が開かれていた。上座では重秀が頭を抱えていた。
「・・・何と言う失態だ・・・!これでは父上に合わせる顔がない・・・!」
総大将を秀吉から任されたのに鳥取城に兵糧が運ばれたのでは、兵糧攻めの意味がなくなる。まさに大失態であった。
そんな重秀を慰めるように小一郎が声を掛ける。
「・・・誰だって失敗はある。それに、此度は全ての者が附城を造るのに集中していた。その隙をついた敵が一枚上手だったのだ。嘆くのはもっともだが、それよりも今後のことを考えなければ」
小一郎がそう言うと、続いて蜂須賀正勝も話しかける。
「附城が十分できていない状態で兵糧が運ばれるのはよくある話じゃねぇか。三木城のときもあったからな。今回のことは想定の範囲内だろう」
「・・・此度は千代川から運ばれた。つまり、北側を包囲する軍勢が防がなかったのが原因だろう。若殿のせいではないと思うが」
前野長康がそう言うと、千代川の近くで鳥取城の包囲の附城を築城していた青木重矩と垣屋恒総の方をチラリと見た。重矩は青い顔をしていたが、恒総がムッとした顔つきで反論する。
「そうおっしゃられるが、丸山城からの攻撃を防ぎながら千代川を遡る船を攻撃するのは難しいと存ずる。それに、丹後水軍がいなかったのを問題とすべきだったのではございませぬか?」
七月二十二日の毛利水軍による補給の時、松井康之率いる丹後水軍は鳥取城を包囲する友軍のため、但馬まで兵糧を取りに行っていた。そのため、丹後水軍が毛利水軍の千代川への突入を阻止できなかった。
常総の発言に、正勝や長康が反発の声を上げたが、それを小一郎が抑える。
「各々方!今は羽柴の中で将同士が争っている場合ではござらぬぞ!味方同士で争えば、敵に利するだけにござろう!」
小一郎の大声に、正勝や長康だけでなく、恒総も黙った。皆が静かになった所で、重秀が口を開く。
「この失態の責は私が負う。皆には父からの処分がないよう、父上に申し上げる。・・・叔父上、その様に父上に報せていただけませぬか?」
重秀の言葉に、小一郎は「・・・相分かった」と頷いた。そして重秀が声を上げる。
「今言ったように、此度の失態は私一人で責を負う。皆が罰せられぬようにする故、安心して附城完成を急ぐよう、申し渡す」
重秀が責任を一人で被ることを宣言したことで、長浜から重秀を知っている者達はその成長ぶりに感嘆し、比較的新しく羽柴に加わった者達は若いのに責任を負う姿に驚いた。そして、自分達が罰せられないことにも安堵していた。
しかし、重秀の失態は秀吉には伝えられたものの、秀吉は重秀の責任を追求することはなかった。何故ならば、秀吉が吉岡城攻略に失敗、西上作戦を中止したからである。
「いやぁ〜。まいったまいった。負けてしもうたわ」
八月二日。高山の陣城内にて軍議が開かれた。前日に吉岡城攻めから帰ってきた秀吉は、頭を右手で叩きながらそう言った。そんな秀吉の傍にいた孝隆は無表情で座っていた。
「・・・負けたってどういうことじゃ」
小一郎がそう尋ねると、秀吉はこともなにげに答える。
「そのままの意味じゃ。吉岡城を落とすことができなかったんじゃ」
そう言うと秀吉は吉岡城の戦いの顛末を話し始めた。
鳥取城の西側、湖山池(但し周囲は18kmある)の西岸から東に突き出た半島状の場所に吉岡城はあった。この半島状の地には、北側に2つの山が繋がっており、南側に1つの山があった。北側の2つの山には本丸と三の丸があり、南の山には二の丸があるという構造となっていた。そして北側と南側の山の間の平地には町屋があったと言われている。
三方を池に囲まれ、唯一陸地で繋がっている西側は三の丸がある山に塞がれているため、見るからに攻めにくい城であった。そんな城を秀吉は七月十九日、二十七日の2度にわたって秀吉は攻めた。
七月十九日の攻撃は亀井茲矩率いる尼子勢が西側から攻めたものの、あまりの堅牢な守りに攻めあぐねた。もっとも、これは威力偵察が主な目的だったため、秀吉はすぐに退却を命じた。なので大した損害は出なかった。
吉岡城の守りを見た秀吉は、湖山池を挟んで北側の対岸にある三津ヶ崎と呼ばれる場所に陣を構えると、池の周囲の村々から船を徴用、にわか仕立ての水軍を作り上げた。そして、吉岡城がある半島状の場所の北側から逆上陸を仕掛け、本丸に直接攻めようと考えた。
そして七月二十七日、秀吉による2度目の吉岡城攻めがなされた。茲矩による西側からの陽動攻撃がなされている中、秀吉直属の精鋭部隊である黄母衣衆の多賀文蔵率いる主力部隊が吉岡城の北岸に逆上陸した。しかし、城主の吉岡定勝と弟の吉岡右近がこれを迎撃、見事撃退した。これによって文蔵が戦死し、また多くの兵を失うこととなった。
地元の伝承では、この時に秀吉が預けた馬印、いわゆる『千成瓢箪』を右近によって奪われたという逸話がある。しかし、秀吉が千成瓢箪を馬印にしたのはもっと後であること(そもそも馬印として使っていないという説もある)から、この逸話は後世で作られた話であると考えられる。
なにはともあれ、敗北した秀吉は戸田勝隆に兵を預けて吉岡城を監視させると、黒田孝隆率いる黒田勢と共に鳥取城東側の高山の陣城に引き上げてきたのだった。
ちなみに茲矩率いる尼子勢は鹿野城に帰還。今は尼子勝久と、先に鹿野城に帰っていた山中幸盛と共に因幡と伯耆の国境の封鎖を行なっている。
「と、言うわけじゃ」
秀吉の説明が終わると、重秀達は互いに顔を見合わせた。吉岡城の攻略に失敗したのに、悔しさとか無念さを微塵も感じさせていなかったからだ。そんな秀吉の態度に疑問を持った小一郎が秀吉に聞く。
「・・・兄者。あまり無念さを感じておらぬが、それは何故じゃ?」
小一郎がそう尋ねると、秀吉が溜息をついてから話し始める。
「・・・まあ、悔しくはないかと言われれば嘘になるのう。文蔵めを始め、少なくない兵を失ったからのう。しかし、これは吉岡城を小城と舐めきった儂の過ちじゃ。それは申し訳なく思う」
そう言った秀吉であったが、その目には決意の光が宿っていた。秀吉が更に話す。
「しかしな、もともと鳥取城を餌に毛利全軍をおびき寄せるのが主な目的じゃ。儂と官兵衛、式部少輔殿(尼子勝久のこと)を餌に羽衣石城までおびき寄せなくても、どうせいつかは鳥取城まで来るんじゃ。それならば兵力を温存させつつ、鳥取城で待っときゃええ。それに、毛利の主力が鳥取城まで来るには、伯耆や美作を経由せにゃならん。南条や宇喜多、そして鹿野城の尼子を撃破して鳥取城に来た時には、上様率いる織田の大軍勢もこちらに加わっておるじゃろう。そこで決戦をすれば、もはや毛利はおしまいです。お・し・ま・い・デス!」
「何じゃその言い方は・・・」
小一郎が呆れながら言ったセリフを無視しつつ、秀吉は話を続ける。
「と、言うわけで、これより鳥取城の附城を更に増築する。これは鳥取城への包囲をより厳しくするのと同時に、西から毛利が来た際の防御陣地とする!」
そう言い切った秀吉は、視線を重秀に向ける。
「藤十郎。お主も鳥取城への兵糧搬入を失敗したと聞いた。お主一人が責を負う覚悟を示したのは総大将として当然じゃ。しかしな、此度の一件、兵力を吉岡城に割いて鳥取城の包囲を薄くした儂の責でもある。我等親子に責があるのじゃ。
・・・藤十郎、この失態は今からでも十分挽回が可能じゃ。なぜなら、『鳥取城を兵糧攻めにし、その鳥取城を救援しに来た毛利の主力と決戦を挑む』という策はまだ破られておらぬ。というか、まだ始まってもおらぬ。これからは、鳥取城の包囲を強化し、毛利との決戦に備えるのじゃ。それで勝てば失態は帳消しじゃ」
秀吉の言葉に、重秀が「お言葉、肝に銘じまする」と言って頭を下げた。秀吉が重秀に言う。
「して、藤十郎。鳥取城と支城、我等の附城を描いた絵図はあるか?」
「すでに描いております」
そう言うと重秀は秀吉に1枚の丸めた紙を渡した。秀吉がそれを開き、傍にいた孝隆が覗き込んだ。しばらく覗き込んでいた秀吉だったが、急に「よしっ!」と声を上げた。そして小一郎に命じる。
「小一郎、諸将を集めよ。今後の方針を皆に伝える!」




